20:incredulus odi.
とりあえず注意。これまでの流れで何の注意かは察して下さい。
間近であいつの眼を見ると、何時の間にか、リフルの姿が変わっていた。俺の姿もだ。出会ったあの日と同じ背丈、格好。正装した俺と、処刑の儀の衣装のお前。あの日のままの姿で、リフルが俺を見ている。すぐ傍で。しかもあいつから俺に抱き付いて。このまま抱き付かれていたなら、俺は死ぬ、殺される。その前にこいつを殺さないと。そう思う。それでも人より低いこいつの体温でも、それでも生きているんだと解る。こうしてくっつかれると温かい。それに、聞こえるんだ。心臓の音。これを止めることが俺の願い。そのはず。お前の心臓を俺の剣でぶっ刺した時、お前はどんな顔になる?その口から漏れる絶命の吐息はどんな声色?きっとこの上なく艶やかだろうな。想像しただけで呼吸が荒くなる。その間もお前は俺に縋り付く。俺を見上げて、見つめている。綺麗な紫の瞳。お前が毒殺されたあの日には、俺を眺めただけの目。目が合ったと思ったのは俺だけで、お前は俺を認識してなどいなかった。覚えてすら居ない。お前のあの笑みは、もう何も見えなくて、それでも……マリー様へと向けられたものだったんだ。だけどその微笑みは、俺がお前に見入られるには十分だった。
長い間俺は錯覚していた。思い込もうとしていた。俺の初恋はマリー様だ。マリー様に似ているからお前が好きなんだ。そう自分に言い聞かせていた。理性で蓋をしたんだよ。俺が見たくない俺に。認めたくない現実に。俺が俺を肯定できない。お前を肯定できない。それなのに、誰にも渡したくないっていう妙な独占欲。
本当は、お前に似てるからマリー様が好きだった。俺がマリー様に会ったのはお前の処刑の後。先に会ったのは、毒殺処刑されたお前だ。あの人が笑えば、きっとお前もあんな風に笑うんだろうと想像した。あの人が悲しめば、お前もそういう顔で悲しむのだろう。そう思った。妄想のベースがマリー様っていう女性である以上、どうしても俺はお前を女として見てしまう。そしてそうでなければならない理由があった。認められるはずがない。一目惚れした相手が、よりにもよって男だなんて。相手が女なら別にそれでも良い。そうじゃないのなら、惹かれた理由を言い訳を、別に考えなければならない。母恋しさ、マリー様……それはとても、もっともらしい隠れ蓑。俺は母親を知らない。物心着いた頃にはもう俺の傍には居なかった。だからマリー様に憧れた。マリー様に似ている那由多様に、リフルに母性を求めた。愛情を求めた。全ては母恋しさから。嗚呼そうだ。俺はマザコンなんだ。そういうことにしよう。男なんて生き物、基本みんなマザコンなんだ。俺は正常だ。俺は何も間違っていない。俺があいつに惹かれるのは当然のことなんだ。
「……それにしても、綺麗な死に顔だよな」
棺で眠る王子様。一日中眺めていても飽きなかった。勿論一人で喋っている俺は馬鹿みたいだし、悲しいし寂しかった。それでもその顔自体に飽きる事なんてなかった。あれは何時のことだろう。棺を安置した地下室で、俺は考え込んでいた。
「那由多様って……どっからどう見てもお姫様だよなぁ」
顔は完全に女だ。服装が辛うじて男物。それでもセミロングのその髪は、男と言うより女らしい。これで本当に女だったら処刑され損だ。いや、それを証明できればこんな風に地下に隠す必要もなくなる?こんな子供じゃ胸の有る無しで性別判定は不可能。そうなればガキの考える事なんて自ずと決まってくる物だ。
「よし、ズボンでも脱がせてみるか」
「何がよし、なんだ?」
「げ、親父!何時の間に地下にっ!」
真面目な親父は俺のとんでもない発言にすっかり青ざめ、今にも切腹を申し出そうな勢いだ。こんな男がよくマリー様に手を出し俺を生ませたものだとある意味感心してしまう。
「まったく、何を無礼なことを考えて居るんだ。今度そんなことをしようものなら、お前を地下には入れないぞ」
「だ、だって親父!那由多様こんな顔だし!どっからどう見ても女の子じゃないか!」
「成長なさればさぞかし華のある顔立ちになられただろうな。マリー様の柔らかい眼差しも受け継がれているし、陛下とは違った雰囲気の美形に成長なさるだろう」
今は可愛い女の子に見えるのも、元の素材が良すぎるだけだと親父は言った。成長すればちゃんと男に見えるようになるって。そりゃそうかもしれないけど、そんな物は方便だ。今ここで、ちゃんと証明して貰わなければ俺が困る。
「困る?どうして?」
俺の妙な物言いに、親父は軽く吹き出した。俺の言っている意味が分からなかったがツボに嵌ってしまったか。地下室の鍵を奪われるか奪われないかの瀬戸際。必死だった俺は訳の分からない言葉を捲し立てていた。
「だって、時々思うんだ!そんなの馬鹿みたいだけど、こんな眠ってるだけみたいなら……絵本のお姫様みたいにすれば起きるんじゃないかって!」
そうだ。女の子じゃなければ困るんだ。子供心にもそんなことあり得ないと思いながらも、その寝顔……腐らない死に顔を眺めるほどに、絵本みたいにキスすれば起こせるんじゃないかって。俺だって世が世なら王子様だ。やってやれないことはないかもしれない。そう熱く語る俺を、最初は微笑ましいなと笑って見ていた親父も俺のあまりの力説に、一抹の不安を覚え始めたようだった。
「い、いや、あのな……アスカニオス。仮に那由多様が王女でいらっしゃったとしても、そんなこと恐れ多くてやっては駄目だぞ?」
どっちにしろ切腹、打ち首物だと親父は言うが俺は納得できない。
「親父、この間マリー様とキスしてたじゃねぇか」
「み、みみみ見ていたのか!?あ、あああああ、あれは」
放って置いたら自責の念で舌でも噛み切りそうだなこの親父。仕方ないから俺は親父に言ってやる。あれは見なかったことにして。
「手の甲に」
「あ、そ、そっちか」
「そっち?」
「い、いや何でもない」
本当にこいつは一児の父なのだろうか?たかがキス一つで動揺するとは情けない男だ。とりあえずその場は親父が動揺して話せる状態ではなかったのでお開きに。とは言え自分の口から出た言葉。それを自分の耳で聞くことで、改めて考えることがある。あれは言い訳のつもり?それとも俺が知らない内に思っていたこと?解らないが一度聞いてしまうと人間、意識をしてしまうもの。
「確かに困るよな」
相手が弟か妹か。はっきりと確かめなければなんだかこう、もやもやした気持ちのままになってしまいそう。相手が男か女かで、やっぱり仕えるにしても態度とか変わってくるし、兄としての接し方も異なると思う。ていうか今更だ。こんな女みたいな顔してるんだ。男だなんて言われても、信じられないし、どうしても女の子のように思ってしまう。本当にこの王子様が男なんだとしても、女の子として意識をしてしまっている。相手を男と認めた上で、俺の気持ちを肯定するのは、ちょっと無理がある。抵抗がある。元々親父の家は教会派だったし、そこから飛び出したとは言え、常識程度に教会の戒律を教わっている。つまり俺が普通の人間を自負したいなら、この人は女の子でなければ困るのだ、俺が。俺がまともであるために、そうであって貰わなければ困る。だってそうじゃないのなら、俺がおかしいんだってことになってしまう。俺は自分と同じ男の、王子様を意識してるっていうとんでもない変態だ。そんなこと、あってなるものか。
(俺が立派な兄ちゃんになってやらなきゃいけねぇのに)
こんな気持ちのままじゃ、仕えるにしても兄としても務めを果たせない。マリー様との約束、守れなくなる。それじゃあ駄目だ。
「脱がせないにしろ、触るくらいなら……」
触ってもたぶん性別くらいは判定できる。そう思って棺に手を伸ばしかけ、あんまりにも可愛らしい死に顔に、自分の思考が爛れているのが恥ずかしくなる。
「だぁああっ!駄目だ駄目だ駄目だっ!なんか恐れ多いっ!」
俺だって腐っても騎士の子。寝てる改め死んでる人に無体を働くなんて出来るはずがない。やっぱり俺にもしっかりあのへたれ親父の血が流れている。
「こ、こうなったらやっぱり……」
キスして起きたらお姫様。起きなかったら本当に王子様に違いない。そうだ。どうせ目覚めないんだ。誰にもばれない。親父も今日は出掛けている。俺が気持ちを割り切るためにもこれは必要なことなんだ。目覚めないんなら目覚めないんで良い。こいつが男なんだって認められるようになる。
俺は覚悟を決めて棺桶を開ける。そうしてその寝顔を覗き込み、顔を近づければ甘い良い香りがする。一緒に入っている花の香りか?そうじゃない。彼が呷った毒の匂い?そうだ。この人は毒殺されたんだ。迂闊にキスなんかしたら、それこそタロックのお伽話みたいに俺まで死んでしまったりして。いや、でも唇に触れるくらいならきっと大丈夫。俺は頷き、その場に跪く。上体を倒して顔を近づけ……鼻先僅かの距離でその寝顔を眺める。こんなに間近で見たのは初めて。見れば見るほど綺麗な人だ。先日親父をからかった俺なのに、今は何も出来ない。キスなんて挨拶みたいなもんだろ。手とか額とか頬とか。唇だって位置が違うだけだ。それだけなのに、それだけなのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだ。恐ろしいんだ。この人を見ていると、自分がとてもちっぽけで惨めな物のように思えてくる。俺は雑菌とか病原菌とかそんなもん。いや、俺だけじゃない。この人以外の人間全てだ。誰もこの人に触れちゃならないんじゃないか。そんな風に思わせる、無垢な寝顔。誰であれ、この人に触れてはならない。この人が汚れてしまう。勿体ない。
それにもし本当に、これが王子様だったら。終わってしまう。人として、俺が終わってしまうような気がする。駄目だ駄目だ駄目だ!俺は男だ。普通の男だ。普通に女の子が好きだ。マリー様とか大好きだ!騎士道文学最高っ!やっぱり相手は高貴な貴婦人だろ。そんで人妻。多くの武勇を持った騎士が颯爽と現れて、そんな貴婦人と禁断の恋に陥るんだ。人生も恋愛も、そんな息つく暇もない劇的な物であるべきだ。平凡な人生なんて、唯でさえつまらない俺が、もっとつまらない物になる。そんなの御免だぜ。
俺は知りたいんだ。俺は何のために生まれて何のために生きていて、どうして死んでいくのか。唯それを知りたい。そうじゃなきゃ、納得できないことが多すぎる。
親父とマリー様は今だって思い合っているのに、どうしてマリー様は俺の母さんにはなってくれないんだ?親父からマリー様を奪った狂王は、そこまで好きだったマリー様との間に生まれた那由多様を、どうして殺してしまったんだ?俺は何のために生きていて、この人は何のために殺された?
(本当は、何の意味も無いんだろうか?)
俺だって、マリー様に捨てられた時点で半分死んでいるのかも。親父は厳しいが優しい。俺を思ってくれているけど、愛って一体何なんだ。本を読んでも共感できる愛なんて見つからない。どいつもこいつも馬鹿みたいだ。そう思うだけ。現実は物語とは違う。親父みたいに真っ直ぐ生きても辛いだけ。何も良いことなんか無い。人は何が楽しくて生きていているのか。どうして俺は生きているのか。親父もマリー様も大好きだけど、時々憎くもなる。何のために俺を作ったんだって。マリー様は俺を捨てたし、親父は仕事ばっかりで、仕事より俺を優先してくれたことなんて一度もない。人としては二人とも優れた人なのかもしれないけど、親になる資格なんかなかったんだよ。幼い俺にこんな事を思わせる時点で親失格だ。
どうせ目覚めないのなら、俺がこの人をお姫様だと思っていても構わないんじゃないだろうか。だってこんなに綺麗なんだ。守るべき貴婦人として、仕えてみる。そんなお遊び。暇潰しにはもってこいだろ。例え俺が間違っていても、この人は死んでいる。俺を否定したりしない。気味悪がったりもしない。俺の全てを無条件で受け入れてくれる。
(本当に……?)
嗚呼、そうだ。虚しくなったよ。その寝顔に見飽きなくとも、自分の滑稽さには呆れてしまう。俺が馬鹿みたいだ。早く起きてくれよ。お人形遊びなんかで満足できない。もっと多くが欲しくなる。その声が聞きたい。俺を呼んで欲しい。その美しい目で俺を見て。色んな表情を見せて欲しい。その上で俺を否定しないで、俺の傍にいて欲しい。俺はお前を否定するけど、お前は俺を蔑まないで欲しい。
聞こえてくる心の声。見慣れた風景から知らない声が聞こえてくる。それは確かに俺の声で、俺の記憶なのは間違いない。俺の性根は昔から歪んでいたのだ。それをやっぱり見ない振り。聞こえの良い言葉で表面偽って、兄貴面をしてみたり。本当、ろくでもねぇ。
暗殺者なんて犯罪者になっておきながら、まだ俺は常識なんかを気にしている。そこから外れて誰に裁かれるわけでもないが、俺が俺を許せない。認められないのだ。お前に触れてはならないのは、俺が俺であるために。俺はまともな人間なんだ。そう言い張るために必要なこと。元々俺が歪んでいたのに、とうとう俺は邪な心を邪眼の所為だと口にしてしまった。それだけは決して口にしないと思っていたのに。
言い訳で逃げてばかり。そんな俺がお前の一番になれるはずもねぇ。解ってるんだ。お前はもっと真っ直ぐで綺麗な人間が好きだって。俺じゃお前の光になれない。希望なんか与えてやれない。共に寄り添うことは出来ても、お前を救ってやることなんか出来ない。それでも諦められないんだ。だってお前は、あの時確かに俺だけのリフルだったじゃないか。棺で眠るお前は俺がいなきゃ逃げることも出来なかった。何も出来なかった。あの日のお前には、俺が必要だった。お前が俺を知らなくても。
俺の気持ちは汚れている。お前の思っているような忠誠じゃない。そんな綺麗な目で見るな。俺の醜さが突き付けられる。お前にはこんなに醜い俺が見えているのか?今にも見限りたいんだろう?俺なんか、居なければ。俺なんかと出会わなければ良かった。そう思ってるんだろう!?
(お前にまで捨てられたら、俺は……何のために)
何処にも行かないでくれ。何時でも俺を必要としてくれよ。お前しかいないんだ。お前しか要らないんだ。お前だけが俺の存在理由なんだ。生まれた意味なんだ。そこまで俺の全てがお前のためにあるのにどうして、お前は全部を俺に与えてくれないんだ?
足りない。全然足りない。もっとお前をくれ。見せてくれ、聞かせてくれ、解らせてくれ。
それが出来ないんなら、これ以上誰にも何も与えるな。そのためにここで殺されろよ。一度きりの悲鳴を、表情を俺だけにくれよ。そこで俺も妥協するから。俺もすぐに死んでやるから。お前が居ないんじゃ、生きてる意味もないもんな。
「アスカ……」
頬を撫でられて気付く。俺は、泣いていた。跪いて泣いていた。そんな情けない俺をあいつは受け入れる。俺に抱き付き、優しく俺の背を、髪を撫でる。胸でも肩でも貸してやると、慈愛の笑みで受け入れる。どんなことでも許してやると、俺の全てを肯定する。優しい言葉を掛けられる。でもそれは、でもそれは……っ!
「う、うぁあああああああああああっ!」
そんな目で俺を見るな!哀れんでいるつもりか!?お前は俺と同じじゃない癖にっ!俺と同じ風にお前は俺を必要としていないのに、俺を許すなっ!
その場にお前を突き飛ばし、得物を胸に突き立てる。何度も、何度も振り下ろす!心臓は何処だ!?くそ!また外した!怒りと動揺で狙いが定まらない。嗚呼、それでもその度にお前が吐く息、押し殺すようなその悲鳴、苦痛に喘ぐ表情!最高だ!
なんだ、こういう自分を受け入れると、こんなに楽になれるのか。そうだ、いつだって俺はお前を苦しめることしか出来ない。それでいて、苦しんでいるお前を見て喜んでいる下衆野郎だ。俺のためにお前が悩んだり、傷付いたりする姿を傍で見ているのは気分が良い。お前をそんな風に苦しめられるほど、お前にとって俺は大きな存在なんだって実感できて嬉しいから。だけど、やっぱりお前は俺だけを見てはくれない。俺が全てを捨ててお前に仕えても、お前は俺を見やしねぇ。俺はお前のために親父もマリー様も、失った。一時は西との関係も切った。お前のためならディジットだって俺は見捨てた。それなのにお前はその辺の一般人に恋をしたり、何だかんだでトーラを突き放せず甘い言葉や態度を与えたり。あいつらが俺以上にお前に犠牲を捧げたか!?違うよな。俺ほどお前に尽くした人間は居ない!十一年だ。十一年。それだけあったら俺は、幾らだって人生やり直せたさ。だけどそうしなかった。お前だけを追いかけた。だってのにお前は。
お前は女なんかに惚れてもどうしようもねぇ毒人間の癖に、一丁前に男みたいな顔をしやがって。お前は女なんだよ。綺麗で可愛いだけの、守って貰わなきゃ生きていけないお姫様なんだ。お前が誰かを守る側じゃない。お前は守られるためだけの道具、舞台装置。俺が生きるために、必要な物。
あれから十一年経つのにまだ、お前は女に見える。長い髪を切ってもだ。拷問の傷を治すため、お前の裸を見たって言うのに……俺にはまだ、お前が女に見えている。それ以外に考えられない。認められない。お前は女の癖に、どうして男みたいな態度を取る?その辺の女を拐かす?俺を嫉妬させたいのか?本当は教え込まれたいんだろう?お前は忘れているだけなんだろ?こんなにも弱い。力尽くで俺に勝てない。それで男だって?情けない。そんなわけあるか。俺に勝てないようじゃ、やっぱりお前は女なんだよ。俺がそう言うならそうなんだ。口答えは許さない。
モニカだってそうだ。何が俺の味方だ。俺の邪魔をして、リフルを勝手に回復するなんて許せない。俺の理想を裏切るなら、誰であっても息の根止めてやらねぇと。なぁ、お前もそう思うだろ?思わないんなら次はお前の番だ。
「アスカ……様、もう……やめ、て……止め……て、くださ……い」
悲鳴の合間に、あいつが漏らした言葉。それに俺は手を止める。我に返ればあいつの姿は二年前……長い銀髪、赤いドレスの高級奴隷。首輪の鎖、スリットから伸びる白い足、縛めの足枷がなんとも退廃的。
俺は、二年前の俺は……彼女を傷付けたことなんかあったか?何時だって守ろうとした。例え那由多様ではない別人だったとしても、俺は瑠璃椿を守りたいと思った。代替品への愛だとしても、俺は彼女を守りたかった。俺が望んだ貴婦人は、その身分をどん底の底辺まで堕としていたが、昔と変わらず美しかった。彼女の壊れかけた心に庇護欲が芽生えた。ああ、そうだな。本当にお前が女だったら……俺達はもっと上手くやれていたはずなんだ。俺だって俺を否定したり偽らなくても良かった。俺をこんなにねじ曲げて、狂わせたのはやっぱりお前だ!未だに俺は、出会ったあの日のようにお前から眼をそらせない。魅入られている。何処からどう見てもお前は女なのに、それでもお前は女じゃない。泣きたくもなる。俺は俺かお前を否定しなきゃ生きられないのだ。
(どうして、俺は……)
この子を本当に思っているなら、どうして認めてやれないのか。肯定してやれないのか。
唇を噛み締める俺の目の前で、瑠璃椿が今のあの人の姿に変わる。俺の理想。俺の求めるあの人は……俺の妄想とはかけ離れた人だけど、それでもその内一つだって、欠けて良い物はない。紫の目。銀色の髪。相変わらず女にしか見えないその顔……夜に溶け込むような黒い服、髪を結った黒いリボン。冷めた態度とか、その顔に似合わない下品で低俗な物言い、そのギャップ。全部捨てた気で何も持っていない風を装い、実はプライドが高いとか、無感動に見える強がりの寂しがり屋。戦闘能力は低いが、掲げる理想は夢のよう。それでもこいつならと俺に思わせるその器。種族や仲間のために、命やプライドを投げ捨てる潔さ。
苛立つことも多いけど、そこも引っくるめて俺はお前という人間に魅せられている。多分、本当にこいつが女だったら、俺達は今と同じ状況にはなくて、もっと違う関係になれていたかもしれない。それでも、それは今俺が知っていること、手に入れている物。それが存在しなかったってことになる。今更俺はそれに耐えられるのか?
不意に、この二年間の記憶が俺の中を駆け巡る。その一つ一つが、掛け替えのない物で……忘れられない物。お前を失った間も、忘れたことはない。傍にいられないだけで、気が狂いそうになる程の怒りと焦燥感が俺を灼いた。
もしお前が女だったなら、俺は邪眼に狂っても構わなかった。もっと初期にそれを受け入れた。お前をタロック王女でも、殺人鬼でも奴隷でもなくして……唯の女として傍に置いたに違いない。俺が馬鹿にしていた平凡な人生。穏やかな暮らし。そういう物がそこにはあったのかもしれない。お前だって女だったなら、今とは違うことを言っていたはず。国とか誰かのためじゃなくて、きっともっと別のこと。……ってことはお前が女だったなら今のお前はいない。性格が別物だった。奴隷にならなかったら、やっぱり今の人格は存在しなかった。
俺が慕うお前は、今この時にしかあり得ない。俺を魅了したのは他のお前じゃなくて、今ここにいるお前なんだ。俺は女であるお前が欲しいんじゃなくて、女にしか見えないけど、それでも男として生きているお前に魅せられているんじゃないのか?
唯守られる貴婦人に徹するお前はお前じゃない。弱い癖に、女顔の癖に、男として誰かを守りたいというお前から発する存在矛盾の香り。その香りにすら、俺は魅せられている。俺が求めているのは、もしとか仮定の話の誰かじゃなくて……今目の前にいる人なのに。
(どうして俺は……っ!)
こんなにこの人が好きなのに、それを胸を張って肯定できないんだ。悔しくて堪らない。まだ足りない。もっとぶっ壊れないと!俺は俺を肯定できない!
“もう二度と、泣くことがないように”
マリー様と交わした約束の言葉が甦る。俺の視線の下では泣きじゃくるリフルが見える。ここまで子供みたいに泣かれたのは初めてだ。助けを求めるようなその眼。俺に懇願するようなその眼差し。こいつは今、泣くことしかできない。とても無力で弱い。それでも心身全てを使って、俺の凶行を止めようとしているのだ。いつもの余裕も、見栄もプライドも……そこに見る影もない。情けない姿だけど、罪悪感が胸を刺す。初めて見るくらい可愛らしい泣き顔を喜ぶ俺と、約束を守れなかったことを嘆く俺が俺の中に現れる。そうして重なっていく、夢現……俺の正気と狂気。
「那由多……様」
唯、綺麗だと思った。最初は本当にそれだけだったんだ。死んでいく貴方が尊いと思った。胸が締め付けられて、貴方の死に様が忘れられなかった。だけどあれから時が流れた。俺も貴方も変わってしまった。あの頃求めた視線一つでもう満足できない。
どうすれば欲しい物、全てが手に入る?そう考えたこと自体が間違いだ。
(俺は……)
俺が認めなきゃならなかったのは俺の心。その上でこいつを見つめることだった。俺が俺の気持ちを認められないから、俺はお前のためと言いながら俺の事だけを考えた。俺は俺の全てを認めて、受け入れるべきだった。お前のための幸せをちゃんと願えるようになるために、必要だったのは……俺が俺を肯定すること。俺の狂ってるところも、おかしな所も……隠さずにそれが俺だと肯定しなきゃならなかった。
「ごめん……リフル、俺は」
お前をこんなに傷付けて、散々泣かせて何が欲しかった?本当に俺がお前を好きなら、こんなこと……していいはず、なかったのに。俺が不満を抱える原因は、俺の中にこそあったんじゃないか。それを俺はお前の所為だと押し付けて、お前を苦しめるばかりで。
その涙を拭おうと伸ばした手。触れる瞬間、びくりと震えた。脅えられている。そう思うと一気に絶望が押し寄せて来る。嗚呼、死んじまいてぇ。多分お前以上に情けない顔になっているだろう俺を見て、無理矢理お前が笑ってみせる。ああ、そうか。涙の毒に触れてしまった。死ぬんだ。死ぬんだな、俺。俺が踏みつけた片手の骨は折れているのか、あいつが俺に伸ばしたのはもう一方の腕だった。
(え……?)
涙毒は麻痺毒フェルリーレント。解毒に当たる毒は、唾液毒アインシュラーフェン。理屈ではそれで合っている。それでも俺を誘うように、あいつは俺の頬を撫で笑う。まだその瞳は涙に濡れているのに、強がって。笑んだ後に眼を閉じた。棺桶を前に何も出来なかった俺のために、もう一度チャンスを与えてくれようとするみたいに。
生きて償え。二年前に、言われた言葉。死なせないとまだ……言ってくれるのか?血まみれの手の俺を、トーラをモニカを傷付けた俺なんかをまだっ!
頭の中から余計な言葉、全部が抜けていくようで、唯目の前の人が慕わしくて堪らない。
「だ、駄目っ!早まるな変態っ!」
邪眼の硬直状態から戻って来たロセッタが大声で叫ぶ。その大声に、俺は寸前で固まってしまう。
「変、態……?」
違う違う違う、俺は変態じゃない!
今度は違う俺のプライドが刺激されてしまった。あの女余計なことを!再び怒りに支配されそうになる俺を止めたのは、思いも寄らない一撃だった。
(え?)
痛みの前に感じたのは風。その直後に生じた鋭い痛みに、痛んだ場所を俺は見る。俺の腹から血が滴る。俺を刺した剣。それは下から。リフルが俺の腹をぶっ刺した?そんな馬鹿な……、今俺を助けようとしていたリフルが俺を裏切った!?
違う。俺の身体はすぐにまた反転。蹴り上げられて上になる。リフルには見えていたんだ。俺を襲わんとした一撃の主が。瀕死の身体に鞭打って俺と身体を入れ換えた。それでもその血は毒だから流れた血が俺に触れないように、自分が再び下になったのだ。俺の怪我は、リフルという肉壁をも越えて届いた攻撃による物。そいつが剣を俺達から引き抜く際に、生じる隙。手にした剣で斬りかかる。
さっきまでリフルの血に触れていた剣だ。これ以上の凶器はない。それでも食らった場所からそいつはナイフで抉り出し、毒の無効化を図る。
「モニカっ!」
《アスカニオスっ!》
「リフルを頼む!」
俺の声一つで、俺が正気を取り戻したことを察してくれたモニカ。泣きながら何度も彼女は頷いた。
「馬鹿!あんた解毒は……!?」
「そんな暇はねぇっ!」
ロセッタの言葉になんかに従う暇はない。俺は得物を構え、襲撃者を睨み付ける。その向こうで揺れる影。その暗い影は、死の闇へと俺たちを引きずり込もうと近づいてくる。
俺がしでかしたこと。取り返しが付かないこと。怨まれても仕方ない。それでもリフルを傷付けたお前は許せない。殺してやらなきゃ気が済まねぇ。それは相手も同じだろう。もう何の躊躇いも迷いもない。何の気兼ねもなく殺し合える。
「来やがれロイルっ!」
お前が望んだ真剣勝負。どちらか死ぬまでの殺し合い。本気で殺意を持っての殺し合い。互いに死に損ない同士。これが決着となるだろう。腹から血が噴き出すのも気にしない。俺は通路を蹴って最後の勝負に飛び込んだ。
話のタイトルはラテン語格言から拾っていたけど、自分のうっかりミスとかで同じ格言使ったりしてるのがちらほらある(笑)
なので今度は格言の本から拾ってみることに。今回はネットで探しても見つからない。意味は「私は信じられず嫌悪する」だそうです。劇用語らしいね。
最終章までアスカは自覚無しにしようと思っていたけど、邪眼の進行速度が思っていた以上に早かったので、プロット設定より早めて表面化。
リフルへの思いを自覚することで、独りよがりな思いからいったん離れて、相手の幸せってのをちゃんと考えられるようになったつもりになる。身を引いたつもりでこの後はヒロインと主人公見守る感じに収まる振りして、そっからの絶望をちゃんと書いて行けたらいいな。
人間そんなにそんなに変われないですって。成長なんて基本若者の特権ですよ。こいつはもう精神年齢成長できないタイプの人間。