25:Hannibal ante portas.
第二島グメーノリア。僕はここで大災害を起こさせた。
クレプシドラは血を吸わせれば吸わせただけ力を増す精霊だ。ヴァレスタに与えられた餌を食らってたっぷり血で潤ったクレプシドラは、強力な精霊と化して、それを可能にしてくれた。
弱っていれば妖精サイズ。通常時は人間の少女、元素が増せば大人の女性程度。そこに大量の血が加われば、あの子は水の龍となる。
大人サイズに成長しても顔は女性……胸が膨らむ訳じゃない。中性のような風貌を保つのだから、この精霊は中精霊なのだと思った。それでもヴァレスタが欲しがるくらいの精霊だから、そんな適当なレベルではなかった。年明け早々東で生じた事件を解決した際、判明したことだったけどクレプシドラは無精霊。本来の姿は性別に囚われない幻獣の類。
こんな強い精霊に懐かれるなんてなかなか無いこと。それだけでも僕は幸運だ。クレプシドラさえ居てくれれば、僕はこの審判を生き抜くこともそこまで難しくはないはずだ。
《エルムー!凄ぇ!凄ぇっ!》
そんな大精霊とは全く感じさせない無邪気さで、クレプシドラがはしゃいでいる。あの子が見つめる先には綺麗な海、綺麗な星空。それでも綺麗は助けない。リフルさんと同じだ。
唯綺麗なだけで、こうして見ているだけ。あの人は見た目だけじゃない。内面も綺麗でいようとする。だからどうしても人間らしくない。人間であることを止めようとする。自分の願いや欲望を押し殺し、聖人ぶった顔をする。僕はそんな神様みたいな人、信じられない。僕はああはなれない。辛いことは辛いし、嫌なことは嫌なまま。だからあの人を嫌わないでも、僕はあの人が苦手だと思う。姉さんと同系統の魅了能力持ちというだけで嫌な感じはするが、リフルさんは姉さんと違って僕の嫌がることはしないしそこまで関係もないのに二度も助けてくれようとした。そうだ。確かに嫌う理由はない。
それでも僕はあの人が苦手だ。僕もあんな風になりたいとは思わない。なれるとも思わない。だけどあの人の傍にいると、それが出来ない自分が酷く醜く感じられて……馬鹿にされているようにすら思うのだ。あの人にそんなつもりは無いのだろうけどさ。
溜息を吐く僕の傍で、明るいクレプシドラが僕の顔を覗き込む。どうやら僕の目に映る、夜空の星を見ているようだ。
《綺麗!綺麗!血の色以外にもこんな綺麗なのがあったんだな!あれ!お前の目みたい!》
「僕の目?」
《お前の目にも星がある!》
生まれながら僕は星を二つ持っている。僕の目は桜色の星石榴石。両目に刻まれた光は確かに星のようだけど……僕は願われたところで誰の願いも叶えられない。こんな星、何の意味もない。夜空の星は暗い場所で輝くけれど、明るい色の僕の目じゃ……僕の星は目立たない。昼間の月のように肩身が狭いばかりじゃないか。
「アルム!」
街を飲み込んだ波が引くのを高台から見下ろす僕の傍らに、「よ!」っと笑ってその人は現れる。少し離れた場所にリィナさんの気配もあった。それでも彼女は空気を読んで僕をそっとしていてくれたのだ。それでも空気を読まないロイルさんはこうして僕に近付いた。或いは僕を気遣っての行動か?本当に二人ともヴァレスタに似ていないんだな。
「腹減らねぇか?」
「どうしたんですかこれ?」
差し出された容器に僕が驚くと、彼はにやっと笑ってみせる。
「宿で眠り薬盛られてなー。腹立ったし、リィナとそこ壊滅しながら食堂に残ってる安全な飯タッパーに詰めてきたんだ」
「……ちゃっかりしてますね」
あ、変なところはヴァレスタ似だったこの二人。長年あの人に仕えているとこんな風にもなるのかな。そう思うと僕もちょっと笑ってしまう。
「第一島より綺麗だな、星」
「そうですね」
「空気の汚いうちと違って、タロックに近いからだろうな。知ってるか?冬の方が空気寒い分星が綺麗に見えるんだぜ」
「厳密には季節じゃなくて、風とか乾燥とかの問題らしいですけどね」
「そういや今夏だよな。何で綺麗なんだ?」
「今、ロイルさんが言ったじゃないですか。タロックはセネトレアより空気綺麗なんですよ、多分」
僕に言われてそうだそうだと頷く彼は、本当に忘れていたようだ。わざとらしさを感じさせない辺りから、素で忘れていたみたい。
(あれ?)
いつもはそんなに気にならなかった、彼の胸元で光る物。遠い星の光を受けて、それは淡く輝いていた。思えばそれは彼らしくない飾りだと、不意にそれが気になった。
「ロイルさん、そう言えばその首飾りいつも付けてますよね。何かのお守りなんですか?」
「お守り……?ああ、これか?」
深い黒髪の彼が翳して見せたのは、菱形の金細工が付いた首飾り。菱形が×で仕切られ、菱形の中に四つの菱形が描かれて、その中央に小さな宝石が配置されている。
「それともリィナさんからの贈り物とかですか?」
「そ、そんなんじゃねぇよ」
誤魔化すように笑ったその人は、暗い空を見上げてまた笑う。僕より年上なのに、子供みたいな笑い方。姉さんもよく無邪気と言われていたけれど、ロイルさんの方が邪気がない。この人がやることなら、姉さんとは違って僕も割と簡単に許してしまうかもしれない。
「ロイルさんも、カードなんですよね」
「ん?ああ。凄ぇだろ?なんかよくわかんねーんだけどよ」
「……何か、叶えたいことなんてあったんですか?」
「どういう意味だ?」
「いや。こんな言い方失礼だとは思うんですが……ロイルさんなら神頼みなんてしない、自分の力でぶつかっていうのも楽しいって言いそうだなって」
僕がそう呟くと、一瞬驚いたような顔をした後、ロイルさんが大笑い。でもその笑い先程とは違う、嘘があった。ああ、この人は確かに綺麗な心の人かもしれないが、子供でも愚かでもないのだろう。愚かを演じているだけなのだ。僕の言葉は彼を馬鹿にするようなものだった。とても失礼なことのように思えてならない。
「そうだな。よくわかんねーな。唯、本当に神ってもんが居るんなら、一回バトってみてぇなとかは思ったな。どんくらい強ぇんだろな」
「そうやって誤魔化すんですね」
「……まぁな。でもそういうもんだろ人間って。俺だって何処から何処まで自分の心で、何を思ってるなんかわかんねぇよ。半分くらいはマジでそう思ってる感じもするし、実際どうでもいいような感じもな」
無気力を隠すための闘争本能。それがなければ生きているかも解らない。そう言いたげに彼は空を仰いで見せた。
「そう言うお前はどうなんだ?」
「僕が、ですか?」
「ぶっ殺してぇって思ったことはないのか?神様って奴をさ」
自分では選びようがない理不尽。周りの人を怨まない彼らしい。その全部を神様って奴の所為にして神様だけ怨んで生きれば、こんな風に真っ直ぐ生きて行けるのだろうか。自分の心に背かずに。
「そうですね。ありますよ……でも僕はロイルさんと違って、弱いから」
神様が憎くて殺したいんじゃない。憎くて殺したい相手の顔をもう二度と見たくない、声を聞きたくもない。会いたくもないから……だからはじまりを呪うだけ。僕が勝者になったなら……苛立ちのままに、八つ当たりで人を呪って世界を不幸のどん底に叩き落としたかもしれない。
「でもロイルさん。僕は信じていないんです。神様なんて奴」
僕はにっこり笑ってやった。世界に向かって神に向かって。
それが僕の答えだったんだ。
*
(僕は神なんか信じない)
エルムは強くそう思う。神は人を救わない。やってはいけないことと罰だけ決める。
きっと人が思っているほど、神様って奴は僕ら人間に興味がないんだ。それかその位無能な存在なのか。どっちだって良い。そいつが僕を助けてくれることはないんだから。
だけど、悪魔は違う。報いを授ける存在なのは間違いないのかもしれないけれど、一時は助けてくれるし夢も見せてくれるよ。
(クレプシドラ……)
あの子は何時も、僕を助けてくれる。血生臭い精霊だからと教会はクレプシドラを悪い精霊、悪魔と定義した。だけどその血生臭さに僕は安堵する。僕は目を瞑っているだけで良い。多くの血はクレプシドラを強くする。
あの子は僕の願いを酌み取って、嫌なことは僕が眠っている間に、何でも叶えてくれるんだ。
最初は半年前。出会ったあの日。まだ寒い冬のこと。ヴァレスタの奴は何を思ったのか僕までレフトバウアーに連れて行った。万が一の場合、僕の……クレプシドラの力を必要としたんだろう。僕にとって居場所があいつだけになった。それを失えば僕はもう本当に誰からも必要とされない。そういう恐怖を植え付けようとあいつは思った。事実、僕は動いた。もしかしたら、あいつは僕を試したのか?だから僕を馬車の中に置いていった。
拷問で朦朧とした意識の中、森を進んだ。あいつが何処にいるのか解らない。クレプシドラの名前を呼んだのが最後、あの子に身体を乗っ取られ……そこで意識は途切れ、目覚めたときには血まみれだ。それでもあいつの血の臭いを感じ取ったクレプシドラが、激流の中からヴァレスタを助け出してくれた。
あの時僕は、確かに安堵した。おかしいとは思う。僕の日常を壊した張本人、僕はあの男を怨んでいたし、殺したって良かったはずだ。……ううん、違う。そうじゃない。僕の日常はおかしかったんだ。あれこそ歪んでいた。好きでもない姉さんの尻拭いばかりさせられて、いつも損をするだけの人生。搾取されるだけで、何の喜びもない。
あの人は僕に真実を教えてくれた。歪みを正してくれた。姉さん……あの女と決別するための楔を打ち込んでくれたんだ。何のために生まれたのか、何のために生きるのか……それを自分で考えるきっかけをくれた。
(大好きだった、大嫌いになった……赤い色)
昔は赤い色が好きだった。それは自分の赤い色の髪の毛。結構好きだったんだ。僕の目と違って目立つ色だし、僕はここにいるよって誰かに見つけて貰えるようで。
そんな色に翳りをもたらしたのが姉さん。赤はあの女が好きな色。真似したわけじゃない。それでも一緒だねと笑うあいつが嫌だった。僕はお前じゃない。僕なんだ。でも僕って何?こんな目立つ色の髪でも、いつもあの女に隠れて霞んでしまう。何の色もない、つまらない人間。
クレプシドラの赤。ヴァレスタの赤。姉さんと同じ深い色だけど、違う意味で僕を見る。クレプシドラは可愛い。妹みたいな感じはするけど、姉さんと違って嫌じゃない。持ちつ持たれつ、あの子は僕を何時も助けてくれる。だから好きだよ。好意も信頼も、そういう風に成り立つ物だと思うから。
……でもヴァレスタの赤は、それとも違う。あいつの赤は、嘘の色。悲しいくらい綺麗な、嘘の色。でもその嘘だってあいつの一部。赤い色の瞳も、緑の瞳もどちらも僕は綺麗だと思う。銀色の髪……僕なんかとは格が違う。劣等感とは違う、圧倒されて魅了される。僕はあの男が僕ら混血の王様に見えた。リフルさんを見た時は、そんな風には思わなかったのに。
それは何故かって、随分長い間考えていた。リフルさんとヴァレスタの何が違うのか。
(リフルさんは優しい。ヴァレスタは、最低だ)
うん、リフルさんの方が優しい。それは彼の圧勝だ。ほんの数日顔を合わせただけの僕のために、あの人は奔走してくれた。第二島で再会した時も、僕のことを気に掛けてくれた。だけど、あの人の優しさはヴァレスタ以上に酷いし残酷だ。あの人はみんなに優しいから、誰も特別じゃない。僕が死んだら悲しんでくれるけど、それでもう生きていけないと身を投げるような人じゃない。本当は僕のことなんかどうでもいいんだ。神様と同じだよ。みんなに崇められているけど、実際は無能で何も出来ない。それどころかもっと余計なことをしてくれる。
対するヴァレスタは、取り柄は顔。商才、それから剣術?それだけだ。他には言いようがないくらい最低だ。子供の僕以上に子供。一生大人になれないタイプの性格。……不器用過ぎるあの男は、此方が酌み取らなければ何も伝えられない人間で。そのやり方がまた酷いから、あいつのことを快く思って進んで真意を得ようとする人間が殆ど居ない。
唯一と言っていいフィルツァーは、ヴァレスタを知らない。あいつが無理していることを知らない。憧れの対象としてあいつを崇める。あいつはそれが嬉しいんだけど、それでも辛いんだ。嘘の自分を好きになって貰っても、悲しいだけだってあいつも解ってる。信頼してくれている、信頼している相手に真実を伝えられない。伝えれば、そこに何も残らないと……頭の良すぎるあいつは解ってる。手放したくないんだ、グライドを。
あいつは真っ直ぐな好意を与えられたことがそう多くはないから、そういう物が嬉しいし、失いたくないと思っている。だからあのヴァレスタが……生まれながらの王だと自負する男が、フィルツァーの顔色を窺っているんだ。本人は認めないだろうけどさ。あの人、頭は良いけど馬鹿だから。
(ヴァレスタは……)
酷い男だ。それでも悪い面全部引っくるめて、心を持って行かれてしまう。目なんか合わせないでも魅入られる。何でこんなに惹かれてしまうのか。考えてみても不思議。
初めは気を使わずに済む、初めての人。それだけ。そう思った。心から悪口を言い合える関係は心地良かった。
でも気を使わずに済むって言うのは、心を許すことに似ている。僕はこの男に心を許されているような気がした。そうやってあいつを見つめれば、これまで見えていなかったことがどんどん見えてくるんだ。
プライドが高く傲慢な男。自信家で苛つく奴。でも本当は、自信を裏付けるための努力をする。それでもその労力は表に出さずにこいつは冷ややかに笑う。それを才能だと見せかけるけど、こいつは自分に才能がないのを知っている。僕以上に劣等感の固まりだ。人を信じないのは、期待を裏切られる事ばかりあったから。地道に地固めをするのに、リフルさんや刹那姫に邪魔されて、その頑張りは失敗。
手中に収めていた東裏町でも姿を隠さなければならなくなって不自由な生活を送ることになり、苛立って居たところで僕が家出だ。
あの時はまだ、僕も子供だった。どうして年上の男相手に自分が折れなきゃならないのか解らなかった。ヴァレスタの態度と体罰にももううんざりだった。何時も僕をフィルツァーの引き合いに出してぐちぐち文句ばかり言う。そんなにフィルツァーが良いならあいつを傍に置けよ。僕のことが嫌いなら、どうして傍に置くんだよ。あんたが混血だって事、誰にもバラさないって言ってるだろ!?どうして信じてくれないんだ。そう思うと涙も出た。
僕はあんたを信じたつもりだった。でもあんたはそうじゃなかった。それが解って、ここも僕の居場所じゃなかったんだって悲しくなった。本当はもっと……僕に名前をくれた時のように、優しくして欲しかったんだ。たまにでいいから。フィルツァーの居ないところで位、僕にもあいつにするように……優しい声とか視線が欲しい。それって高望み?それでも僕も子供だから、そのくらい思うよ。鞭しかくれないあいつがあっと言う間に嫌いになった。
(でも……)
純血至上主義者の手から僕をあの人は救ってくれた。僕が捨てた首輪をもう一度付けてくれた。
秘密を守りたいなら僕を殺せばいいのに。僕の利用価値って、クレプシドラを使った数術?それだって、他に埃沙が居るしあんた自身強い数術使いだ。クレプシドラ憑きの僕を何度打ち負かした?僕の利用価値なんて、あんたにとってあってないような物。ただあれば便利ってだけで、無くても困らない程度の物。
(ヴァレスタが僕を必要としてくれたのは……)
奴自身気付いていなかったんだろう。俺からの信頼を、ヴァレスタが信頼していたんだ。俺は絶対にあんたを裏切らないって事、あんたは感じ取っていた……認めたくないだけで。
(それからは、嬉しくなった。何もかも)
信じている人に、信じられている。それだけでこんなに心が晴れやかになるなんて、僕は知らなかった。
不器用で素直じゃない、子供な人。こっちが心広くして迎え入れてあげなきゃ、会話もコミュニケーションもままならない。そういうの、姉さん相手にしてきたから結構得意。もしかして僕がこれまであの女相手に苦労してきたのって、この人を肯定してあげるためだったんじゃないかなんて……過去の嫌な出来事も、気が付けば喜びに変わっていく。
この人の力になれるのが嬉しい。褒められたら嬉しいけど、叱られても嬉しい。打たれるのだって悪くない。それは何処にもいないはずの僕を、認識して認めてくれる行為。それは忙しいこの人を、僕だけに縛り付けるための時間になる。僕のために時間を割いてくれるんだ。それならそれがどんなことでも僕は嬉しい。
(ヴァレスタ……ヴァレスタ様)
僕はグライドみたいに純血じゃない。商才もないし仕事ではそんなに手伝えない。
僕はロイルさんみたいに純血じゃない。力も弱いし剣で戦うのだって難しい。
それでも僕は、頑張るよ。何だってするよ。貴方のためなら何だって。馬鹿な夢でも何でも叶えてみせる。貴方が王になるって言うんなら、その日まで僕は……僕は貴方を死なせない!
見返りに何かして欲しいとかは言わないから。生きてる貴方のために働くのが僕の幸せなんだ。貴方は唯、生きてくれればそれで良い!僕は貴方の道具だ。貴方の犬だ。僕の命は僕の人生は、貴方以外に捧げられはしないんだ!だからこの身体の血、最後の一滴まで。僕は貴方のために費やそう。
硝煙と血の臭い。撃たれたあの人が膝をつくまでのほんの数秒。見るべきは僕ではなくあの人のはずなのに、走馬燈を見たのは僕。この長いようで短い走馬燈は……僕の心が悟った証。目の前の光景。吸い込んだ息。高らかに宣言しよう。
「クレプシドラっ!!!」
それだけであの子は僕の願いを叶えてくれる。あの子に取り憑かれている僕の心はあの子に筒抜けだ。それでもそれは嫌じゃない。僕が気付かないこと、気付こうとしないこと。無垢なあの子が拾い上げては教えてくれる。真実を向き合うための僕の鏡があの子なんだ。姉さんなんかより、余程僕は近しく愛しく思えるよ。
僕の声に反応し、あの子が背後から僕を抱きしめる。そうして僕の首筋に牙を立て、クレプシドラが血を啜る。
雨は水の元素を運んでくれる。空間転移で消耗し、妖精サイズに戻っていたクレプシドラもいつもの子供の姿まで回復している。ここに僕の血を大量に与えれば……大人の女性の姿に変わる。血を食らい、血の気が増したクレプシドラ。彼女にフィルツァーを襲わせ、その隙に僕が空間転移の式を紡ぐ。
「くっ……」
「ぎ、ぎゃあああ!な、何なんですかフィルツァー様ぁああ!」
「騒ぐなっ!おまえ達は彼女を守って撤退を!ここは僕が」
フィルツァーは、純血達の前では大手を振って数術を使えない。そうなれば手下共を一度は引かせなければならない。
でも簡単には逃がさない。クレプシドラは水の精霊。剣や銃で撃退するのは困難だ。時間稼ぎには向いている。
「ぐ、ぐああっ!」
「グライド様!?」
クレプシドラに憑かれた僕を狙えば。奴はそう思ったのだろうが、彼女がそれを許さない。フィルツァーの構えた銃にぶつけた酸の水。寸前で奴は得物を放したが、水は奴の手をも焼く。数値が見えているフィルツァーですらこうなのだ。クレプシドラが見えない連中ならば尚更、足や肌に触れてる雨水が酸に変わっていくのは耐えられないだろう。靴底が焼ける前に逃げ出さなければ今度はどうなるか。
「こ、混血が……っ」
「駄目ですっ!グライド様っ!」
酸で作った水の壁。その壁に至るまでの道も酸を敷き詰めた。辺りの石畳も解かし、僕らの周りに酸の池を作らせたようなもの。常人のジャンプ力じゃここまで来られない。どうあってもこの池を泳いで越えなければならない。空間転移までの時を稼ぐ結界。生身でそれを突破するのは不可能だ。フィルツァーが持っている精霊を使えば話は別だが、妙だ。
(使わないのではなく、使えない……?)
本人も気付いていないんだ。さっきからこの水を蒸発させる式を紡ごうとするのに何も起こらない。その苛立ちで風の数術だけを奴は紡ぐ。このままじゃいずれ破られる。
だけど僕は今土のカードのヴァレスタに触れている。僕の水の元素がこいつの元素と結びつけば、夏場にだって溶けない氷を生み出せる。水の壁を凍らせて守りをより強固な物とする。
……今のあの男から精霊の気配は感じない。無理をさせれば、上手く行く!
「……あんたは、この人に恩があるって……いつか俺に言いましたよね?あんたの言う恩って、ヴァレスタの目の色がっ、髪の色が違うんだって解っただけで、無くなってしまうような物なのか!?純血ってのはそこまで恩知らずなのかよフィルツァーっ!!」
「お前にっ……お前なんかにっ!」
僕の挑発に乗って、フィルツァーは酸の池に飛び込んだ。壁が氷になったのなら、物理攻撃で壊せると息巻いて。
「止めてっ!グライド様っ!」
他の連中が逃げていく中、逃げなかった者がフィルツァー以外にもう一人。すっかりフィルツァーの味方面だが、金の巻き毛のその女……先程の反応から見て、まだ完全にヴァレスタを裏切ったようでもない。
「エリザさん、止めないで!」
「貴方を行かせるくらいなら、私が行きます!」
火傷も恐れず、メイド女がフィルツァーを追い池へと飛び込み奴を引き上げる。フィルツァーの服がまだ溶けていないことに彼女はほっと安堵して、奴を後ろに下がらせた。
「グライド様。風であの壁に物をぶつけることは出来ますか?」
「は、はい。ですが」
「此方を。私の持っていた銀製品は溶けませんでした」
「……そうか、凍らせられる位だ。あの酸は、熱濃硫酸じゃない!それなら銀は溶かせない!!」
「ええ!要は速度です。壁を破るだけの風圧で撃ち込めれば、壁を突き抜け彼らに攻撃も出来る」
メイドが服の裾からガシャガシャと、落としたのは沢山のナイフ。その中に先程の鍵も一本彼女は隠して落としたが、フィルツァーは気付いていない。フィルツァーの味方をしながら、あのメイドは僕に向かって申し訳なさそうな顔。攻撃手段として鍵を投げ込むつもりなのか。避けてくださいねという合図らしいが、高等数式の展開をしながらそこまで自由に動けるものか。さっきフィルツァーに話しかけるのでさえ、かなりの集中力が殺がれたのだ。避けられるはずがない。
(それに、僕が避ければ……ヴァレスタが)
ヴァレスタはまだ倒れている。回復数術を紡ぐ暇もない。今は一刻も早くこの場から逃げなければ。……やるとするなら……間に合わせるしか方法がない。
「クレプシドラ!」
名を呼んで、攻撃に回っていたクレプシドラを引き戻し、すぐさま僕の数式展開の援護に回らせる。これで計算速度を上げながら、転送範囲を広げてみせる!
僕が展開を急ぐ中、フィルツァーは僕らから距離を置く。逃げるのではない。ナイフは全て同じ型だと知って、一本の重さを量る。そこから氷の分厚さを予測し、確実に壊せるだけの力を得るため、自分が紡げる風速でナイフが生み出す破壊力……それが最も高くなる場所へ向かったのだ。奴は狙いを定めるよう集中し、銀の矢で僕らを狙う。そんな奴の赤い眼は、激しい怒りと憎しみに縁取られていた。その白い頬を幾筋の涙が伝っていた。
(……可哀想に)
これまで一度だって親しみを感じたことがないフィルツァーに、僕は初めてそれを感じた。自分で自分の心も解らないなんて、可哀想な男だと。
(だけど、僕は違う)
お前とは違う。ちゃんと知ってるよ。大事なものが何なのか。今僕が何を思っているか。
どん底まで落ちて、初めて解ったことがある。僕なんて取るに足らない存在で、僕が何を思っても、それは大凡意味のないこと。プライドとか、そんなもの捨ててしまった方が良い。その方が楽になれるんだ。馬鹿にされて見下されて、それでも悔しいって思うこと……それが変わっていく。馬鹿にされても、仕方のない奴って……いつの間にか許せてしまうんだ。あいつの無理な物言いを許す度に心に生まれる温もりは、僕を救ってくれる物。
でもあんたはそれが出来ない。誇り高い男なんだな。改めてそう思う。生まれは僕とそう変わらない、庶民の癖にと馬鹿にしたこともある。プライド高い嫌味な奴。そのプライド高さをヴァレスタは気高く美しいと評して可愛がった。僕が真似したってゴミがいきがるなと鼻で笑う癖に。
僕とあいつで何が違う?何回だって悩んだことだ。僕があんたと同じ風にしたって、それは僕じゃないし、ヴァレスタはそんな俺を気に入らないよ。だから考えたんだ。僕は。僕の心を、僕に出来ることを。
(……俺は、誰があいつを裏切っても。俺だけは最後までヴァレスタを裏切らない)
あの男の世界は閉ざされている。他者を拒んだ檻の中。とても孤独な王なんだ。寂しいと思っても、それを口に出来ない位にあいつは高貴だ。そんな気難しく、高潔な王に……何をしてあげれば良い?どんな言葉も態度も信じて貰えないなら、後は行動しかないんだ。僕は忠実に仕事をこなす。信頼は、金では買えないはずだから!
「行けっ!」
「クレプシドラっ!」
式の完成と同時に叫んだフィルツァー。その発声を合図に送り出された銀の雨。だけど僕も同時に叫んだ!残りの空間転移は僕がやる。再びクレプシドラに水を操らせるため僕は叫んだ。向かって来るナイフが此方に届く前に、彼女は氷を再び水へと戻す。池になった水も壁へと吸収し、それを空中に浮かせて待機。ナイフ達が届く寸前、水を落として打ち流す!そこですかさずもう一度!
「クレプシドラ!」
僕の声に従って、彼女は水を凍らせる。後は僕がその氷ごと空間転移の式を完成に導いた!
(空間転移、成功だっ!)
膨大な数値の光が僕らを覆う。後数秒で逃げられる!フィルツァーも数値が見えるんだ。この光に目が眩んで手出しが出来ない。ほっと安堵の息を吐く。ヒューと吐いたその息と、重なるように吹いた風。
(え?)
遅れてやって来た最後の攻撃。フィルツァーは気付いていた。ナイフを一本拾う振りをしながら、全てのナイフの質量を計算していた。そこに鍵があったことも気付いていた!敢えて攻撃に含めなかった銀の鍵。凍らせた水は僕らを避けた足下ばかり。氷の壁から上半身ははみ出していたのだ。あの高さ……僕の脳天直撃だ!フィルツァーの奴、本気でこっちを殺す気で!?
(逃げられないっ……!)
眼前に迫る高速の銀。今から他の数術を紡いで防ぐ暇はない。クレプシドラに意思を伝えて実行に移せるだけの時間もない!なら避ける?いや、駄目だ。あの鍵が潜伏場所の鍵。あれを避けたら、鍵は転送範囲を通過する。そうなれば、僕らは何処に逃げればいい?
(僕は、道具なんだ!ヴァレスタの!)
主のために死ねるなら、それは道具にとって最高の幸せじゃないか!心の底からそう思うよ。それでもやっぱり怖くて、ぎゅっと目を瞑ってしまう。何も見えないままならば、痛みも恐怖も和らぐか。そんな甘い夢を見て。
「……え?」
僕の瞳を開かせたのは、激しい衝突音。開いた瞳が映したのは、うっとりする程綺麗な壁だ。石畳を突き破り、地中から現れる石の壁。それは硬い宝石と金属から成る強固なステンドグラス。美しい装飾のその盾は、今ヴァレスタが数術で作り上げた物だろう。
(綺麗……)
まるで錬金術。金の亡者のこの人らしい技だけど、なんて綺麗な数式だろう。輝く数字達は宝石の輝きにも劣らない荘厳さ。こいつは土の元素からこれだけの物を作り上げたんだ。
(僕なんかを助けるために……ヴァレスタ)
弾き返した鍵。あれが必要だっただろうに。この人は道具に過ぎない僕の命を選んでくれた。嫌だな、こんなことされると……もうこの人から離れられない。ヴァレスタの数術に見惚れる内に、空間転移が始まった。もう向こうの攻撃は届かない。それでもまだ、声は届いた。
「ヴァレスタ様……」
フィルツァーが雨に打たれて泣いている。自分の目の前でとうとうヴァレスタが数術を使った。自分が混血であると証明付けた。これが本当の裏切りだと、あいつは目を釣り上げる。そこには先程までの動揺はない。混血への憎悪一色に染められている。
(フィルツァー……)
この人を否定しないでくれ。最低でも、混血でも、数術使いでも……ヴァレスタはヴァレスタなんだ。それだけのことなのに。どうしてあんたはそれが解らないんだよ。
誰かを大切だと思うことに理由はいるのか?
切っ掛けは必要だ。過程と思い出も必要だ。だけど理由なんか要らない。自分もプライドも要らない。唯、この人が大切だって感じられる心があればいい。姉さんに奪われることは何であれ僕は許せない。だけどそれがヴァレスタなら、僕は全てを受け入れる。許せるか、許せないか。それが好きか嫌いかってこと。あんたがヴァレスタを慕っていたなら、その気持ちが本当なら、許してやってくれよ。この人が混血だったとしても。そんな混血に惹かれた自分がいることも。許してやってくれよ。この人にはお前が必要なんだ。
僕には、俺には出来ないこと。こいつに与えられない物が、悔しいけどあんたにはあるんだから。祈りが届くのならば、僕は今だけ神を信じても良い。だけど見上げた空は灰色で……星の一つも見えやしない。
だからフィルツァーに僕の祈りが届くことはないだろう。あいつは何処までも僕たちを追ってくる。僕らを殺す、そのために。
*
「……終わった」
アスカとの決着が付いた。ふぅと息を吐く間もなく、ロイルは数値を感じ取る。
距離はそう離れていない。その場所で、数術が解かれた気配があった。まだ数術に触れたばかりの身であれど、直感的な物は研ぎ澄まされている。だからこれが当たっているという確信もあった。今、途切れた数術は視覚数術。ほころびる瞬間、懐かしさを感じたことから、その術者が自分にとって身近で親しい存在であったはず。その術者の精神に異常が現れ、数術を維持するだけの集中力が無くなったことを意味するのだと、何となく理解した。
「レスタ兄……?」
口から飛び出たその言葉。それを自らの耳で聞き、今倒れた人が誰であったかロイルは知って取り乱す。
(やべぇ!大変だ!!)
俺が東を離れて、エルムは西から帰って今どこにいる?兄貴と合流できたのか?リィナは死んだし、埃沙はいつも扱き使われているか繋がれているかだ。兄の命令には服従するが、緊急事態に動けるかと言ったらそうじゃない。残るはグライドくらいな物だが、アジトでは出会さなかった。何かとても嫌な感じがする。
(早く、兄貴の所に戻らねぇと)
それでも後ろ髪を引かれるように一度アスカを振り返る。すると死んだアスカの傍にちょこんと座った子供が見える。
(青髪の、子供?)
初めて見る顔だ。アスカの知り合いか?それとも仲間?助けに来たにはもう遅い。今更どうにもならないだろう。今は兄貴の方が心配だ。
「お父さん?」
背後から聞こえた思いも寄らない言葉に俺は思わず吹き出した。
(アスカに子供!?あいつどこの女に生ませたんだ?いやあの子供十は越えてるだろ?何歳の時の子だよ)
そもそも普段婚前交渉はなんたらってぐちぐち言ってやがったのにどういうことだ?思わず俺は二度見する。するとそのガキ、今度はアスカじゃなくて俺の服の裾を引く。今のお父さん発言は俺に向かってのことだったのか?
「お父さん?」
「お、俺が父親!?」
リィナの奴、何時の間に生んだんだ。確かに俺とリィナなら混血が生まれるだろうし、アルムの話もある。混血の生態はよく分からない。急成長もあり得るかも。
「確かに髪が長いところなんかリィナっぽいかもな。目鼻立ちの可愛いところもリィナ似だ!髪の暗さも俺の紫っぽい黒とリィナの金が混ざった感じで……青に。いや、あれ?なるのか?まぁいいや。そっか、俺が父親か」
リィナの忘れ形見かと思うと何だか切なくなって抱きしめた。
「悪い、俺ちょっとだけ出掛けるから。安全なところでじっとしてるんだぞ」
俺がそういうと、その子供はゆっくり頷く。
あとどのくらい俺の命が残っているかは解らねぇが、簡単に死ねなくなった。せめて兄貴を勝たせて、兄貴にあの子の後見を頼まなければ。
(そのためにも兄貴は死なせらんねぇっ!)
急かされるよう俺は屋根から屋根へと飛び移る。俺が纏うは風。すぐにその場に向かえるはず。まだ幸福値は残っている。今なら兄貴を逃がすくらいは出来るだろう。ほら、もうすぐだ!
(あれ?)
飛び越える。飛び越える、飛び越える。何度飛び越えても屋根は終わらない。どこまでも続いていく。兄貴の所に辿り着けない。すぐ傍まで来ているのに。
(視覚数術か!?くそっ!!)
今の俺を惑わせると思うなよ!気を確かに保ち、集中。目を閉じ耳から得る直感で、正しき数値を見破った。途端に新たに道が見えてくる。目を瞑ったまま俺は、兄貴の気配を追いかける。
「レスタ兄っ!大丈夫か!?……、え……?」
もうすぐ見える、はずの人。屋根の下から見下ろそう。首を伸ばしてみようとしたが、身体が痛くて叶わない。俺はその場に倒れ込む。風を制御出来ずに何処かを切った?いや、そうじゃない。背中から思い切り、躊躇いなく俺は斬られた。今の俺にそんなことが出来る奴……そんな卑怯なことをする奴を、俺は一人しか知らない。
「形状的に、ダールシュルティングは刀っぽい」
「アス、カっ……お前、……まだ」
俺がお前なら、ちゃんと首と胴体切り離してたぜとそいつは笑う。リィナをその手にかけた時のように、残酷に。半分以上それがそいつ自身の血だろうに、血だらけのその姿がぞっとするくらいそいつは似合っていた。
アスカも風使い。数術については俺より遙かに詳しい。死にかけのこいつの気配はほぼ皆無。兄貴の情報探査に気が向いていた俺は、自分のことを忘れていた。そんな俺の慢心を、アスカは利用し風に乗り、俺の背後を取ったのだ。
「だから片刃だとお前は思う。実際そうだったんだよ。だけど形状変化で諸刃にもなる。重いからこれまでしなかったけどな」
諸刃になったダールシュルティング。その刀身は刀ではなく長剣のそれ。天高く、真っ直ぐ長く伸ばされた凶器。それを俺へと見せてアスカが笑う。先程叫んだ「ハルモニウム」も嘘ではなかった。片刃が猛毒刀クレアーリヒ、もう一方をこいつは数術刀ハルモニウムにしていた?
(いや、やっぱり嘘だ)
じっくり奴を睨み付け、見えてきた。視覚数術を知る者は、まずそれを警戒する。俺も兄貴のそれを知っている。だからそれは警戒した。アスカもそれは知っていた。だから視覚数術は使わなかった。
(これ……聴覚数術の応用だ)
触覚を切られた虫が真っ直ぐ飛べなくなるように、俺は誘導されていた。奴にとんでもない触媒譲っちまったもんだ。叫ぶようなあの音が……ハルモニウムが奏でる音が、聴覚数術を奏でるための布石だったのだ。あの剣は触媒。集中力は使うが、身体の近くならば直接触れなくとも……魔法使いの持つ水晶玉みたいな感じで使えるのかも。あれが剣の形をしているから、その発想を無くしてたぜ。
アスカはハルモニウムを鞘に残したままハルモニウムを扱った。俺はあの聴覚数術に、耳から脳を一時的に麻痺させられた。それにより混乱した俺の脳は、風の音を聞き間違えた。アスカの剣を見間違えた。そして向かっていく先に、兄貴の姿は見当たらない。
(アスカのあれは、クレアーリヒと……)
返り血の付いたその刃……俺の反応速度を越えたあの剣。何度も俺を打ち負かしたゲシュヴィンター。
「二本も同時に振り回すのは骨が折れるしな。俺はパワーよりスピード重視だし」
「お前、壱……だった、もんな」
数術にも不可能はある。トーラに直せないならアスカの味方の誰も直せない。そう思っていたのに、直せたのかよ。いつまでも壊れたような振りしやがって。まんまと踊らされていた。死にかけてまだ、切り札を使わないなんて……そんなの持っていないと思ったじゃねぇか。
悔しいな。悔しいぜ。それでも……やっと、俺はまたいつもみたいに笑えている。斬られて笑い出す俺を見て、狂ったアスカも僅かに戸惑う。それから「今回も俺の勝ちだぜ」と言わんばかりに鼻で笑った。俺を見下す目ではない。先程の俺と同じ、ほんの少し寂しそうな目で笑う。
(アスカは……やっぱ、こうじゃねぇと)
正気を失ったこの男の中にも、慣れ親しんだあいつの影を見る。こいつはあいつだ。別の何かじゃない。俺を脅えさせたこの男は、俺を打ち負かした……俺の心を躍らせたあの男。
「こいつは俺にもトーラにも直せなかった。ゲシュヴィンターはもう寿命だった。人間には直せないって言われたよ。こいつを直したのはモニカ。あいつ、最後にこんな余計なことしやがった……自分の身体、元素をこの剣に結合して結びつけたんだ」
剣の元素は風。アスカの精霊は最後の力を振り絞り、アスカの親父の形見を直したのだろう。
(お前は……良いな)
境遇が俺と似てても俺とは違う。アスカには、守ってくれる母ちゃんがいたいんだな。
(でも、俺だって……俺だって、凄いんだぜ)
そうだ。俺はもうお前を羨まない。お前になりたいとは言わない。俺は俺だ。リィナが居て、レスタ兄もいた。お前は持って居ないものがある。それで良い。俺は満足だ。
(傷、治せそうに……ねぇ)
アスカとの戦いで、俺の首飾りは何処かへ行った。拾う前に俺は走ってきてしまった。セネトレア第一王位継承者の証。親父から贈られた唯一の贈り物だった。
回復数術が上手く紡げなくなったことから俺は悟る。あれも触媒だったのだ。何となくこれまで無意識で回復していたが、それは触媒のお陰。あれに刻まれていたのは、回復数術の式。数術を使えるようになった俺はあれを発動できるようになっただけで、自分自身で回復数式を覚えていた訳じゃなかったらしい。なんかよくわかんねーけど俺様すげぇとか思って、細かいこと気にしてなかった罰が当たった。あの首飾り……王は命を狙われることがあるから、保険としてだったのかな。あれが触媒だって解ってたら、数術使える兄貴にやったのに。いや、兄貴は欲しがらないかな。王の証は貰うんじゃなくて自分の手で掴み取る方が好きだろうし。それじゃあ、兄貴の傍にいてくれるエルムに預けておくべきだったか。
(ああ、そうだ……それから)
あの青髪の。俺が死ぬならせめて、アスカに頼んでおかねぇと。
「お前の傍に……青髪のガキ、いたろ?あいつ……」
「俺を治したガキのことか?あいつ教会の回し者だろうな、修道服着てたし」
「教会……?」
予想だにしない返答に、俺は面食らい戸惑った。すぐにそれが俺の勘違いで早とちりだったと気が付いて、何だか泣きたくなった。冷静になって考えればおかしいって解るのに、自分にとって都合の良い方向へと話を転がしてしまった。俺が幸せになるために、幸せな気持ちで死に向かえるようにと。はははと口から漏れた乾いた笑い。俺はこんな滑稽な笑みを浮かべて死にたくはなかったんだけどな。惨めな気持ちで俺は笑った。こんな気持ちで俺は死ぬのか。
「じゃあな、ロイル」
俺は甘くない。そう笑ったアスカが俺に止めを刺そうと首を狙って剣を掲げる。うわ、こいつ容赦ねぇ。相手がアスカだと解った途端、これから死ぬって言うのに俺はなんだか笑っちまった。もうどうしようもないし死ぬんだって解った時、多分箸が落ちても俺は笑ってただろうな。なんかよくわかんねーけど、もう笑えなくなると思うと、残りの一生分笑っておくべきだと思った。未練のある死に顔なんか晒したくねぇしな。それを見て、アスカが気分悪くなってもどうかと思うし。俺がそれで散々嫌な思いして来たからな。俺は俺の死に顔誰かが見ても笑い飛ばせるような変な顔をして死のう。
「お前っ……この期に及んで、往生際が悪いっ!!そんな変な顔をしやがって!!俺を笑わせて狙いを外させるつもりだな!!くそっ……こんなくだらねぇことで狙いがっ!くそっ!!」
剣を構えていたアスカが、俺の殊勝な態度を邪推し睨む。勝手に吹き出した方が悪い。屋根に膝をつき、畜生と屋根を滅多差しにするアスカ。なかなか俺に当たらない。
(あ……)
毒が回って来たのか。がくがくと震える手……剣を持っているのももうやっと。呼吸が荒く、冷や汗が吹き出ているのが俺にも見える。
リフルの毒対策に、屍毒以外の解毒剤は持たされていた。それを渡すべきだろうか?どうせ俺が死んだら道具漁ってアスカが解毒剤持って行くの目に見えてるし、先に渡しておいても変わらないかも知れない。
「な、なんだよ。解毒剤と引き替えに、回復なんかしねぇからな。解毒剤なら俺だって持ってるんだ。不調になるから使えないだけで」
(お前、もうちょっと……人を信用しろよ)
呆れて今度は俺が吹き出した。
「世の中、最低だけどよ……そこまで、最悪なんかじゃねぇぜ」
死にそうな俺様がそう言うんだ。信じろよ。こんな時くらい、人間嘘は言わないはずだぜ。
せめてこの馬鹿に、俺様の偉大さって奴を思い知らせてやるか。にやっと笑った俺は、いつもリィナの部屋に漂っていた空気を思い出す。薬は毒を殺す毒。あの中に解毒の数式があるはずだ。見えなかったそれを今思い出せ。
(ごめんな、リィナ)
リィナは、こんなことで俺を見限らないよな。リィナを殺したアスカを助けても、俺を嫌いにならないよな。むしろ俺の器のでかさを見て惚れ直すんじゃね?いや、ごめん。そうじゃなくて。
俺は、思いたいんだ。信じたいんだ。リィナは理不尽に殺されたって、それでアスカを殺して欲しいなんて思わない。俺が逃げて生き残って欲しい。そういうことを考える奴だって、俺は知ってるよ。でもリィナ。俺がお前を亡くして逃げて隠れていられるような奴だとは思わないよな。こんな風に死ぬ俺を見て、馬鹿な人ってお前は笑ってくれるよな。それで良いよ。俺はお前のその顔、好きだ。
苦笑し俺が紡いだ解毒数式。最初で最後の解毒数式。びしっと決めちまった。やっぱ俺様凄げぇ。「すぐに調子に乗るんだから」ってリィナが呆れてる声がする。
そうだよな。何もないところから解毒数式を生み出せるんなら、回復数式……その気になればやれたはずなんだもんな。
(やっぱ、俺馬鹿だ)
でも、俺は……そんな馬鹿な俺が結構好きになれた。ああ、今なら笑って死ねそうだ。
「ありがとな、アスカ」
「何言ってんだよ馬鹿っ!!お前……っ!!」
丁度タイミング良く、悪く?正気に戻ったらしいアスカが俺の身体を揺さぶった。
「回復したら、ぶっ殺すからな」
「はぁ!?」
そもそもアスカは洛叉みたいに人体構造明るくねぇだろ。パックリ斬られた俺の肉やら皮やら骨やら神経やらさ、全部繋げるはずもねぇ。中途半端な回復数術なんかされても首から上しか動かないとかなって、その上残り少ない幸福値とか最悪だろ。
今の俺は蛇口を開けっ放しの水道だ。幸福値が垂れ流しになっている。いきなり数術に目覚めてすぐに無理をしたから、制御が出来なくなったんだろう。こうして倒れていながらに、情報数術だけは俺の頭に流れ込んでくる。兄貴が危険なこと、グライドが裏切ったこと……エルムが頑張ってること。色々見える。それでも手助けが出来る程の力はない。これ以上嫌なことを知る前に、死なせてくれと言うのは俺の我が儘なのか?
「お前は……リフルを守るんだろ。幸福値は、大事に取っとけ」
俺と戦ってでも。俺を殺してでも。そう決めたはず。そう言ってやらなければこいつは俺を治していただろう。こいつ、甘いんだよな。だからあんな風に時々暴走しちまうんだ。普段から自分に嘘を吐いて無理してるから。悪い物貯め込んでしまったんだろう。好きなら好きで良いじゃねぇか。手を出しちまえばいいのに。小難しく考え過ぎなんだよなこいつは。
「ばぁ、か……」
しょうがない奴。笑ってやった。
馬鹿の俺でも解ること。頭の切れるお前なら、解らないはずなのに。頭良い奴って大変なんだな。兄貴も、アスカも。頭良いからプライドあって、自分に嘘を吐かなきゃ自分の心を守れねぇ。
(レスタ、兄……)
ああ、心配だな。やっぱり無理だ。未練なんか残さず死ねる人間なんかいないんだ。
(ああ、そっか)
未練がある。満足してもしきれねぇ。死にたくないと思ってしまう。今の俺、この気持ち……これが、生きてるってことだったんだ。
俺も普通の人間だったんだな。生きてて死んでいく、普通の人間。王位継承者とか、王族とかそんなんじゃなくて。俺は一人の人間だった。それを悟って、急に肩の荷が下りる。今ならちゃんと、笑えそう。それでももう身体に力が入らない。笑えただろうか。釣り上げた口元が、ちゃんと笑いの形になっていただろうか。そうだと良いな。そう思う。
*
「寒くないですか、ヴァレスタ様?」
僕らが飛んだのは人気のない路地裏。近くから人の数値も感じ取れない。ここなら暫く雨宿りが出来そうだ。ほっと息を吐き、上着を絞ってあの人へ被せる。クレプシドラに水の元素を吸わせたから、粗方乾燥はしたはずだ。次は数術で清潔な水を出し、撃たれた傷を消毒。その後すぐに回復数式を展開し、僕は治療を開始する。
「……寒い」
「今はこれで我慢してください」
「……とでも言えば、貴様はどうするつもりだ?何でもすると?身体で暖でも取らせるか?ふっ、嗤わせるなっ!俺を憎む貴様にそんな真似が出来るものかっ!!使えん犬めっ!どうせなら火の数術の一つでも覚えておけ!低脳っ!」
「ヴァレスタ……」
フィルツァーの裏切りに、心が弱ってしまっている。拒絶神経全開で、誰のことも信じられなくなっている。
「それじゃ、失礼します」
僕がこの場を立ち去ると思ったのだろう。やはりなと自嘲の笑みを浮かべたあいつに僕は思いきり抱き付いた。何事だと狼狽えるあいつ。こんな顔、見たこと無いかも知れない。
「な、何のつもりだ!?」
「命令に従っただけです」
抱き付いて暖を取らせているのだと口にすれば、ヴァレスタが半口のままふっと嗤った。
「馬鹿が。こんなもので暖まるものか」
思い切り僕を突き飛ばした後、ヴァレスタは僕が抱き付いた場所を手で払う。自分も混血なのに僕だけバイ菌扱いかよ!
(何時も通りに最低だ……)
どうしてそこで安堵してしまうんだ僕は。その理由はもう解る。だから僕は笑うだけ。何も難しい事じゃない。
「ヴァレスタ。ここで一旦休みましょう。体力と集中力が回復したら、また数術でなるべく遠くに飛びます」
僕はシャトランジア育ちだ。あそこまで飛べたなら、ひとまずこの場は切り抜けられる。それを提案したところで、ヴァレスタからの反論はない。唯……
「様を付けろ、駄犬」
靴を顔に投げられた。これも乾かしておけということらしい。この男は本当に、年下の僕より大人げないし素直じゃない。
(ほんと、子供だなぁこの人。でも……)
星が降ったあの夜。僕は何を願っただろう?あの日の僕は、それを明確な言葉に出来なかったんだと思う。だけど色々考えた。僕の脳裏に浮かんでくるのは銀色の髪に緑の瞳、黒髪に赤い瞳のこの男。
今、特別に欲しい物とか、なりたい物も何も無い。僕には思い描ける未来も見えない。五年後、十年後……何処で何をしているか何て解らない。本当はそんなに長く無かったわけだけど、一年後だって解らなかった。ただ一つ言えることは、何年後でも僕はここから離れないってこと。
「大丈夫です、ヴァレスタ様。貴方はこの国の王になる人です」
そうだ。こんな所で死ぬはずがない。僕が絶対死なせない。そのために僕はカードになったんだ。手袋の下……そこに宿るカードを見つめて、僕は強く頷いた。
(大丈夫、まだやれる)
「リゼカ」
見張りに戻ろうとした僕を、ヴァレスタが呼び止める。
「お前は俺が王になると思っているのか?」
「……はい?」
「貴様は俺が王になる男だからと、こうして俺に仕えているのか?」
損得勘定。人は打算で生きる物。そんな冷たい固定概念。可哀想に、この雨に打たれてすっかり卑屈になってしまったんだなこの人は。
「ヴァレスタ様。ご存知ですか?このセネトレアにあっても、金で買えない物は存在します」
「ふっ、馬鹿馬鹿しい。金で贖えぬ物などあるわけがない。全ては金だ。金で取り返しの付かないことなど何もない。金さえあれば、俺はこの手に全てを取り戻せる」
「それなら……俺が死んだら新しい奴隷を飼ってください」
「何が言いたい?」
「いいえ。それで何も変わらないのなら、貴方が俺に遠慮なんかする必要はない。もっと俺を道具として使って下さい」
「……リゼカ?」
「貴方は今、何故俺がここにいるのかと聞きました。それは俺が道具だからです。道具は勝手にいなくなったりしません!壊れるまで、捨てられるまで、俺は貴方の傍にある!それが道具にとって、当たり前のこと!違いますか!?」
「痴れ者が」
「痛っ!」
力説する僕にもう片方の靴を投げ、あいつは笑った。僕が悲鳴を上げたところでもっと嬉しそうに笑うのだから、この男は救えないほど性格が悪い。
「血統もない!愛でるに値しない雑種の犬が、愛でられるには何が要る?忠節だ。お前は俺に言われたことだけをしていれば良い。俺は物や道具に首輪を付ける趣味はない。見張りなどあの精霊に任せろ」
「でも」
「聞こえなかったか?休めと言ったのだ。肝心な時に数術に失敗してみろ。括り殺してくれる」
「……はい!」
命令と言わなければこの人は、傍にいて欲しいとも言えないんだなぁ。本当に、可哀想な人だ。
(ヴァレスタは、昔の僕みたいだ)
寂しいのに、苦しいのに……それを誰にも言えない。でも言われなくても僕は解る。僕も同じだったから。ヴァレスタの傍に腰を下ろして目を閉じて……僕は仮眠を取る振りをする。その方がこの人は楽だろう。ぴたっと傍にくっつくて少しでもこの人の暖になるよう心がけた。それなのにすぐ、僕は支えを失ってその場に倒れ込んだ。何事かと見上げれば、ヴァレスタが路地の奥まで向かっていくのが見える。
「ヴァレスタ?」
「……」
ヴァレスタがそこで拾ったのは、壊れた首飾り。僕にも見覚えがある。それはロイルさんが身につけていた物だ。そこに残る数値の気配を辿ろうと、雨の中飛び出そうとするヴァレスタに、僕は掴まり行かせない!
「駄目です!」
「犬がこの俺に指図をするかっ!!」
振り払われた手。それでもまだ放さない。壁に打ち付けられてもだ。
しつこい僕の行動に、つり上げられた緑の瞳。いつも計算で行動するこの男が、ロイルさんのことで取り乱す。フィルツァーとのことで精神的に磨り減っている今、ヴァレスタはロイルさんまで失えない。それは僕だって解る。ロイルさんをヴァレスタは今だって信じているんだ。和解は出来ない隔たりはあっても、この二人の繋がりに僕は割り込めない。二人は家族なんだ。この最低な国で二人が手に入れた……信じるに足るものだったんだ。その繋がりはヴァレスタにとって必要な物だと解ってる!それでもここで行かせたら、ヴァレスタの身が危ない。騒ぎになるような場所に向かわせられない。
「ええ!俺は貴方の犬です!だから貴方に危ない真似はさせられません!大体貴方は回復数術使えないんだ!ここは僕が捜しに行きます!」
「……っ」
そうだ。触媒ならある。ディジットから形見と貰った宝石がある。あれは質が良い。あれを使えば僕はクレプシドラをここに残しても戦える。
僕の数術代償。僕は数術を使えば使うほど、存在数をすり減らす。僕一人ならば純血のフィルツァーなんかに見つけられるはずがない。戦えば戦うほど僕が有利になるんだから。
路地裏から飛び出した僕。目の前には赤い色。すれ違うには鮮やかな……憎らしいあの血の色が僕を見た。
「エルムちゃん……」
「姉、さん」
嗚呼、そう言えば……昔からそうだ。誰にも見つけられない僕を、この女だけは……。この女だけはっ!!!
この人はこれが最後というシーンが続くと、何度も書き直しが続きます。
なかなか納得できる文章にならない。
なんだかんだで敵達とも長い付き合い。プロット練ってた辺りからすりゃ2008年からの付き合いです。今年で五年。
アルムとエルムは混血って人種を裏本編の導入として説明して表現するために近くに配置して。でもその関係が歪だって言うのは初期からちょっと見せておいて、別陣営に付かせるっていう構想はあった。
プロットのヴァレスタはリフルの天敵として、最初はロセッタの数値分解弾お披露目のための胸くそ悪い悪役として配置していました。(13章、第四島のロセッタの元主の話の下りが大体こいつの役割だった)
混血、奴隷殺しをリフルに犯させるというタブー。それを見てヴァレスタを許せず悪として断罪すべく、本当はリフル達に見せちゃいけなかった教会兵器を解禁させるロセッタ。その兵器がやがてリフルを死に導くっていう伏線に繋げるはずだったんだけどね……それじゃあんまりにも主人公の宿敵が小物過ぎる気がして、色々考えました。結果、ロセッタの出番がwwwプロットじゃまだヒロインヒロインしてたのに(笑)
あの頃まだリフルにここまで大々的な女装設定なかったからなぁ……(作者が男の娘萌えなんかに目覚めるから)
何かの歯車が違っていたら、立場が逆だったかも知れない、違う展開になっていたかもしれない相手。そんな意味で敵の組織の名前はギミック。
リフルとヴァレスタ(片割れ殺し)、アスカとロイル(どっちも王位継承権蹴った王子)フォースとグライド(恩人が西か東か)、ロセッタとリィナ(任務女と恋人命っていう対比)、アルムとエルム(私的にはショタのが仲間にしたいから、敢えてショタを敵に回した。アルムが敵なら、やってきたことがあくどい分、あんまり葛藤なく殺せそうだから敢えて味方に)、洛叉と埃沙(埃沙は初期構想では9章で仲間に入れてた。でも無理だったから早々に死なせてしまう形に。埃沙が広い世界を知って、別の男に惚れるのか。それともまだブラコンなのか。そういうのも良かったと思うんだけどね。地味にラハイアとフラグあったし)。