15:Ut sementem feceris, ita metes.
カラカラカラカラ。リフルの耳に聞こえるそれは、聞き覚えのない音。それでも何処か、懐かしいその響き。見れば赤く黒ずんだ血だまりのような繭の中、私は倒れている。
『ご覧、綺麗に仕上がった』
誰かが笑っている。その声は女の物。それを咎めるような声は、聞き覚えがある男の物。
『馬鹿なことを。これは蚕ではなく蝶だろう。お前は蛹から糸を紡ぐつもりか?』
『同じ事でしょう。綺麗な仕上がりの蝶。そのドロドロとなった蛹を押し潰すことで、より鮮やかな糸になる。何て綺麗な赤、綺麗な黒……』
繭じゃない。繭のように見えたのは、血に染まった私の長い髪。それでも糸が足りぬのだと、紡ぎ車がカラカラ回る。そうして私の血管や、腸まで糸にしようと持っていく。
『この子は蝶。幼き頃より毒を食らって鳥から身を守る。けれど綺麗な蝶だから、すぐに捕らわれてしまう。ご覧なさい、もがき苦しむこの虫を。悲鳴と痛みの数だけ、綺麗な糸を紡げますから』
『いや、これを見ろ』
『まぁ!無意味の糸の中から……一本だけ白銀の糸が!紡ぎ始める以前より、見事な色合い!美しさ!』
『その糸の名を知っているか?』
『……さぁ、何でしたでしょうか?久しくこんな糸は見ていませんから』
『ならば暫し手を止めろ。直に思い出すだろう』
カラカラと、回り続けた音が止まった。安堵すべきか悲しむべきか。よく分からないまま私は目を閉じる。深く深くに沈んでいった。
*
何食わぬ顔。そういうのはとても得意。
ずっとお嬢様を騙して生きてきた。そんな私にとってそれは朝飯前。アスカに仕事を見られてからも、表面上私達はなんら変わりなく接して来た。アスカもそういうの、得意なんだろう。いや……違うのか。アスカは。認めたくないことを、解ったつもりで……認められない。認めないから、何も変わらないだけ?私の汚い側面を見ても、彼はこれまでと同じように私に接する。私をまだ綺麗な者を見るような目で。彼は……こうして隣にいても、現実を、私を見ては居ないのだ。二年前の彼とはもう違う。それが私の目が招いた災いなのだ。
「アスカ?」
影の遊技者二階、誰もいない酒場にいるその男は……珍しくも浮かない顔。いや、むしろ頭を抱えて飲んだくれている。昼間だというのにこの様子では、店を再開させたディジットにも迷惑が掛かる。
「何か悩み事か?」
リフルは連れの隣に腰掛けて、彼の顔を窺い見る。
「あんたまだそこにいたの?掃除の邪魔よ」
一階の定食屋は開店前。朝食の後片付けも終わり、酒場の掃除に訪れたディジットに箒で隅に追いやられるも、アスカは表情筋をぴくりとも動かさない。
これはいよいよおかしい。一体何があったのだろう。
「ほっときなさいよリフル。アスカったら昨日からああなのよ」
「ああ、とは?」
昨日は何があっただろう。晩酌には自分も付き合った記憶がある。酔った勢いでからかいすぎただろうか?
「昨日と言えば仕事上がりの景気付けに男女混合野球拳全裸王西裏町決定戦をやったことくらいしか記憶にないが。しかも女性陣が無駄に強すぎてだな」
「あんたらどうして私が一階の片付けやってる間にばっかそういう面白そうなことするの?酷いっ!」
言い出しっぺは誰だっただろう。私とアスカの微妙な空気を感じ取ったトーラが場を濁すために言い放ったのだったか。リアルラックの低い私は当然負け続け、酔ってノリノリで脱ごうとしたところ、アスカに止められて。「俺の主を脱がせたかったらまずは俺から倒していけ」と、アスカがラスト一枚になったところでディジットが戻ったのだった。
「でも私はてっきりアスカにあんたの露出狂の気が移ったのかと思ってたわ」
客が減るから止めろと女の細腕でアスカを店外に放り出したディジットは、格好良かった。彼女になら抱かれても良い。って私は何を言っているんだろうな。まだ酔いが残っているのか。昼間は眠い。ふあぁと欠伸を噛み殺す。
「アスカ、そのことなら気にするな。私はお前が露出狂であったとしても幻滅はしない。むしろ親近感が湧く。それでこそ私の騎士だ」
裸族主従大いに結構。お前の気持ちはよく分かると理解を示すも彼は苦い顔で首を否定の方向に振る。
「……そうじゃ、ねぇ」
「ならば何をそんなに落ち込んでいる?ロイルの方が筋肉ががっしりしていてタイプだなとか私が溢したことが問題か?私程度を片肩に乗せられなかったことがそんなにショックだったか?い、いやお前もそれなりには筋肉があると思うぞ。私の好みではないが」
「……っ、そうでもねぇっ!」
「では何だ?トーラに下着の上から下のお前の目測スキャンデータを完璧に読まれてしまったことか?相手もいないのに勝負下着だったことが露見したことか?」
「それもショックだがそうでもねぇっ!」
「私としてはそうだな。長さ形は申し分ないがもう少し太さがあった方が……肝心の膨張率の方と硬度ばかりは実戦無しに情報が取れないらしくてな。微妙に気になるからお前そろそろその辺の色町で童貞捨ててきたらどうだ?なんなら奢るぞ?いや気にするな。どうせ私には使えぬ方面の金だ。それが回り回って裏町の経済を動かすのなら安い物だ。今夜辺りアラサー熟女人妻専門店にでも繰り出すか?私は外で待っているがな。それともあれか?最近彼方の通りに出来たという新妻カフェとやらのが好みか?」
「……はぁ」
私の言葉に、アスカは半分死んだような顔。死んで二日目辺りの虫の集った金魚のような目で私を見ている。
「アスカ?」
いつもならここで「俺は婚前交渉はしない派だ!」と怒鳴られるのだが、今日の彼は大人しい。それが不気味で不安になる。
「本当に大丈夫か?何か変な物でも食べたか?」
「俺は拾い食いする犬かよ」
なんでおかしなことを言う側に頭の心配をされなければならないのだと、ようやく彼のツッコミが入る。しかしそれはとても弱々しい印象で、いつもの覇気がない。私がじっと彼を見つめれば、彼は気まずそうに目を逸らし、一通の手紙を差し出した。
「なんだ、これは……」
繊細かつ小綺麗な字で記されたアスカの名前。差出人の宛名はない。しかしその白い文を閉じるのは、赤い封蝋……そこに刻まれているのはハート型の紋章。一目で恋文と見て取れるが逆に何か怪しい印象のそれ。
「果たし状か?ロイルにしては綺麗な字だな、人は見かけによらないとはこのことか」
しかし生きていたか。無事が確認できて何よりと、息を吐く私にアスカのチョップが入る。ツッコミのキレが僅かに戻って来たようだ。そんな何時も通りに私は何より安堵する。
「んなわけあるか!ラブレターだラブレター!」
「意外性がないな。で、ロイルからか」
「がはっ!新、ジャンル……そう、来たか……先生に、なびかないと……思ったら」
「違うっ!俺のだ俺のっ!」
「ぶはっ!がほっ、げふっ!あんたが、リフルにっ!?」
「ディジット!?」
何故か私達の背後でディジットが床に倒れる。助け起こすと口から血を流していた。何の病気かと思えば、その血は鼻から流れたものが逆流し口から零れているようだ。要するに、唯の鼻血である。
(妙だ……)
いつものアスカなら、私より先にディジットに駆け寄っていたはず。ワンテンポ遅れたどころか、背中を向けたまま。「どうせいつもの不治の病だろ」と呆れてさえいる。
「ぐ、グッジョブアスカ……あんたは、いつか……やる男だと、思って、たわ。二人とも…ッ、しあわせに、……ね。式には、……げほっ、わたしも、呼ん……」
「しっかりしろ、ディジット!私はどちらかというと結婚するならラハイア辺りが好みなんだがどうすればいいっ!!」
「つかお前もしっかりしろリフル!何とんでもないことを言ってんだ!……はぁ、あのなディジット。お前は誤解してる。白状するが、俺からリフルにじゃねぇって。俺が貰ったんだよ……」
「私はそんなモノは書いていないが。洛叉辺りのなりきり嫌がらせではないのか?お前を嘲笑うための。字が綺麗だし」
ここだけの話、私は意外と字が汚いぞ?ミミズの方がまだ上手に形を作るとさえ思う。
「薄気味悪いこと言わないでくれよ。これはそうじゃなくてだな……」
「そ、それ美味しいっ!」
突然飛び上がるディジットだが、すぐに貧血で倒れ込む。自分より重……いや、身長の高い女性を支えるというのは成長の止まった私には難しいこと。二人揃って堅い床へと倒れ込む。痛覚は戻って来ているはずなのに、予想したより痛くない。見ればアスカが私をディジットごと庇ってクッションになってくれていた。これも邪眼の成せる技かと思うと、とても申し訳なく思う。思い人であるディジットを助けることが遅れる程の悩みを抱えているのに、条件反射で私には従ってしまうのだから、彼は。
「お前ら落ち着け」
「そう言われても。大穴で実はアルムか?よ、この色男!ロリコンペド野郎!」
「そうよそうよ。まさかのフォース辺りから?よ、この優男!ショタコンホモ野郎!」
「何でそうなる。これは外の奴に貰ったんだよ。ていうかお前らまったく褒めてなくねぇか?あとディジットのそれは唯の願望だよな?最近ジャンル広げまくりだろ……ったく」
俺が書いた、ではなく俺が貰った。そう言いたかったのにディジットの早とちりでああ言う解釈になったのか。なるほどと手を打って私はその場を立ち上がる。座り込んだディジットに、自身の手に手袋があるのを見てから跪いて助け起こせば、その動作をまじまじと観察するアスカの視線を感じた。それに素知らぬふりで、私は彼との間に席を一つ空けてカウンターへ。そして何食わぬ顔で会話に戻る。
「つまり、昨日外に追い出された時に貰ったのか」
「ああ」
直接渡されたからか。余程の恥ずかしがり屋だからか。万が一落とした場合問題になるような身分の娘か。名がないのは理由があるようだ。
「可愛い子か?」
「……まぁな」
「良かったじゃないか。お前の好きな人妻系の料理上手な年下姉御肌の巨乳少女か?」
ディジットの反応からして彼女からと言うことはあり得ないだろうが、ここで嫉妬でもされれば脈がある。アスカのフラグ立てのために協力をしてやろうと思ったが、この男そういう配慮をスルーする。これだから何年経ってもディジットとは関係が進まないのだ。このへたれ!
「どんなタイプだそれは。全然違うから。どっちかっつーとお前に似てるよ」
「私に、か?」
「ああ」
「暗殺兵器な毒殺女装無乳少女か。人を選ぶからお前には向かないんじゃないのか?」
「んなもんお前以外に居て堪るか!前に仕事引き受けた、良いところのお嬢様だよ!世間知らずの箱入りの!お淑やか系っつーか……」
話を茶化したのを怒られた。先に妙な言い方をしたのは其方だろうに。あんな言い方されたら、茶化しでもしなければ気恥ずかしくて困ってしまう。唯でさえこの男は台詞の端々が臭いのだ。
(一体私を何だと思って居るんだこの男は)
世間知らずの箱入り?お淑やか?だと……?我が身を省みても全く重なるところが無いのだが。外見だけだとそう見えるのだろうか。なるほど、邪眼恐るべし。私がどういう人間かを知って、まだそんな夢物語を語るか。私を罵るヴァレスタの方が余程私を正しく認識しているように思えるな。
「そうか……しかしアスカにラブレターか」
そうして口にしてみると、何と不思議な響きだろう。気恥ずかしさを忘れるように、まじまじと彼の顔を見てしまう。
彼は稀少なカーネフェル人の男だし、身分も貴族だ。その辺を明かせば幾らでも女は寄ってくるだろう。しかしそこを隠せば彼は、稀少さを吹き飛ばすような雰囲気がある。彼はそれを意図してしているのだとは私にも解る。面倒事は御免だと、言う割りに面倒事に巻き込まれる、その不運さが彼を二枚目半に見せているのだ。こうして黙ってみていれば、それなりにいい男なのだ。それは私も認めよう。
「前に仕事の伝手で、護衛の仕事引き受けたことがあったんだよ。それで何を血迷ったのか、俺の居場所突き止めてこんな所まで……」
東でか?とは聞けなかった。良いところのお嬢様。そんな者が西裏町を頼るとは思えない。聞かなくても解る。東の人間がお前恋しさに西まで来たとは。東では余程真面目な色男でも演じたか。いや、この通りに振る舞っても格好さえちゃんとしていればそれなりに見えたのか。しかしだ。言い逃れが出来ない、下着姿の男を見て、だ。深窓の令嬢なら卒倒しそうなものだが、一人で屋敷を抜け出し危ない表通りを横断し西までやって来る。そこで。そんなアスカを見て、それでも文を置いていくくらいだ。それはもうぞっこん。本気の本気で惚れられているに違いない。外見だけで惚れたわけではないはずだ。セネトレアと言えど、貴族が皆悪人と決めつけるのは早計だ。アルジーヌお嬢様の例もある。完璧な人間など早々居ないが、全てが最悪だという人間だってそうは居ない。お嬢様は我が儘ではあったが、それでもそれに勝るものを持っていた。人のために私なんかのために使われる我が儘は、愛しいとさえ思った。
「その子は余程見る目があったんだな、私も自分のことのように嬉しい」
思わずほっとする。胸のつかえが取れるような……そんな思い。祝福の言葉で微笑んだ私に、彼は眉根を寄せた。そんな言葉を聞きたくなかったとその顔が言っている。邪眼の禁断症状を恐れて、彼の暴走を恐れて……しばらくべったりしていたが、彼に本気の思い人が出来たなら、その症状も和らぐだろう。私に気にせず幸せになれ。あわよくばこの世界から足を洗え。人を殺した分だけ子供でも育てて、立派な人間にさせればいい。お前とその子がよく生き、多くを救ってくれるならそれは十分償いになるだろう。それで足りない分があるなら、全部私が持っていく。私が死んで償えば良い。悪名高いSuitのは伊達ではないぞ。そんな思いで微笑むも、やはり彼は悲しそう。今にも雨が降り出しそうな曇り空。他者に好意を寄せられて何が悲しいというのか。お前は毒人間などではないのだから、なんだって出来る。私に付き合って人生を棒に振るのは……
「リフル……」
ぐっと伸ばされた腕に、手を掴まれる。椅子一個分の間隔など物ともしない。私よりも長い腕と大きな体。二年前より、もっと……遠くなった。置いて行かれた。
「俺は……俺は、お前の騎士だ」
「それはそうだが……それとこれとは」
強く見据えられた目。僅かに震える。眼差しだけじゃない。掴まれた腕が、腕が震える。その震えが自分自身の物だと気付いたアスカは、罰が悪そうに手を放しその場を去る。
「アスカ……?」
戸惑う私の傍でディジットが苦笑い。
「あいつ馬鹿だから、あんたに嫉妬して欲しかったのよ」
「ディジットにでは無くて?」
「ないない、それは無い」
「そこまで脈無しだとアスカが哀れだな」
今度は彼女は軽く溜息。何故か小さな子供を見るように私の頭を軽く撫でた。まるで何かを哀れむように。転んだ子供を労るように。
「独占されたいってのも、まぁ……言うなれば消極的な支配欲よね」
「それは……?」
「あんたの心が欲しいのよ、あいつもトーラと同じでね」
以前酒盛りのため変身数術で暴走したトーラを思い出し、そう言えばそんなこともあったと思い直す。
「私の心……」
「あいつ、あんたが居ないと駄目なのよ。あんたは知らないでしょ?あんたが居ない間のあいつがどんな様子だったか」
ディジットが投げて寄越すのは、アスカが忘れていった手紙だ。読むのは気が引けたが、待ち合わせの場所が書いてある。ディジットはわたしの背中を押すように優しく微笑んだ。それは何時も通りのことだけど、何かが違って見えたんだ。
「行ってらっしゃい……」
「ディジット……?」
何故だろう。今アスカを追いかければ、二度と彼女と会えないような……そんな予感に立ち止まる。
「リフル、貴方の願いは何?」
「私の願い……?」
ぎゅっと抱き締められた、その身体がとても冷たい。
「私もアスカは嫌いじゃないわ、腐れ縁とは言え……家族みたいなものだから」
「ディジット……」
「勿論リフル、貴方もね」
みんなの母親のように振る舞う彼女。その辛さを思い、涙が込み上げる。彼女は私と同い年の、……普通の女の子だった。無茶をしている。無理をしている。そんな子が、いい年をした連中にまで母親代わりを任されている。それって、一番都合のいい女扱い。それはどんなに彼女を傷付けていたことだろう。
「あのね、私は全然可哀想なんかじゃないのよ」
だから哀れまないでと彼女が笑う。
「でも……!」
「未練があるとしたら……そうね。私の料理を食べてくれた人が、未練のある生き方、終わり方をしてしまうことかしら?」
「私ね、料理以外に自慢できるような所なんて無いし、嫌な女だったと思う。だけど誰かの不幸を願って料理を作ったことはない。これだけは誓えるわ」
毎日誰かの幸せを願っていたなんて平然と言えるほど、綺麗な女ではないと彼女は言う。それでもと、料理に込めた祈りだけは本物なのだと頷いた。せめて厨房に立つときだけは、綺麗な気持ちで居たいと言った。
「だって悔しいじゃない。私にはそれしかない!それしか出来ない!……だから、私の料理食べたからには美味しいって思って貰いたい。思ってくれたならその人に、良い気分になって欲しい!その時だけでも…ううん!それから先ずっと!辛いことがあったときに思い出して欲しい!」
その言葉にリフルは確信する。これは夢。それでも真実であると。
ここは夢と現の狭間。確かにアスカが恋文を貰った記憶はある。けれどあの日ディジットはこんな事は言わなかったし泣いていなかった。こんなに冷たくなってはいなかった。
「ディジット……」
その祈りは今ここに居ないエルムに……或いはヴァレスタにすら向けられた言葉。怨まない、怨まない……殺されたって幸せを願えるほど、愛していたのだ。そうだ、思い出した。私は死の棺桶に入った。ここは死の淵。今正に死に飲み込まれそうな私を、彼女は必死に説得している。
「私は可哀想じゃない。だけどあいつは……アスカは、貴方が居ないと可哀想よ」
「……哀れみで、人が救われるとは思わない」
「そうね。だから……笑ってあげて」
ふわとディジットが笑う。釣られて私も笑う。二人とも泣いていたけれど、無理して笑い合った。救いたくて、救われたくて。
「あいつ馬鹿だから。きっとそれだけで死ぬほど幸せよ。幸せになれるわ」
腕を放す前に、ディジットに額に口付けられる。あんなに冷たかった身体なのに、唇はまだ僅かに温かい。その熱を捧げるようなキスが私の体温を僅かに上げる。触れても毒で死なない自分に彼女は苦笑し、箒を手に取り掃除の邪魔よと微笑んだ。
きっともう帰らない。帰っても彼女に会えない。影の遊技者……閉まった扉。向こうで彼女が倒れた音がする。もう駆け寄って支えることも出来ないことを感じ取る。手紙はまだ手の中にある。
何故か、最初に食べたディジットの料理の味を思い出す。涙を拭いながら闇を走った。それでも胸の中に甦る温かさはまだ、確かにここにあった。
*
「覚悟!レスタ兄!」
「甘いっ!」
脇が甘いぞと、渾身の一撃は払われる。いや……
「……ふん、少しはやるようになったなロイル」
力負けし弾かれた剣を拾って、あの人が俺を褒めた。俺はそれが嬉しくて、認められたことが嬉しくて……ずっとこの人の言う通りにしていれば、何も間違いないのだと……信じていた。
暗い場所から救い出してくれた光。無意味で、誰からも必要とされずに生きていた。そんな俺に生きる意味を与えてくれた人。感謝は剣を振るう喜びになる。こうして時々褒めて貰えるだけで俺はどこまでも舞い上がれる。
だけど俺は気付いていなかった。暗い場所から連れ出してくれた人が光ではないことを。俺を暗がりから救い出した人の中にも暗がりがあった。俺は俺の悲しみを奪ってくれた人の悲しみに気付けなかった。俺から掬い上げた暗闇を食らったその人は、以前よりも尚暗い所へ落とされて。
許せなかったんだと思う。レスタ兄と俺の方が先に出会った。兄貴は俺を所有物……とまではいかないけれど、自分の味方だと思っていたんだ。もしかしたら俺は、兄貴が初めて信頼というものを抱くことが出来た人間だったんだ。馬鹿で愚かな俺は絶対に兄貴を裏切らない。それがあの人を、多少なりとは救っていたんだ。けれど俺はあの人を裏切り側を離れた。掌を返すような行動は、癒し多分以上の傷をあの人にもたらした。
(なら、どうすれば良かったんだ?)
暗い、暗い海に浸かって俺は考える。ゆらゆらとその海を漂い見ていたのは遙かな夢。
あの人の側を離れたことで、俺もまた傷ついた。誰かのために剣を振るう喜び、生き甲斐を失った。剣を振るうことの理由を失った俺は、闘争本能が向かう方にゆらり流れて刹那を生きる。ストレス解消。最初に剣を手に取った頃と同じ。それが対物から対人に変わった。いつもむしゃくしゃしていて、それを押し殺そうとして何も感じられなくなって。心の安寧のためには何かを壊さなければ生きられない。そうまでしてリィナについて行った意味はあったのかと、時折考えることもあった。
「ロイル!私と一緒に逃げて!」
「リィナ……」
掴まれた手首の熱さを覚えている。女は狡い。簡単に、すぐに泣く。非力な癖に、何故か強気で。本気でやり合えばすぐに壊せる、殺せてしまう。振り払うのは簡単だ。それでも何度も彼女は俺の手を掴むんだ。
「このままここにいたら、私は兄さんに殺される!貴方もよ!」
「レスタ兄は俺を殺したりなんかしない」
リィナの心配は解る。後宮の女達が俺の暗殺を企んでいるのは知っている。だから俺を城から連れ去りたいんだ。それでも兄貴の傍にいれば皆が恐れて俺に手出しをしなくなる。あの人の傍にいる限り、そんな日は来ない。だから逃げる意味なんて何処にもない。無いはずだ……無いはずなのに、リィナは諦めない。
「するわ!何時か必ず!あの人は地位か金のために貴方を売るわ!あの人は貴方を唯の駒としか思っていない!人間として、家族として愛してなんかいないのよ!」
血の繋がっているリィナを正しく愛せない男が、どうして血の繋がりもないロイルを愛せるだろうか?そんなことは出来ないとリィナは言った。
「私が貴方と出会った日も!兄さんが私をあそこに閉じ込めた!貴方と出会ってから、手を挙げる回数も増えた!貴方の居ないところではいつも……っ」
これもこれもこれも、全部あの男の所為。はだけられた服の胸元、スカートから覗く脚。俺が望むならここで裸になってでも全部をさらけ出してやると彼女は叫ぶ。これでも私を信じてくれないのかと。そこから覗く、痛ましい傷の数々。思わず逸らしそうになる目。だけど睨んで来る緑の瞳に気圧されて、あの日の俺は目を逸らせない。
「兄さんに、私を殺させないで……お願いよ。お願いよ、ロイル……っ、貴方と一緒に生きたいの!」
悲痛な叫び。でもそれは嘘だろう。リィナは自分のためにこんな言葉を作らない。自分のためと嘘を吐いてまで、俺への愛を語ってくれる。俺を死なせたくないと彼女は泣くのだ。俺の体も心もだ。死なえてなるものかと。俺の全てを否定せず、俺を導かず、それでも俺を許し受け入れる。
その時、俺は知る。少なくとも……兄貴よりも深く、俺を愛し必要としてくれている人がいるのだと。
「……最後に、兄貴と話がしたい。リィナが信じられない訳じゃない。兄貴の声で、言葉で……本当のことを知りたい」
それでもそう簡単に割り切れる話ではない。俺も兄貴も母親が死んでいる。そうして後宮の他の妾達に冷遇されてきた。誰も守ってくれる相手が居ない。その中で兄貴は俺を守ってくれた。だから俺はそんな兄貴を守りたかった。母親代わりというわけじゃない。それでも互いに支え合える世界は、女の介入などなくとも成り立っていた。そこで俺が今リィナを選ぶことは、自分だけ新しい支えを得て、あの人を放り投げて逃げること。とんでもない裏切りに思えた。それに信じたかった。兄貴は光なんだと信じたかった。全部嘘だよな。リィナだって女だ。後宮の腹黒い生き物と同じ女だ。今は優しくてもいつか、俺を裏切るかも。何か企んでいるかも。城の外はもっと恐ろしいところかも。そう思うと、今から動くことが怖かった。否定されることを願って、俺は兄貴に試合を申し込む。
「兄貴……教えてくれ。リィナの言っていたことは本当なのか?」
「……何を吹き込まれた?いや……」
力で俺に追い越された兄貴は、それでも技量の差で俺を追い込む。猪突猛進、懐に飛び込んだ俺に上着を投げて視界を覆う。
「何を吹き込まれたのだとしてもこの俺を信じられない時点で、お前など用済みだ!」
後退したがそれでも深手を負った。容赦のない切り口。一切の容赦がない。
「レス、タ…兄……?」
これまで過ごした時間を否定するような鋭い眼差し。他の兄弟達を見るような、冷たい目。それは肯定の意味。リィナの言葉を裏付けて、俺の全てを頭から否定する。俺の信じた兄貴自身をも、兄貴は否定した。
「う、うぁああああああああああああああああああああああああっ!」
それは俺の逆鱗だった。自分でももう何が何だか解らなくて、衝動に身を任せ唯闇雲に剣を振るった。得物がぶつかる度に兄貴の技が俺を傷付け、受け流せないダメージが兄貴の得物に貯まる。やがて兄貴の剣は砕け、その破片が兄貴を傷付けた。兄貴に傷を付けたのは初めてだった。それはこれまでの自分すら否定する出来事で、俺はもうその場に立っていられなくなった。許せなかった。ここにいることを、自分に許せなくなって、逃げるように共に城を出た。
そこで俺は二つに分かれた。外の世界に喜ぶ俺と、無意識下でこんなもんかと退屈そうに笑う俺。表面上、俺は後者に気付かず、毎日を楽しんでいた。それでも俺の心の半分は廃人同然。行き場のない怒りを抱えたまま燻っていた。つまらない仕事、つまらない人生、つまらない毎日。その間ずっと考えていた。俺の殺し合い衝動は多分、その隠れた暗がりが生み出す影だ。
俺が戦闘馬鹿を装う度に俺は俺を嗤っていたんだ。そんなもんじゃねぇだろ俺は。もっと薄汚くてどす黒い闇を抱えているだろう。そういう馬鹿はさ、いいよな。何も気付かないふり。何も解らない振り。嫌なことを抱え込まなくていい。世の中の全てから逃げられる。相手は馬鹿だと気付けば誰もお前を憎まない。馬鹿に言っても仕方ないから。殺意の向かない世界は楽しいだろう?獲物は俺じゃない。他の奴らさ。
リィナも俺をせせら笑う俺に気付いていたはず。それでもリィナは女だ。男じゃない。リィナは俺が俺なら何でも良くて、俺について来てくれる。俺の影まで含めて俺を思ってくれている。
肯定されることに慣れない俺は違和感を覚えていた。穏やかな時間は俺に何ももたらさない。普通の男と女の関係に俺は馴染めない。リィナと俺の間に見えるのは、城の風景。俺は何時か親父みたいになって、リィナは後宮の女達みたいに他の誰かを傷付けたり殺そうとする人間になる。
リィナに触れることで満たされる心はある。でもそれは心半分。残りの半分は罪悪感だ。衝動的に死んでしまいたくなる。これに溺れれば、俺は親父と同じ生き物になってしまうんだ。ああ、嗚呼っ!そんなのは駄目だ駄目だ駄目だ!早く戦わなければ、戦って残り半分の心を落ち着けなければ。
俺は、俺の心半分は兄貴に代わる標的を求めていた。闘争心を満たし鎮めてくれる相手。何か生きる意味とか目標を俺に与えてくれる人。俺の探し求めた先に現れた一人の剣士。
(アスカ……)
その名を口にするだけで、闘争心に火が付いた。面白い男だ。俺と同じだ。互いに知らない素振りをしているが、胸の内に深い闇を飼っている。その暗がりの臭気に俺は当てられた。その本性かっさばいてみたくなる!追い込まれれば追い込まれるほど胸が震える。お前を追い込んでみたくなる。瀕死の淵でやり合えば、自分に嘘も付けなくなるだろう。俺がお前がどんなに最低な人間か!それを理解し共有し、その上で殺し合う!そんな開放的な気分、最高に気持ちが良い。
兄貴の時とも違う。あの時さらけ出していたのは俺だけだ。それに気付けなかった俺は愚かだ。だから今度は間違わない。最高の試合は生と死を越えた場所にある。一瞬でもその最高の気分に至れれば、生きるとか死ぬとか本当にどうでも良くなるだろう。その刹那よりほっと息が出来る瞬間はないだろうから。
(アスカ……っ!)
俺はお前を追いかける。それでもお前はいつも素っ気ない。お前だってその胸の獣を飼い殺すのは辛いだろう?さらけ出そうぜ!俺達はよく似ている。他の奴らとじゃ共有できない。俺はアスカを追いかける。だけどアスカはリフルを追いかける。
お前が追いかける相手は違うだろう。あいつは闇そのものだ。お前の檻に閉じ込めるには過ぎた獣だ。抱えきれないだろ。殺し合えないだろ?殺し合えなきゃ解り合えないだろ?
俺と兄貴が解り合えなかったのは、殺し合いから逃げたからだ。逃げずにちゃんと憎み合って殺し合えたなら、俺達はもっと深く解り合えた。それが出来ていたのなら、今俺と兄貴は違う道を歩けていたはずだ。嫌われるのが怖い。失望されたくない。そんな怯えが俺達の道を隔てた。
お前だってそうだ。顔に書いてある。その手の躊躇い。なげやりな言葉の仮面。実際やってみると大したこと無いようなこと。何を恐れて居るんだろう。誰だって誰かを罰することは無いのに。心に抱いた偶像の神をお前は信じている。お前は弱いな。俺はそんなもの信じない。何かを頼ることは弱さの証だ。神を持たない俺はお前より強いはず。それなのに何故、お前に勝てない?
「ロイル……」
「リィナ……?」
血の臭いがする海の中。浮かぶ俺を抱き留める白い女の腕。男の手よりずっと柔らかくて気持ちいい。うとうとと微睡みそうになる俺に、彼女は優しく笑みかける。嗚呼、綺麗だな。一瞬にして目を奪われて、俺も微笑む。
これまでの悩みも迷いもどうでもよくなるような、優しげな笑み。こうしてリィナに触れている間は、戦うことがくだらなく思えてならない。ずっとこうして自堕落に、二人でごろごろ惰眠を貪りたい。この世の最上の幸せってそういうことじゃないかだなんて、変なことを考える。
女は毒だ。女は痲薬だ。どこもかしこも、得物の剣より柔らかい。力を込めたら折れてしまいそう。口付け一つでさえ俺が駄目になっていくような気がする。この手から離れたいのに……一度触れられたその温もりと柔らかさを俺の肌が恋しがる。
「俺、行かねぇと……あいつに、勝たねぇと」
今はそれだけが俺の存在証明になっている。宿敵と認めた男と斬り合う喜び。勝っても負けても俺は幸せを知ることが出来る。
ゆっくりと身体を起こせば、暗い海は土に変わり、浮かんでいたリィナを飲み込んだ。彼女を何処に連れ去ろうというのか、沈んでいく彼女の手首を掴む。
「リィナっ!」
細いその手が強い力で引き込まれる。決して放してなるものか。そうして力を入れたところで、大きく骨の折れる音。驚いて手を放した、その隙に暗い大地が彼女の全てを飲み込んだ。
「リィナぁっっっっ!」
その場の土を掘り起こそうと爪を立てて土を掘る。それでも手が血生臭い泥で汚れるだけ、彼女には至れない。
ふっと胸に浮かぶ寂しさ。泣き出しそうになる俺を、照らす鮮やかな光。気が付けば足下は聖堂の屋根の上。何だろうと思いながら、飛び下りれば入り口がある。恐る恐る進んだ俺を迎えるのは色彩豊かなステンドグラス。そこから差し込む光によって幾つもの表情を見せる女の彫像。それは今正に、土に飲み込まれたリィナだった。彼女は胸元に小さな鍵を掛けていて、その手には小箱が一つ乗せられている。ご丁寧に小箱には施錠がなされてあるが、鍵はその鍵で一致した。それを開いたところで、溢れ出す暗い光。その黒に塗り潰されるよう、俺はぎゅっと目を伏せた。
*
身体が痛い。ギシギシと彼方此方が痛む。でもそれは、俺がまだ生きているからで……今、生きているからで。
その事実にロイルはほっと安堵する。けれど安堵してから気付くこと。それは何かがおかしくないか?これまで自分は幾度だって傷ついたし敗北をした。その度にこの心は打ち震えたものだ。命のやり取りで実感する生、自分の鼓動。生死を賭けた極限の瞬間だけは満たされて感じる。嫌なことも何もかも、ちっぽけなことのように思えて。剣を振るうのは楽しいんだ。それなのに何故、俺は今生きていることに安堵した?
「っ!」
そこで倒れる前の出来事を思い出す。そうだ俺はアスカにやられたんだ。
応急処置はされているようだ。癒せる傷口は無理矢理治されている。これは回復数術。施したのはエルムだろう。この痛みは、まだ皮膚が覚えているダメージの夢。本来ここにあるものを無くしたが故の、違和感。そんな無数の違和感の中、確かな痛みを残した場所がある。
(見えねぇ……)
視界がいつもより狭い。天井に翳した手。その位置が違って見える。利き目がない、右目がない。それでも見上げた場所はアジトの俺達の部屋。どう帰ってきたかは覚えていないが無事だったのは確かだろう。ここまでエルムが連れてきてくれたんだろうか?それならエルムは何処にいる?目の怪我は手に負えなかったのか、専門知識のない子供では手の施しようがなかったのか。ああ、奴に聞きに行ったのか?確か兄貴に来てた客。オルクスという男が眼球を扱っていたはず。目の問題はそれで片付く。
「リィナ、オルクスって今どこに……、リィナ?」
寝台から身体を起こす。そして左右を見回して、相方が隣の寝台に眠っているのを見つけほっとする。
「リィナ……」
眠っている。良かった。眠っているだけだ。きっと解毒が間に合ったんだろう。リフルの毒には兄貴もやられた。それでも兄貴は助かった。その要領でエルムが助けてくれたんだろう。気が抜けて俺はその場に倒れ込む。そのついでに彼女の胸元に耳を当て、心臓の音を聞く。いや、聞こうとした。
「リィナ……?」
聞こえない。何も聞こえない。こんなに綺麗なのに、眠っているみたいなのに。それでも甦る記憶。よくよく見るとその口元には土の色。血の色。血と毒の臭い。悪い夢は夢ではなく現実だったと俺に言う。不意に思い出すのは先程まで見ていた夢の内容。リィナの胸元。開けた鍵。小箱が開かれるように、夢の中から抜け出してくる暗い気持ち。よく分からないドロドロとしたもの。それが涙と一緒に、溢れ出して止まらない。
(あいつが、アスカが……っ、リィナを殺したっ!)
嗚咽に咳き込みシーツに伏せる。失った片目の奥が燃え上がるように熱い。上手く排出出来ない涙が炎を燃やす油となって、身体の内側から俺を焼く。
弱いから死ぬ。自然の摂理だ。ずっとそう思ってきた。だけど違うと教えられた。弱い奴は守ってやらなきゃ駄目なんだ。それが強い奴が存在している理由だと俺は知った。何もかもなんて守れない。それならせめて守りたい者だけきっちり守れるようになりたい。兄貴の傍に戻ったのは偶然だった。それでも俺にとっては必然だった。
リィナにしたこと。リフルにしたこと。エルムに埃沙にやったこと。兄貴は確かに最低だ。それでも俺は、兄貴が未練を顔に残したまま死んだのを見たならば、俺はそれ以上の後悔を顔に残して死ぬだろう。
弱いから死ぬ。自然の摂理。今はもうそう思えない。それを俺に教えたのは、アスカ!お前だったはずだろう?俺とお前の違いはそれだった。それが今、入れ代わっている。そう思えないのが俺で、そう思っているのがお前だ!戦いの過程を重んじた俺とは違う。お前は結果を、死の美しさのために人を殺める。理不尽の意味が異なる。生きるために戦うんじゃない。お前は殺すために戦う外道だ!
兄貴に俺は失望し、二度目に憧れた人間。それさえ、俺は失望した。誰かになる必要なんか無かった。俺は俺だった。俺は俺で良かった。リィナが傍にいてくれれば、それだけで俺は俺で居られたのに。
「すまねぇ……リィナ」
ぎゅっと抱き寄せた身体の冷たさ。これまで知らないリィナの温度。俺の半身。急速に冷えていく。怒りさえ凍らせる絶対零度の憤怒。それが俺の側面を抉り、心までも打ち砕く。渇いた笑いが口から漏れて、唯何もかもが憎らしくて堪らない。殺したくて堪らないよアスカ。お前を。お前の守りたいもの、その全て。
まずリフルだ。アスカの目の前で滅茶苦茶に壊してやる。お前がリィナにやったみたいに。
アスカは俺によく似ていた。俺はその匂いを感じ取っていた。それでも俺達は違う人間で、何もかもが同じだったわけじゃない。あいつは大切な奴の両目を奪われた。俺の兄貴の手によって。そうなればレスタ兄に繋がる俺やリィナが許せなくなった。そうなんだろう?俺だってそうだ。お前が許せない。お前が大事にしているリフルまで、ぶっ殺してやりたくてぇ。リィナと同じ目に遭わせてやりたい。殺して、お前に今の俺の気持ちを痛みを解らせてやる!
俺はリィナをベッドに横たえ、勢いよく部屋を飛び出した。鼻を、勘を研ぎ澄ませる。感じ取る血の匂い。あの男が眠る場所。移動している!?違う、匂いが近付いてきているんだ!俺はその場に身を隠すため、そっと空室の中に入り、得物がその前を通過する時を待つ。早い。匂いも音も尋常じゃない速度で近付いている。だが、計算できない距離じゃない。相手の息遣い、鼓動の音。それとぴったり合うように俺も呼吸を合わせ、身構える。
思い切り蹴破った扉。それに気付いた得物はそれを避けるために動く。その一瞬の隙に抉り取るは瞬殺剣レーウェ。
リフルを抱えていたのは長い金髪の男。それでもそいつはアスカじゃない。赤い血を流し傾いだそいつの腕から離れたリフル。その身体をかっ攫う影!先程の男よりも色濃い見事な金髪。見つけた!そいつこそ、あの男!俺が追いかけ続けたその男!
「アスクァアあああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!!!」
ここで会ったが百年目。二人まとめてぶっ殺してやる!
*
アスカを追いかけ進んだ路地裏。そこで私を振り返らせる、余りに懐かしい彼の声。
「Suitっ!ここで会ったが百年目!」
「ラハイア!?」
嗚呼、これは本当に夢なんだ。二度と会えないと思っていた人に会えた。死の夢は、束の間でも願いを叶えてくれるのか。
「馬鹿者がっ!」
涙を浮かべた私の頬を、彼は思いきりぶちのめした。それは籠手の冷たさか、彼自身の温度だったのか。それでも真冬の海のような冷たさだ。路地裏に尻餅をつく私を見、彼は烈火の如く怒り狂う。
「貴様の願いはこんなくだらないことか!?」
「くだらない……?」
「ああ、くだらんな。俺はこんな事のために、貴様の名を受け入れたのではない!」
「ラハイア……」
私の名を背負い、殺された彼が言う。見れば彼の片手は塞がっている。その手で彼が背負うのは黒髪黒服の少年だ。眠る少年の顔に、私は思わず駆け寄った。
「フォース!?」
何故お前がここに。お前まで死んでしまったのか。ひやっと心臓を刺す、後悔の棘。
「彼は貴様に預ける」
「え?」
「まだ、死んではいない。比較的下位カードだったのが大きいな。僅かだが、残った俺の幸福値を叩き込んでやった。まだ助かるだろう」
「ラハイア……っ」
お前は死んでまで、人のために……そう思うといよいよ涙が止まらない。これこそ彼だ。私の認めた光だ。死の闇も、彼を塗り潰せはしないのだ。泣きながらそれでも至福の笑みを浮かべる私に、彼は少し困ったようにそっぽ向く。
「あの時とは、反対だな」
フォースを引き渡すラハイアが苦笑しながら呟いた。確かにそうだ。二年前……フォースとラハイアと出会った日。あの日の私はラハイアに、フォースを預けたのだった。辛そうに笑う彼に、後悔しているのか?と言う言葉が口から漏れる。
「しているさ。俺は彼を守れなかった。この少年を罪人の道に追いやったのは、俺が信じた教会。俺の罪に他ならない」
「ラハイア……」
「妙なものだ。二年前は年下だと思っていた相手が、こんなに重くなるとはな」
その重さを手渡した後、軽くなった腕に違和感を覚えていると彼は言う。
預かったフォースは少し冷たくなってはいるが、ラハイアの幸福値を与えられた所為か、ほんの少し温かい。私の幸福値で、死の夢に浸かった彼を暖め進めば、きっと目を覚ますだろう。
「フォースはお前とそう大差ない年だからな。もっともタロックは数え年という風習があるらしいから、正確にはお前より年下か」
「む……?ではソフィアの奴め、ならば俺と同い年ではないか!俺を坊や扱いしていたが……」
ロセッタの事を思い出したのか、少し腹を立て始める彼。確かに彼女が言いそうなことだ。だが……
「……ロセッタが、随分と悲しんでいたぞ。この女殺しめ」
「その言い方は不本意だ」
人殺しの罪を犯さなかった彼が、例えでも殺し呼ばわりされるのは確かに妙だった。どちらともなく吹き出した、私と彼。笑い声に抱えていたフォースの瞼がぴくと動いた。
「あれ……リフルさん?それに……」
「……」
少し気まずそうな二人だが、人の心に聡いフォースだ。自分が誰に助けられたかを私達の顔色で察したのだろう。教会への怨みも感じさせない声で呼ぶ。
「ラハイア……さん」
「ああ、そうだ。彼がお前を助けてくれたんだ」
私がそれを肯定すれば、フォースは何も言えなくなった。そんなフォースを目に留めて、ラハイアは一歩歩み寄る。
「フォース、君は君の正義を見つけたか?」
「え……?」
突然何のことだろう。戸惑うフォースの頭を撫でるラハイア。多分二年前、私があの場を離れた後も……彼はこうしたのだろう。自分より遙かに背丈の小さかったこの子に向かって、安心させるように。それが今や対等に向かい合う程度に彼は伸びた。手の位置に驚きながら、ラハイアは笑っている。
「償いには様々な方法がある。それは勿論、遺族のため、被害者へ向ける気持ちも必要だが……その先には自分自身への救済がなければならない」
「救……済?」
ラハイアは全ての罪を引き受けるとは言わない。それで彼が救われるとは思わない。アルタニア公の下で罪を犯したのは確かにフォース自身なのだ。その上でラハイアは救済の道を説く。
「ああ。唯苦しむだけが償いではない。罪を償うことで、罪人の心や魂も救われなければそれは償いとは呼べない」
それは唯の私刑だと彼は言って首を振る。見返りなき道程は辛い。救いを見出せなければ、その道は遙かに険しく、人は償いの心を、心に芽生えた正義を忘れるだろう。彼はそう言っているのだ。
「確かに俺は死んだ。だが後悔はしていない。安堵さえしている。確かにあの一瞬、俺は救われたんだ」
嘘だと叫びたかった。それは私が。それでも彼が笑っていたから私は何も言えなくて……代わりにそれを叫んだのは私ではなくフォースだった。
「そんなの嘘だっ!」
「嘘じゃない。誰かを救うことで、俺もまた救われている。それが正しかったのかと、死の闇は常に俺を脅かす。そこで俺はまた君に会った」
「俺……?」
「ああ、君だ」
救われていたんだよ。微笑むラハイアに、フォースは戸惑い私を見上げる。
「フォース、あの聖十字は嘘は吐かない」
自分のことのように自慢気に私が胸を張れば、フォースは僅かに俯いて、再び視線をラハイアに。
「俺が死んでいなければ、君を助けられなかったかもしれない。そう思うと、俺は俺の死はやはり正しかったのだと安堵した。幸福値を残して死んだこと……人を殺めず生きたこと……確かに意味はあったのだと」
笑うラハイアはボロボロと大粒の涙を零す。理不尽な死の中で、聞きたくもない声が生まれたのだ。正義を貫いても、誰にも感謝はされない。彼だって人間だ。傷つくし多くを悩む、愛すべき人間なのだ。
罵倒され勘違いされ、貶され続けるこれまでの正義。それは本当に正しかったのか?間違えだったなら誰を怨めばいい?多くが憎くなる。助けた相手、救った相手。助けても助けて貰えない。見返りなど求めないと思い込もうとしても、死の闇はこんなに暗い。歩いて行くための明かりもない。
その暗がりに腕を引かれた、彼の魂は……こんな暗い場所に閉じ込められていたのだろう。天に昇ることも出来ずに、自身の怒りと戦っていた。そこに現れたフォース。フォースは罪人ではあるが、それでも今ラハイアを救ったのだ。今、救われることで。
「ラハイアさんっ……俺っ……俺っ!」
「君も見つけたんだな」
「……はいっ!」
「それならば救いに行け。救われるために」
まだその者は危険に脅かされているかもしれない。それに気付いたなら、先に進め。まだ救われていないだろう。見返りの至福を得るために。命懸けで、今度こそ。信じた正義を貫けと厳しい声で私達を叱咤する彼。
遠くから聞こえてくる、カラカラという不思議な音。その音がラハイアの身体を紐解いて行く。それは真白い、光の糸。金色に淡く光るそれは彼の髪の色だった。それを綺麗だと見惚れていたが、フォースの声で我に返った。
「ラハイアさんっ!!」
「ら、……ラハイア!?」
その頃にはもう彼の片足は無くなっていた。慌てて駆け寄るも、紡がれる糸は止まらない。狼狽える内に両足を失い立っていられなくなった彼を支える。
「ラハイア!」
近付くことでその糸は私の首へと絡んだ。首を絞めるようなその糸を、切り落としたのは彼から貰った十字架。良く見ればそれは逆さになっていて、まるで剣のよう。絡め取ろうとする何者かの、強制力を断ち切るように。
それを見て彼が頷く。お前もお前なりの正義を見つけ、磨いだのだろうと。
「お前は光だ」
私の光は妙なことを言う。目を瞬かせると彼はふっと息を漏らした。
「磨かれた刃先の光。銀色の刃。斬ることでしか自分と他人を救えない。だから貴様は……お前自身の救いを見出せないのだ」
「……私の救いは、お前だった。お前以外に殺されて、私が救われるとでも思うのか!?」
ずっとずっとそれが願いだった。死にたいという願い。それなら正しい彼に殺されたいと、彼の正義のための礎となりたいと願った。その道の一部になれるなら、私はお前になら踏まれても良い。深い深い……土の中。死の泥にまみれる屈辱も受け入れられる。そう告げても彼はまた、妙なことを。
「……リフル、お前も救われたのか?」
「私は……」
死を望んでいた。だけど本当に、もう何の心残りもないのか?本当に救われたと心から思えるのかと彼が聞く。
「お前を救いに行け。自分自身を救えぬ者に、どうして誰かが救えるか?」
それは自己満足だ。だからこれまでお前は救ったつもりで救えなかった。取りこぼしてしまったのだと彼の糾弾。それは彼自身の後悔の一部だったのかもしれない。籠手を齧り、手袋も外した彼。手の甲にはハートの紋章。掌にはJの数。託すようにもたらされたのは、胸部まで解かれた彼からの握手だ。
「お前が……ジャック!?」
「ああ、死んでから知れたことだが心当たりはある。……星が降る前だが、俺は一度神子らしき人物に会っていた。どんな手を使ったのかは知らんが、その時にカードを入れ換えられたのだろう」
「では……」
「俺の丸々使わなかった幸福値は俺の死後、彼が受け継いだ。俺に残されたのは、彼が持っていたほんの僅かな幸福値だけ」
ほんの少しと彼は言う。既にフォースに与えられた、その残り滓に過ぎない幸福値。それ全てを絞り出すよう彼は私の手を握る。触れられた手から僅かに、彼の熱が流れ込む。
「リフル、お前が救われるために今はその子を守れ」
「ラハイア……」
何を言ったら彼が救われるだろうか?謝ったら多分最後の力でまた殴られてしまうだろうな。逡巡の後私は、笑った。心からの感謝を声に心に魂に響かせて言う。ここに嘘偽りはない。心のままに私は笑う。
「ありがとう、ラハイア」
「……ああ」
彼が笑った。その一言に、救われたと頷いて……そこでカラカラと手首だけになっていた彼の手が、首まで解けた彼の頭が紡がれて……そこには何も残らない。それでも私の中には多くが残った。
「行こう、フォース……」
振り返ると傍にいたはずのフォースが見えない。辺りを見回せば、フォースの代わりに現れる影。塔に来るまでの間にはぐれたはずの、最後の一体……骨人形。その人形は黒に染まっていたが、再び白い色を取り戻し、暗がりを照らすように私を先導して歩く。立ち止まれば彼も立ち止まり、振り返る。フォースの記憶は既に見た。あれがフォースであることはないだろう。しかしあの人形が導く先に、フォースが居るような気がして……私は彼を追いかけた。
*
「フォースっ!」
「フォース君っ!」
飛び込んできた光。光を浴びてキラキラと輝く白金の糸。血を恐れずフォースの胸に飛び込んでくる確かな重み。そしてそんな二人を見守る優しげな瞳がある。
「エリス……それに、アルムも……」
場所は崩壊した西裏町。夢の中と同じ場所。血みどろのエリアス、アルム。感染を恐れず手当てをしてくれたのだろう。その優しさに、安堵のためか……ぶわと涙が滲み溢れる。
(俺はあの二人に助けられて……この二人に助けられて……)
ここに帰って来た。償い足りない。だから苦しめ。神はそう言うかもしれない。それでもあの人は、救われろ。それまで生きろと言ってくれた。真の安息を得るために生きろと。その言葉に俺は確かに救われた。それでも彼は言う。まだ救われ足りないだろうと。
(そうだ……俺は)
あの人と二人で帰ろうとした。だけど紫の目で微笑んだ彼がいない。
そっと手を伸ばした場所に、隠し持った紫の目がある。それはあの人の心臓のように、脈打つような胎動を感じさせる不思議な目だ。その目を見ていると、あの人はまだ死んでいないと信じられる。
(救われる、ために救え……か)
そうだ。西に何時何者が攻め込むかも解らない。エリアスもアルムも貴重な人種。きっちり守ってやらないと。こんな所で倒れてはいられないとフォースは立ち上がる。
もしここで俺が死ぬことで二人に何かあれば、それは心残りだ。それでは俺は救われない。それにこの眼を返すまで、守りきるまで俺は。
「エリス、アルム……ここは危ない。どこか安全なところに場所を移そう。エルツ……居るか?」
《まったく、我に感謝の言葉は無いのか》
「え?俺無しで回復数術使えたの?」
《そこの少年、思いの外飲み込みが早い》
「それじゃあエリスが……?」
カードでもないのに大丈夫だろうか?純血が数術を酷使するのは危険なことだと聞いた。
《安心しろ。祝福数術ならば負担は殆ど無いに等しい》
「エーさん……」
《もっともタダとは言わん。今我の姫が窮地に居る。すぐさま東へ向かうのだ!》
「トーラが!?」
それは助けに行かないと。そう思ったが、すぐに背後の二人のことを思い出す。二人にとって東は余りに危険な場所。躊躇うフォースに土の精霊は馬鹿者と叱咤する。
《今商人共は散り散り。かえって東の方が安全だろう》
言われてみれば、多くは迷い鳥に攻め込んで、帰ってきた者も西裏町の崩壊で瓦礫の下。瓦礫の山に、遅れて戻った者も立ち往生。確かにここにいるより安全と言えば安全なのか?
リフルさんとトーラが東にいる以上、必然的に加勢のため皆東に行く?東へ行けば他の仲間との合流も叶う。それは心強くもある。
「解った、東に行こう」
俺は頷き、皆の血を洗い流させ身支度を調える。
フォースをあそこで死なせるか、残すか。悩みました。
考えた結果まだ伏線あるし、1章でのやりとりの反例をやりたかったので。