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私を嫌っていたはずの冷酷な元夫が縋りついてきます  作者: 田鶴


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第4話 運命の一目ぼれ

 アレクサンドラが停車中の車窓から外を見ると、プラットフォームを後ろのほうへ駆けて行くフリードヘルムの姿が見えた。


「え?! フリードヘルムさん?!」


 彼は、2等客車に乗り込んですぐに降りて来た。満席だったようだ。


 もっと後ろのほうへ行こうとする彼に駅員が話しかけている。おそらく間もなく発車だから乗車するように言っているのだろう。


 アレクサンドラはコンパートメントのドアを開けて叫んだ。


「フリードヘルムさん、戻っていらして!」


 母や兄に知られれば、大声を出すなど、令嬢らしくない振舞いだと怒られるだろう。でも、アレクサンドラが男性と2人きりのコンパートメントに乗るのが嫌と言ったから、フリードヘルムはこんな無茶なことをしたに違いない。


 そのせいでフリードヘルムが乗り遅れたり、快適とは言えないであろう3等車に乗らなくてはならなかったりすれば、アレクサンドラの胸は痛む。


「ありがとうございます! 僕は大丈夫です!」


 フリードヘルムは、アレクサンドラの声に気付くと、振り返って帽子を手に取って振り、大声で答えた。そして帽子をすぐにかぶり直し、踵を返してもっと後ろの3等車のほうへ駆けて行った。


 彼が無事に客車に乗り込んだのが車窓から見えると、アレクサンドラはホッと胸をなでおろした。


 それからすぐ汽車は発車した。


 アレクサンドラは1人きりになり、コンパートメントが妙に広く寂しく感じた。さっきまでコンパートメントでは、楽しそうな会話の声が響いていたのに、今はガタンゴトンと汽車が走る音以外、何も聞こえない。


 アレクサンドラは、車窓から見える風景の移り変わりをじっと見てその寂しさを忘れようとした。


 ふと車窓からテーブルに目がいくと、その上にはフリードヘルムに見せたスケッチブックが出しっぱなしになっていた。


 フリードヘルムは、模写だけでなくアレクサンドラ自身の絵も褒めてくれた。アレクサンドラの胸はじんわりと温かくなった。


 アレクサンドラは鉛筆を手に取り、フリードヘルムが帽子を振っている様子を描き始めた。


「キャッ!」


 ガタンと客車が揺れ、鉛筆の芯がボキッと折れ、残りの鉛筆の芯が紙にのめり込んだ。


「あーあ……」


 その後も何度かアレクサンドラはスケッチを続けようとしたが、そのたびに客車が揺れてとうとう折れていない鉛筆がなくなってしまった。仕方なく、移動中の列車の中で絵を描くのは諦め、車窓をひたすら眺めた。


           ◇ ◇ ◇


 汽車が終点ヒームに到着してアレクサンドラが降りると、プラットフォームは人でごった返していた。


「アナとヨーゼフは、もう降りたかし……キャア!」


 アレクサンドラは、見知らぬ男とぶつかって鞄を落としてしまった。その男は、貴族でも彼らの使用人でもなさそうな粗末な身なりをしており、チッと舌打ちして走り去っていった。


 鞄は落ちた拍子に開き、画材がパラパラと地面に散らばってしまっていた。


「あ……」


 地面に落ちた物を拾うのは貴族令嬢としては恥ずかしい。


 でもスケッチブックとマーラー先生にもらった水彩絵の具のパレットだけは踏まれたくない。そう思ってアレクサンドラはかがんで拾おうとしたが、スケッチブックとパレットが誰かの手に先に拾い上げられた。


「どうぞ。どこかお怪我はありませんでしたか?」

「ありがとうございます。大丈夫……」


 アレクサンドラは、スケッチブックとパレットを拾ってくれた男性の顔を見上げてあっけにとられてしまった。


 まるでお気に入りの恋愛小説の挿絵から抜け出してきたように眉目秀麗な男性が彼女に手を差し伸べていた。輝くような金髪と深い海のような青い目、すっと通った鼻筋に形のよい唇――それに高級そうな服を身にまとう身体もすらりとして背が高くて格好良い。


 その口が紡ぐ声は、身体の芯まで痺れそうなバリトンボイスで何から何まで完璧な男性だ。


「怪我がなくてよかった。それと貴重品がなくなっていませんか?」

「素敵……」

「え?」


 彼の怪訝そうな声にアレクサンドラは我に返った。恥ずかしくて仕方ない。赤くなっている顔が気づかれていないか、彼女は気が気でなかった。


「い、いえ、ぶつかられた衝撃でちょっとぼうっとしていたみたいです」

「それはいけない。病院に行かれたほうがいいかもしれませんね。お連れしましょうか?」

「いえ、本当に大丈夫で……ああっ!」

「どうかしましたか?!」


 パレットから落ちたキャラメル状の固形絵の具が、アレクサンドラの目の前で通行人に踏まれ、その衝撃で砕けてしまった。彼女は、白い手袋が汚れるのも気にせずに砕けた絵の具の破片をつまみ上げた。


「ああ……」

「それは何ですか?」

「水彩絵の具です」

「これが?」

「ええ、固形の絵の具です」


 アレクサンドラは、悲しそうに掌の上の砕けた絵の具を見つめた。


「どこで買えるか教えてくだされば、絵の具ぐらい買ってきて差し上げますよ」

「いえ、これはお金に換えられない大切な物だったのです。つい先日まで教えていただいていた先生がプレゼントしてくださったのです」

「そうとは知らず、失礼なことを言ってしまいました。あなたのような方が絵の具ぐらい買えないわけがありませんよね」


 アレクサンドラの身なりは、誰が見ても金持ちの令嬢で、いくら高級絵の具だとしても買えないようには見えない。


「大丈夫です。砕けても使えます。どうせ水で溶いて使いますから」

「どうぞ、これをお使いください」

「あ……ありがとうございます。ではお言葉に甘えます」


 アレクサンドラは、その男性が渡してくれたハンカチの上に砕けた固形絵の具を載せて包んだ。その間に彼は地面の上に散らばった彼女の筆や他の絵の具などを拾い始めた。


「ああ、そんなことなさらないで! また買えば済みますから」

「拾うぐらい構いませんよ。大切なものなのでしょう?」


 男性は腰をかがめ、地面に散らばっている他の固形絵の具や筆などの画材を拾い続けてくれた。


 尊い身分のように見える彼がそんなことをしてくれるとは、アレクサンドラは予想もしていなかった。彼女の母や兄だったら、地面に落ちたものを拾ってまた使うなんてみっともないと理解してくれないだろう。


 でも、地面に落ちている物の中には、マーラー先生にもらった絵の具や筆も入っていた。固形絵の具は小さいから踏まれてしまったが、他のものは無事だ。


 だからと言って、尊い身分の見ず知らずの男性にしゃがみ込ませて拾わせ続けるほど、アレクサンドラは厚顔無恥ではない。


「もうおやめになって!」

「大切なものとおっしゃいましたよね。拾うぐらい大したことではありませんよ」

「なら、自分で拾います」

「レディにそんなことをさせられません。ほら、これで全部ですか?」

「ああ……本当に……全部あります! ありがとうございます!」

「どういたしまして。それより、お付きの方はいらっしゃらないのですか? おひとりでは危ないですよ。さっきぶつかってきた男はスリです。何もなくなっていませんか?」

「まあ、本当に?! でも荷物はこれ以外全部使……いえ、なくなっていません」


 使用人達が1等車に一緒に乗っていなかったのは、お金がなかったからと思われそうで、アレクサンドラはあわてて言い直した。


 その時、つい数時間前まで目の前にいた人物が近づいてくるのがアレクサンドラの目に入った。

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