第8話 娘に甘い父ととげとげしい兄
アレクサンドラは、ヒーム駅から別荘までの馬車の中ではしゃぎ通しだった。頬を染めて両手を顔に当て、また同じ言葉を繰り返す。何度も聞かされているアナは、必死に隠していたが、半ば呆れ気味だ。
「アナ、あの方、本当に素敵だったわぁ……」
「ええ……」
「夢の国から抜け出してきた白馬の王子様みたいだったわ!」
「ええ……」
「あんなに恰好良くてで、しかもお優しいのよ! ああ、こんなに完璧な方がこの世にいらっしゃるなんて思わなかったわ!」
「え、ええ、そうですね……ふぅ……」
「お父様にこのハンカチを見せれば、どこの家の方か分かるわよね。結婚も婚約もされていないといいのだけど……ああ、早く知りたいわ!」
「え、ええ……」
アナが何度も歯切れ悪い返事を何度もするので、浮ついていたアレクサンドラもさすがに気がついた。
「ねえ、アナ、さっきから『ええ』しか言ってないじゃないの?! 私の話を聞いていないでしょう?」
「い、いえ、そんなことはございません!」
「私がなんて言っていたか、覚えている?」
「もちろんです。確かにお優しくてかなりの美青年でしたね」
アナは、内心『へぇー、よかったですね』と棒読みで返事したくなりそうなのを必死で抑えていた。だが、白馬の王子様に夢中なアレクサンドラは、そんな彼女の隠しきれない態度ももはや気にしていないようだった。
「そうでしょう? でもアナには渡さないわよ!」
「お嬢様、そんな心配はご無用です。私など、あのような貴公子のお目に入ることすらかないません。それに私には、ヨーゼフがおります。ね、ヨーゼフ?」
「は? ゴホゴホゴホ……も、申し訳……」
ヨーゼフは、突然矛先が自分に向かったのに驚いてむせてしまった。
「ヨーゼフ、大丈夫?!」
「いやねぇ、ヨーゼフ。そんなにびっくりするのはアナに失礼だと思わないの? あなた、一体何年、アナと夫婦やっているの?」
「そうよ、あなた!」
「ゲホゲホゲホ、グフッ……!」
ヨーゼフは、隣に座るアナにバシーンと背中を叩かれたが、この寡黙な男は文句も言わずに、涙目になってむせるばかりだった。余計な口を利いても、口達者な妻に勝てるチャンスはないと彼も分かっているのだ。
その後は、再びアレクサンドラの独断場になった。馬車の中でアナとヨーゼフは半ば意識を飛ばしながら、ひたすら相槌を打った。
しばらくすると、永遠かと思われたアレクサンドラの独演は、やっと終わりを告げた。馬車が、ヒーム湖を目の前に望むブラバント伯爵家の別荘にようやく着いたからだ。
ローデリア王国一と言っていいほどの大富豪のブラバント家の別荘は、この高級保養地ヒームでも1等地にあり、湖側の窓からは王家の離宮の建つ島が見える。
広大な敷地を隔てた近隣には、ツヴェルガー公爵家のような高位貴族やブルジョアの富豪の豪奢な別荘が建ち並ぶ。
アレクサンドラは別荘に入るなり、着替える時間も惜しんで父の執務室に飛び込んだ。アレクサンドラの父は仕事中毒なので、別荘にも執務室を持っている。
「お父様!」
「おお、アレックス! 無事に着いてよかった。心配でたまらなかったよ」
「もうお父様ったら、心配性ね」
アレクサンドラの父ルーカスは、にこにこしながら両腕を広げて娘を迎えたが、兄ヨハネスは顔をしかめて妹を咎めた。
「ノックもしないで貴族令嬢らしくないぞ。それに執務室には来ないようにといつも言っているだろう?」
「まあ、お兄様もいたのね」
アレクサンドラも兄のほうを心底嫌そうに見やった。そんな剣呑な様子の子供達を慌ててルーカスはとりなした。
「まあまあ、ヨハネス、いいじゃないか。アレックスも、目上の兄に対してそんな言い方をしては駄目だよ」
「父上がそうやって甘やかすから、こいつはマナー知らずの女になったんです。このままじゃ、高額な持参金をつけなければ、嫁の貰い手がいませんよ」
「失礼ね! 今日、素敵な紳士と知り合ったんだから!」
「知り合っただけだろう? また金目当ての俳優じゃないだろうな?」
「ひどいわ! もういい! お兄様は黙ってて!」
今年、18歳になったアレクサンドラには、まだ婚約者がいない。貴族令嬢としては珍しいが、政略結婚は嫌という彼女の希望通り、娘には本当に愛する男性と結ばれてほしいとルーカスは願っている。ただし、それには娘の身分に相応しい男性という但し書きがつく。
アレクサンドラの今までの恋人は、見目麗しくても、平民の貧乏な俳優や音楽家などがほとんどだった。
もちろんアレクサンドラは、未婚の貴族女性として元恋人達とはプラトニックな関係に徹した。だが、彼らはそれが不満で浮気したり、ブラバント家の資金をあてにしたりするような男性ばかりで、ルーカスのお眼鏡には叶わなかった。
「今度はお父様も気に入ってくださる方だと思うわ。――お兄様、お父様と話したいから出て行ってくださる?」
「駄目だ。お前の結婚は家にかかわることだ。次期当主として私も聞く」
ヨハネスは、1度言い出したらなかなか意見を曲げない。押し問答の末にアレクサンドラは、渋々兄の前で今日の顛末を話すことになった。
「……それでお父様、このハンカチの紋章の家をご存知ですか?」
アレクサンドラは、砕けた絵の具を乗せたまま、ハンカチを広げて父に見せた。
「どれどれ……ああ、これは……」
「父上、私にも見せてください――なんだ、この欠片は」
「あ! ちょっと、やめてください!」
ヨハネスがハンカチを覗き込み、その上の絵の具の欠片を落とそうとしたので、アレクサンドラはあわててハンカチを奪い取った。
「何をするんだ! 全く野蛮な女だな!」
「ヨハネス、妹に対して言葉が過ぎるぞ」
「アレクサンドラが最初に乱暴なことをしたのではないですか!」
「これはアレックスの物なんだから、彼女が嫌だと言うことはしてはいけないよ」
ヨハネスは『分かりました』と言いつつも、その表情は明らかに不満そうだった。
「アレックス、この家紋はうちの別荘のお隣のツヴェルガー公爵家のものだよ。公爵は確か今年25歳ぐらいだったかな。3年ほど前に爵位を継がれたと思う」
「まぁ、そうなのね! お父様、私、この方とだったら、結婚したいわ! 公爵様がお相手なら、いいでしょう?」
「うーん……」
ルーカスは言葉を濁したが、ヨハネスはズバッと一刀両断した。
「ああ、あの家か……うちに何のメリットもないどころか、大損するだけだ。駄目に決まっているだろう?」
「お兄様には聞いてない! 黙ってて!」
「お前、最近の公爵家の状況を耳にしていないのか? 隣の別荘だって荒れているだろう?」
「ツヴェルガー公爵家は王国一の大貴族なのよ。そんなわけないでしょう?」
アレクサンドラは、勉強も社交も好きでないので、ローデリア王国の王侯貴族の最近の状況について詳しくない。
それに近隣の高級別荘地の敷地は広大なので、特に用事でもなければ、表通りからは屋敷の様子はよく見えないし、ツヴェルガー公爵家はここ数年、この別荘に来ていなかった。
アレクサンドラは、ヨハネスの言葉が少し気にはなった。でも彼はいつも大袈裟に言ったり、小言を言ったりするので、疑念の芽を胸の奥へ押し込んで自分の希望をルーカスに念押しした。
「お父様、ツヴェルガー公爵家は名門ですよね。そんな家の当主と縁を結ぶことが、うちにとって大損なわけはないですよね?」
「うーん、まあ、ちょっと問題がないわけではないけど……」
「問題? そんなことないですよね?」
アレクサンドラは、目をうるうるして胸の前で両手を合わせた。そんな愛娘の様子を見たルーカスは、つい安請け合いをしてしまった。
「まあ、お前はそんなことを心配する必要はないよ」
「父上!」
ヨハネスは、血相を変えてルーカスを咎めたが、ルーカスもアレクサンドラも彼の言うことを聞いていなかった。
「でも今日は、ちょっと話しただけなんです。またお会いできるかしら?」
「お前のような美人と知り合ったんだ。すぐに会いたいとすぐに手紙が来るに違いないよ」
「父上! そんな無責任な!」
「ヨハネス、お前は心配しなくてもいい。――アレックス、ちょっとヨハネスと話を詰めたいことがあるから、部屋に戻ってくれるかな?」
「ええ、でも……」
「大丈夫だよ。お前の望むようになるから、心配しなくていいよ」
「父上、そんなの駄目です!」
アレクサンドラは、後ろ髪引かれながらも、父の執務室を出た。ドアを閉めた後も、部屋の中からヨハネスがルーカスを激しく責める声が漏れ聞こえたが、父が兄をうまく説得してくれるだろうと疑いもしなかった。




