12:Nemo risum praebuit, qui ex se coepit.
やや腐り注意報。
「話はここまでだ。今回の仕事は私一人で乗り込む。アスカとフォースは休み。洛叉も要らん。トーラだけ後方支援を頼みたい」
「了解、リーちゃん」
「おい、ちょっと待てよ!リフル!」
それは俺がリフルと再会してしばらく。怪我も治って仕事に復帰したあいつが本気でキレた事件の一つ。名前狩りがまだ第1島にやって来る以前の出来事。
「この手の輩は許せないんだ」
「許せないってお前……」
「アスカ君、今回ばかりは仕方ないよ。これは僕だって腹が立つもん。まぁ、アスカ君には解らないかもだけど」
「解らないってなんだよ!仕事の詳細はまだ聞いてない!」
「では“俺”は準備に取りかかる。邪魔をするなら本気で怒るからな」
俺のご主人様が、一人称を変える時は理由が限られる。一つは王族としての、王子としての……もっと言うなら男としての自分の意見を主張する時。そしてもう一つは……
「リーちゃんが自分を俺って言う時は、もう本気で怒ってる合図だよアスカ君」
あいつの相棒として一年半以上過ごしてきたトーラ。その前だって一年間あいつを瑠璃椿として使って来た。悔しいが一緒に過ごした時間は俺よりトーラの方が長いんだ。追いかけてきた時間は誰にも負けない自信はあるけど。
「で?結局何の事件なんだよ」
リフルが会議室から出て行ったのを確かめて、俺はトーラに聞いてみる。
「これ、見て」
情報屋である彼女から手渡された書類の束。捲ってみるとどうしてなかなか、これは酷い。端的に述べるなら……言葉巧みに女性を攫い、そのまま襲い半殺し。言葉にすればそれまでだが、これはそのやり口が何とも異質。
「このセネトレアは倫理が崩壊している。故に女の子は脳味噌が腐っている子が多い。ディジットさん然り」
「ああ、確かにディジットとか腐ってたな。微妙にアルムも。トーラとリィナはある意味心が広いというか、その辺超越してる気はするが」
「あはは、僕を褒めても何も出ないよ」
「いや、褒めてはいない。少なくとも褒めてはいない」
ディジットと言えばそうだ。前に俺とあの闇医者の絡みで本書いてるの見たことがあるんだが、あの時俺は……何時も俺の部屋を掃除してくれてる彼女が一番最初にエロ本を見つけた時はこういう気持ちだったのかと理解した。
あの頃は一ヶ月は口を聞いてくれなくなった。その後は逞しくも吹っ切れたのか、エロ本鬼ごっこを始めるようになっていた。俺の秘蔵の本をよくもまぁ見つけて、俺の机の上に置くわ置くわ置くわ。今ではすっかり慣れたものだが、初期は勝ち誇ったような笑みでカウンターに立つ彼女の顔をまともに見られなかったものだ。
「ディジットさんはアスカ君に恋愛感情は皆無だけど、BL要員としては好きみたいだからね。まぁ、ディジットさんはガチのノリが好きみたいだし?洛叉さんの身近で絡められそうな年齢の人材がロイル君とアスカ君しかいないんだよ」
どうやら俺の幼なじみはあの根暗で陰湿かつ変態な闇医者をひぃひぃ言わせる妄想がお好きのようだ。
「でもロイル君はリィナさんと普通にバカップルだし。となればフリーのアスカ君に白羽の矢が立つのも無理無いことだよ。フォース君とかエルム君相手だと、洛叉さん普通に性犯罪者として攻める側に回りそうだし」
「馬鹿言え。俺は普通に女の方が好きだ」
「はいはいはいはい。一生言ってればいいよ。リーちゃんは僕が貰っていくから」
「待て虎娘。俺のご主人様をそう易々と渡せるか。俺はあいつの兄貴みたいなものなんだ。この俺を倒さずにリフルルートもリフルエンドも行けると思うな」
「そうやってリーちゃんに執着してるからそっち系疑惑が立つんだよアスカ君」
トーラは肩をすくめて大げさに息を吐く。
「今回の事件ではディジットさんだって危ないかもしれない。君達は彼女の護衛に付いた方が良い。事件解決までまだ時間が掛かりそうだし」
「まだ犯人の情報掴めてねぇのか?」
「住処まではまだ。だからリーちゃんが囮になるんだって」
「あいつが囮にだって?無茶だろ。あいつ一人でやれるもんか」
「やれるよ。この一年半、ずっとそうしてきたんだから」
その言葉は俺と彼女の距離を示しているようだ。殺人鬼Suitとしてのあいつを、良く理解しているのは……俺よりこの女。そんな理不尽さを感じて、ますます俺は引き下がれなくなる。
「だから、俺はあいつを知りたい!もっとあいつを解りたい!あいつが一人で抱え込んでることがあるなら俺も一緒に背負いたい!そのためにも俺は引けねぇ!」
「アスカ君」
食い下がる俺を、トーラが哀れむように見た。
「君のそう言うところが、リーちゃんを苦しめているとは思わない?」
「……は?」
「いっそ狂いなよアスカ君。でなきゃ君はリーちゃんにとって、ずっと重荷になる」
「俺が重荷に、だって?」
何を解ったような口を。そんなはず無いだろ。俺とあいつは、こんなにも近しい。俺はそれくらい近くにあいつを感じている。俺とあいつの繋がりは、他の奴らじゃ敵わねぇ。どんないい女が現れて、あいつがそれに惚れたって……俺はそいつに負けない自信がある。
まだ、髪が長かった頃のあいつ。瑠璃椿。俺が死ねと言ったなら、間違いなく死んだであろう頃のあいつ。俺が相手をしろと言ったなら、喜んでそれに応えただろう瑠璃椿。
だが!俺はそんな命令しなかった。だからこそあいつは、俺との主従関係に思うところが出て来た。俺はこれまでのあいつのどの主とも違う。特別な繋がりを手に入れた。
その繋がりは、主従関係が反転した後も変わらない。例え血縁関係を告げられなくとも俺は……あいつを近くに感じてる。
「トーラ、被害者は皆カーネフェリーの女だったな。この位の変装で構わないか?」
会議室の扉を叩き、内へと入るリフル。もう変装を終えたのか金色の髪に青い瞳になっている。俺の度ストライク。ドキッとしたがさっと目を逸らした。色硝子入りでも目が合えばやばい。
被害者は普通の娘達ばかり。だから今回の衣装は極々普通の娘の格好。質素なドレスとエプロン。なんか幼妻って感じで良い。こういう子が嫁で俺が仕事に行っている内に……
「アスカ君、僕のリーちゃんを嫌らしい目で見ないでよ!どうせまた“こういう子が俺の嫁で、俺が仕事に行っている内にやって来た行商人に襲われてたりしてると滾るよな。それで嫌がって俺の名前を呼んでるところに俺帰宅”……とか思ってたんでしょ!」
「人の心を読むな!あ!違うんだリフル!俺はそんなつもりじゃ……」
「……アスカ」
主からの冷たい視線。それが次第に生暖かい温度に変わる。
「結婚相手が欲しいなら、もう少し真面目にディジットを口説け。そういうアブノーマルな趣味は理解されないかも知れないが、それで私がお前を幻滅することはない。唯、人に迷惑はかけるなよ」
「や、止めてくれ!何ちょっと理解を示したみたいなこと言ってんだ!?止めてくれ!いっそ罵れっ!蔑め!この俺をっ!」
なんかフォースの奴まで俺を哀れむような視線を向けてくる。何だよ。お前だって後何年かしたら変な性癖とかに目覚めるんだからな!そうやって俺だけ色モノ扱いするんじゃねぇ!
*
「へぇ、そんな事件もあるのか。うんわかった。気をつけるわ」
例の事件ですっかりディジットは落ち込んでいた。元気を出させるために、俺は買い物に付き合った。薬剤通りの一角には本屋通りがある。
元々は薬学医学の専門書を扱う本屋が多かった。そこに卑猥な本の店が現れ、その内腐った本まで並ぶようになった恐ろしい通りだ。だから……その、そういう嗜好の人間のための店もある。ディジットの気晴らしになればと買い物に付き合ったが目眩がした。丁度その直前に例の事件のことを聞いたんだ。腐った幼なじみを持つ身として……多少、心配にもなる。
そんなこんなで影の遊技者まで帰宅。まだ店は再開していない。接客できるほどの活力がないのだろう。暇を持て余したディジットはそれを補うために戦利品に目を走らせる。
「面白いか?」
「面白いわよ?」
「少女漫画とどう違うんだよ」
「もはや別世界よ」
なんだろう。会話が成り立つ気がしない。
「ていうか私からすれば男向けのエロのがわけわからないわよ。弄らないのに胸露出させる絵面あるでしょ?脱がせんなら触れよボケって思うわ。女の胸をなんだと思ってんのよと小一時間問い詰めたいわ。下に入れるだけなら脱がせんな。着衣のがエロいだろってツッコミ入れたくなるのよ」
「確かに脱がせればエロいとか、それで満足だろみたいに思われてるのは癪に障るな」
あれ?少し成り立ってしまった。
「しかし酷い事件ね。そんな風に性癖を悪用するだなんて」
「まったくだ」
とりあえず事件については意見も一致。確かに酷い事件だ。
犯人はめぼしいターゲットに目を付けて、こう話しかける。「すみません、俺所謂そっち系で。そういうの好きなんですが」……そして、恥ずかしくて買って来られない。代わりに買ってきて欲しい。勿論報酬は払います。そんな風に女を口説く。
女に興味がないと解れば警戒心も解ける。お仲間だという妙な連帯感も生まれる。そこに犯人は目を付けた。
「確かにリアルそっち系の人の話聞けるなら、ちょっとお茶くらいしてもいいかなって思っちゃうわよ、話のネタに。女にとってそっち系の男ほど安全無害な生物もいないもの。根っから恋愛対象外ですって宣言されてる、そう思うと警戒心も和らぐわよね」
そう。簡単に言うなら女の子同士がくんずほぐれつしているものに興奮する変態が居たとする。そいつがエロ本買おうといかがわしい店に出向いたら、店の前に女の子が現れて「私女同士の本が欲しいんです!代わりに買ってきてください!お金お支払いします!あの、お礼に一緒にお茶でも?……あの!私が代金持ちます!」……とまぁ、こんなお誘いが来るようなものだ。その逆版だと思ってくれて良い。
「着いて行くなよディジットは。被害者全員強姦被害に遭ってるんだ。おまけに声帯、両手も切られてる。数術使いが居なければ完全に未解決事件になってた所だ」
だから事件解決のために情報を外に伝える方法がない。犯人の目撃情報が伝えられない。だけどそれは、普通の人間の認識世界での話。そいつに運がなかったのは最高レベルの数術使いであるトーラを敵に回したって事だな。
だけど痛みが強すぎて、被害者側から引き出せる情報が少ない。トラウマになっていて思い出したくもないのだ。それを無理矢理引き出せば、被害者が壊れる可能性だって……回復数術で治せる所は治してやったらしいが、手遅れな子もいた。
リフルがキレた原因はそれだと思う。情報に因れば、被害者の最年少である少女。彼女は強姦による怪我が原因で……駆けつけたトーラの救助を待つ前に死亡した。
「でも、セネトレアにしては大人しい事件じゃない?いつもなら強姦殺人、死体遺棄なんてざらだったし。……あ、でもそれは東と表か。西は強姦強盗はあっても殺人までってそんなにないから」
そう。西裏町にはトーラという守護者が居る。トーラは破落戸ばかりのこの裏町に、ある種の法を敷いた存在なのだ。やりすぎればトーラは暗殺者を使って始末していた。それでなくともブラックリストに載れば、トーラから仕事を回して貰えなくなる。情報収集さえままならない。そうなれば行き過ぎた破落戸達は自然と東裏町へと向かう。情報を使ったトーラの治安維持は、この西裏町の安全を確かに守るものだった。トーラは殺人を犯した者はブラックリストに載せていた。例えそれが混血殺しではなかったとしても。
(教会から手配書が消えたとは言え……あいつにはまだ馬鹿高い懸賞金が賭けられてる)
おそらくは、それを狙った人間。リフルを……殺人鬼Suitを釣るために西にちょっかいかけて来て居るんだ。表向き死んだことになったSuit……その生死を確かめるために。そんな奴が適当な犯罪者雇って事件起こさせてるんだろうとは思う。思うがしかし……
「確かにあいつが怒るのは解る。あいつは奴隷混血以外だと……子供が被害者の事件とか、性犯罪が大嫌いだからな」
それはあいつ自身のトラウマに触れるモノなのだろうとは思う。それでもセネトレアでそんなことは良くあることで、一々事件の度に怒っていてはきりがない。いつもあいつは内心怒り狂っていても表面上は冷静だ。今回のあいつは余裕がなさ過ぎる。俺が心配しているのはそれだった。
「もしかしてリフルって……」
何故かそこで顔を赤らめるディジット。どうやらろくでもないことを考えている模様。
「何処かの男の人に恋をしてるんじゃないの?」
「ぶほげぼがっ!」
思わず茶を吹いた。予想の斜め上過ぎた。
「もう、店汚さないでよ」
「わ、悪い」
布巾でテーブルの掃除をしつつ、理不尽だと俺は思った。
「でもきっとそうよ。危険な道ならぬ恋を知っているからこそっ!それを騙り罪を犯す人間が許せないんだわ!」
流石ダークヒーロー。性癖までもダークだわとうっとりしているディジット。おーい、帰ってきてくれいつもの俺の幼なじみ兼思い人。
「んな馬鹿な話があるか。あいつはそういう浮わついたことからは一線置いてる身の上なんだよ!あと、リフルは男相手なら抵抗ないだろ。水中か着衣で自分が受け身なら、殺さないでもやれるって言ってたし。だからあいつは女とやれない分、男からかって遊んでるんだろ」
フォースやあの聖十字の坊やはよくからかわれていた。俺だってたまに冗談交じりに迫られる。……最近じゃ、それさえ違和感を感じるようになったけど。俺が混血の少女……リリーを殺してからずっと。リフルは戸惑っていた。
「もう!ノリが悪いわね!もしその相手があんただったらどうするのよアスカ!」
「は!?」
「愛するリフルが大切なあまりに手を出せない先生。同じ気持ちでリフルに手を出せないへたれなアスカ。大嫌いな男同士が滾る欲望のはけ口を求める肉体だけの愛のない関係。けれど何時しかその二人の間にも妙な繋がりが生まれはじめて……一方リフルは過去の男である先生か!元ご主人様のアスカか!けれど毒人間という身の上の所為で何にも出来ず、今日も今日とて一人で枕とシーツを上と下の涙で濡らす訳ね。……うん、これぞ三角関係っ!」
「現実世界に脳内設定を持ち込むのは止めてくれ。どうして俺とあの変態をくっつけたがるんだ……仮にも一時期はディジットの思い人だったんだろあの変態は」
俺も洛叉もそんな関係になるくらいなら自殺するぞ余裕で。そのくらい俺達はお互いが大嫌いだ。俺は口を尖らせてから、それが地雷だったと思い出す。ディジットは一度俯いて……本をぱたんと閉じて微笑む。こんなことで忘れられるほど小さな傷ではないのだと、深く理解したように。
「……私はもう、そういうのいいのよ」
「いいのって」
「私、エルムとアルムを比べたくなくて……先生に逃げようとした。それがあの子達をどんなに傷付けるかなんて……ちゃんと解っていなかった」
「ディジット……」
「例え今は恋愛対象に見なせなくても、大切なんだってちゃんと言ってあげられなかった。私は最初から……あの子をそういう風に好きになる未来を、考えてあげたこともなかった。酷い話よね」
ディジットの後悔はエルムに向けられる物。傍にいすぎて大切だと、伝えることを忘れていた人。
そしてその言葉は、俺にも向けられているようだ。後悔ではなく俺を哀れむようにディジットは俺を見る。俺が否定し続けようとしていること。それに気付いて可哀相にねと。
ディジットがエルムを否定し続け傷付けていたように、俺が普通でいようとすることはリフルとは異なる価値観であろうとすることで。その違いが彼を追い詰め苦しめてはいないかと、ディジットの青い瞳が問いかける。
「先生のことはもう良いの。先生もアスカと同じ。普通の幸せって言うのを想像できない人。……あんた達はリフルを守って生きて死ぬのが幸せなんでしょ?」
「……ああ、そうだな」
「そういう人間好きになったら負けよ、女として」
だって、絶対に幸せになんかなれない。ディジットは強くそう言う。
「思う恋より思われる恋の方がきっと幸せなんだって思った。失うまで気付かなかった馬鹿は私だけど」
「思う恋と、思われる恋……か」
「あんた達男はどうなのかしらね」
幸せになれるのは思われる恋だと彼女は言う。不幸を受け入れてまで思う恋を続ける女はそう多くはないのでは?彼女はそう思っているようだ。思う、思われる。それを分かり易く言い換えるなら、追うか追われるか。それは恋だけではなくありとあらゆる愛にも言えることにも思える。
俺はリフルを追いかけた。端から見れば幸せとは言えないが、俺からすれば幸せだった。ロイルの阿呆は戦いたいがために俺を追う。まったくもって俺は幸せではないが、本人は楽しそうだ。……ちょっと待て。例が野郎同士ばかりじゃねぇか。待て待て待て。他に追う追いかけるの関係?
リフルとラハイア?本人達楽しそうだけど。いや待てこれも野郎同士だ。カルノッフェルとフォース?これは復讐だし……これも野郎だ。まぁ、待て。話を戻そう。全体的には追う方は楽しい。追われる方はそうでもない。あの聖十字の坊やに追われて喜んでるリフルが変わっているだけだ。
言葉をまたここで戻す。それなら思うことは楽しい。思われることはそうでもない。男にとってはそういうことになるのかも。確かに好きでもない奴に思われても重いだけだ。妥協してそんな女を相手にするより……それなら狙った女、口説き落とす方が興奮する。
「……俺は思う方だろうな」
「言うと思った」
ディジットは俺の考えを予想していたのかくすくす笑う。俺の一部始終を見ていたように。
「でも、だから男と女って上手く行かない生き物なのかもね。片方は妥協しないと恋人になれないのよ。思う恋同士で添い遂げる確立って物凄く低いのかもしれないわ」
「妥協……か」
本当なら思い合う同士が幸せになれれば一番なのにと彼女は言うが、世界はそんなに甘くない。俺の親父とマリー様は……思い合う同士なのに引き裂かれた。思い合ったからって幸せに一生過ごせるわけではない。
「でも、そういうのじゃなくて。アルムを応援してあげたいとか、アルムに悪いとかも考えない。その上で私がエルムって一人の男の子をどう思っていたかを……見つめ直していきたいと思う。私にとっての幸せって……あの子がここにいてくれることだったんじゃないかって。そう思うから」
洛叉がいなくてもディジットは強くいられる。そこまで恋愛に依存していないから。
でもエルムがいないとこうまで凹む。それは彼に強く支えられていたと知るから。身内としての愛情だけれど、それは洛叉に向いた好意より……強いものだと知ってしまうから。その依存は少し、俺のそれに似ている気がした。俺がリフルに対して思っていることと。
「……な、ディジット」
「何?」
「昔さ、……あるところに凄い仲の良い恋人同士が居た。二人はそりゃあ相思相愛だったんだけど……家のために別れさせられて、女は別の男のお嫁になった」
「昼ドラね」
ディジットはそれはそれでと鼻息荒い。昼下がりの若奥様のようだ。
「その女は結婚相手との間に子供も出来た。その二人の結婚は結局幸せになれたんだろうか?」
「……なるほど、そっちが思われる愛……ね」
思い合う恋人と別れ、自分を思ってくれる別の男と結婚。
「そうね、幸せになれたんじゃない?」
「どうしてそう思う?」
「情よ」
「情?」
「恋でも愛でもない。だけど一つの絆の形、切っても切れない不思議な縁よ」
真摯に思われて、絆されない人間は血の通った人間じゃない。彼女はそう言って、タロック王とマリー様の間にも……確かな絆は在ったと俺に言う。でもマリー様は思い合った男が、親父が居て。それなのに狂王も思っていただって?
(そんなの、嘘だ)
それなら、俺って何?俺は何のために生まれた?何のために作られた?マリー様があの男を愛したなら。俺の親父との間の愛を捨てたなら、そこに生まれた俺って何?
リフルが望まれて生まれたんだって解るなら俺も嬉しい。だけどそれって、マリー様にとって……母さんにとって、俺はいらなくなったってことなんじゃないのか?
親父はもういない。母さんは俺が好きじゃない。そうなって俺に遺される物。リフル、リフル、リフル。お前しかいない。俺にはお前しかいない。お前だけなんだ。お前だけが俺の痛みを理解してくれる。お前にだって家族がいない。俺しか縋れる物はないはずだ。そうやって俺達兄弟は支え合って生きていけばいい。そう思うのに……
(お前も俺を、置いていく)
俺が求めるくらい、お前は俺を必要としていない。
俺が見つめる程に、お前は俺を省みない。
お前の目が追うのはいつも……光だ。傍にいる俺ではなくて、隣になんかいられない……あの聖十字の坊やだろう。
*
暗い東裏町。モニカに導かれながら俺は進んでいく。
その最中、思い出すのは数ヶ月前の出来事だ。俺が初めて、あいつの仕事……その真の意味を目の当たりにした事件。トーラに無理言って後をつけさせて貰った。トーラはしつこく食い下がる俺に、「見た方が早いか」と妙なことを言って諦めたのだ。
人を本当に愛したこともない人間が。欲のためだけに人を求める人間が。そんな人間に何が解るとあの日のあいつの目は言っていた。そんな冷たい目で死体を見ていた。その目はやがて、俺に向き……何故着いてきたと俺を責める。心配だったんだと告げてもその目は俺を責める。
「お前……何を……」
服の裾から覗く白い、その肢体。いつも手袋に隠されている白い腕。吸い付きたくなるようなその肌に、触れることは許さない癖に……標的相手には惜しみなくその身体を触れさせる。
「これが一番手っ取り早いんだ」
平然とした顔で、あいつは衣服を整える。その冷たい目は出会った頃の瑠璃椿。唯の人殺しだった頃のあいつにそっくり。自らを一振りの刃とし、敵を哀れむこともなく、誰かを救うでもなく……己の欲望のために人を殺した、あの頃の……
「そのまま口付けに持って行けたら簡単に。無理なら首筋にでも噛み付いて。それが出来なくとも無理矢理やられて血でも出たら一発だ。汗毒よりも早く殺せる」
「止めろよ、そんな風に……自分を使うの」
白い素足を伝う赤い色がとても綺麗だ。だけどその色に、俺は吐き気を催すほどの嫌悪感を感じている。
「私は毒人間だ。暗殺兵器。本来これが正しい使い方だ」
自分のトラウマを抉り続けるやり方でしか戦えないなんて、おかしいだろ。そう言って聞かせても、俺の言葉は届かない。俺に命令してくれれば、俺は誰だって殺すのに。その命令から逃げるように、お前は自分の手を汚す。
おかしいな。俺こういうシチュエーション、燃える方だったはずなのにさ。なんでか今、血の気が引いていく。お前の目があんまりに、冷たい色をしている所為だ。お前がまったく楽しそうじゃないから。苦しそうでもない。感情を失ったような、冷淡なお前がそこにいるから。
「いつも……こんなこと、やってたのか?あれから、ずっと……俺が名前を与えた後も」
「……冗談だ。いつもはここまでサービスしない。口付けで殺す方が多い」
方が多い。それが上手く行かなかったなら……他のことしてたってことだよな。沈黙は肯定に似ていた。
「許せなかったんだ」
やがてリフルは小さく呟いた。
「本気で仕留めたかった。だから邪眼を使った。結果、暴走されただけだ」
「何、そんなに怒ってんだよ……お前」
解らなかった。被害者は奴隷でも、混血でもない。なのにリフルがここまで怒るわけが見えない。
「人を口説くためならどんな嘘を言っても良いのだろうか?それも本当に愛しているわけでもない。やりたいだけの欲のために」
「え?」
「まず人を食う目的で趣味でもないことを趣味だというのは気に入らん」
あ、あの子可愛いな。お近づきになりたいな。そう思って嘘を吐いてデートに誘うくらいなら仕方ない。それが縁で友達付き合いから恋人になるならまぁ、仕方ない。それでもこれは許せないと、彼は言う。
「……最悪だ。それが嘘だとしても、本当にその子に惚れていたならその嘘もまだ許せる。だが、それで心を許した相手を殺すような残忍さが許せない」
おびき出す口実にだけ使って、人の趣味を悪用する。理解を示した振りをして、人の心も体も弄び、捨てるなんてと彼は涙を浮かべ泣く。
「私が知るある人は……本当に悩んでいた。苦悩して狂った」
「お前……それ」
「……お嬢様の父親だ。私の目も毒も……完成される前から私を好いていてくれた。一目惚れだったんだとさ。私は結局彼を愛することは出来なかったが……今も時々彼の言葉が甦る。瑠璃椿と……私を呼ぶ。何故愛してくれぬのだと、彼は泣いていたよ」
間近で見たことがある。道ならぬ恋に悩み傷つき狂った男が居たと。だからこそ、安易にそれを騙る者が許せないのだと彼は言う。だけど……
「お前……そんなの、そんなの、変だ」
何を言っているんだお前は。そいつはお前の心を抉った相手だろう。お前を汚した相手だろう。何故そんな哀れむような事を言う?
「だってそいつは、お前にトラウマ植え付けた一人だろ!?そんな風に言うなよ、お前がっ!お前はそんなことで、怒ったのか!?この事件を!」
「言うなれば……情だよ、アスカ。ある種の、親しみだ」
俺がお前に捧げる心は、情なんてそんな薄っぺらい物じゃない。だけどお前が俺を見るその目は……その目が、情だ。狂うほど強く想われて、何も感じない人間は心が死んでいる。こいつの心は生きている。だから絆される心もあったのだとその目が語る。ああ、それは……他人と交わったこともないお前には解らないかと少しの嘲笑。俺とお前の価値観の相違。認識の隔たりだ。
過去を語りながらお前は俺を見る。まるで俺がその過去の、浅ましい男と同じ化け物に成り下がってしまったみたいな目で。俺の薄暗い汚らしい欲の心を曝くよう、蠱惑的な光を宿す紫色の、その瞳。
「ち、違う……俺は、……俺はっ……お前をそんな風に……見た事なんてっ」
信じてくれ。本当なんだ。俺はお前が好きだ。この世の誰より大切だ。けどそれはそういう好きじゃない。もっと綺麗な、崇高なもの……なんだって思いたい。俺を煽るのはその目だろう。邪眼の所為だ。俺がお前を大事の思う気持ちはそんな、下衆な感情では無いはずだ。俺は絶対思わない。お前に触れたいなんて思わない。お前は聖域なんだ。誰にも汚されちゃならねぇ、俺の守るべき宝なんだ。それに俺が手を伸ばすなんて事あっちゃならねぇ、絶対に……
(そう思う。思ってるのに……)
目が離せない。その白い素足触りたい、吸い付きたい。それでお前がどんな顔に変わるのか、目を1秒たりとも逸らさずに見ていたいだなんて。何考えてるんだ。おかしい。俺は変だ。毒されてる。邪眼に、俺が……
「そんな目でっ、俺を見るなっ!」
「……アスカ?」
俺を哀れんでいるのか?そんな風な愛は、俺は要らない。哀れまれて手に入る情、与えられるその心は……妥協なんだろリフル。お前は別に俺を見ていない。妥協で俺に振り向いていてくれるだけなんだ。
狂王がマリー様を殺した気持ちが、今なら解る。こんな目で愛されることに耐えられなかったんだ。だってそうだろ?やっぱり俺が要らない子だったんじゃない。お前が要らない子だったんだよ。親父とマリー様はお前が生まれた後だって、深く愛し合っていたじゃないか。ああ、そうだ。誰にも望まれない、可哀相なお前。そんな可哀相なお前を俺が必要としてやっていたのに、そのお前が俺をこうして哀れむのか?
「あ、……アスカ?」
掴んだ両肩の骨が軋んでいる。苦痛に歪む主の表情。そんな顔まで美しい人形。
「痛い……のか?」
その反応で気が付いた。以前はこんなことで顔を変えなかった。眉一つ動かさずに自傷するような奴だった。それが今は、痛覚が戻ってきている。
ああ、そうか。トーラの言った日が近付く程に、こいつの身体は痛みを思い出していく。少しずつ、死ねる身体に戻っていくんだな。
「い、痛くなど無い……っ、離せっ!毒が付くっ」
今更。気付かれていないとは思わないだろう。それでもこの場を振り切ろうと必死なあいつ。体格の差は歴然。こうやって俺に押さえ付けられれば振り払うことも逃げ出すことも敵わない、そんなちっぽけな存在。それがお前だ、リフル。
「惨めだな」
ぽつりと口から零れた言葉に、眼前の紫の目が花咲くように見開いた。そんな言葉を俺の口から聞くなんて、思いもしなかったのだろう。
俺を何だと思ってたんだろうなこいつは。俺に全く憎まれていないとでも思っていたんだろうか。嗚呼そうだな。お前は可愛いよ。馬鹿みたいに俺に気を許して、無防備で。
そんなお前と過ごす穏やかな時間に、俺の心は思ってる。この平穏をぶち破り、その顔をぐちゃぐちゃに歪ませてやりたい。泣いて叫いて許しを乞えよ。それは凄ぇ復讐だよな。俺から両親を奪ったこいつを心身共に虐め抜いてやるんだよ。そうすりゃどのくらい胸がすかっとするだろう?
ああ、くそっ。俺は思ってる。魅せられてる。俺の好意は歪んでる。確かに思ってるよ。お前に触れたい。抱いて犯して嬲りたい。俺が必死にお前を守るのは、いつかお前を壊すときの喜びを膨れあがらせるためだ。大事に大事にしてやって、それを粉々にする時の快感を想像してみろよ。堪らないだろ。
お前に信頼されればされるほど、ぞくぞくするんだ。嬉しいんだ。その信頼を裏切ったときのお前の絶望を思うと、もう、息も出来ないくらいうっとりする。こんな高揚感、俺は他に知らない。
「離せ、アスカ」
「………あ、……悪ぃ。ちょっとカッとなっちまった」
たぶんそれは、1…2秒に満たない短い時間だったと思う。頭の中を膨大な情報量が駆け抜けていった。我に返ると何を考えていたのかよく思い出せない。ただ、見つめられると目を逸らしてしまう……そんな後ろめたい何かを考えていたような気がする。
「いや、……心配してくれたんだろう?それについては感謝する」
ふっと小さく笑ったあいつを見て、何か矛盾めいた胸騒ぎ。その微笑みに一瞬心臓がドキリと鳴る。その笑みに絆されただけではないのが解る。違うことを考えている自分が居るような、それに対する恐怖感に浮かぶ冷や汗。
その俺に対する怯えが俺に、以前トーラに言われた言葉を、何とも無しに思い出させるのだ。あの一瞬から……よく分からないが、俺は俺が危険なことだけを強く感じ取っていた。思わずリフルから距離を置き、帰路に就こうとする俺に……あいつは後ろから抱き付くような気安さで、俺に絡んでくる。俺の見たくない俺を見透かして、それでも俺を好いてくれると言わんばかりに。そんなあいつの優しさに、感謝どころか苛立つ心があるのは何故だろう。
モニカと駆ける東裏街。今ならわかる。あの刹那に浮かんだ言葉達。それが頭の中に甦ってくる。俺が深く不覚に埋めた卑しい心が掘り起こされていく。走れば走るほど、張りぼての俺が剥がされる。
リフルは俺に見つかっちゃならない。俺は確かに狂ってる。もう既に、あいつを傷付け苦しめた男と……同じ物に成り下がってるんだ。自分勝手で我が儘な俺の心を自覚する。求める心がこんなにも、汚らわしい物だったなんて、知りたくなかった。
《アスカニオス……》
俺の目尻に浮かんだ涙にモニカが気付いた。声を掛けられた俺は……何だかもう、力が抜けて、走る速度も弱まって……ついには路地裏の壁にもたれ掛かって息を吐く。
「……っくく、そりゃあ逃げるよな」
狂いだした俺を見るのが怖いだろう。傍にいるのが恐ろしいだろう。あいつが恐れたのはこれなんだ。あいつがあんなに汚れて仕事をしたのは、俺にこれ以上人殺しをさせたくなかったから。解ってて俺は……教会で暴れた。あの時のあいつの表情。全く何も感じなかったと言えば嘘になるって今頃気付いた。
俺を拒絶するようなその表情にぞくぞくした。俺にはもうお前しかいないのに、お前まで俺を捨てるなら……俺は認められる。許可されるんだ。お前を守ること以外で、お前を俺の傍らに繋ぎ止める方法を見出すこと。逃げるお前が悪いんだって言って、あの目に狂ったって言い訳して好き放題食い散らかしてやっても良いんだ。それに何より、脅えたあいつの目が、本当に綺麗だった。あの顔を作らせたのが俺なんだって思うと堪らなくゾクゾクした。あいつはそんな俺を見るのが怖かったんだ。きっと……
「俺はおかしい。俺は狂ってる。あいつが俺を怖がるのも、仕方ねぇ……」
《アスカニオス……そんなに自分を卑下しないで》
「だってそうだろ?モニカ……お前は俺の今まで、俺を全部見て来たんだろ?本当はお前もわかってるんだろ?」
《……確かに貴方は血生臭いわ。精霊としては傍になんていたくない》
それでも貴方が好きよと風の化身が笑う。
《だけどね、アトファスが那由多王子を我が子のように愛したように……私も腐れマリーの子の貴方を思っているわ、貴方は私が生んだ訳じゃないけどそれでも》
「モニカ……」
母親のように俺を愛しているとモニカが優しく俺に説く。恋敵の子でも、惚れた男の子供でもある。
《貴方が生まれたのを見て、私はマリーに嫉妬する心が溶かされていくのを感じた。私の心がまた澄んでいくのを感じた。私が今まで精霊で在れたのは、全部貴方のおかげなの》
「俺が……?」
《ええ。貴方に出会わなければ私は多分……良くない精霊に成り下がってた。教会が悪魔と呼ぶような存在に》
《だからねアスカニオス、私は貴方の味方よ。あんたは変態だけどいい男よ!自信持ってあの子に会いに行きなさい。それで駄目なら私がフォローしてあげる》
優しいモニカの声。これを聞いたのは最近だが、彼女は俺が生まれたときからずっと傍にいてくれたのか。だから彼女の声はこんなにも温かいのだ。俺がおかしくても彼女は肯定してくれる。こんな俺の幸せを願っていてくれる。
これで俺がモニカに惚れたり出来たなら、それこそ何かのお伽話みたいに綺麗な美談で終わるんだろう。惚れた男の息子とハッピーエンドなんて。
それでもモニカはそういう風に俺を好きじゃない。俺もそうだ。俺の母親はマリー様だけど、俺の母親で居てくれたのは紛れもなくこの精霊なのだ。
「モニカ……」
《さ、あの建物の中から声がするわ。視覚数術は完璧よ。行きましょう?》
「ああ」
少しの涙声。気付かないふりをしてくれる。そんな彼女の優しさに、俺は隠さず苦笑した。
モニカはアスカが狂っているのを認めた上で、傍にいる。
本人が認めていないけど、そのくらいリフルに惚れてるのを本人以上に理解している。
何の見返りもない愛だけど、それはアスカの存在にモニカ自身が救われていたから。母親のように彼を支えているんです。
ゲーム版でまだカードになっていないアスカが数術使えるのはモニカが影ながら力貸してるから。そう思うとちょっと……ね。早く気付いてあげてよアスカと言いたくなる。
今回はモニカ回だった気もする。