猫が鳴く。
ねぇ、あなたはどんな声で、
どんな風に鳴くのかしらね。
――猫が鳴く。
食事を終え、ベッドの上から窓の外の冷たい日差しを眺める。
夫とはずいぶん前に死に別れ、子どもたちは忙しさを盾に来訪をやめて久しい。
別に恨めしいわけじゃない。
死を待つだけの老いぼれに、これ以上付き合わせる気もなかった。
週に3回のお風呂と、不定期に開催されるイベントを楽しみにするだけの日々。
それが老人ホームにおける私の日常だった。
「もうすっかり冬になってしまったわねえ」
枕元のぬいぐるみに語り掛ける。
この子とは物心ついた時からずっと一緒だった。
親戚の北海道からのお土産だったその子を、幼い頃は何をするにも抱いていたし、一人っ子だった私はそれこそペットや姉妹のように偏愛していた。
明るい茶褐色の毛並み、三角の耳、前後に伸ばされた短い手足に、長いしっぽ、白い鼻先、愛らしいつぶらな瞳。
キタキツネなんて言葉も知らない幼い私は、それを「ネコちゃん」と呼んでたいそう可愛がった。
ずっと一緒に過ごしてきた、私の家族。
さすがに昔みたいに溺愛することはなくなってしまったけど、それでも枕元にはいつだってこの子がいた。
「早く桜が見たいわねぇ」
その日にあったことや、ちょっとした愚痴をネコちゃんに語り掛けるのはもう習慣になってしまっている。
決まった時間に食事をして、テレビや娯楽で時間を潰して、そうして寝る。
少しずつ、昨日できたことができなくなることに悲しみは覚えるけど、仕様のないことだと諦めはとうについていた。
「由佳ちゃん」
と、誰かが私の名前を囁く声が聞こえた。
そんな小さな声、私にはとうに聞こえなくなったというのに。
とうとうボケが回ってきてしまったのかしら。
わが身の情けなさを苦笑とため息に変えた。
深夜、「由佳ちゃん」と自分のことを呼ぶ声に目を覚ます。
暗闇の中、卓上のランプに手を伸ばして周囲を見渡すけれど人影はない。
先ほどと同じく、幻聴かしら。
溜息をついて、ランプを消そうと再び手を伸ばすと
「由佳ちゃん」と、再び声が聞こえた。
ハッとして声のした方を見る。
それは枕元に置かれたネコちゃんから発せられていた。
「あら……」
胸の前で指を合わせた私の口から笑みがこぼれる。
「あなた。お喋りできたのね」
超常現象を前に、恐怖よりも嬉しい感情が先に出た。
「ずっと大事にしてくれてありがとう。おかげで命が宿ったんだ」
前足を器用に動かしながら、ぬいぐるみが語り掛けてくる。
私はネコちゃんを抱きしめると、自然と涙がこぼれてきた。
ネコちゃんからはお日様の匂いがする。
あの日々の思い出が、まざまざと心の奥底から蘇るようだった。
「今日はなんて素晴らしい日なのかしらね」
呆けた老人の妄想でも、お化けでも、なんでもよかった。
ネコちゃんの声を聞けて、お喋りできたことが本当に嬉しかったの。
「でもせっかくお喋りできるようになったのにごめんなさいね。
私、もう長くはないのよ」
ネコちゃんのふかふかの頭を撫でる。
そう遠くないうちにこの枯れ枝のような手も動かなくなる。
「でもありがとう。あなたに看取ってもらえるなら、私幸せだわ」
ネコちゃんはくすぐったそうに頭を揺すると
「大丈夫だよ、由佳ちゃん。ボクも一緒に行くよ。ずっと一緒だよ」
「あらあら、それなら何も怖くないわねえ」
ネコちゃんを膝の上に乗せて、背中を撫でてやる。
ふかふかの尻尾が、左右に揺れた。
「またたくさん遊ぼうね」
こちらを見つめる真っすぐなネコちゃんの瞳に
「うふふ、なんだかお迎えが来るのも楽しみになってきちゃった」
舌を出しておどけて見せる。
こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。
本当に、今日は嬉しいことだらけだ。
「そうそう、私、あなたにちゃんと謝らなくちゃいけないわね」
「うん?」
「あなたはキタキツネなのに、幼い私はずっとネコとして扱ってきたわ。
ううん、あなたがキツネだって知ってからだって、私はずっとあなたをネコちゃん、って呼んできた」
ごめんなさい。そう言って私は頭を下げる。
「いいんだよ。由佳ちゃんが僕をネコちゃんって呼ぶなら、ボクはネコちゃんなんだ」
なんの迷いもなく、ネコちゃんがそう答えてくれた。
「ありがとう。あなた、やっぱりいい子ね」
「由佳ちゃんに似たんだよ」
ふたり顔を見合わせてクスクスと笑う。
「それでね、ずっと疑問に思っていたことがあるの」
私は改まってネコちゃんに向き直る。
「なぁに?」と言って、愛らしく首を傾げたネコちゃんが私を見る。
「あなたはどんな風に鳴くのかしら? コンと鳴くの? それともニャアと鳴くの?」
ネコちゃんが、「こにゃん」と愛らしく鳴いた。




