10:O sancta simplicitas!
余裕でエロ回。
フェードアウト注意回。
深読みすると問題回。さらっと流して読んで下さい。
「頼みますよ、お嬢様。どうか坊ちゃんに会わせて下さい。お見舞いに行きたいんです」
弟はいつだって皆に慕われていた。
ちょっとすれ違ったか一目見ただけの使用人からも、いつの間にか慕われていた。それが次期公爵、支配者の風格なのだろうか?そんな風に思ったこともあった。だけど父様が弟の傍に置くのは長年自分に仕えた信頼の置ける者とカーネフェル人の男だけ。弟に近づく方法のないタロック人の使用人達や兵士達は、私にその取り次ぎを頼むようになる。
私はそれが嫌だった。だってタロックには女が殆どいないから、下々の者にはそういう趣味の者も多くいると聞いたことがある。可愛い弟に、そんな危ない者は近づけたくなかった。人種差別とか偏見とかじゃないわ。唯単に、最初は唯……私は弟が可愛くて仕方がなかった。危険な橋は渡らせたくない。
唯、それだけだった。小さくて、可愛くて……天の使いのように愛らしい。こんな小さな子供に異常なほどの執着を見せる彼らは私から見ても不気味だった。
「駄目ったら駄目ですわ!弟は体が弱いんです!外から来た人間になんて会わせられません!どんな病気を持ってるかも解らないんだから」
「……っ、下手に出りゃ調子に乗りやがってこの女ぁっ!」
「きゃっ、何をするの!?放しなさい無礼者っ!」
最初は、弟が可愛くて仕方がなかった。
だけどその日を境に私は……弟が憎くて憎くて堪らなくなった。その心変わりが信じられなかった。弟が私に対し何かをしたわけでもない。それなのに私は、彼が死ねばいいとさえ思った。苦しんで苦しんで苦しんで、死ねと……念じながら弟の看病をする。
私の心変わりを知らない父様は、私がまだ心から弟を愛していると信じて疑わず、変わらずその看病を私に一任。
「姉様……」
「大丈夫よエリス、きっとすぐに良くなるわ」
病に伏せった弟に、私はキスをする。額に頬に……そして。
「また、残してたの?お薬飲まないと駄目よ。今、飲ませてあげるわ」
私はキスをする。その柔らかな唇に。薬を嫌がる弟に、水を流し込むため。
弟は馬鹿。苦しくなる原因は薬だと思ってる。だから弟はお医者様が大嫌い。そうして今日も又、腕の良い医者が解雇されたわ。この島中の優秀な医者はすべて追放されたのではないかしら?嗚呼、いい気味ね。もうすぐ終わりが始まるわ。
私はぞくぞくしていた。興奮していた。その時父様が、どんな顔で泣き叫ぶのか……楽しみでしょうがなかったの。みんな、みんな……死んでしまえ。消えて無くなればいい。
*
私、エリザベータが彼に出会ったのは三年前だったと思う。
彼の名はオルクス。その男は死神を名乗った。男と言うよりそれは少年。外見だけなら可愛らしい部類に入る。けれどどこか不気味なのは、その子が時を止めたかのような停滞の中を生きるから。彼は数術使い。人であり人ではないもの。私たち普通の人間には理解しがたい世界を知り、魔法のような奇跡を操る。
その頃は弟が、流行病に伏せった頃。別にたいした病気じゃないわ。病気なんて良くある事よ。この島ではね。
この不毛な土地には、金の成る泉がある。だけど同じくらい危険もいっぱい暮らす島。それがセネトレア第五島ディスブルー。公爵をよく知る人はきっとこう言うでしょうね。
セネトレアの五公は、数字の若い順から身分が低いのだと。
セネトレア第一公。それはすなわちセネトレア王。国の中心を治める人が、一番立場が無いのだと……国民の何割が知っているかしら。王は君臨すれども統治せず。いいえ違うわ。その力が彼にはないのよ。王など所詮はお飾り。女を侍らせ良い暮らしをするだけの人形。この国の豊かさを見せつけるためだけの存在。
次に力がないのが第二公。純血至上主義に取り憑かれるということは、それだけ自らの血に劣等感があるってこと。それもそのはず。第一から第四島を治める誰に、高貴な血が混ざっていようか。唯一王家の血を引くのがこの第五島の第五公。セネトレア建国者の血を引き、そして……当時のシャトランジア姫を妻に迎えたのはこの第五島の最初の主。
だけどそれも大昔のこと。今更権威にはならない。だけど他の四公が劣等感を感じるのはこの第五島の人間。彼らは富でも私達に負けているのだ。
この砂漠は宝の山。船を動かすために必要なものが眠っている。奴隷貿易を支える底力。タロックの戦争を支えるのもこの第五島。船とそれを動かすエネルギーを産出するこの第五島。第五公こそがもっとも力のある公爵であると、国政に携わる者ならば知らないはずがない。
……そんな誇り高いディスブルー公爵家にも、一つや二つのなやみごとはある。
まずは偏ったこの少子化。カーネフェル人の血が濃い我が家系では、男児が生まれなくなっていた。ようやく生まれたエリアスの誕生を、父様は心から喜んだし、私も最初はそれに歓喜した。弟は本当に可愛い。だからちょっとした怪我や病気でも心配して過保護に育てた。
だけどその流行病……それは例年より長く続いた。それが私だったなら父様もきっと捨て置いたことでしょう。だけど可愛い漸く生まれた跡継ぎだもの。心配で心配で仕方がなかった。主治医はより良い医者を。父様は医者を求めた。
その先で出会ったのが死神商会を名乗るオルクスという少年。医学に秀でた数術使いという彼は、すぐに父様に気に入られた。事実、彼にはどんな病気も治せる風ではあった。病は気からとも言うから、その気に関係する脳の仕組みを熟知した彼は、確かに腕の良い医者であったのかもしれない。だけど彼の存在は私にとって邪魔者でしかなかった。
「これでは一向に良くならないはずです。こんな毒入りの水ばかり飲ませられていたならば」
数術使い。普通の人間には見えないモノが見えるモノ。水の成分すべてを数字で知覚し、私が混ぜた毒素をも、その少年は言い当てた。
「いけませんねエリー様、弟君を殺そうとなさるだなんて」
「父様に告げ口するつもり?」
弟に毒を盛った。けれど弟は死なない。それはこの医者の所為。
匙を投げる医者の群れ。有能な彼らを無能にして来たのは私の働きあってこそ。
「そのつもりですが」
「……止めてくれるなら、今夜私の部屋に来ても良いわよ?いいえ、今夜と言わずこの先、ずっと」
どうせ男なんて、これに弱い。褥で男を殺す方法くらい、私はもう知ってるわ。そのための毒も飼っている。この少年が外見通りの少年なのだとしても一から手ほどきしてあげれば私に夢中になる。それならそれで、私の駒にしてあげる。
「その前に一つ貴女に尋ねたい」
「何?」
「あの毒は、どうやって?」
「知ってるんでしょ、どうせ」
私が口に出さないことだって、この男にはお見通し。どうやってそれを知るのか解らないけどこの男は常人が理解できないことを知る術がある。
「ああ、食い違っているようですね。それなら今夜、面白い話を聞かせて差し上げますよエリー様」
そう言って少年はその場を立ち去り、夜に私の部屋へと訪れた。夜伽は夜伽でも、本当に物語を始めるなんて思わなかった。彼が話すは一つの毒についての話。
「昔々、呪われた王様がおりました。王様には幾人もの恋人が居て、その内の1人に魔女が居ました。これはその魔女から引き受けた呪いの物語」
呪いは病気。魔女は病気に冒された女のこと。王とはつまり私の父のことだろう。少年は含みをもって事実を他の誰かのことのように物語る。
「呪いは広がる。王が口付け抱きしめた相手は皆呪いによって命を落とす。その呪いは王と王妃の間に生まれた可愛らしいお姫様の命までも蝕んだ」
「え?」
「しかしお姫様は誰かにキスしたことも抱きしめられたこともなく、呪いがお姫様まで及んでいることに、誰も気付きませんでした」
物語と現実が食い違う。目を瞬かせる私に彼は、最後までお聞きなさいと唇にそっと指を添える。
「呪われていることを知らないお姫様。ある日呪われた魔物に襲われて、自らが呪われたことを知る。こうしてお姫様は世の魔物を深く深く憎み始める」
結果として呪われているという現実は動かない。それでも始まりは何処にあるか。それは別だと彼は言う。
「可哀相なエリザベータ様、貴女が愛されないのは貴女の呪いを王が知っていたからに他なりません。呪いは遺伝する。その遺伝を知ることが出来るのが僕ら数術使い……」
「そ、そんな」
「貴女がお生まれになった時に、教会に金を積んで確かめたんでしょうね。今回もそう。エリアス様は病気に感染せずにお生まれだ。だから彼が跡継ぎなのです。他の公爵家でも女性が継いだ例は幾らでもありますからね」
私が女だからとか、弟が男だからとか、そんなことではないのだと彼は私に教えてくれた。この家を続かせるためには、どうしてもエリアスが健康に育ってくれる必要があるのだ
この病は体の免疫力を下げる。だからちょっとした風邪や病でも死んでしまうことがあるし、そういったものに罹りやすくなる。そうでなくとも私は常にだるく風邪をひいているような感覚がある。そこに更に患ってしまえば命に関わると言うことなのだろう。
「……でも、もう遅いわ!私があの子にキスをして感染させた!毒で体も弱った!あの子はもうすぐ死ぬのよ!」
勝ち誇った笑みを浮かべる私を哀れむようにオルクスが見る。
「この病気は面白いんですよエリー様。突然変異を頻繁に引き起こし、感染者は大まかに分けて三パターンに分けられる」
「どういうこと……?」
「まず一つ目は、運び手。この場合は感染しても死亡することはありません。ただし、他の人間に感染を広げます」
「それは父様ね」
父様を病にかけた女はもう死んでいる。彼女自身は運び手ではなかった。
「次に二つ目。それは嘆き手。これが通常の感染者。必ずと言って良いほど命を落とします。貴女ももって後数年と言ったところでしょうね」
「……そう」
この名医が言うに、私はまもなく死ぬらしい。
「貴方、本当に死神だったのね」
皮肉の一つも言ってやれば、彼は神妙な顔付きで微笑む。なんとも曖昧な笑みだった。
「そして三つ目。かなり特殊な例ですが、殺し手とでも言いましょうか?この場合の人は、毒を殺す力を持ち、この病に感染するがことない。潜伏のまま発症せずに生涯を終わるということでもなく、彼らは感染しないと断言できる」
「そんな人間がいるの?」
「そうですね……毒の王家を知っていますか?」
「毒の王家?タロックの王族のこと?」
「はい、その通りです」
「聞いたことはあるわ」
毒の王家の人間は幼少から毒を食らって育つ。そして成長し、毒での暗殺では死ねない体になる。代が進むにつれて彼らは体内に毒を飼うようになり、普通の人間との接触が難しくなった。だからタロック王家は近親婚をせざるを得ない。
「でもそれとこれと何の関係があるの?」
「薬と毒は紙一重。例えばですよエリザベータ様。何故エリアス様が感染しなかったかお気づきですか?」
「……まさか!」
「ええ、そのまさかです」
少年医師はにたりと笑う。
「これはあまり知られていないことなのですが、貴女が盛った毒にはちょっとした薬的側面がある。そしてその毒は貴女の持つ病原菌を相殺し殺してしまう。面白いですよね。彼を殺そうとしていた貴女が、彼を守ってしまっていたなんて」
「…………そんな」
うなだれる私に追い打ちをかける少年が言うに、それは予防としての働きであり実際に感染した人間相手には意味をなさないとのことで、その毒を飲んだところで私は完治しないとか。意気消沈する私をあざ笑うかのように、少年は満面の笑み。
「正面から殺しに行かず策を練る。腕力のないなんとも女性らしい殺し方。でも僕はあまりそういうのは好みじゃないなぁ……殺意は研ぎ澄まされてこそ。正面から向けられるそれが何より美しい」
気付は医者はよくわからない美学を語り出していた。私はそれになんだか苛ついた。これまでやってきたことすべてが無駄だったと教えられ、腹が立ったのだ。八つ当たりでも何とでも言え。ならばお望み通り、その背中でも刺し殺してやろうか。そう思って私が忍ばせていたナイフを取り出せば、彼は振り向きほくそ笑む。
「僕は今、はじめて貴女が美しいと思いましたよエリザベータ様」
笑う少年はナイフを握る私の手をぎゅっと握って小さな薬瓶を持たせた。
「何、これ……」
「僕が作った薬です。完治には至りませんが、体のだるさは取れるでしょう」
「……私に何をさせる気?」
ここはセネトレア。タダで与えられる親切はない。親切の裏には下心と算段がある。それを指摘すれば話が早いと少年は笑う。
「僕に着いて来ませんか?第五公とエリアス様への復讐と、それから貴女の完治の手掛かりを与えることを約束します」
「そんなの、信じられない。貴方に何の得があって?」
「基本僕は世の兄姉側の味方なんですよ。僕もそうでしたから。そんなわけで僕も復讐したい相手がいてね。そいつを引っ張り出すには味方が要るんですよ。信頼できる、味方がね」
「……復讐?貴方が?」
「基本的に弟妹は死に絶えればいいと思っています」
良い笑顔でオルクスは語る。自分には妹が居るのだと。
「最近僕の妹は毒の王家の人間を飼い始めたようで、僕は近い将来彼と遭遇することになりそうだ。その体を調べ尽くせば、貴女を健康な体に出来るかもしれない」
「殺さずに捕らえたい。そのためには情報が必要。そういうこと?」
「さすがはエリー様。理解が早くて助かります」
「…………それで、まずは何をすればいいの?」
「まずは貴女に男という生き物への復讐もさせて差し上げましょう」
「男に?」
確かに私は男は嫌いだ。みんな死んでしまえばいいと思う。割と本気で。
それを伝えた私に彼は微笑んで……
「エリー様、ちょっと島の外へ観光に行く気はありませんか?」
*
心配、されたかったのよ。
私が居なくなって、私も大切だったって、あの人に気付いて貰いたかった。だけど現実は違う。私が消えても捜索隊は出さない。あの子が誘拐されれば父様は兵を挙げて攻め込んだりもする。
「…………まるで道化ね」
過去を思い出し、エリザベータは苦笑する。
観光という割りにずいぶんと長く扱き使われた。まず最初の半年はオルクスの治療を受けた。それがあって、今の私が居る。元気に動き回れるし、ぱっと見健康体。毒の王家の人間には劣るけど、私もそこそこ優れた兵器になった。私のような才能のない人間にも扱える、嗅覚数術を教えてくれたのもオルクスだ。
第一島でヴァレスタの下で一年半近く働き、料理、買い出し、雑用の他に戦闘訓練も受けさせられて。オルクスの奴も最近じゃ私を敬わないし、むしろ私が顎で使われてる。オルクスもヴァレスタも元王子様だから、公爵の娘なんか足軽とか下女みたいなものよねどうせ。
つい昔の癖でオルクスに顎で使われると逆に命令したくなるのは出会いが出会いだから仕方のないこと。オルクスはヴァレスタ程身分に無頓着なのか、時々使用人っぽく振る舞ったりもする。だからどうにも憎めない。私を女として見ていないっていうのもあるんだとは思う。彼、セネトレア王の血を引いてる癖に好色ではないから。だから私は安心するのかも、彼の傍が一番心安らげた。共犯者意識というのも良かったのかもしれない。
だから彼から離れての仕事はあまり面白くなかった。元々私がgimmickに送られたのは死神商会との繋がりを強めるための奉公的な役割。お頭同士がホイホイ顔を合わせるようなことは基本的にはあり得ない。だから信頼関係を構築した上で、よりよい商売の話をするために上層部が顔を合わせる。商売っていうのは裏町でだって、そういう信頼が必要になってくる。オルクスをヴァレスタと面会させられたんだもの、私の働きはそれなりのものだったんだと思うわ。でも、雑用仕事は退屈だった。
そんな中、からかう相手を見つけられたのは大きかった。ニクスはいい男よ。面白くてからかえば暇潰しになる。彼は身持ちが堅くて義理堅い。あと五年くらいすればいい男になったんだろうけど、残念ね。
私がアルタニアに送り込まれたのは、一年前くらいだったかしら。私はそこで情報収集に当たった。第三公の息子を送り込むための土台が必要だったから。
彼も私には無害でいい男だった。公爵家の人間で親を憎むっていう点で共感を覚えていたから、そんなにそんな……ヴァレスタの下で働くよりは気が楽だった。
だけど彼を使い捨てたオルクスとヴァレスタを見る限り、私もオルクスをどこまで信頼して良いものか。
(ここらで私も身の振り方を考える必要がありそうね)
揺れる馬車。私の膝の上に寝ている少年。寝顔を見ている分には十分鑑賞価値ある彼も、また無害な人間だ。
(でも、世の中狭いものだわ)
私は呆れてしまう。この子はニクスの幼なじみなんだとか。顔面偏差値はずいぶんと違うから、タロックの片田舎にも掘り出し物はあるものらしい。
「気が付きました?」
「ここは……」
グライドというこの少年はヴァレスタのお気に入りの部下だ。あの男の弱みでもある。この子を上手く使えば私はもっと上手く立ち回れる。
「馬車の中です。まもなく西裏町に到着します」
「フォースは……」
「まだ向こうに転がっているんじゃないかしら?」
「……まだ、生きてるんですね」
「ええ。けれど彼はそう長くはありません」
「え?」
「まもなく潜伏期間が終わりますから」
私は半年以上前、彼に口付けたことがある。オルクスは私を改造した。
私は様々な病気の保持者。ただしオルクスが私に感染させたそれらの病気には一つ面白い特徴がある。
「フィルツァー様、ご存知?世の中には面白い病があることを」
「病気?あいつは……でも、健康だけが取り柄だっていっつも……」
「感染するのに性別を選ばず、発病するには性別を選ぶ病がありまして」
オルクスはそれを私に受け入れさせた。とびっきりの復讐のために私の体を改造させた。私はキス一つで人を殺せる。情報収集を終えたら、勝手に死んでくれるというありがたいシステム。だけど、あのタロックの王子様みたいにすぐには殺せない。すぐに死なない分、足が着きにくいというのが利点だけれど、情報が他に流れる可能性もあるわけでその場合は直接殺す必要もある。
個人差はある。だけど潜伏期間は凡そ半年。発病すれば多種多様の病に冒され地獄の苦しみ。そしてまもなく命を落とす。
「ど、どうしてあいつを……?」
「許せなかったんです。混血が。私にこんな病を植え付けた、憎むべき混血にっ!混血なんかに仕える彼が。親しくしていたからこそ、その裏切りに耐えられなかったっ!」
「エリザさん……それは僕にもよく解ります」
実際問題私を襲った奴は混血ではなく純血だったんだけれど、それはこの際置いておく。今必要なのは嘘。これが魔法の言葉。純血至上主義に染まった少年はこの一言で納得し、私に共感すら覚え始める。
「でも、私も同罪です。知らなかったとはいえ……混血に仕えていたなんて」
「混血に!?」
泣き崩れる私を支える少年は狼狽える。不安そうなその顔は、私の言う主がどちらを指すのか解らなかったからだろう。一度ここでそう思わせておくのがポイントだった。
「思えば不思議でした。オルクスは純血の数術使いにしては何でも出来すぎる。時々不気味だと思っていました……そして、私は知ってしまいました」
「それでは、オルクスが?」
安心している。そう、それでいい。ここはひとまずそれでいいのよ可愛い子。
「……ええ、混血は例外を除いて必ず男女の双子で生まれる。西の主……トーラというセネトレアの魔女は混血。そして彼にそっくりの顔……それにっううっ」
「落ち着いてください、何があったんですか?」
「オルクスは金色の目をしていたんです。ああああっ!恐ろしいっ!あんな不気味な色の目っ!人間にはあり得ないっ!」
「大丈夫です……エリザさん。僕が必ず、ヴァレスタ様と一緒にあんな化け物ども一掃してみせます!」
あ、この子馬鹿だ。賢いはずなのに、混血のこととなると物凄く馬鹿だ。だけど私の手を優しく握って微笑む様はこんな私でもときめくくらいに愛らしい。
(本国生まれのタロック人ってみんな純真なのかしら)
馬鹿可愛いのはニクスもだ。純真な分悪い方向にも染まりやすい。二人はそういう例なのだろう。ああ見えてへたれのニクスだって人殺しだ。ろくでもなくえげつない処刑方法をいくつも考案した悪魔の使い、処刑人だ。この可愛い顔をした少年だってヴァレスタの忠臣。嬉々として混血狩りを行う純血至上主義者。
「ありがとうございます、グライド様。私が混血共の魔の手から第五島を取り戻した暁には、必ずやヴァレスタ様の支持に回りますわ」
「そのことなんですが、エリザさん」
少年は笑みを消し、真顔に帰る。
「エリアス様って必ず生かしておかなければなりませんか?」
その何気ない提案に、私はぞくっと肌が震えた。この子、とんでもなくクール。向こうには自分の親友が居るのにあっさりと、私と同じ考えに行き着くなんて……外道格好いい。ぼうっとなって彼を見つめる私にちょっと顔を赤らめて視線をそらす仕草まで可愛らしい。こんなに可愛いのに、とんだ鬼畜がいたものだ。
それなのに……それでいて、こんなにも澄んだ目をしている。純真さと醜悪さが共に巣くう瞳の美しさ。彼は少年であり男ではない。そんな無垢な彼は人間なのに、悪魔のようだ。
私はその囁きに、魅入られてしまっていた。
決して触れ合えない。だからこそ思いが募る。この高貴な私の何もかも。触れさせてあげてもいいと思うのに。命を削って重ねたところで、それは意味を成さない。こんなに血水を泥を啜っても、この子は何時までも綺麗。綺麗な少年のままなのだ。その不変のなんと美しいことか。
「エリザさん?……エリザベータ様?」
「あ、いえ……失礼しました」
ごめんねニクス。優しいだけの男って、私のタイプじゃないのよ。だってそういうの、人間らしくないわ。不気味なのよ。あの弟を見ているようで、とても。
天使のように可愛い弟。怖くて堪らない。今も彼が生きて息をしていることのなんと不気味なこと。最初からあの子、本当は息なんてしてなかったんじゃないの?弟は私の口付けの意味を知っていながら、その毒を受け入れていたのよ。何を思ってそんなことを?
あの子からねだることさえあった。私が躊躇うときにはいつも。知っていて私を見ていた。促していた。それをオルクスから教えられた時、私の身体は可哀想なくらい震え上がった。信じられなかった。父様なんて好色爺。母様なんてふしだら女。だから生まれた私はろくでなし。高貴な血なんてもうとっくの昔に薄まり消えた。俗物な私達。その血を受けていながら何故?あの子だけ、そんな風にいられるの?気持ち悪い。信じられない。あれは本当に人間?私の弟?跡継ぎが生まれない我が家を哀れんで、神様が送り込んだ何か得体の知れない物ではないの?神聖だからって無条件で好きになれるなんて思ったら大間違いよ。綺麗ってことは、恐ろしいこと。怖いこと。
だから私はこのグライドという少年が、綺麗なだけなら何とも思わなかったのよ。だけど彼は、それだけじゃない。
歪んだ者、醜悪な者。嗚呼、愛おしいって思えるわ。だってそれとっても人間らしい。人間ならば、愛せるわ。だって私も人だから。
「ねぇ、グライド様。貴方が第五公になるつもり、ありません?」
私の答えは、彼の提案を受け入れての発言。革命の、宣言だった。
*
アルムが離れ、部屋へと消えた。それを見送り数歩距離を置いてから、エリアスは顔を上げる。顔は確かに違うけれど、雰囲気までは隠せない。だって近づけば体が震える。この僕の恐怖が教えてくれる。これは鶸紅葉ではない。
「……いい加減、その変装解いたら?オルクス」
「おや、お気付きでしたかエリアス様」
良くできましたとからかいながら、姿を現す数術使い。
「外は楽しかったですかエリアス様?」
「……貴方がいないなら何処だって楽しい」
「それは失礼。ですがそろそろ戻ってくださらないと面倒なことになるんですよ。第五公がこの町を吹き飛ばしにいらっしゃる。貴方一人の我が儘のために、お友達のお家をこれ以上壊されたくはないでしょう?」
さぁ、と伸ばされる手。掴みそうになったけれど寸前で思い止まる。
「僕が戻って、本当にこの戦いは止まるの?」
「ええ、勿論です」
「……向こうの街には僕の島では見たことがない人たちが居た。彼らも引き下がってくれないと僕は第五島へは帰れない。ここの人たちは僕に親切にしてくれた。傷つけることは許さない」
「なら、それを第五公にお願いするためにも貴方は帰るべきでしょう。エリアス様の我が儘なら、公爵様は聞いてくださりますよ」
「……」
我が儘はここまで。これ以上僕が何か言えば、問答無用で連れ帰られる。周りの人を傷つけられてからでは遅い。ここらが潮時。僕は諦めオルクスの、その手に触れようとした。けれどその手が動かない。それに気付いたその刹那……
「駄目っ!」
「……アルムちゃん?」
背後から上がった声。振り向けば彼女の姿がある。
解かれた髪は長くとても綺麗。見惚れている内に、彼女は僕の所まで駆けてくる。勿論それを黙ってみているオルクスではない。何か仕掛けたんだろうけれど、彼女はそれを物ともせずに歩み寄る。これにはオルクスも舌を巻く。
「……音声数術、か。僕の術を相殺するとはやはり下の世代は優秀だね」
「エリス君を苛めるのは駄目!」
「うーん、苛めてるわけじゃないんだけどなぁ……」
「嘘っ!エリス君怖がってる!」
「それじゃあ監視のために君も来るかいお嬢さん?僕が彼を苛めないように傍で見守っていればいい」
「嫌。だって貴方嘘吐きだもん。鶸お姉ちゃんだって嘘吐いた。騙した。だからまた騙す」
「信頼に足らない行動だったっていうのは認めようかな僕も。仕方ない……それじゃあ、へるぷみーりぜかくぅーん!」
アルムちゃんに言い負かされたオルクスは、にたりと笑って数術を紡いだようだ。僕には何が何だか解らないけれど、魔法のように空気が光って何かが現れる。
それは馬だ。よくよく見れば馬の上には三人の人がいる。一人は迷い取りで見た赤髪の少年。後の二人は気絶しているのかぐったりしている。一人は傷だらけのタローク男性と。もう一人は外傷はないけれど顔色の悪いカーネフェリー女性。馬を操っていたのは赤髪の子。確かアルムちゃんがエルムと呼んでいたはずの……彼女の弟?
見ればあまり似ていない。アルムちゃんは優しげな顔つきなのに、彼は目つきが鋭く殺気を振りまいている。
「……オルクスさん、空間転移を悪用しないで下さい。俺は今東に向かってたんですけど」
「ははは、そう言わないでくれよリゼカ君。大分先まで運んであげたようなものなんだから」
「それによりによって、こんな場所に。最悪だ」
「うん、でも良い機会じゃないか。その子邪魔なんだよね。僕はエリアス様を連れ帰らなきゃならないんだけど」
「俺に何の関係が?」
「ヴァレスタ兄さんに褒められるよー?第五公に恩を売れるんだ。いざっていう時、公爵様の後ろ盾があると大きいよね?第四公とは馬が合わず、第三公を失い、第二公を西に籠絡されてしまった以上、第五公との繋がりは守っておきたい。だから僕との繋がりを兄さんは切れない。違うかな?」
「……そこの二人をヴァレスタの所まで運んでくれるなら考えます」
「お安いご用さ」
オルクスの安請け合いの声を合図に、馬の背から荷物が消える。仕組みの解らない僕から見ると、もうこれは魔法とかそんなようなもの。
「アルムちゃん……」
そんな訳の分からない力を持ったオルクスがこの場を任せる位だ。この少年は本当に恐ろしい相手。そんな危ない奴とアルムちゃんを戦わせるわけにはいかない。逃げよう。それか君だけでも逃げて。そう視線で訴えるも、彼女は震えて動かない。蛇に睨まれた蛙だ。
「君は……彼女の弟……君、だったよね?」
アルムちゃんを背にかばい、前へと進み出た僕を……赤毛の少年は上から下までまじまじ見つめる。
「誰ですか、あれ」
「あれがエリアス様。次期第五公だよ」
「どう見ても女の子ですけど」
「逃げる時に変装させたんだろうね」
「な、何ですか?」
場がしらけたような空気に僕は戸惑う。それでもオルクスと少年の会話は続く。
「オルクスさん、代わりに適当な人間拾って、欠陥商品の混血あたりの眼球取り替えて外見彼にして記憶植え付けて仕立て上げてもらうのは駄目ですか?」
「あー……その手もあるんだけどね。第五島はシャトランジアにも近いし割とオープンでフリーダムっていうか混血にそこまで偏見ない分、数術使いに頼るってことを覚えたから金積んで遺伝子鑑定教会にされたら不味いんだよね。マリアの時みたいにはいかないよ」
「売り飛ばしたら良い金になりそうだと思ったのに」
「ああ、ヴァレスタ兄さんは喜ぶだろうね確かに。実際問題高く売れるよねこの子。希少なカーネフェリーの男の子だし可愛いし由緒正しい公爵家の人間だし。まぁ、そう言うわけにもいかないから、この件での報酬は後で僕がキャッシュで支払うからお願いするよ」
「報酬、弾んで下さいよ」
「そりゃあ勿論。でもなるべく彼女は綺麗に仕上げて欲しいな。お腹の子は教会との交渉のカードになるから、生きてても死んでても」
「あんなんでも僕の身内です。その場合の分け前は8か9は貰いたいんですが」
「うわ、それはあんまりだよリゼカ君。せめて7か6。5:5だと尚のこと良い。っていうのは冗談で、身柄譲ってくれるなら10割出すよ?僕は知的好奇心のためなら割と支出は厭わない」
「はい、知ってます」
駄目だ、頭が痛い。二人が何を言っているかが解らない。僕を売り飛ばす話?それの次はアルムちゃんを殺す話?
「何なんだい、貴方たちは。どうしてそんな風な話が出来るの?おかしいよ」
「幸せなお貴族様には解るはずがありませんよ」
悔しかったらこの底辺まで落ちてみろと彼らは僕をあざ笑う。
「僕には解らないよ。お金なんかあっても何もない」
僕は部屋に一人きりだ。外の空気には毒が混ざっていると言わんばかりに、僕を部屋に閉じこめる。姉様だって傍にはいてくれない。僕を置いていった。母様だって死んでしまった。父様だって……僕が大切過ぎて、僕よりオルクスの言うことを聞く。
「この島に来てからなんだ。フォースが、トーラが、洛叉が……アルムちゃんが僕にいろんな物をくれたんだ。目には見えないものだけど、僕はその度にいろんな心を知ったよ。それはあの部屋には無いものだ」
「エリス君……」
「僕は第五島に帰っても良い。だけどアルムちゃんの安全とこの街の平和を保証されるまで、僕はここから一歩だって動かない」
「……クレプシドラ」
弟君は呪文のように不思議な言葉を呟いた。その言葉の意味を僕が理解するより先に、室内の空気が冷えていく。
「動かないのならそれでも構いませんが、凍え死ぬことになっても仕方ないですよね?」
「エリアス様ー凍死は苦しいですよー。あったかい第五島に帰りましょー」
「そんな脅しに僕は屈しません!僕が死んだら困るのはオルクス達だ!僕に死なれたくなかったらその冷風を止めてください!」
僕は僕が人質に足ることを知っている。だから近くにあったペンを掴み、そのペン先を喉元へと近づける。僕に死なれては困る彼らはちょっと困ってる。
「オルクスさん、どの程度までならやっていいんですか彼に。あの女を攻撃して庇われたりなんかしたら厄介ですよ」
「うーん……体に外傷が無ければどうにでも。体も致命傷じゃなければ僕が治療出来るしはっちゃけてくれてもいいかなと個人的には思ったり思わなかったり」
「それじゃあ、精神的には幾ら抉っても良いと?」
「ま、そうなるかな。記憶の上書きとか僕物凄い得意だし」
「なら、話が早いです。ここを目指してる者の中で、極力純血趣味の変態を飛ばしてください」
「ああ、なるほど。えぐいねぇ君も。それならとっておきの変態が居るよ」
混血二人が何か笑い合っているけれど、僕には良くわからない。だからその意図を尋ねようとした。けれど声が出せない。
「んんっ!」
「動くなよ」
背後から口と体を押さえられている。僅かに動く首でおそるおそる振り向けば、見覚えのある人間の姿。確かうちの城にいた使用人の一人だ。いや、一人だけじゃない。もっと大勢。それが僕の後ろにいたはずのアルムちゃんを僕から遠ざける。
いきなり現れた?いや、違う。人が入れ替わった!そしてそのまやかしを解いた。周りにいたここの人達、最初から全員、オルクスの手下だったんだ!今のはその内の一人を僕の真後ろに飛ばしただけっ!
「痛っ!」
「アルムちゃんを放せっ!」
ここは危険だ。せめて彼女だけでも逃がしたい。
口を押さえる手に噛みついて、僕は口の自由を取り戻す。
「大人しくしろ!」
「っ……」
「あの娘に手出しされたくなきゃ抵抗するな」
だけどすぐに思い切り打たれて、僕は半分意識が飛んだ。
「いやー長旅据え膳ご苦労様」
「オルクスの旦那、これがあんたの言ってた報酬かい?」
「うん、ちょっと早いけどまぁいいよね」
不穏な空気を感じる。だけどぼんやりした頭では危機感も薄れる。視線でどういうことかを尋ねるも、オルクスは優しく微笑むだけで……
「エリアス様、悪い子にはお仕置きが必要だ。それも第一島風のお仕置きがね」
「おし……おき?」
「ええ。それが終わる頃には良く分かりますよ。貴方が大好きなお姉様にどれだけ憎まれていたのかを」
「姉……さま?」
「君へのお仕置きの依頼人は、エリザベータ様なんですよ、エリアス様」
*
セネトレア第五島ディスブルー。
セネトレアの中でもっとも南に位置する島。気候は国内でももっとも温暖であり住みやすい土地ではある。しかし過去に行われた農業政策による環境破壊が原因で、島の大半が砂漠地帯となっている。
島の乾いた空気は様々な病を広げてしまうため、この土地では医学に秀でた者を重んじる。例えそれがタロック人であっても混血であっても、だ。
第五島は混血に理解あるシャトランジアとも近い場所にあり、島間では交流がある。セネトレア中でもっとも数術研究が盛んな土地を挙げさせるなら、まず名が上がるのはこの第五島。それ故第五島はセネトレアという国にあって、かなり異質な土地であるとも言える。
純血至上主義がまかり通るセネトレア国内では、第五島を忌み嫌う者は多い。混血狩り荷担する第二島、混血を作り売る第三島とは馬が合わず、金儲けのためなら混血でも気にしないという第一島、第四島とも剃りは合わない。だが、第五島が最も弱い立場にあるだとか、迫害を受けているかというとそうでもない。
広大な砂漠。そんな不毛な土地にありながら第五島が潤っているのは、ディスブルー島が類い希なまで地下資源に恵まれた島であるからで、第五公はセネトレア五公の中でもっとも大きな富を抱えている。その莫大な富で編成される第五公の兵力、造船力は一目置くに値する。
「まったく……一筋縄では行かんものだ」
ヴァレスタは深々と嘆息をする。オルクスと手を切れない理由は上記の通り。
五公の中で最も欲しい後ろ盾。それがディスブルー公。
オルクスはまんまとその懐に入り込み、彼を傀儡としてしまった。オルクスの協力さえあれば、俺がこのセネトレアの王になることは夢ではない。
(だが……)
あの男は信頼できない。一応は兄弟。身内。混血であり王位継承権を失ったという共通点。それがあっても俺もあれも、全く違う生き物だ。俺はあくまで商人であり、あれは商人というよりは研究者或いは探求者。金だけ積めば思い通りに使える駒に、あれはならない。この世で最も信用のならない者は、金に興味を示さない人間。
数術研究を行うための資金をあれはとうに手に入れていて、今更金銭を与えたところで俺に忠誠を誓わない。頃合いを見て切らなければ、俺があれに飲み込まれる。
そう思っていた矢先、カルノッフェルが戻って来たのは有り難い。マリアという女が壊れた以上、もう使えない。そう俺とオルクスは見限った。それが正気を保ったまま俺の下に戻った。腐っても狂ってもこの男がアルタニア公。それが俺の駒に戻るというのだから今尚第三島の力は俺の物。第三島の武力と第五島の兵力が合わされば、このセネトレア……落とすこともさして難くない。これはいずれオルクスを出し抜くための一手に変わる。
「ああ、姉さん……」
昏睡状態の那由多王子に面会させれば、カルノッフェルは愛おしげにその人形に頬擦りを送る。第三公たるこの男、それが自らの姉ではないと知っていてもそう呼ぶのは、この男にとっての“姉さん”は、最愛の人を表す言葉に近いから?
こんな眠るだけの人形に心を奪われるなど、所詮は駒。低俗なゴミ。俺はこうなるものか。
さぁ、惨めになれ那由多。俺は貴様とは違う。貴様が惨めになればなるほど、俺は俺の栄光を知る。この心は満たされる。貴様などに未練など無い。既に貶められるところまで俺は貶め辱めてやった。
そんな抜け殻のような眠り人形、抱えた公爵は俺に背を向ける。俺がいつそれを許したというのかまずは説明して貰おうか。
「何処へ行く?」
「第三島へ帰りますよ。僕の隣にこそ彼は必要。この人が傍にいてくれるなら、僕は第三公としての務めを果たして行ける」
「名前狩りは止めるのか?」
「……ええ、僕はこの目が与えられた意味を知ったんだ」
道化が、奇術師が。どんな手品を使ったのだ那由多王子は。
絶望の淵で狂ったはずのこの男を、正気に戻し、思慕の念まで植え付けるとは。あの邪悪な目の生み出す魔術か。やはりあの目は奪わせて正解だった。
そう思い目をやる先の人形の瞼の下にはふくらみが。オルクスめ、本当にもう手術を終えたらしい。醜かったはずの壊れた玩具が、眠るだけなら見栄えの良い人形に復元されている。
死体愛好とは愚かな男だ。こんな物、傍に置いたところで一円の価値も無い。いや、見てくれに無駄な金を消費する女を置くくらいなら浪費癖が無い分まだマシか?しかし、愛した女を失ったくらいで、今度は男に走るとは……滑稽すぎて片腹痛い。そう嘲笑ってみても、喉に支えた魚の小骨の如き違和感。その不快さが俺を苦しめる。
なぁカルノッフェル。俺はオルクスなどよりは、まだ貴様の方が信頼出来る駒だと思っていたのだ。貴様は金に興味はないが、確かに解りやすく使える駒だった。何故貴様も俺を裏切った?
ロイルもお前も……何故俺を裏切る。他の者に魅せられる。リィナなど屑だ。俺の足元にも及ばない醜いゴミだ。那由多王子が片割れ殺しで美しいと言っても俺も片割れ殺しだ。俺だって十分美しい。俺があの男に劣っている所など何もない。金も富も権力も知識も世渡りの術も剣術も策謀も何もかもが俺が勝っている。
「……答えろ、何故だ?」
素晴らしく完璧なこの俺に使って貰えることを何故光栄と思わない?それに至福を感じない?こんな薄汚い奴隷上がりの殺人鬼。如何に生まれが高貴であろうと、その辺りの娼婦の方がまだ清廉と呼ぶに差し支えない。なのに何故、貴様はこれを讃える?俺を崇めない?
「貴方は許されたことがありますか?……僕はある。僕なんかの罪を背負ったこの人は本当に綺麗で、慈しみ深い。彼は僕に本当の愛という物を教えてくれました」
「ふん、くだらん。貴様の言う愛とは何だ?」
あんな茶番のパフォーマンスに絆されただと?愚かにも程がある。俺が鼻で笑うも、男は笑わない。
「……奪うことだと貴方は言うのかもしれない」
「違うな。与えることさ、この俺に。俺が愛してやるというのが、奪うことになるだけだ」
「不平等ですね、流石です」
今度は俺が笑われた。不愉快ながら一睨みしてやるも、カルノッフェルは臆さない。
「でも違う。本当は許すこと。この人は綺麗だ。貴方にどんな酷いことをされても、それで貴方を憎んだりはしない」
「どうだかな。それは貴様の思い込みだ。何もなくなれば、泣き叫び許しを請うだけの赤子のような無力なものだったぞ?」
「それはありえませんね」
「何故そう思う?」
「彼が王だからです」
遠回しにこの俺が王ではない。そこの娼婦擬きが俺に勝った存在だと断言されたようで腹立たしい。それでも思い起こすに、確かに無駄にこの男は手強い。とんでもなく弱い癖に、その精神だけはしぶとい相手。
那由多王子……リフルという人間は、王族らしく気位が高い。しかし守る相手のためなら幾らでも身を投げ出すという王族らしかぬ低俗な自己犠牲の精神がある。そのためプライドなど無いと思わせるが、そんなことはない。
「悲鳴は上げたが」
「それでも許しは乞わなかった。違いますか?」
まるでそれを見ていたかのようにカルノッフェルは言う。何様だ貴様は。
「……そうだな。これはこの愚か者が選んだ答えだ」
別に俺が犯したかったわけじゃない。逃げ道はあった。そのすべてを蹴って俺を挑発したこの馬鹿が悪い。俺が痛めつけたかったのはその生意気な心だ。へし折って隷属させたかったのはその精神だ。目玉を刳り抜かれても、嬲られてもまだ、俺に屈さない。その頭を垂れてつま先に口付けない頑固者。かつて世にここまで憎たらしい相手がいただろうか?あの傲慢な刹那姫さえ、想像の中ではこの俺に跪いたぞ。しかしSuit……貴様だけは、俺は頭の中でさえ跪かせる図が想像できない。人質を取って傅かせたところで貴様は、心の底ではこの俺を嘲笑っているのだろう!?嗚呼っ、何とも腹立たしい男だ!
「愚者は愚者。100年足掻いたところで愚か者。愚者は王になどなれん。賢い生き方を放棄した時点でこの男は、王たる資格を失ったのだ」
「……そうかもしれません。しかし誰もいない荒野さえ、花は咲き月は現れる。そこに誰もいなくとも、彼には治める国があり、彼が王であることは揺るぎなき真実です」
「王の本質は王だとでも?」
「はい。貴方が否定し、誰に認められなかったとしても、彼は王であり、それは覆ることはありません」
それはとんでもない、ぶっ飛んだ理論。こんな狂人が王だと?笑わせるな。
俺はもう一人の愚かな男にも理解できるように優しく物を説いてやる。
「下らんな。花など枯らせ、月など沈め、撃ち落とせ。良いか?一つ教えてやる。この世には二種の存在が居る。虐げる者、虐げられる者。征服者と隷属者。だからこそ俺が王だ。王は一人で事足りる」
「いいえ、彼が貴方を征服する者です。気付いているはずです。貴方の心は既に彼に魅せられている。僕もそうであるように」
「馬鹿は貴様だ。他者に執着しなければ生きることも出来ない弱い人間。嗚呼、醜くも浅ましいっ!俺は違う!誰が死んでも、何を無くしても、俺は常に俺のまま!怒りも悲しみもせず、俺は生きていくだろう!」
自信を持ってそう言える。俺は強い。誰よりも強い心を持っている。この鋼の精神が王の器でなくて何だと言うのだ。那由多王子……リフルなど、めそめそとすぐ泣く。女々しい奴よ。俺は金のためなら泣く演技など喜んでするが、金にならない優しさも演技も行わない。金を確保し守るのもまた、王に必要な能力。あの阿呆は金とのつきあい方も知らない。純粋な力の強さ、政治手腕、財源確保、王としての力量は、何もかも俺が勝っている。うっかり暗殺されて死んだような阿呆と比べられること自体が腹立たしい。
「それは違うよ、ヴァレスタ。貴方は強いのではなく、可哀相な人なんだ」
俺への敬いを一つ残らず捨てて、俺を哀れむように愚かな男が俺を見る。その侮辱に俺は憤慨し、そのゴミを簡単にくれてやるのが惜しくなった。そんな考え一つにも、俺の頭脳は策を練る。
「よかろう。そこまで言うのなら……貴様はどうなのだ?」
「え?」
「俺はすぐにそれを貴様に与えてやるとは言っていない。この俺に金より素晴らしい物があると言ったのだ。見せて貰うとしよう」
そう。この男は俺に援軍を貸すことを約束したが、それが実際俺のためになっているかが解らない。過程ではなく結果がすべて。約束を果たすのはそれから、それが当然だろう?
「信用は金で買えても信頼は金では買えん。いいか、一度命令違反を犯した貴様は信頼に足る相手ではない。故に褒美はまだやれん」
オルクスなどに出し抜かれ、まんまと踊らされた罰だ。もう少し働いて貰うぞ。
俺としてはSuitかオルクスと相打ちくらいにまではなってもらうつもりだったのだ。万が一負けたとしても第三公を手にかけたとあらば、大義名分を得てそれを討つ理由にもなる。だがそのどちらも健在たる今、さっさと退場しようとした罪、贖って貰わなければな。
「これが欲しいのなら、最低一枚はカードを狩って来い。そうすればまたこれに会わせてやろう。……そうだな。貴様より弱いカードすべてを狩って来たのなら信頼してやっても良い。この人形をアルタニアにでも引き渡す。その後戸籍を捏造して貴様の望む立場の者にしたとしても俺は文句は言わん」
この人形が欲しいなら俺のために働け。信頼を勝ち取れ。そう命じるも、愚かな男は一瞬反抗の意思を見せた。後天性混血、身体能力なら俺に勝ると思ったか。百歩譲ってそれは認める。しかし俺も片割れ殺しの混血だ。そうそう遅れは取らない。見えることが今のこれの弱点だ。
鞘から得物を抜き払い、軽く振るうだけでも刀身がブレ、刃が増える。俺が本気でやったなら、後天性混血でも敵ではない。
「俺はそれと違って数術も使えるぞ?」
「…………」
相手が悪い。それは解っているはずだ。
数術使いの弱点である接近戦。剣術を極めることでそれをカバー。そして片割れ殺しの持つ瞳の力。そこの人形の持つ魅了邪眼は外れに等しい。俺の目は、もっと使える能力だ。
「解るかカルノッフェル。俺は命令一つでそのゴミを葬り去るも容易いと」
夕闇に包まれた部屋の中で俺の目が変わる。タロックの赤からカーネフェルの碧になった王者の瞳。宝石の中の王を冠する俺の目の美しさは王の力をそこに宿した。
平伏さずにいられまい。恐れ戦き恐怖しろ。従わざるを得ないのだ。
「……心配しなくとも、彼を引き受けた後も、第三島は貴方の支持を続ける。これでも信頼には?」
「足りんな。貴様は大暴れをし過ぎた。第三島中で内乱でも起きてみろ。貴様からの支持などあってないようなもの。そんな不確かな物を信じられる物か」
その気になればそんな人形すぐに数術で壊してくれる。お前はそれを守りながら戦うことは出来ないだろう。それはまだ昏睡状態。少しの衝撃でもショック死しかねない状態なのだ。その不安を煽ってやれば、馬鹿な男は俺の瞳に恐怖する。
「まぁ……上位カードすべては言い過ぎだったな。貴様一人でそこまれやれるとは思わん。だから、オルクスを討て。奴の首さえ持ってきたなら、そこの那由多王子はくれてやろう」
しかし何事も飴と鞭。先ほどの要求は勿論高望み。この第三公に討たせるのはオルクス一人で構わない。そう思っていたのだが……
「ヴァレスタっ!」
「リゼカ?」
室内に飛び込んで来た、俺の飼い犬が引きずる大荷物。気を失っているようなリィナとロイル。リィナの顔は青白く、ロイルの方は重傷だ。リゼカが傷の治療を現在進行形で行っているようだ。
「……何があった?」
この奴隷は空間転移の数術は使えなかったはず。ここに飛んだと言うことは、埃沙かオルクスの力を借りたと見て良い。しかし仮にもコートカードのロイルにここまでの手傷を負わすとは。向こうにはコートカードは那由多王子以外に居なかった。なら、何が起こったと言うのだ?
「ライトバウアーは落とした。西裏町へと向かう際に二人を救出。東を目指す中で、オルクスに飛ばされた。ロイルさんは片目を切り刻まれて僕の力じゃ治せない。リィナさんは毒で……殺された」
「相手は?」
「アスカ……アスカニオス=キャヴァロ。リフルさんの騎士で、スペードのⅨ……風の精霊持ちの剣士。シャトランジアの名家の生まれだ」
「……騎士、か」
ロイルの馬鹿力は相当だ。腐っても戦闘狂のロイルに勝つとはただ者ではない。唯の剣士なら力負けしてしまう。俺でも正面から無策で挑めばまず敵わない。純粋な力勝負と腕力で、あれに敵う相手はそうそういない。だが馬鹿な所が玉に瑕。そこに、卑怯で姑息なこの女。毒と火薬の扱いに長けたリィナと組めば数術使いとでもやり合えるのが俺の弟の強みだ。それを以てしてもここまでの大敗。ただ事ではない。
「ヴァレスタ、どうする?」
俺の足下に跪いた混血の少年。半年前からでは考えられないほど俺に従順になった駒。精神が子供であるが故……ちょっとしたことで俺と衝突しそのケアが面倒くさい駒ではあるが、精霊憑きの数術使いで回復数術、音声数術も扱える。そこそこ有能であることは認めざるを得ない。俺を敬う気持ちは低いが、俺への依存は随一で、俺に心酔しているのは良く分かる。そう言った意味では信頼の置ける駒。
「西に残したグライドが心配だ。助けに行く。着いて来いリゼカ」
「はい、ヴァレスタ様」
命令の時だけ、嬉しそうに俺を讃える。いつもは棒読みの敬称も、この時ばかりは歓喜に震える。俺の後ろに付き従う姿には、雑種の駄犬でも可愛げという側面は一つくらいはあるものなのかもしれないと思い始める。純血でありながら使えない妹に比べれば。
「ミイラ取りがミイラになるとは……情けない」
愚妹め。最後まで使えん女が。
薄汚い妹の頭を地に強く踏みつけて、最後に部屋を振り返る。
「カルノッフェル、もう一人殺す相手に追加する」
「……相手は?」
「アスカニオスというその男、この人形を餌に誘き出せ」
数術を一つ紡ぎ、俺は静かにほくそ笑む。
*
数術を使ったらエリス君を殺すと脅された。唯私はそれを見せられている。逃げ出したいけれど、そうしてもエリス君を殺すと言われた。どうして良いのか解らず、目を背けることしかできない。
「な、……なんなの、これ」
「ご覧の通りエリアス様はなかなかの美少年でいらっしゃる。おまけにレアなカーネフェリー。第五公の城には彼に懸想する連中も多くてね。だけど城の警備は厳重だ。そのエリアス様が野放しになったんだ。手を出したくて堪らないって彼らに僕が協力してあげたんだよ。表向きは彼の奪還。信用できない人間だって捜索のための人員は必要だろう?」
「止めて、エリス君、嫌がってる……っ!」
「大丈夫大丈夫。記憶を塗り替えてなかったことにはしてあげるから。唯、わけもわからず得体の知れない恐怖とトラウマを抱えるようになるだけさ。そうなればこれから傀儡にするのも楽になる」
「そういう、問題じゃ……なくてっ…」
嫌なのは本当は私。見たくないの。自分の罪を曝かれているみたい。エルムちゃんの方を見られない。どんなに嫌悪しても同じ。私は今エリス君を苛めてる人たちと同じ。何を言っても私に返ってくる。それは綺麗事。私も汚い、汚れている。
「可哀相な彼の姉様は、そういう連中に襲われたことがあってねぇ……プライドがズタズタだろうよ。弟に……それも男に負けて、その身代わりに汚されたなんてさ」
そんなわけで今回ばかりは兄姉の味方の僕も彼の肩を持つんだよと、オルクスはエルムちゃんを指さした。
「エリアス様、駄目ですよ。ほぅら、愛しのアルムちゃんが見てますよー。好きな女の子の前で泣くなんて情けない公爵様がいたものですねぇ。ああ、そのドレスも良くお似合いですよ、男の子なのに情けないったらないですね」
大きく見開かれた青い瞳。そこからボロボロと溢れる涙。上がる悲鳴は次第に弱々しくなり、押し殺すような呻き声が時折発せられるだけ。
「酷いよっ、どうして?……エルムちゃんは、こういう辛さが解るのに、どうしてこんなことするの!?」
心を踏みにじられる苦痛。死にたくなるような絶望を、知っていて他の誰かにそれを教えるのは間違っている。私が彼にしたことで責められるのは仕方ない。私がこういう目に遭うのなら、それは仕方のないこと。だけど、どうしてそれがエリス君なの?
「彼は別に僕じゃない。彼の苦痛は僕の苦痛じゃない。それでもそれはお前の苦痛だ。だから僕はあれを止めない」
「そんな……っ!」
これは私の所為。起こるべくして起こったことだと彼は私の罪を糾弾する。だけど、……エルムちゃんだってそれを直視できていない。その体が震えている。目の前のそれを恐ろしいと言うように……
「エルムちゃん……何か、あった?」
「お前に俺の何が解るっ!俺から何もかもを奪ったお前なんかにっ!!」
向けられる憎しみは、前に出会った時より大きい。一分一秒ごとに私への憎しみを募らせる。
「馬鹿な次期公爵様もこれで勉強になっただろう?惚れる女は選べって。こんな薄汚い女に関わるからこんな目に遭ったんだ。さっさと島に帰れば良かったのに。でももう関わる気は無くなっただろう?言ってご覧よ、こんな女大嫌いだって」
「僕は……っ、アルムちゃんが……好きだ」
「まだ、そんな馬鹿なこと言ってるんだ」
弱々しい声。それでも私に変わらぬ好意を伝えてくれる彼に、私の両目からもとうとう涙が溢れる。
「エリ……ス、君……」
もう、目を背けることは許されなかった。私は彼を見た。私が見たのは汚されても尚、曇ること無い綺麗な綺麗な彼の瞳と……その輝きに圧倒される弟の姿だった。
私はもう、どちらをどんな風に好きだったかなんて解らなくなっていて。そもそも好きってどういう気持ちだったかも思い出せなくて。唯私も彼に圧倒されていた。
そういうのって信仰っていう言葉に似ているかもしれない。私は神様っていうのを目にしたような、そんな気持ちでいっぱいだった。シャトランジアにいた頃は、教会に通ったりもした。セネトレアに来てからは、神様なんかいないって思ってた。神様っていう人が私の気持ちを悪だと言った。私がエルムちゃんを好きな気持ちは間違ってるって。だから私は漠然と、神様っていうものが嫌いだった。目にも見えないのに、何処にいるかも解らないのに、私のすべてを否定する存在。
だけどエリス君は今ここにいて、この目に映り、私を認めて許し、愛してくれる。こんな薄汚い私を、好きだって言ってくれる人。こんな駄目な私でも、私が生きていて良いんだよって彼は優しく言ってくれる。こんな祝福を受けて、私は何を感じればいいの?好きだとか嫌いだとか、そんな言葉がちっぽけに思える。止めどなく溢れる涙は感謝と感動。それ以外の言葉を私はまだ知らない。
「どうしてそこまで、こんな女を愛せるんだ?こいつは身勝手で自分勝手で我が儘でっ!自分のために人を傷つけ不幸にするっ!お前だって今そんな目に遭ってる!この女さえ居なければ!出会わなければお前はそんな目には遭わなかった!」
「それは、彼女の所為じゃない……」
それは起こりえること。例え私と出会わなくとも、一瞬の油断があればそれは起こりえることだと彼は力なく笑う。
「僕は、安堵……してる」
「はぁ!?わけわかんないよお前っ!」
「これが、僕で良かった。アルムちゃんが無事なら僕は……それで」
「……エリス君っ」
数術を、私は完全には制御できない。だから心が暴れ出すのと同時に、私は術を紡いでしまった。床下から地下水道、あっこっちから水が噴き出す。
「エリス君っ!」
何度も彼の名前を呼んだ。その度にTORA本社の中に水が溢れる。それに飲まれた人達が、建物の外へと押し流されたり壁へと押しつけられたり。
「今すぐそれを止めろっ!」
「そんなの私に止められないっ!」
脅されたってどうすれば止まるのか解らない。どんどん地下水があふれ出す。私の声に建物に亀裂が入る。崩れて何人かを押し潰す。止めることは出来なくとも、攻撃のコントロールは利くみたい。エリス君は無事だけど、まだ何人かの人に押さえつけられている。攻撃しようにも手出しが出来ない。
その時新たに吹き出す地下水一つ。それが吹き出したのは丁度彼らの足下で……水柱から飛び上がって来た黒い影は男達を蹴り飛ばし、エリス君を抱きしめる。
「悪い、遅れた」
助けてくれた人が誰か気付いたエリス君はまた泣いた。安心したんだと思う。
エリス君は私の王子様だけど、エリス君の王子様は私じゃない。どうして私は男の子じゃないんだろう。守られてばっかりで、守れない。それが悔しくなるくらい、今の彼は素敵に見えた。
「フォース……っ」
ぎゅっと首に抱きつかれたフォース君は苦笑しながら、エリス君の背中を抱いた。
いつも結ってる黒髪は水の勢いで解けたのだろう。水気の所為か私の抱いていた印象よりも長い。ちょっと大人びて見えるフォース君は少し格好良かった。
でもよくよく考えればピンチの前に来たんじゃなくて、あらかた終わってから来る辺り、やっぱりヒーローとしては抜けている。でもエリス君の心は守ってくれたんだろう。エリス君はまだ、壊れていない。
「うわっ!」
突然辺りの水が凍り出す。私を含め、大勢の人間がその氷に囚われ動けない。体半分埋まっている私なんか抜け出せそうにもない。そこをフォース君が蹴りでヒビを入れてくれ、何とか身を捩って抜け出した。彼自身はその攻撃の瞬間にジャンプして逃れたらしい。運動神経良いよね、フォース君。いいなぁ。
私がそんなことを思っている内に、エルムちゃんとフォース君が対峙。フォース君が来てくれただけで私も安堵してしまっていたんだね。こんな場違いのことを考えられるくらいには。私はそれに対してもありがとうと思うのだけれど、フォース君を神様みたいだなとは思わない。その違いはなんなのだろう。考えても解らない。
「そこの男に何吹き込まれたか知らないが、カードでもない人間を苦しめるなんて見損なったぜエルム」
「カードに揺さぶりをかけるための、合理的な手段ですよフォースさん」
「俺は馬鹿だから計算とかわかんねぇし、嫌いなんだよ、そういう考え」
「だから貴方の家は貧しかったんじゃないですか?」
「馬鹿は確かに馬鹿だが欠点じゃねぇ。貧乏だって同じだ。むしろステータスだろ、貧乏萌えって言葉を知らないのかお前は!リフルさんとか元王子様なのに一時期その日暮らしだったんだからな!あんな美形なのに貧乏とかむしろ可愛いだろ捨て犬みたいでっ!アスカだって二年前とか金貯め込んでた割にプーっぽい印象だったじゃん!むしろそういう駄目っぽいところがアスカらしさで親しみがあったぞ!あれで金金してたら俺あいつのこと嫌いだったよ!結論としてっ貧乏は正義っ!薄情な人間よりよっぽどそっちの方がマシってもんだ」
フォース君の根拠のない意味不明な言葉の羅列。それでも無駄な自信と気迫が生み出す説得力。それにエルムちゃんは押されていく。
「剣の王の傍にいただけはあるか。言葉の魔術はなかなかだなぁ……」
呆れたように呟くは、宙に浮いたオルクス。あれで水を避けたのだろう。
「とりあえず、エリス。お前を苛めた奴はどいつとどいつとどいつとどいつだ?」
「なんだかんだ言ってカード以外も殺すんじゃないですか貴方も」
「うるさいっ!それだけのことをこいつらはやったんだ!」
ぼそっと呟いたエルムちゃんを睨み付けるフォース君。
「片っ端から殺してやるよ。俺がリフルさんから止められてるのは俺のための殺しであって、誰かのための怒りは悪じゃねぇ」
「駄目だよフォース、殺されたら痛いじゃないか」
たぶんその場で目が点にならなかったのはエリス君だけだと思う。
「え?いや、あの……お前今、すごい酷いことされたんだぞ?ここは殺しておくべきだろ?再犯なんかあったら……」
「でもフォース、僕は死んでないよ?そりゃあ痛かったけど……姉様に飲ませられたお薬の方が痛かったかなぁ」
「……エリザの奴、本気で何やってんの?……じゃなくてっ!」
エリス君は本当に綺麗な目をしてる。自分のために何かを怒ることを知らないような目だ。
「貴方が弄ったんですか?」
「いや、僕は人格までは弄ってないなー。そんなことしなくても割と従順だったし僕を怖がるエリアス様、可愛いし」
「変態ですね」
「いや、それほどでも。ヴァレスタ兄さんには負けるかな」
「じゃああれが……彼自身の、心?……そんな、馬鹿なことが」
「あれ、リゼカ君僕スルー?」
彼の優しさは敵まで及ぶ。それにエルムちゃん達も動揺を隠せない。
エリス君を苛めてた人達も、開いた口がふさがらない様子。邪な感情を抱いたことを恥じるような、神聖なものを見るような目で彼を見上げる。
「……じゃ、全員全裸にした両手縛って両足木から吊した後に、土の中体半分埋めて端から端まで全員薪の二、三本でも尻穴に打ち込んで火つけてから放置するか。それと一緒に下から蛇でもぶっ込むか。その前に餌用に蛙を何匹か詰めといて、ついでにぶっといミミズとか。その程度なら良いよな?」
「残虐公の番犬やってただけあるね、君」
フォース君を軽んじていた様子のオルクスは、真顔でそんなことを呟いた彼に度肝を抜かしているようだ。
「まだまだ生ぬるいですねフォースさん。そこは高温蝋燭にしましょうよ。低温じゃなくて高温の方。それでそこに色とりどりの硝子細工で蓋をして、街灯代わりに夜の表通りにでも飾って羞恥プレイも盛り込みましょうよ。ついでに靴下だけ脱がせないとか、一物をリボンとレースで飾ってやるとかそういう情けがより羞恥を引き立てます。全裸は甘えです」
「あのさ、リゼカ君。君ってどっちの味方だったかな?」
オルクスさえドン引きする、私の知らないエルムちゃん。エルムちゃん、なんだかとっても楽しそう。お姉ちゃんは微妙な気持ちになります。
呆然としている私に微笑むのはフォース君に抱きかかえられたエリス君。
「別に僕は優しくない。唯、自分の言った言葉を守ってるだけ。アルムちゃん……僕は言ったよね?直接謝れないなら、君は他の誰かを許してあげなさいって」
「エリス君……」
確かに彼はそう言った。これまで神様みたいに見えたその子は今、私と同じ等身大の人間でしかないんだって気がついた。
同じ人間なのに、彼はそんな風に強く大きくあろうとしている。彼をそうさせているのは、私への戒め。私の幸せを願ってくれる祝福。私がエルムちゃんに幾度も告げた言葉より、大きくて優しくて、愛に溢れた告白だった。
エリス君は、こんな私を本当に好きでいてくれる。その気持ちのためだけに、ここまで優しくなろうとしている。どんなに辛くても、どんなに苦しくても……
「エリス君っ……私っ、……私っ……」
いつか許されるなら、貴方が好きだよって言葉にしたい。今はまだ許されないけれど、いつかエルムちゃんに許される日が来たら、貴方を好きになっても……いいの?こんな、私でも……
エリス君は私に優しく笑みかけて、次にエルムちゃんに慈しみに満ちたその目を向ける。
「僕はアルムちゃんにここまで助けて貰った。その気持ちがある。だから許せるんだ。僕が今されていること、その一因に君が絡んでいるなら、僕は君を憎まないし許してみせる」
「っ……、それで、何の得が貴方に」
「エルム君……だったよね?」
「……ええ」
「僕はここにいる人の誰も恨まないよ。その代わりさ、他の誰かを許して優しく出来る気持ちをもってもらえたら嬉しい。その優しさがいつか巡り巡って君へと届く日が来る。それがアルムちゃんから君へのごめんなさい、なんだ」
「意味が、わかりません。姉さんが……っ、貴方に何を与えたって言うんですか!?あんな女っ!今まで人を傷付けてっ!奪ってくることしかして来なかったっ!!」
「僕は、彼女が笑ってくれるだけで温かい気持ちになる。フォースが壁を破って来てくれた時みたいに、差し込む光みたいに温かくて優しくて……それだけで僕は、幸せな気持ちになれる。生きてて良かったって思えるんだ。だから僕はこれから何があってもすべてを許すよ。それは全部アルムちゃんのためだ。僕が彼女から与えられたもの、全部……君に届くまで、僕は何も恨まない。僕は君の幸せも願っている」
エルムちゃんに弱々しく差し出された小さな手。暗闇にいる彼をそこから救い出そうとするエリス君。だけどエルムちゃんはそれに背を向ける。
「僕らより幼く無垢で、それでも僕らより大人…………貴方は素晴らしい人だ。それは認めます。だけど、貴方は姉さんありきだ」
「エルムちゃん……」
私への殺意が僅かに揺らいだような弟の目。エリス君の前で、私を殺す勇気が無いのだ。どんな手を使ってでもエリス君は私を守ろうとしてしまうだろうから。エルムちゃんは私が嫌いでも、エリス君を少し好きになってしまったんだ。だけど……エルムちゃんを一番に選ばないエリス君を、エルムちゃんも一番には決して出来ない。
「例えあいつとより先に貴方に出会えても、僕は貴方を選ばない。最低でも最悪でも……僕の一番は、ヴァレスタなんだ」
帰りたい、会いたいと……エルムちゃんが恋い慕う。その人は私たちを切り裂き引き離した張本人。だけどその人を語る弟の目は、本当に愛しい人を語るよう。心の支えに縋るよう。
「オルクスさん、すみません。この件はなかったことにしてください」
「やる気なくなっちゃった?」
「……今日はそういう気分になれません」
撤退を求めるエルムちゃんに、無理強いはしない様子のオルクス。場の空気が変わっていく。エリス君は数術使いじゃない。カードでもない。なのに体を張って戦いを終わらせた。
(……あれ?)
引き下がるエルムちゃん。すれ違った瞬間、服の袖から覗いた腕輪。……見覚えがあった。
フォース君の手を見る。腕輪はある。
「ディジット……?」
私のつぶやきに、エルムちゃんは足を止める。
「…………戦えない理由って、そういうこと……なの?」
「…………エリアス様は、ディジットに似てる。戦えないし弱い癖に……大きくて、強い」
ディジットは毒に冒されていた。洛叉先生がどうなったかはわからない。でも、きっとディジットは……今のエリス君みたいに……?彼はきっと、そんなディジットの亡骸に出会ったのだ。それでそれを形見として持って来たのだろう。
それまで私は、この場が落ち着いたことを喜んでいた。だけど瞬間的にわき上がる怒りが私を暴走させる。
エリス君が乱暴されることをよしとした男。ディジットに毒を盛った男。ならディジットだって酷い目に遭わされたんだ!そういう酷い死に方をしたんだっ!
「オルクスっ!貴方が毒なんか使うからっ!」
恨みの言葉。呪いの言葉。荒れ狂う水が刃に変わる。
「よくもっ!ディジットをっ!!」
許せない許せない許せないっ!この男が許せないっ!エリス君を操って、ディジットを苦しめてっ!ディジットを殺した!
呪詛の言葉が次々と私の武器を増やしていく。水かさはどんどん増えて行き、床上浸水上等レベル。テーブルの上に飛び乗ってようやく私も無事。
外から人々の騒ぎ声。見れば迷い鳥からやって来た商人達が西裏町まで到達したところ。これから街を焼こうとしたのに、水が溢れて騒ぎになった。それに気付いた街の人々が地の利を生かしての戦いを始めたのだ。中には数術使い達も大勢いる。この本社にいた人間達は別の場所に潜んでいたらしい。
それは見えるのだけれど、私の意識はあくまでオルクス一人に向かっている。私の攻撃も彼だけを狙って自動操縦。外への支援までは回らない。
「落ち着けアルムっ!お前は数術制御が不完全なんだ!万が一でもお前やエリスに何かあったら大変だ!」
フォース君が何か言ってる。だけど私を止められはしない。止まること無い水の砲弾。飛んで避けるオルクスを何処までも追いかける。空間移動の数式も、私の言葉が相殺し紡がせない。
増えていく水嵩。そのすべてが私の味方。空中、足下に留まる水は私の号令を待っている。撃ち出され、あの男を切り裂き殺すことを待ち望む。体中穴だらけにしてあげる。水の剣、水の針。それで壁に縫いつけてあげるの。肉片一つ無くなるまでずっとずっとずっとっ!
当たった!とうとうオルクスを捕らえた!あと一声で蜂の巣に出来る。だけどそんなにすぐ死なせない!足のつま先から頭を目指してじわじわと縫いつける!
すぅと息を吸い込んで、捕獲を私は望んだ。だけど……
「……止めろよ、“姉さん”」
「なんで!?何で邪魔するのエルムちゃんっ!!」
発した言葉に撃ち出された水。それをエルムちゃんは氷の剣で叩き切る。
触れた場所から水を氷に変えて、軌道をそらす。私の武器を減らしていく。
「退いてっ!」
「嫌だっ!」
私の攻撃すべてがオルクスに届かない。そのことに私は苛立ちを感じ始める。こんなこと、初めて。私がエルムちゃんに怒りを抱くなんて。……エルムちゃんが他の女の子と話しているのを見る時?私を拒む時?その時感じたそれよりずっと激しく強い怒り。瞬間的に、彼の死さえも望むような、それはとても暗い怒りだ。
私が嫌いなのは解る。それだけのことを私はした。だけど、私が嫌いだからってディジットを殺した人を守らなくてもいいじゃない!
「この人はヴァレスタにとって大事な商売相手なんだ。金づるでもあり第五公との繋がりを守るためにも失えない相手」
「そんなの私に関係ないっ!」
「ああ、そうだね!姉さんはそういう奴だっ!僕を好きだなんて言っても、僕の幸せを願わないっ!僕の大事な人がどうなってもいいと思ってるんだろう!?」
理解できない。どうして?どうしてそんな奴庇うの?
「エルムちゃんだってディジットのことは大好きだったじゃない!なんで邪魔するの!?退いてよっ!私、知ってるのよ!トーラから聞いたっ!私が零の数術使いっ!」
数術使いには三種類の人間が居る。
一つ目は壱。壱の数術使いは攻撃数術以外に回復数術を扱える。外の元素を取り込み数術を行う術者。
二つ目は零。零の数術使いは回復数術を使うことが出来ない。その代わりに攻撃数術は壱の数術使いよりも遙かに強い物をマスター出来る。だけど元素を取り込むことが出来ない。
例外的な三つ目はその両方を兼ねそろえた者。これは自分に扱えない数術を使える精霊を手に入れるか、突然変異で両方の系統に覚醒するかなのだけど、基本的にこの三つ目はないと考えて良いとトーラは言った。
そして彼女は教えてくれた。混血の双子はそれぞれが壱と零を分け合って生まれる。だから私が零ならエルムちゃんは壱。攻撃数術での勝負で、彼に勝ち目は無い。それを補う元素の塊が彼には憑いている。だから今は拮抗しているだけ。
私は音声数術で即座に術を紡げる。だけど精霊の力を借りるっていうことは、意思ある別の存在との呼吸が大事。どうしても彼の方が発動まで遅れてしまう。だから彼は防戦に回らざるを得ないのだ。攻撃の手を増やせばいつか彼が押し負ける。
「数術なら私の方が強い!どうせ勝てないんだから怪我をする前に退いてよ!」
「姉さんなんかに僕が負けるものか!そんなの屈辱以外の何物でもないっ!」
馬鹿なエルムちゃん。
今の季節は夏。やがて氷は溶ける。一時的な足止めにしかならない。それは解っているはずだ。第一凍らされたってセネトレアは海に囲まれている。武器なら困らない。私と彼の数術合戦、先に力尽きた方が負け。そういうことになる。
負ける気は微塵もない。彼の扱う数術が見える。何でも出来るエルムちゃん。いつも私を助けてくれたエルムちゃん。だけど、数術のレベルは低すぎる。精霊が傍にいなければ、こうして戦うことだって出来るかどうか。致命的なまでに戦闘に向いていない。消費と奇跡の結果が割に合わない計算式。
それでもエルムちゃんにも見えてるんでしょ?私の計算式。いつも馬鹿にしてた私が、エルムちゃんより高等な数式を扱えるのが、見えてるんでしょう?悔しそうな顔も可愛い。ああ、ぞくぞくする。
「……僕が姉さんに勝てないことはある。それでも、僕が勝っていることだって何かはあるんだ!」
「何、それ」
「ディジットはもういない。僕が殺した」
「嘘っ!」
「嘘じゃない。僕は選択した」
エルムちゃんの、冷たい目。許せない。それは私を見ているの?それともそれは、ディジットに?それなら私は許せないっ!
「僕の帰る場所は、ディジットじゃない。姉さんには奪わせない。やっと僕が手に入れた……僕の居場所」
「あんな奴っ、エルムちゃんを利用してるだけだよ!」
「それでも僕は……っ、あいつしかいないっ!あいつだけ、あいつだけが……僕を見つけてくれるっ!」
エルムちゃんは泣き叫ぶような声を出し、手にした剣で自らの首筋を刺す。流れ出る血を剣へと触れさせ残りは足下の水へ。
「僕を食らえクレプシドラ」
氷の剣がエルムちゃんの腕から離れ、長い髪の綺麗な人の形に変わる。
私が呼び寄せた水は水の元素。私の武器は水の精霊の力をも増大させてしまっていた。精霊は愛おしげに彼の傷へと口づけて、その血を舐め啜る。それを合図にするように、突然エルムちゃんの姿が空気に解けて見えなくなった。
「え!?」
数術?いや、違う。気配がしない。目を凝らしても何も見えない。彼と精霊の代わりに現れたのは巨大な龍。水で出来た赤い瞳のそれは膨大すぎる元素の塊。あの精霊が契約者であるエルムちゃんの支援を受けてパワーアップしたものだと思う。だけどどこからもエルムちゃんの気配がしない。取り込まれたわけではないだろうに、彼が見つけられない。
「きゃあっ!」
不意に感じた痛み。それに発した声が紡ぐ水の防御壁。自動的に私を守る数術を私は紡いたのだろう。傷の切り口は鋭く冷たい。
「エルムちゃん……」
見えないけど、いるんだ。私を殺そうとしているんだ。それにいち早く気付いたのはフォース君。
「気をつけろ!アルムっ!今そっちに……エルツっ!くそっ……相手が悪いって!?」
エリス君を抱えたまま、一瞬躊躇い……だけどしっかり彼を胸に抱き、すぐに私の方へと駆け寄って来てくれる。エリスだけ連れて逃げるわけにはいかないと。そんな使命感に狩られた彼の背中を襲ったのは水。その冷たさと違和感に彼が振り向く寸前に、凛とした声が建物内へと響く。
「焼き払えフェスパァ=ツァイトっ!」
その火を操ったのは長い茶髪のタロック人。可愛い顔をした男の子だ。フォース君よりちょっと年上?同じくらい?ちょっと大人びた感じの子。元は優しい顔なんだろうけど今はつり上げられた眉と赤い目、怒っているのが見て取れる。
「ゴミ共が。リゼカ、僕はお前を心底見損なった。仮にもあの人の道具でありながら、こんな変態共の片棒に荷担するなんて」
「は?……フィルツァー先輩?」
エルムちゃんの声が上がった。見えない、だけどいる。
「ぐ、グライド……なんか今日良く会うな。会わない時は半年とか一年半も遭遇しないのに」
背中を狙って放出された炎を庇う土の壁。フォース君が数術で防いだ?その割りにびっくりしてるのはどうしてなんだろ。ォース君が緊張したような声で戸口を睨む。
「フォース……君もすっかり西に染まってしまったんだね」
悲しそうな声で茶髪の子は言う。あ、そうだ。見たことがある!その子はgimmickで人質をやっていた頃に何度か見たことはある男の子。フォース君のお友達だっていうその子は赤い瞳で私たちを睨む。
「西の連中はいつもそうだ!こっちは真剣にシリアスをやってるのにいつの間にかその場の空気をくだらない感じにしてやる気を削いでしまうっ!」
「悪い、否定できないわそれは」
フォース君が謝罪してる。ちょっと申し訳なさそうな顔だ。だけどすぐに開き直って彼に挑みかかる。
「ていうか危ないだろグライド。次期第五公様々のエリスがいるんだぜ?エリスが怪我したら大変だろうが!」
「君は本当に、弟分作るの好きだよね」
赤目の男の子は呆れた風にため息を吐いて、そしてすぐに数式を纏う。
「フォース君っ!」
私の声に水が彼に襲いかかる。火を消すには水。単純な答え。私でも知ってる。
だけどその水にさえ、炎は及ぶ。そこからフォース君とエリス君を守ったのはエルムちゃんの氷の数術。水が燃えるということは……この水に、石油が混ぜられていたんだ。トーラがそんなことをするとは思えないからそれは、東……それかこのグライド君の一手?
「グライド、どういうつもりだ!?」
「フィルツァーっ!彼を殺せばヴァレスタの立場がなくなるっ!血迷ったか!?」
間一髪で炎をから逃れたフォース君達は彼に文句を言う。
だけど今の炎の狙いは違う。辺りの氷を溶かしながら、凍り漬けになっていた人達を火だるまに変えるのが目的だった。
「後釜は居るっ!西の混血贔屓の公爵なんか要らない!彼は用済みだっ!ついでに言うと僕がこの世で一番嫌いなのは混血。だけど二番目に嫌いなのは変態と性犯罪者だ」
「なんてことをするんですか!生きていれば幾らでも改心出来たはずです!」
「エリアス様!貴方のそれは優しさなんかじゃないっ!それは無知だ!ああいう輩は死ぬまで改心は出来ません!一種の病気です!殺した方が世のため人のためなんです!そういう輩を生かす貴方も同罪だ!貴方の無知は多くの悪を蔓延らせるっ!」
悪人達を焼き払ったグライド君に、エリス君が抗議。私もそれに続いた。
「そんな理由で……?別にエリス君は殺さなくても」
「黙れ混血っ!女装なんかする奴は十分変態だっ!」
つい零した言葉を拾われて、今度は私が睨まれる。
「グライド……お前リフルさんとのことトラウマになってたんだな」
「だ、誰がっ!あんな女々しい男気持ち悪いだけだ!」
慰めたところで大好きなリフルを馬鹿にされ、フォース君は怒り狂う。
「うちのリフルさん馬鹿にするなよ!可愛いし綺麗だし優しいんだぞ!?……確かにちょっと変態だけど!人間なんかみんなどこかしら何かしら変態だろ?それなら別にそれは悪いことじゃない!」
「そんなことはどうでもいいっ!僕はお前達と話をしに来たわけじゃない。エリザさん、貴女を傷つけたのはどのゴミですか?」
「そこに転がっている奴ですわ」
響く笑い声。それはどこから?辺りを見回せば、グライド君の後ろから、現れたのは綺麗な女の人。綺麗なお洋服と整えられた金髪。どこかのお嬢様?
エリス君の気を強くしてちょっと印象を薄くしたような顔。確かに並ぶとエリス君の方が可愛いけれど、この人だって十分綺麗。
「エリザ……」
「様、付けなさいよニクス。頭が高いわよ」
名前を聞いて、思い出す。
「エリザちゃん!?」
そうだ。雰囲気や衣服も変わっていたからわからなかった。東裏町に行ったときに一緒に居てくれたメイドのお姉ちゃんだ。
「え、エリザちゃんがエリス君のお姉ちゃんでエリス君がエリザちゃんのエリザちゃんがフォース君の……あれ?」
なんだかいよいよ何が何だか。エリザちゃんはフォース君と良い感じだったのに、フォース君を取り巻く図が複雑になって来ている。
「……エリザベータ様、これはどういうことかな?」
「ごめんなさいねフェネストラ様、いいえオルクス。私第三公のことで不安になったのよ。貴方にとって私も使い捨てられる駒に過ぎないんだって」
オルクスとエリザちゃんの話はしっとりしている。でもなんだか別れ話をこじらせた恋人同士の修羅場を見ているようだ。
「そんなことはない。僕は貴女のために那由多王子の毒の解析を急いでいる」
「三年待ったわ。後何年私を待たせるの?」
「……はぁ、貴女を美しいと思ったのはこれで二度目ですよ」
オルクスは冷や汗を浮かべながら、悔しそうな顔。それでもちょっとエリザちゃんに魅せられたような顔。そして、私の視線に気がついた彼は私に願い出る。
「お嬢さん、ここはいったん手を組みません?僕の音声数術の妨害しないなら、あなた方も一緒に逃がしてあげます」
「エリス君も?」
「勿論です」
エルムちゃんを見る。今回ばかりは仕方がないと舌打ちしてから頷いた。
「妙な真似は許さない。僕にだって数字は見える」
それはあっという間の出来事。辺り一帯火の玉が浮かぶ。それは水面ぎりぎりに配置され、すぐにでも水を燃え上がらせる勢い。
「第五島の特産品の一つが灯油。町中に油を撒いてきた。フェスパァ=ツァイトの力は知っているよね?僕の数術一つであっという間に火の海だ。解るな、フォース」
「……投降しろって?」
「僕は西の武装解除を要求する。それを拒めばこの街に住む純血共々焼き払う」
「どっちにしろ混血は殺すんだよな、それって。つまり混血を見捨てて自分たちだけ助けて貰おうって?」
「ああ、君も命は惜しいだろう?だからこそ、アルタニア公の飼い犬なんかに……」
「ああ、そうだな。俺は人の命を売って自分を生き存えさせた」
「それなら」
「だから思うんだよ」
「……どう思うんだ?」
「もう、そんなの俺はお断りだ!」
フォース君はエリス君を抱えたまま、私を背に庇い……空を見上げて宣言するよう、高らかに。
「俺を助けろエルツ=エーデルっ!明日は一緒に飯食おうっ!タロック料理っ、食わせてやるぜっ!」
一言前はちょっと格好いいかもと思ったけど、やっぱりフォース君はフォース君だった。呪文だったらしいその言葉はなんだかどうにもしっくり来ない。
だけどその呼び声に呼応するよう、私達の足下が物凄い勢いで揺れ始める。
私達を助けに来たはずのヒーロー。フォース君にはフォース君のお助けヒーローがいるみたい。膨れあがる膨大な数字の群れ!さっきまで何もわからなかった。その場所に……確かに、何かがいる。エルムちゃんじゃない。エルムちゃんじゃない。それは強大すぎる、土の元素だ!
エリス君は下手に美少年設定がついてたがためにこんなことに。
お姉ちゃんのエリザちゃんより可愛かったんだろう。
各種トラウマにより変態アレルギーのグライドには、彼の寛大な心すら苛立ちの原因。ロセッタも変態アレルギーあるのに、和解できないのが悲しいもんだ。
フォースの寿命のカウントダウンも始まりつつある。幸福値が低下したら発病してしまうんだろう。9章でされたキスで病気移されてたそうです。DTをからかうなんて酷い、酷すぎるよエリザちゃん。
フォースよりグライドですか。そうですか。フォース……もうエリスに走ってもいいんだよ?姉ちゃんが駄目でも弟が……げほんごほん。
今回文脈あれってシーンがありますが、オルクスの作戦です。ヴァレスタ破滅劇場もカウントダウン始まったか。こう、プライドの高い男が落ちぶれていく様っていうのも悪くないよね、とか。