第三章29『日常と異常』
男は森の中を走っていた。
枝が頬を掠め、濡れた落ち葉が靴底で滑る。
転びそうになりながらも、足を止めない。
あれほど深かったはずの傷が、もう走れる程度には塞がっている。
息が荒れる。
喉が焼ける。
それでも、足は動く。
俺は、逃げた。
洞窟の奥、視界が白く揺れたあの瞬間。
石が動き、床が鳴り、空気が押し潰された。
宝があると聞いていただけだった。
古い遺跡。
手つかずの宝箱。
運が良ければ、一山当てられる。
そういう話だった。
罠の話はなかった。
でかい魔物が襲ってくるなんて、聞いていない。
森の地形が変わる。
傾斜が緩み、地面が固くなる。
この先に川がある。
浅瀬を渡り、獣道を一つ越えると、開けた場所に出る。
事前の調査で、把握していた。
人が集まっている拠点だ。
老人たちを治療しているという噂がある場所。
孤児たちの世話をしているという話も聞いたことがある。
洞窟には、まだ仲間がいる。
魔物に追い詰められ、逃げ場を失っているはずだ。
そして――
俺を治療した少女も、洞窟にいる。
水の魔法で、血を止め、傷を塞いだ。
だから、走る。
木々の隙間から、光が見えた。
森が、途切れる。
拠点は近い。
俺は、前を向いたまま、走り続けた。
―――
交易路整備の作業が終わった夕方。
「……ふう」
パメラは小さく息を吐く。
外見は相変わらず人形のように整っているが、さすがに長時間の大規模魔法行使は堪えたらしい。
「終わったのか。お疲れさま」
ナオトが声をかけると、パメラはちらりとこちらを見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「当然じゃ。妾を誰だと思うておる。じゃが」
一歩、二歩と近づいてきて、わざとらしく肩を落とす。
「魔力が空っぽじゃ。からっからじゃ。ほれ、魔力を寄越せ」
「はいはい。いつもの?」
そう言うと、パメラの口角がわずかに上がった。
「うむ。魔力が空になるとお主の無色の魔力、特別に美味そうに見える」
「食べ物みたいに言わないでくれる?」
ナオトは苦笑しながらも、いつもの流れを思い浮かべて――そこで首を振った。
「でも、今日は違う」
「なんじゃ?」
パメラが怪訝そうに眉をひそめる。
ナオトは真面目な顔になって言った。
「今日は新しく実験したいことがあるんだ。魔力の浄化だな」
「魔力の浄化?」
嫌な予感がしたのか、パメラが一歩引く。
「また妾を実験台にする気か?」
「安全なのは保証するよ。たぶん」
「たぶんじゃと!?」
「落ち着いて。ほら、背中向けて」
「……むぅ」
文句を言いながらも、結局パメラは従った。
ナオトは彼女の背後に立ち、静かに魔力を集中させる。
(パメラの魔力、やっぱり流れが偏ってるな……)
長時間の魔法行使。
大規模出力。
その影響で、魔力が一部に滞留し、澱のように溜まっている。
ナオトはまず、左手をパメラの背に添えた。
「なにをする気じゃ」
「左手で、滞った魔力を引き出す」
意識を向けると、ぬるり、とした感触が伝わってくる。
重く、粘つく魔力。
「っ……」
パメラが小さく息を呑んだ。
引き出した魔力は、そのままナオトの中へ。
ナオトの魔力は無色。
性質を持たないそれは、フィルターのように他者の魔力を通過させ、歪みや澱だけを削ぎ落としていく。
(……よし)
次に、右手をパメラの肩へ。
「今度は戻す」
浄化された魔力が、ゆっくりと流し込まれる。
「……っ……!」
パメラの背筋が、ぴん、と伸びた。
「な、なんじゃこれは!」
「魔力の流れが整ってる証拠だと思う」
「なんだか変な感じじゃ」
数秒後、彼女は驚いたように自分の手を握ったり開いたりした。
「魔力が、澄んでおる」
「成功かな。無色の魔力ってすごいな」
「ここまで使いこなせるとはの」
ナオトが静かに聞いた。
「そういえば前に拒絶反応が起こるとか言ってたっけ?他人の魔力が入り込むと、何が起きるんだ?」
パメラは迷わず答える。
「体と魔力が拒絶する。寒気や発熱、魔力の乱れが起きて、ひどいと意識を失う」
一拍置いて、はっきりと言った。
「バランスが完全に壊れたら最悪の場合、死ぬ」
「マジか、無色の魔力で良かったよ」
ナオトは満足そうに息を吐く。
「これ、ちゃんと名前つけたほうがいいな」
「名前?」
「うん。技として」
少し考えてから、ナオトは言った。
「魔力の流れを整える。整体みたいな魔術だから、整体魔術、でいいかな」
「そのまんまじゃな」
「覚えやすいだろ」
「ふん、悪くはない」
そして、ぼそりと付け加える。
「またやるのじゃ。妾専用でな」
「はいはい」
ナオトは苦笑しながら頷いた。
こうして、誰にも知られず、異世界に新しい魔術体系が、ひっそりと誕生したのだった。
―――
「うわぁ……!」
ジェシカが目を輝かせて声を上げた。
揚げたての唐揚げが大皿に山盛りにされ、湯気がふわりと立ち上る。
「今日は唐揚げだ!やったー!あたし、これ大好き!」
「たくさんありますからゆっくりいっぱい食べてくださいね」
ディアがにこやかに答える。
ナオトはテーブルに小さな器をいくつか並べていた。
中には白くてなめらかなソースが入っている。
「それ、なに?」
「マヨネーズだよ。ちょっと試しに作ってみた。唐揚げにつけて食べるんだよ」
「えー!唐揚げにつけて食べるんだ!?」
ウィスがそっと覗き込み、小さく呟く。
「……美味しそう」
全員が席に着くと、自然と手が伸びた。
まずは何もつけずに一口。
「ん〜、おいしい!」
「揚げたてですね。外がサクサクです」
ナオトはマヨネーズを指差した。
「じゃあ、次はこれも試してみてくれ」
「よーし!」
ジェシカは唐揚げにたっぷりつけて、ぱくり。
一瞬、目をぱちぱちさせてから――
「なにこれ!おいしい!!」
「そんなに?」
「うん!すごくおいしい!」
ウィスも真似して、ほんの少しだけつけて食べる。
「……絶妙」
「気に入ってもらえて良かったよ」
ボニーもマヨネーズをつけて口に運び、表情を和らげた。
「マヨネーズ最高!」
「そうだろ?」
パメラは腕を組んだまま、じっと小鉢を見つめていたが、一拍おいて、唐揚げの先にほんの少しだけつける。
口に運び、咀嚼。
数秒後、唐揚げをもう一つ取り、今度はさっきより多めにつけた。
「……悪くない」
「気に入った?」
「妾はただ、唐揚げの脂とよく合うと思っただけじゃ!」
言いながら、三つ目に手を伸ばしている。
ボニーがにやにやする。
「絶対好きなやつじゃないですか、それ」
その横で、ザリナは唐揚げとマヨネーズを交互に見比べていた。
「これさ……」
「ん?」
「油と卵と酸味が均一に混ざってるよね」
「ああ、それがどうした?」
「普通なら分離しそうなのに、なめらかさが安定してる。しかも口に入れたとき、脂っこさを感じにくい」
「そうそう!」
ジェシカはよく分からないまま同意する。
ナオトは箸を軽く振りながら、ザリナに言った。
「油が分離しないのは、卵が油を小さな粒にして包んでるからだな。卵の膜が間に入ってるから混ざったままで、分離できないんだ」
ナオトの説明を聞いたジェシカは、目を丸くした。
「えっ、なにそれ!油がケンカしないように、卵が止めてるの?」
ジェシカはぱっと顔を上げて、にこっと笑った。
「それってさ、ナオトお兄ちゃんみたいだね。みんなが仲良くできるように、ちゃんと見守ってくれるところ!」
ナオトは少し困ったように頭をかきながら笑った。
「いやいや、俺はそんなに協調性ある方じゃないと思うけどな。みんながついてきてくれてるだけだよ」
いつの間にか、マヨネーズはかなり減っていた。
パメラはそれに気づき、ちらりとナオトを見る。
「……これは、また作れるのじゃな?」
「材料があればね」
「……なら、良い」
それだけ言って、最後の唐揚げにもたっぷりつけた。
――そのとき。
森の方から、微かな物音がした。
風に枝が揺れる音とは違う。
踏みしめるような、重く、乱れた足音。
ザリナがすっと顔を上げる。
「足音が聞こえる」
ナオトも立ち上がり、森の方を見る。
何かが倒れる音がした。
地面に、男が倒れ込んでいた。
服は泥と血で汚れ、肩で大きく息をしている。
どうにかここまで辿り着いた、というのが一目で分かった。
「……助けて……くれ」
―――
男から大まかな話を聞き終えると、拠点の空気は一変した。
ナオトは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
迷っている時間はない。
「分かった。状況は把握した。俺は、洞窟へ行く」
「当然ですね。私も行きます」
最初に口を開いたのはボニーだった。
迷いのない声だった。
「ナオトさんが行くなら、私もご一緒します。ここで引いたらドワーフじゃありません」
「ありがとう、ボニー」
ナオトが頷いた、その横で腕を組み、眉をひそめていたパメラが鼻を鳴らす。
「やれやれ、妾としては、あの手の場所は好かんのじゃがな」
「パメラ」
ナオトは一歩前に出て、頭を下げた。
「頼む。力を貸してほしい」
その姿に、パメラは目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「ずるい男じゃな、お主は」
しばらく黙ったあと、ふう、と小さく息を吐く。
「よかろう。付き合ってやる。ただし、終わったら、魔力を寄越せ。たっぷりとな」
「了解」
「交渉成立じゃな」
そのやり取りを見ていたディアが、すっと前に出る。
「ナオト様、私も同行いたします。多少の魔法が使えますから支援なら――」
「ディア」
ナオトは、はっきりと首を横に振った。
「ここを頼む。ジェシカたちを見ていてほしい」
「ですが……」
「もし拠点に何かあったら、守れる人が必要だ」
その言葉に、ディアは唇を噛みしめる。
やがて、静かに頷いた。
「分かりました。必ず、皆を守ります」
「ありがとう」
ジェシカは不安そうにナオトを見上げた。
「ナオトお兄ちゃん、行っちゃうの?」
「すぐ戻る。約束だ」
頭を軽く撫でると、ジェシカは小さく頷いた。
その少し後ろで、ザリナが立ち尽くしていた。
「師匠、あたし」
言いかけて、言葉が止まる。
戦うほどの体力はない。
魔法も使えない。
自分が行っても、足手まといになるだけだと分かっている。
ナオトは、そんなザリナの前に立った。
「ザリナ、頼みがある」
「……なに?」
「冒険者ギルドに行ってくれ。洞窟の件をオルガたちに報告してほしい」
ザリナは目を見開いた。
「え……あたしが?」
「頼めるのは、お前だけだ。お前にはお前の戦い方があるだろ?」
少しの沈黙。
そして、ザリナは強く頷いた。
「分かった。ちゃんと伝える。絶対に」
「ありがとう」
それで全員の役割は決まった。
ナオトは一同を見渡し、静かに言う。
「必ず、全員で帰ってこよう」




