19:ovem lupo committere.
遠く、遠い場所。アスカはぼんやりと自分そっくりな声を聞く。何も聞こえなく、何も見えない。ここはとても温かく、眠気を誘う心地よさ。我を失って、ようやく見えてくるものがある。浸かった水鏡。そこに映る情景は夢みたいだ。それが何か、俺は見なくても解る。
ああ、良い気分だ。こんなに満たされたことがあっただろうか?形容しがたい充足感に包まれて、勝手に口の端が釣り上がり笑みを作った。眠りの中で夢を見る。最高に、幸せな夢。
それは……罪を償うために、苦しんで苦しんで死ぬ、正しい人間に裁かれることが望みだというあいつが、俺のために死んでくれるのだと言った。俺に殺されてやると口にした。
嗚呼、リフル。これまで守ってきたあいつを、この手であいつを殺せる。それ以上の至福があるだろうか?これまで求めていた物全てが今、目の前にあるかのような錯覚。陶酔感。
あいつが俺を見ている。俺だけを見ている。それだけで肌が震える。心が満たされていく。
これまで自分が願ってきたこと。それを正しく認識できていなかったのだとようやく知れる。両極端な俺の心。別にそのどちらも嘘じゃない。けれど結局の所突き詰めればそれは同じ事。
(俺は……とんでもねぇ欲集りだ)
それを知ってしまった俺はもう、どんな顔をしてあいつと顔を合わせればいいのか解らない。だからこれでお終いになればいい。俺もお前も死んでしまえば、そんなこと、考えることもなくなるんだ。お前に幻滅されるくらいなら、俺は死んだ方がマシなんだ。これ以上何も知られないために、俺は俺とお前を殺さなければ。
*
誰かに必要以上肩入れすることはない。割り切った関係性。俺という人間は何時だって、誰でも見捨てることが出来る。そんな薄情な人間だ。俺にとっての最優先事項は何時だってあの人しかなくて、それ以下なんて虫螻も同然。そんな俺とあの人は別の考えを持つ。だから俺達は解り合えない。だから俺は何時如何なる時であれ、現状に満足できない。守りたいのと殺したいのを両立できるはずがないんだから、当然だ。俺が欲しいのは、あいつの何かとかあいつのどれかとかそういう話ではなくて、あいつの全てなのだから。
その視線、感情、喜怒哀楽……心身共にその全てが俺に向かっていなければ許せない。要するに、恐らく俺はこう考えている。あいつには俺と同じ物になって欲しい。こんな風におかしくなっている俺みたいに、あいつもいかれて俺の方に向かってきて欲しい。
殺しに制約を持っていたあいつが、この俺を殺すのだという。あいつは俺が狂っても、誰かを殺しても、俺を殺そうとしない。そうさせたのは自分なのだと自分を責めて、俺を憎んでくれない。それだけ俺はあいつに大切に思われているということなのだろうとは思う。それでも俺は満足しない。俺の息の根を止めたいと思うくらい俺に執着して欲しいのだ。あいつは俺を許してばかり。俺がお前を捨てたんだ。十年前、セネトレアの路地裏に。その所為でお前はそんな風になってしまったんだろう?抱えた罪は数知れず。性別お構いなしに老若男女を魅了する魔性の邪眼。体液全てが猛毒の毒人間。人殺しの殺人鬼!
アルジーヌお嬢様?絵描きのリア。それからトーラ。お前はどんな女に惚れたって、決して触れ合うことが出来ねぇ。家庭も作れなければ、男としても不良品。ああ、そうだな。いっそお前に劣等感を突き付けるために、何処かの女引っかければ良かったかもな。お前をそういう風にした俺が、俺だけ人間らしい生活を送れば、お前はどんなに俺を怨んでくれただろうか。
俺がお前を置き去りにさえしなければ、お前はここまでの毒を持たなかった。奴隷商夫婦がお前に盛った毒媚薬がお前の魔性と毒性をここまで強めた。つまりだ、リフル。俺がお前を捨てなければ、お前は女を殺さずに触れ合うことも許された。運が良ければ気が狂うくらいにはなっても、子供くらいなら作れたかも知れねぇのにな。狂王とマリー様みたいに。
(そうだ、お前はもっと俺を怨んで良いはずだ。お前がそんな身体になったのは、境遇に陥ったのはっ!全部俺の所為だろう!?)
さぁ、憎め!もっとだもっと!さらけ出せよ。いつもいつもいつも、澄ました顔しやがって。本当はお前だって俺を憎んでいるはずだろう!?俺なんか死ねばいいと思ってやがるんだろ?無感動なお前。お前の心を乱す相手はいつも敵とか悪人だ。お前の望みを守るだけじゃ、お前の平穏しか手に入れられない。
お前は生死の狭間、殺意と殺意の間を渡り歩く刹那が一番良い目をしている。殺意に揺れるその目が綺麗だ。弱い癖に、死に損ないの癖に余裕を失わないその笑みは、腹が立つ程美しい。罪に汚れても、その身を堕としても、消えない気品や風情がある。プライドって言うのか?真純血のハイブリッド。半分は同じなのにな、俺なんかじゃ比べものにならない何かがお前にはある。一つ惜しむなら、その目があいつの物ではないことだ。さっさと殺してあの目を戻してやらねぇと。
(見てください、マリー様!)
リフルが笑ってます。俺が笑わせています。俺がどんなに心を捧げても、こんなにいい顔をしたことはこれまでありませんでした!なぁリフル!お前はずっと死にたがっていたもんな。お前を生かそうとする俺はお前にとって喜ばしい物じゃなかったんだろ?それじゃあ嬉しいよな!?嗚呼、俺も嬉しいよ。こんなに簡単に満たされるなら、さっさとお前と殺し合っておけば良かった。
ナイフで切り付けた傷。これまで俺は治すことしかできなかった。何時も羨ましかったんだ。お前を傷付けることが出来る奴らが。お前を損なう傷。お前の苦しむ顔を見る、声を聞くための傷。俺が知らない顔、知らない声。そう言う物も一つも取りこぼしたくない。狡いよな、ヴァレスタ、オルクス、カルノッフェル。お前と敵対する奴らばかりが、そういう物を知っているんだろ?嗚呼、俺だって見たい。俺だって聞きたい。全てはそのための手段だ。もはや俺はお前の視線だけでは満足できない。
リフルが俺の剣へと飛び込む。その血で俺を殺す気か。狙いは解った。ヴァレスタ戦で一度お前が使った技だ。それでも構わないが、俺は手を震わせ傷を抉った。一瞬痛みに呻く吐息、傷口を真剣でいたぶられる激痛に見開かれた目、浮かんだ涙。思わず見惚れてしまう。そこで俺とあいつは止まった。後数秒で共に終わるはずだった。
しかし、俺がその心臓まで剣を進ませる前、俺へと返り血が降り注ぐ寸前に俺達は風を感じた。二人の合間を縫って飛び込む風と響く銃声。その不協和音。今世界には俺とあいつしかいない。それを邪魔する奴は誰?
邪魔者の方を俺が睨めば、そこには赤毛の女。ロセッタか。奴の上司である神子としてはまだ俺達に死なれては困るのだろうが、そんなことは知ったことか。タロックなんざ狂王なんざ世界なんざどうなろうと俺達には関係ない。王族としての責任だって?笑わせんなよ。それだけの見返りが俺達にあったか?果たすべき責任の前に、特権も自由も何も無かったじゃないか。それなのに負うべき物ばかり押し付けるのは虫が良過ぎねぇか?
「モニカ、回復だ!」
《え!?》
「リフルを治せ。勝負はあの女を殺してからだ」
*
「あんたは何?あんたは誰?自分が人殺しだからって、何の責任も果たさず逃げるつもり!?」
一発目の銃声。その直後に私を罵倒する、力強い声。それで彼女がアスカの意識を引いた。その隙に私を安全圏まで撤退させたのは……長い金髪の男。
「か、カルノッフェル……?」
解らない。リアを殺したこの男が、どうして私を助けるんだ?呆然とするリフルをその場に横たえて、カルノッフェルは微笑んだ。
「姉さん」
「ね、姉さんっ!?」
まさかまだその名で呼ばれるとは思わなかった。傷口が痛むほど、私は素っ頓狂な声を出す。リアを失ったショックで現実を正しく認識できなくなり、私を姉と思うようになったのか?しかし今の彼の目はとても澄んでいて、狂った男のようには見えない。先程までアスカを見ていた私が言うんだ、間違いない。
「そいつの手下が、迷い鳥から負傷者救ってくれたのよ。私もそいつらに運ばれてここまで来たの」
距離を詰めようとするアスカ相手に銃で応戦しながら、彼女が大声で叫ぶ。そうしなければ此方まで聞こえないと思ってか。如何にアスカが強くとも、後天性混血二人相手では役不足。中距離戦闘では飛び道具のある彼女が有利。アスカのナイフや短剣は、先の戦闘で全て消費されている。モニカと言えば、どちらの側に付くべきなのか迷う素振りではあったが、アスカの命令により此方に向かい、私の回復を始める。けれどそうなればアスカは殆ど数術は使えない。剣だけで何処まで戦えるのか。
先程まで殺し合っていたのに、我に返れば彼が心配だ。まさか彼を殺すような真似はしないだろうかとロセッタの顔色を窺う。
「ロセッタ……」
「後は、あの羽根付が知らせてくれたのわ」
「そうか、モニカが……」
風の精霊である彼女は一キロ圏内の音を拾うことが出来る。ロセッタがそこまで近付いていたことを知り、アスカと私の暴走を止めるべく奮闘してくれたのだろう。確かに戦闘に夢中で彼女の動向まで見つめる余裕が私達にはなかった。モニカがアスカを死なせるために動くはずはない。それならロセッタも協力者であるモニカの心を汲んでくれるはず。しかし今のアスカを、どうすれば止められるのか。相打ち心中以外の道を模索するのはとても困難。やはり今からでも……
「しっかり押さえておきなさいよ。離したらそいつ、あの男と一緒に銃に当たりに来るに決まってる!」
私の心を見透かして、ロセッタが釘を刺す。それに応じたカルノッフェルが、私を強く抱き留める。その際、血が彼の服を汚す。一歩間違えば命に関わる。そうまでして何故、この男が私を守ろうとするのか。
ロセッタはもう、アスカとの戦闘に飛び込んで、私達の傍には居ない。二人の戦闘から離れた場所で、私とカルノッフェル、それから気が気でないモニカ。こんなにしっかり押さえ付けられると、何だか気まずい。何なんだこの状況は。それでも以前も、この男にこんな風にされたことがあったことを思い出す。あの頃この男は盲目で、私をリアと間違えた。あの時私はこの男を殺しに行ったのだ。或いは殺されに。それが何故?この男が生きていて、私を、混血を助ける?私から何も切り出せないのを察してか、彼は小さく何かを語り出す。銃撃に消されぬように、耳の近くまで奴は口を近づける。
「……僕を殺しに来た少年が、僕を殺さずに帰った」
「え……?」
ようやく聞こえた言葉はそんなもの。フォースがカルノッフェルを殺さなかった?復讐ではなく救うために殺すと言ったはずの彼が何故?この私に隠し事をするとは、フォースも大きくなった物だ。そう思うと少し穏やかな気持ちになるものだが、驚きは隠せない。
「彼は僕に良き領主になれと言った。今領主を失えば第三島は荒れると知って……生きることが僕への罰だと言ったんだろうね」
「カルノッフェル……」
「そしてフォースは僕に姉さん……貴方を見せてくれた。……この世界には美しい物なんて、希望なんてもう何もないと思った。それでも貴方は僕の罪まで背負って、城へと行った」
「い、いやあれは」
何か勘違いをされているようだ。別に私はこの男を救うために城に向かったのではないのに。変に崇められるのは違うと思う。そう言いかけた私の心を理解したのか、それでもなのだと彼は言う。
「いずれにしても、この眼に見える物、僕が初めて綺麗だと思ったのは姉さん、貴方だ」
姉さん。その言葉は、私がリアではないことを理解しながら……それでも他に敬意と親愛を込める言葉を知らない彼が、必死に振り絞って作った言葉なのだと思い知る。
(フォース、お前は……)
あの子は私にも出来なかったことをした。私は殺して止めることしかできなかったのに、彼は罪人を生きて償わせる道を説いたのだ。フォースをちゃんと褒めてやらなければ。人間なんて嫌な生き物だな。未練を捨てたつもりでも、こうして次々と未練が。望みが生まれてしまう。そんな私を見るのをアスカは辛いのだろう。けれど苦しむお前を見るのは私も辛い。……私だけじゃない。モニカもだ。私の回復を終えた彼女は、アスカの元へと飛んで行き、アスカの回復を始める。
「回復はいいっ!攻撃援護をしろ!」
《あ、アスカニオス……》
アスカを止めたいモニカ。けれどアスカの命令を願いを叶えてやりたいのも彼女の心。止めるための協力者を連れてきたのに、そんな相手と戦う手助けを命じられるなんて。彼女の心はどんなに痛んでいるだろう?それでもどうすればいい?どうすればアスカを止められる?
「……カルノッフェル、しばらく目を瞑ってくれないか」
「え?」
「アスカを止める方法を思い出した。離してくれ」
*
(な、何なのよこの男っ!)
ロセッタは胸中で悪態を吐く。純血の癖に。やっぱ血筋が良いとこんなにもあれなわけ!?
父親が真純血の貴族、母親がシャトランジア王女。神子様が言うには、どちらも数術使いの才能は高かったし、精霊の加護も厚いそうだ。この男は精霊に見限られるような性格や行動ばかりしていたからこの風の精霊しか残らなかったけど、アスカ自身の数術……その潜在能力は高いのだ。これまで剣と悪知恵卑怯スキルでそれなりにやって来られたから、数術を磨く暇がなかった。或いは自分に才能がないと思い込んでいたのかも。
それが正気を失うことで、自らの潜在能力を引き出しつつある。あの剣自身、とんでもない。第二島の触媒で作ったという新しい刃。あれは本当にえげつない。振り下ろされる度に鳴る音は、ゴーグルを付けていることで、数値に見える。私の視覚情報を錯乱させる。かといってゴーグルを外せば数術の動きが読めない。攻撃の型をトレースしようにも、今のこいつは攻撃本能で動いている。先の一手を読むのは困難。
「食らえっ!」
「このっ、クソ野郎っ!」
あの男が剣を振るうだけで幾つもの風が生まれる。それは見えない刃。鎌鼬が私を襲う。その数一二、三……全部で八本。装着したゴーグルで数値解析を行い、その軌道を読んで避けるけど、その内に九本目。あの男が手にした得物が振り下ろされる。
風の精霊の力で、スピードが上がっている。後天性混血の私と互角に渡り合うなんて!
(いや、あれは精霊だけの力じゃない)
あの精霊は女精霊。回復と補助数術がメインだし、あんなに小さな妖精サイズ。精霊としてのクラスもさほど高くない。そのはずなのに、アスカの数術の勢いが増していくのは何故?
(幾らグメーノリアの触媒だからって、ここまでやれるもんなの!?)
触媒だけなら私も持って居る。しかし、数術使いではない私にはあまり意味のない代物。数術弾を使う時だけ役に立つような物だし、あいつはそこにブーストの働きになる精霊まで憑いている。数術勝負じゃ勝ち目がない。
動きを止めるために足の腱でも撃ち抜こうと思っても、数術で返される。接近戦時に感電させようと水の数術弾を用いても、私の方まで水が飛ぶ。これじゃあ私の方まで感電よ。風と相性が最悪な土の精霊……トーラでもいてくれたら良かったんだけど、倒れているあの女の傍に精霊の気配はない。第三公も戦わせるか?いや、万が一そこでリフルを狙われたらことだ。それは出来ない。こいつら止めろだなんて、神子様も人が悪い。こんなのどうしろって言うんですか?殺さずに止めるなんてまず無理なのに。手ぇ抜いたら私が死んでしまう。こんなところで、まだ駄目だ。
(仕方ない!)
失敗すれは私としても痛手だけどこれしかない!私が狙うはアスカではなく、アスカが隠し持ったリフルの目。そこを狙われるとは思わなかったのか、一瞬体勢が崩れる。その隙に今度はアスカ自身を狙う。それを交互に繰り返せば、攻撃の隙は生まれる。
「ったく!大放出の大赤字っ!シャトランジアの国政破綻したらあんたの所為よクソ野郎っ!」
今日だけで使った弾の数……もう考えたくもない。その大半が敵ではなく味方であるはずのこの男相手に消費しているっていうのが許せない。仮にもシャトランジア殿下が何やってんのよ。これ一発撃つのに幾ら掛かると思ってんのと叫びたい。いっそぶちまけてやろうか。あんたがリフルに隠したがってる真実。いや、でもそうなればリフルがますます死に急ぐ。アスカに殺されることを受け入れてしまう。それじゃあ困る。私の銃はどちらもが、数式書き込み出来る物じゃない。一方は実弾に好きな数式を書き込むことが出来るが、もう一丁は唯の銃。万が一の情報流出対策と、それから戦術の複雑化のため。……だけでもない。自由書き込み式の銃は、臨機応変に使えるが、その分脆いのだ。難しい数式を書き込むと数回で壊れてしまう。だから私は空間転移を使えない。そんなもの使ったらこの銃が一発で壊れてしまう。書き込みを終える前に。唯でさえ最近酷使させすぎた。大切な時に使えなくなっては困る。そうならないために予め数式の込められた弾を補充しておかなければならない。
ここに来る前に装備を調えた際、私の銃の片方は唯の実弾、もう一丁の普通の銃には特殊な弾を入れた。それは白紙弾。引き金を引く際に、幾つかの数式から効果を選べる。発射されるまでに十字銃が式を書き込み完成させて、数術効果を引き起こす。触媒価値は恐ろしい程高く、一発一発の値段は考えたくもない。それでも戦術を乱すためには効果的。あの男みたいに色々ごちゃごちゃ考えるタイプにはね。
(麻酔弾っ!)
私は弾を麻酔に変えて、撃ち込んだ。掠った!でも駄目だ。あの男、毒の耐性が高すぎる。一発じゃ倒れない。リロードの度に隙が出来るのは私も同じ。これは長期戦になる。一歩一歩相手を追い詰めていかなければ。溜息を吐く暇もない。それでもはぁと息を吸ったところで、すぐ傍で大量の数値の動きを感じた。
「ロセッタ、ありがとう。下がってくれ」
その声は先程まで半分逝ってたいかれ男。あの馬鹿押さえてろって言ったのに、泣き落としでもされたのか。どうしてどいつもこいつも自分勝手に動くのよ。
「はぁ!?」
下がってろですって?何を言っているのこいつは。馬鹿じゃないのと怒鳴ろうと振り返り、私は目を見開いた。
(り、リフル……?)
何時の間に着替えたのだろう?血まみれの格好じゃない。小綺麗な格好になっている。それどころか髪まで伸びている。頭の高いところでしっかり結われた長い銀色の髪。故郷を思わせるタロック風の戦装束。それでも細身のあいつらしい軽装。もしもこの男がタロックの王子として生きていたら、こんな感じだったのだろうか?
(む、紫の目!?どういうこと!?)
あいつの目はまだ他の所にある。それなのに何故?そう考えて私はこれが視覚数術なのだと理解する。それでもまだ、このまやかしは消えない。理解すれば、視覚数術は破れるはずなのに、リフルはまだその格好のまま私の傍へと歩み寄る。傍で見れば見るほど……本当に綺麗な色。何も恥ずかしいことなんか無い。こんな男が国の長だったら……どんなに見栄えがするだろう。思わずぼーっと見惚れてしまって、私は我に返るため頭を左右に振ろうとした。しかし、私の身体は動かない。二人の決着に手出しできなくなった私にあいつは微笑んで、小さな声で大丈夫だと口にした。
*
勘違いからか僅かに動揺する男を無視し、リフルは本題へと入る。ロセッタが心配だが、あの距離で目を瞑らせるのは命取り。彼女は混血だし私を嫌ってくれている。分の悪い賭けではない。
「……勝算は?」
「少なくとも私は、お前が良き領主になったのか。確信が得られぬ前には死なないさ」
私が笑えば、名残惜しそうに奴が腕を放す。私は小さく礼を言い、戦闘中の二人に近付いていく。トーラが私に残してくれた物。トーラは私の装備や身体に幾つかの数術と書き込んでくれていた。以前、エルフェンバインを討った時にも使った視覚数術だ。アスカを止めるにはあれしかない。彼が今自由に動けるのは私の魅了より狂気が上回っているから。これ以上の魅了が危険だとしても、動きを縛るには彼を私が魅了しなければならない。
今回は時間差数式なんてかけられていないが、トーラの遺産がある。暗殺業を始めた時に、保険として与えられた物。彼女は私が丸腰の時でも何とかするために、両手足の爪裏と歯の何本かには数式を書き込んでくれた。その発動条件は爪を剥がされたり歯を抜かれた時。そういう拷問に遭った場合のことを考えての配慮。生憎これまで私をそう言う拷問に遭わせた輩がいなかったし、ヴァレスタなんかに魅了は効かない。だからこれらの保険は全く意味を成さなかったが、今は違う。小指の爪一枚を引き千切り、私は視覚数術を発動させる。今剥がしたのは魅了引き上げの数式で、他には不可視数術が刻まれた場所もある。今の私はアスカにとって理想の姿に映るはず。目の色だっていつもの紫に彼には見える。その姿で私は彼を凝視する。一歩一歩距離を縮めて。
そうして近付くほどに、銃声は大きくなり、頬を撫でる風も強まる。アスカが触媒を使って力を増した風の数術。そこにモニカのブーストも加われば、ロセッタの攻撃を凌ぐことも可能。弾丸を風の力で撃ち落とし、数術弾をも迎え撃つ。水の数術を使った弾を風で押し返すアスカ。ロセッタにはまだ奥の手がありそうだが、アスカを仕事上死なせるわけにも行かず、やりにくそうで苛立っている。身体能力はロセッタが上。殺し合いなら彼女に分がある。それでも殺さずに捕らえる接近戦ともなれば、精霊持ちで弾を詰め替える必要のないアスカの方が有利だろう。これ以上彼女に戦わせるのは危険だ。
「ロセッタ、ありがとう。下がってくれ」
「はぁ!?」
私の声に此方を振り返るロセッタ。彼女に私はどう見えたのか。解らないが、彼女は口をぽかんと開けたまま、その場に硬直してしまう。それを良いことに私は進む。
「大丈夫だ……私は、まだ」
二年前、救えなかった少女に言われてしまった。責任も果たさずにお前は死ぬのかと。フォースもアスカもそういう風には私を責めない。人殺しにさせてしまった元凶を怨まない。それでも彼女は憎んでくれる。私に責任を取り戻させてくれる。
(私の責任……)
タロックの王子として生まれた以上、父を止めなければならない。姉もそう。やらねばならぬ事がまだまだある。殺人鬼Suitとしての責任。どんな屈辱も辱めも、苦痛も……全てが罰だと受け入れる。
そして、リフルという人間として私が果たすべき責任。それがアスカ。お前なんだ。お前を殺して私も死ぬこと。それでお終いなのだと考えた。でも彼女は言う。私が果たしたつもりの責任は、殺人鬼としての物だけで、王子としてはまだ何もしていないのだと。それを果たすまで、私はリフルという人間には戻れない。死ぬことが殺人鬼の責任ならば、生きることが王族の務めだと。
「アスカ……」
私が王子なら、お前は何だ?お前は私の騎士だろう。それが何だ。この私を殺すだと?全くとんだ狂犬だ。躾け直してやらなければ。そう考えるのが王族としての私の務めなのだろうな。それでも……
「二年前に、お前に私が言った言葉を覚えているか?」
投げ捨てるは手袋。私は背筋を伸ばし、片腕を彼へ差し出す。上に向けるは掌ではなく、手の甲で……私は彼に跪けと説いている。それで彼が跪くことはないだろう。それでも彼は跪く。狂気を魅了が上待ったなら、必ずや。私の手に触れたくなる。魅了されているお前なら、欲が生まれるはず。この手に触れたい。跪きさえすれば、この手に口付けても良いんだ。それ以外のことを考えられなくなるくらいに強く、たっぷり……私はじっと彼を見つめてやる。
ここからは精神力の勝負だ。私の魅了とお前の狂気。今どちらが勝っているか。お前が欲しかったのはこの目だろう。幾らでも見つめてやる。私は見ている。今、お前だけを見ているぞ。煮るなり焼くなりお前の自由。お前が動けないなら、私の方から行ってやる。すぐ傍まで近付いて、片手をお前が触れられる距離まで近づける。
そうすれば後は反射的な行動だった。しかし我に返らせるには十分だった。膝を折って私の手を取り口付ける。そこまでやって自分が忠誠を誓わせられていることに気が付いた。それは今のこの男にとって屈辱なのだ。不本意なのだ。それでも私を引き摺り倒したりも出来ない。魅了された男は、今触れているこの手を離せない。手を掴まれたまま私も彼と同じ高さに腰を下ろし、彼を見つめる。
狂気に染まったお前の目。綺麗な深い緑色。その目にはお前の身分の尊さを感じさせる。私なんかに関わらなければ、お前はシャトランジアで貴族として幸せに暮らせたはずなのに。
後悔を語るなら、それは最初から。お前は私に出会いさえしなければここまで気を病むことも、苦しむこともなかった。それでもそれがなければ良かったと否定はしない。この二年……今の私を形作った、その始まりはお前だアスカ。お前に出会わずフォースやラハイア、ディジット達に出会ったところで……私は昔のままだった。彼らに感化される私に私をしてくれたのは、お前だったじゃないか。
「飛鳥様……」
懐かしい呼び方。そう呼ぶだけで、心が景色が出会ったあの日に戻っていくようだ。私の目にも見えてくる。二年前のように長い髪、赤いドレスの瑠璃椿。それがお前の目に映っている。掴まれた手を裏返し、お前の手を上へと向けて、私が今度は跪く。
「共に主だなんて、面倒だ。だから今日より友になろうと言ったのは私でしたね?」
「う……あ、あ」
「ですが飛鳥様。半分は、貴方は私の主だったんですよ?瑠璃椿は貴方の奴隷です」
思えば私から、アスカに触れた事なんて……そんなにはなかったな。私からお前にくっつく時は、何か心配事がある時だ。副作用でお前が人を殺さないように、嫉妬させないようにお前の心を満たそうとしたくらい。何時も私は、お前の好意に甘えていて。毒を理由に逃げていた。お前を死なせたくなくて、お前を狂わせたくなくて、お前との間に壁を作っていたのかも知れない。それでもお前は何時も優しくて、大きな男で……とても温かかった。だから気付かなかった。お前の手がこんなに冷たくて、お前が凍えていたことを。
その手を温めるように優しくさすり、今度は私が忠誠のためその手に口付ける。私の手より大きな手。男らしい手。それが少し羨ましくて、それからとても愛おしい。この手が何時も、私を守ってくれたんだ。だから、いいんだと思った。この手になら、お前に殺されても私は構わないんだと。
「それが貴方の望みなら、それは私の望み。貴方が死ねと命じてくだされば、私はここで死にましょう。さぁ、アスカ様。私に何をお望みですか?」
彼の首に腕を回して絡め取るよう抱き付いて、じっとこの眼で彼を見る。彼の狂気を静める方法はこれしかない。完全に彼を魅了する。その上で私が彼に尽くす。他の仲間を気が狂うまで魅了しなければ何とかなる。
(アスカ……)
お前が私をどうにかしたいのなら、これまで何時だって好きに出来たはずだ。邪眼に流されることも、私を殺すことだって。それでもお前がそうしなかったのは何故だ?その答えがお前の中にあるんだろう?お前が守っていたのは私じゃない。今消えかかっている、お前が殺そうとしているお前自身だろう?そうまでしてお前が守りたかったのは何だ?じっとその目を見つめる。私の目を見るお前から、お前の姿が見えるだろう。お前はそこに何を見る?彼の答えを探るよう、私は彼を覗き込む。
深く深く彼を見つめて、逡巡……彼の目に光が戻る。正気の光?いや違う。それは瞬間的に煌めいた殺意の炎。気付いたときにはもう遅い。彼は私をその場に押し倒し、再び手にした得物を振りかざす。幸福値の差か、彼の手が震えているからか狙いは定まらない。それでも心臓近辺を何度も刺される。
「……ぐぁっ!」
口から吐き出しそうになる血を、彼にかけないように顔を横に背ける。その間も彼の攻撃は続く。私の眼を見たロセッタはまだ動けないまま。唯ならぬ気配に目を開けてしまったのか、此方に駆けつけようとしたカルノッフェルを同じく睨み、この眼で止める。それでもアスカは止まらない。魅了が足りない。彼の望む姿を見せているはずなのに、彼は私に危害を加える。屋敷では無かった現象。魅了に掛かった者は私に手を出しても私を殺せない。愛すればこそ、傷付けることを躊躇う。魅了をかけて、それでも私に危害を加えた相手となれば……ハルシオン。彼との戦闘のことを思い出す。邪眼は加虐趣味者には逆効果。アスカもそれ系の人間だったのだ。
(それとも……)
邪眼が呷るのは欲。人間が持つ最も強い欲望。或いは隠している暗い欲望。多くの者にとってそれが性欲だったために私の魅了はそういう現象ばかりを引き起こしたが、それ以上に加虐心が強い者が相手では、引き起こすのは暴力だ。片割れ殺しという稀少な外見も相まって、それは勿体ないと思わせる。だからやっぱりそういう者が相手でも、深く見つめる内にエロスに引き摺られる者が増える。だけど長らくアスカが耐えたのは、何か別の理由があったのか?私を攻撃する彼は、楽しそうには見えない。笑っているが泣いている。とても辛そうだ。今私が煽った欲は、私に触れたいという欲ではなかったのかもしれない。彼が跪いたのだからそう言う心は確かにあるのだろうが、それ以上の何かを彼は隠している。だから彼はこんなに、可哀想なくらい脅えている。
(あれ……?)
そう言えば何故、私は死にかけながらこんなに冷静に物事を分析できているのか。出血で頭が回らなくなりそうなものなのに。その理由を求めて視線を彷徨わせれば、私の胸部近くで瞬く光。
「モニ、カ……!?」
蛍のように点滅した風の精霊が、私の回復をしている。アスカが私を傷付ける傷をそのすぐ後に直し始める。彼女は疲れ切っていて、あとどの程度力が残っているかも解らない。精霊は元素の固まり。それが転じて意思を持ったもの。それじゃあ彼女が数術を紡ぐと言うことは、その元素を減らしていくと言うこと。元素の力を回復しない内に、それを使い切ればどうなるか?恐ろしい結末を私は予想してしまう。
「っう……!」
その場を逃れようと、モニカから離れようとするが無理だ。ちょっと身動ぐだけでも血が溢れる。とてもじゃないが、動けない。辛うじて動かせるのは手だけだが、それさえ緩慢な動き。激しく動かせば胸の傷に響く。ゆっくりと手を持ち上げ、モニカの小さな身体を掌に隠そうとするが、その手はアスカに踏みつけられた。そうしてモニカを掴み上げたアスカは、鬼の形相で彼女を睨む。
「邪魔するなっ!どうして俺の邪魔をするっ!そいつ殺さねぇと俺が幸せになれねぇだろ!?」
《お願い、アスカニオス!こんなの、貴方の本当にやりたかったことなの!?貴方の十一年間は、こんなことのためにあったの!?》
モニカの涙もアスカの心にはもはや響かないのか。煩わしそうに彼は彼女を見た。そうして掌の彼女を握りつぶすようにしながら歩き出す。その方向は、トーラの遺体が落ちている方。はっと嫌な予感が過ぎって、私は声を振り絞る。
「や、やめろ……あすかっ!」
「……死者は土塊。トーラはダイヤ。その元素は土で出来ている」
叫ぶのが精一杯だった。直後に私はまた吐血。咳き込む内にアスカはそこまで辿り着く。
《ぎゃあああああああああああああああああああっっっ!》
「血の風呂の具合はどうだ?お前みたいな精霊には、血と死の穢れは堪らないだろう?あははははっ!」
(止めろ、止めてくれ!)
私の涙も見えないのか。二年前に私の涙を拭ってくれた手はもうないのか?その手で彼はトーラの亡骸を引き裂いた。私を守ってくれたダールシュルティング。それがトーラを二度も、切り捨てた。その血肉を手にした精霊に漬けて、アスカはけたけた笑っている。トーラは土の元素に愛された人間。その亡骸にも土の元素は多く残っている。それはモニカにとっての弱点だ。これまで自分を助けてくれた精霊を、アスカは自分の手で殺そうとしているのだ。唯でさえ、数術の酷使で弱っていた精霊にその仕打ちは……本当に取り返しが付かない!
(トーラ!モニカっ!)
死者に鞭打つ行為は許されない。それなのにお前は、仲間の死さえ穢すのか!?その死でモニカを殺すのか!?怒りと憎しみを一身に受けたトーラの亡骸は、どんどん解体されていく。愛らしい彼女の姿など見る影もない。もう止めてくれと彼に縋り付きたい。どうすればいい?何を言えば、何をすれば彼の心に届くんだ?
「頭蓋骨風呂、眼窩風呂、胃液風呂、心臓風呂、次は何処が良い?なぁ、リフル!お前は何処が良いと思……」
爽やかな笑みでアスカが私を振り返る。そこで吐血と嗚咽を繰り返す私に気付き、彼は両目を見開いた。
「アスカ……様、もう……やめ、て」
「お前……」
死にかけの、無力な私は泣くことしか出来なかった。そんな私を見て彼は、その場に固まった。手にしたモニカも手から落ち、唖然とした表情の彼だけが残される。ぐしゃぐしゃに泣き濡れた私の顔を見て、彼はとても驚いていた。彼は戸惑うような素振りで私の傍へ……もう一度跪く。