第1話 始まりは……
ローデリア王国の王都で王宮に次ぐ規模を誇る豪奢なツヴェルガー公爵邸――アレクサンドラは、今日までその女主人だった。
彼女は、馬車の窓から公爵邸を眺めて報われなかった5年間の結婚生活に思いを馳せた。
正直を言えば、あんなに愛していた夫に全く未練がないとは言えない。
でも、もう限界だった。
アレクサンドラは、公爵邸から目を離し、馬車の壁を叩いて御者に出発を促した。それから少しして馬車は王都の中央駅に到着した。
6年前、夫と運命の出会いをした思い出の鉄道で、別れた後の再出発もするとは、皮肉なものだ。
アレクサンドラが馬車から降りると、馬車は公爵家のタウンハウスへ戻っていった。
旅行に行くと家令には伝えてあるので、すぐには捜索されないはずだ。
ついそう考えてしまった自分にアレクサンドラは自嘲した――夫がアレクサンドラを探すはずがない。
でも列車に乗ると、そんな切ない気持ちは、初めての2等車での旅と新しい生活への期待の陰に消えていった。
でも、人生初の1人きりでの新生活は大変になるだろう――そう思ってアレクサンドラは、気を引き締めた。
◇ ◇ ◇
アレクサンドラが後に結婚することになるツヴェルガー公爵ライナー・フォン・ツヴェルガーと出会ったのは、ローデリア王国初の鉄道路線が開通した6年前の夏だった。
その年の夏の休暇シーズンを控えた初夏に王都ローデリアポリスと王国随一の保養地ヒームが鉄道で繋がった。
ヒーム湖畔は、風光明媚な避暑地で、鉄道開通前から夏は裕福な貴族やブルジョアでにぎわっている。
開通後初のハイシーズンを迎え、列車は連日、1等車から3等車まで込み合っていた。
結婚前のブラバント伯爵令嬢アレクサンドラが、侍女アナと護衛ヨーゼフの3人でヒームへ向かったその日もそうだった。
アナとヨーゼフはもちろん、アレクサンドラもその時、初めて列車に乗った。
つい1ヶ月ほど前、アレクサンドラは、彼らを伴って開通式典に参加したが、ものすごい人出で1番列車をろくに見られもしなかった。だからアレクサンドラは、この時初めて黒光りする巨大な蒸気機関車を間近で目の当たりにし、胸を弾ませた。
「開通式典の時は遠くからしか見られなかったけど、近くで見ると迫力あるわね。こんな巨大な鉄の塊が走るなんて信じられない! ねえ、アナ、そう思わない?」
「はい、本当でございますね。こんなに沢山の客車を引っ張って走れるなんて信じられません」
「ああ、ワクワクするわ。最新式の汽車に乗りたくないなんて、お父様ったら、ほんとに古臭い石頭よね」
アレクサンドラの両親と兄夫婦は、一歩先に馬車でヒームへ向かった。進歩的な兄嫁が保守的な両親と共に馬車で赴いたのは意外だったが、苦手な彼女が同行しなくてアレクサンドラはほっとしていた。
アレクサンドラ達は、巨大な蒸気機関車の横を通り過ぎ、1等車の前にたどり着いた。すると駅員が3人に近づいて来た。
「ご利用ありがとうございます。乗車券を拝見いたします」
「アナ、乗車券を出して」
駅員は、アナから渡された乗車券の2枚目と3枚目を見て、顔色が変わった。
「お客様のお連れの方々の切符は3等車のものです」
「そんなはずはないわ! ちょっと見せてくださる?」
アレクサンドラは、車掌から半ばひったくるようにして乗車券を手にして目を皿のように見たが、彼の言うことは間違っていなかった。
「ちゃんと手配してもらったはずなのに……車掌さん、差額はおいくらですの?」
駅員から値段を聞いてアレクサンドラはアナに手持ちの現金を確認させた。
「お嬢様、私が若奥様からお預かりした分はこちらです」
「え、これだけ?!」
アナとアレクサンドラは小声で言葉を交わした。アナが持たされた現金は、1等車の差額2人分には到底足りなかった。王都からヒームまでの1等車の切符は、中産階級の一家が半月生活できるほどもする。
だがそんな1等車の切符も、王国で1、2を争う富豪のブラバント伯爵家にとっては、本来、大した金額ではない。普通なら、アレクサンドラ付きの使用人は旅行の際にはもっと多くの現金を持たされていたはずだった。
アレクサンドラは予想外のことに恥をかかされて内心憤慨したものの、楽観的だった。王都ではアレクサンドラの顔と名前が知られているので、手持ちの現金で足りない場合、彼女が名乗れば、大抵ツケで事足りるからだ。
アレクサンドラは、手持ちの半額をアナに差し出させた。
「差額はブラバント伯爵家に請求してちょうだい」
「大変申し訳ございませんが、当社はツケ払いを受け付けておりません」
「私は、正真正銘、ブラバント伯爵家のアレクサンドラよ?!」
「伯爵家の印章はお持ちでしょうか?」
「そんなもの、お父様以外持っているわけがないでしょう?!」
「それでは、お連れ様は、3等車の切符でよろしいですね? 発車前に急いで移動をお願いいたします」
各コンパートメントには、車両へ直接乗り降りする専用ドアが付いており、汽車が発車すると各コンパートメント間はおろか車両間の移動もできない。
「この方は、ブラバント伯爵家のアレクサンドラ様ですよ?! 失礼ではありませんか!」
「申し訳ございません。当社の決まりでございます」
アナとヨーゼフの抗議もむなしく、車掌は頑なに決まりを押し通した。
「申し訳ございませんが、これ以上は列車の遅延に繋がります。他のお客様の切符を確認しなくてはなりませんので、失礼します」
駅員は、客車のコンパートメントのドアを開けて彼女に乗車するように促し、別の乗客の検札をし始めた。
アナは、駅員がこちらを見てないのを確認すると、憤懣やるかたない表情を隠すのをやめて彼を非難した。
「お嬢様を信用しないなんて失礼な話です!」
「ハァ……仕方ないわよ。大方、どこかの貴族を騙って切符を騙し取った悪者がいたんでしょう。それより急いで。発車したら次の駅まで移動できないわよ」
「かしこまりました。お荷物は私どもがお預かりします」
アナがアレクサンドラにそう答えると、ヨーゼフは1番小さな旅行鞄をアナに渡した。
「アナ、これを持って先に3等車へ移動してくれ。俺はギリギリまでここにいて残りの鞄を持っていくよ。俺なら荷物を持って走っても間に合うはずだ」
ヨーゼフが何を心配しているか、アレクサンドラにも分かった。
「ヨーゼフ、心配しなくても、鉄道会社は女性1人だけのコンパートメントに男性を乗せたりしないと思うわ。それにあなたも発車前に3等車に乗っていないといけないのよ」
「た、確かにその通りです。でも……」
「大丈夫よ。お願いね」
アナ達が渋々納得して3等車のほうへ向かうと、アレクサンドラも1等車のコンパートメントの中へ入った。
コンパートメントの座席は、ソファのような形で対面に4席設えられていた。高級な布地が使われていて座り心地も上々である。
アレクサンドラは座席に座ると、手元に残しておいた鞄の中から、懐中時計を出して時間を確認した。発車時間まであと10分ある。
車窓からは、プラットフォームを行き来する人々が見えた。
アレクサンドラは、もう1度鞄を開け、スケッチブックと筆記用具を出して、プラットフォームの様子をスケッチし始めた。
ふと気がつくと、テーブルの上の懐中時計は、発車時刻の2分前を指していた。
「もう誰も乗って来ないわよね」
アレクサンドラがそうつぶいた正にその時、突然コンパートメントのドアが開き、若い男性が息を切らして転がり込んで来た。
「キャア!」
「ハァ、ハァ、ハァ……間に合った!」




