第3話 絵を褒められてうれしい
アレクサンドラは、フリードヘルムの懇願するような視線についに根負けし、スケッチブックを見せることにした。
「……本職の美術商にお見せするようなものではないですけど、ご覧になりたければどうぞ」
フリードヘルムがスケッチブックを開くと、水彩絵の具で描かれた街中やヒーム湖畔の風景が目に飛び込んできた。
「お上手ではありませんか」
「いえいえ、まだまだですわ。それにこれは先生の絵の模写なのですのよ。劣化版ですけど」
「どなたかに習っていらっしゃるのですか?」
「マーラー先生に習っているんです」
「マーラー画伯に師事なさっているのですか! すごいですね」
マーラー画伯は、各国の王室の肖像画も依頼されるほどの肖像画の大家だ。彼の名声は、出身国のライヒ王国だけでなく、近隣諸国までとどろいている。
そんな大画伯が素人画家、それも貴族令嬢を教えるなど、普通なら想像できるわけがない。だからアレクサンドラは、誰に絵を習っているか言いたくなかったのだ。
「その割にこんな腕前なので、誰にも言わないでいただけますか?」
「もちろん言いふらしたりしませんので、ご安心ください。肖像画は描かれないのですか?」
「私は肖像画よりも自然や街中の風景を水彩画で描くのが好きですの」
「マーラー画伯が水彩画を教えるのですか?」
「先生は、水彩絵の具で風景を描くのがお好きなそうです。でも売れるのは肖像画のほうですよね。だから水彩画は趣味で描いていらっしゃるそうです。先生のスケッチブックを見せていただいたら、透明な色彩で描かれる光景の美しさに一目で惹かれました。それで父に懇願して先生が王都に滞在する間だけの約束で水彩画を教えていただけることになりました」
「それは僥倖でしたね」
「でも先生は、先日ライヒに戻られました。残念ながら、それで先生の絵画教室もおしまいになってしまいました」
「本当に残念ですね。でもマーラー画伯がずっとローデリアにいらっしゃるわけにもいきませんよね」
フリードヘルムは、スケッチブックを閉じてアレクサンドラに返したが、テーブルの上に置いてあったもう1冊のスケッチブックに目をとめた。
「ありがとうございました。こちらのスケッチブックもマーラー先生の水彩画の模写ですか?」
「いえ、こっちは旅の様子をスケッチしようと思って持ってきたスケッチブックです」
「何かもうスケッチされましたか?」
アレクサンドラは、今度は言われなくてもフリードヘルムに自分の絵を見せたくなった。
「これは、さっきの王都の駅の様子ですよね?」
「ええ、そうです」
「生き生きとした駅の喧騒が伝わってきます」
「……ありがとうございます」
アレクサンドラは、ささっと描いたスケッチなのに褒められて嬉しくなって頬を染めた。
母も兄も、令嬢らしからぬアレクサンドラの趣味に渋い顔をする。彼女の絵を褒めてくれるのは、父ルーカスだけである。でもルーカスは娘に甘いから、彼の評価は当てにならない。
「僕は絵も彫刻も好きなんですけど、自分では描くのも彫るのもからきしなんです。でも審美眼だけは確かなつもりです。美術商なんだから当然と言えば、当然なのですが。お嬢様も今度、ライヒにいらっしゃる時にはうちの店にいらしてください」
「ありがとうございます。ぜひそうさせていただきます。そうそう、お嬢様なんておっしゃらず、アレクサンドラとお呼びください」
「ファーストネームでレディを呼ぶなんて馴れ馴れしいことはできません」
「あら、私ときたら、フルネームで名乗っていませんでしたわね」
そこで初めてアレクサンドラは、フリードヘルムにきちんと名乗っていなかったことに気づき、家名を教えた。
「ブラバント伯爵家のお嬢様なのですね。うちの店からも買っていただいたことがあります」
「知りませんでしたわ」
ローデリア王国で1、2を争う富豪の名は隣国まで知られていたどころか、取引すらあった。でもアレクサンドラは、美術品に関心があっても購入先には興味がないので、フリードヘルムの店の名前は聞いたことがなかった。
「無理もありません。うちはローデリア王国に支店がありませんから」
「それでは、今回は休暇でローデリアにいらしたのですか?」
「いえ、王都には仕事のついでに少し滞在しただけです。あとはヒームでちょっと買い付けの約束をしています」
「まあ、ヒームまでいらっしゃるの? 奇遇ですわね。私もヒームの別荘に行くところです。ヒームではどちらにご滞在なさるのですか?」
「知り合いの家に泊めてもらう予定です」
その後、色々な絵の談義が弾んで汽車はいつの間にか次の駅に着いていた。それに気づいた途端、フリードヘルムは電光石火のごとく立ち上がった。
「あ、僕、ここで降りなくちゃいけないんです! それではよい旅を!」
「え、ヒームまで行かれるんじゃ……?」
フリードヘルムは、嵐のように去っていった。アレクサンドラは、コンパートメントの閉まったドアを呆然として眺めた。
急に話し相手がいなくなってアレクサンドラは、なんだか物寂しくなった。窓から外を見ると、見覚えのある後ろ姿がプラットフォームの後ろのほうへ駆けて行く様子が見えた。




