第三章28『ゴーレム』
ゴーレムが、動いた。
それは突進でも、咆哮でもない。
ただ一歩、前へ踏み出しただけだった。
にもかかわらず、床石が低く鳴り、空気が震える。
整えられた広間全体が、その重量を理解したかのように、わずかに沈黙した。
「……来るわよ」
ヘレナが短く告げる。
ルナは一歩前に出る。
短剣を構え、視線を胸部へ向けた。
鈍く脈打つ魔石が、ゆっくりと明滅している。
「ウルル、支援をお願いします」
「うん、なの!」
返事と同時に、水が動いた。
床に散った水滴が集まり、ルナの足元へと流れ込む。
薄く、しかし確かな水膜が形成され、踏み込みを助ける。
次の瞬間、ルナは駆けた。
低く、一直線に。
狙いは関節――膝、脇腹、腕の付け根。
人型である以上、可動部は存在する。
ゴーレムの腕が持ち上がる。
振り下ろしではない。横薙ぎだ。
ルナは跳んだ。
床を蹴り、水膜を滑るように使って、腕の下を潜り抜ける。
石の表面を掠める風圧が、頬を打った。
「――っ!」
刹那、間合いに入る。
右の短剣が閃き、膝関節へと突き立てられた。
「……っ、硬い!」
硬い、という言葉では足りない。
ただ反発だけが腕に返ってきた。
ゴーレムは止まらない。
腕の角度を修正し、もう一度、今度は下から振り上げる。
「ルナ!」
ヘレナの声。
同時に、ワイヤーが飛んだ。
石柱の影から伸びたそれが、ゴーレムの前腕に絡みつく。
巻き付き、締まり、張力がかかる。
ヘレナが跳んだ。柱を蹴り、宙へ。
自分ごと引かれる危険を承知で、無理やり動きを止めにかかる。
「今よ!」
ルナは即座に反応した。
振り上げられかけた腕の内側へ滑り込み、今度は脇腹を狙う。
二刀を交差させ、同時に叩き込む。
――通らない。
刃は弾かれ、衝撃だけが残る。
だが、その一瞬の遅滞で、ヘレナはロープを解き、着地していた。
息は荒いが、笑みは消えていない。
「ちょっとは効いてほしいんだけどね」
ゴーレムの視線、いや、意識が、完全にこちらへ向いたのが分かる。
侵入者を排除する動き。
「ウルル!」
「攻撃、いくの〜!」
ウルルが両手を広げる。
水が集まり、圧縮され、一本の槍のような形を取る。高圧水槍。
放たれたそれは、正確にゴーレムの胸部へ突き刺さる――ように見えた。
しかし、水は弾かれた。
砕け、霧散し、魔石の表面で散る。
「……水も、通らないの〜!」
ゴーレムが、一歩踏み出す。
だが、ヘレナが前に出る。
「なら、削るしかないでしょ!」
短剣が、今度は核ではなく、肩口へ叩きつけられる。
狙いは破壊ではない。外殻の継ぎ目。
刃が滑り、かすかな傷が走った。
ほんの僅か。
だが、確かに、石が削れた。
その瞬間。
ゴーレムの動きが、変わった。
重さも速度も変わらない。
だが、敵を排除する対象として、完全に認識した動き。
低く、鈍い振動音が、胸部から響く。
「……来るわよ、これ」
ヘレナが呟く。
ルナは短剣を構え直した。
ゴーレムの胸部から響いた低音は、音というより振動だった。
空気ではなく、床を、壁を、そして内臓を直接揺らすような不快な感覚。
ルナは一瞬、呼吸のタイミングを狂わされた。
「なんでしょうか?」
「たぶん、警戒段階が上がった」
ヘレナが距離を取りながら答えた。
視線はゴーレムから離さない。
次の瞬間、ゴーレムは腕を振り上げた。
今度は横薙ぎではない。
拳を握り、真っ直ぐ、叩き落とす。
「来る!」
ルナは叫び、水膜を蹴った。
ウルルの魔法が即座に反応し、足場の水が盛り上がる。
跳躍距離が一段伸び、衝撃を逃がす。
拳が床に触れる寸前――止まった。
否、止まったように見えただけだ。
拳の表面が開き、指の隙間から細かな石片が射出された。
散弾。
「っ!」
ヘレナが身を翻し、石柱の陰へ飛び込む。
ルナは短剣を盾にしながら、体を捻る。
いくつかが肩を掠め、布を裂いた。
ウルルの前に、水の膜が水の盾となり展開される。
衝突と同時に弾け、霧となって散る。
「危なっ……!」
「距離を詰めさせないつもりです」
ルナは歯を食いしばる。
単純な力押しではない。
侵入者を排除するための、洗練された行動。
「でも、殻は削れる」
ヘレナが言った。
ゴーレムの死角へ、弧を描くように走った。
ロープを床へ投げ、滑り込むように距離を詰める。
狙いは背中。
短剣が走り、肩甲骨の辺りに傷を刻む。
浅い。だが確実に、石が削れ、粉が舞った。
ゴーレムが反応する。振り向きざまに腕を振る。
「っ!」
ヘレナは跳び、ロープを引き、後方へ退避。
その動きに迷いはない。
「今です!」
ルナが踏み込む。
あえて、正面から。
ゴーレムの注意が前に向いた一瞬、彼女は脇腹へ滑り込んだ。
外殻の継ぎ目――そこへ、短剣をねじ込む。
刃が食い込む感触が、確かにあった。
「……っ!」
だが、そこで止まった。
中は、硬度が違う。外殻よりも、さらに。
ゴーレムの腕が、ルナを包むように動いた。
「ルナ!」
ウルルが叫ぶ。
水が奔る。
床から立ち上がった水柱が、ゴーレムの腕を押し上げる。完全には止まらない。
だが、軌道がずれる。
ルナはその隙に転がり、距離を取った。
「ウルル、ありがとうございます」
「まだ、いけるの〜!」
ウルルの声は震えているが、魔力の流れは安定している。
支援だけでなく、攻撃の準備もしているのが分かる。
ゴーレムは再び、低音を鳴らした。
先ほどより、長く、重い。
「急ぎましょう」
「時間をかけたら、まずそうね」
ゴーレムの胸部で、魔石が脈打っていた。
重く、鈍く、だが確実に。
それは単なる光ではない。
魔力の流れそのものが、そこを中心に循環しているのが、はっきりと分かる。
「……核ですね」
視線は一切ぶれず、胸部中央に固定されている。
あまりにも分かりやすい。
魔物であるならば、力の源は必ずそこにある。
だからこそ、罠である可能性も一瞬だけ、頭をよぎった。
だが。
「でも……他に、ないの〜……」
ウルルが不安げに呟く。
水の感覚を広間いっぱいに広げても、魔力の集中点はそこしかない。
「賭けるしかない、か」
ヘレナが短く言った。
軽口のようでいて、その目は真剣だ。
ルナは一度だけ頷く。
「ウルル。装甲を削って、露出を」
「うん……やってみるの〜!」
水が集まる。
圧縮された水流が、一本の線となって胸部へ走る。
石の外殻が削れ、細かな破片が弾け飛ぶ。
ゴーレムがわずかに体勢を崩し、腕を振る。
だが、それは遅い。
「今!」
ヘレナが飛び込む。
短剣が、正確に、無駄なく振るわれる。
狙いは魔石ではない。
周囲の装甲。
水で脆くなった部分を、確実に剥がしていく。
石が割れ、落ちる。
そして――
鈍い光を放つ魔石が、完全に露出した。
「……見えた」
ルナは息を吸う。
迷いはなかった。
ここまで来て、引く理由がない。
床を蹴り、踏み込む。
短剣を逆手に持ち替え、全身の力を刃先に集中させる。
一撃で終わらせるつもりだった。
「――ッ!!」
振り下ろした。
確かに、当たった。
だが――
「……?」
手応えが、ない。
刃が弾かれたわけではない。
止められた感触とも違う。
衝撃が、抜けた。
まるで、刃先の先に空間があり、そこへ力が吸い込まれていったかのような感覚。
「そんな……」
角度を変え、突く。
同じだった。
確実に魔石に触れているのに、硬さも、抵抗も何一つ、返ってこない。
「ルナ?」
ウルルの声が揺れる。
水を流し込み、魔力の反応を追う。
「ここへんなの〜」
言葉が、途切れ途切れになる。
「魔石の前に層があるの〜」
ヘレナが目を見開いた。
「層?」
「見えないけど、でも水が、そこで曲がるの〜」
ルナは、理解する。
単純な装甲ではない。
攻撃を弾くための盾でもない。
力を受け止め、内部へ逃がす構造。
「……なるほど」
短剣を下ろし、静かに息を吐く。
「ここは弱点じゃないですね」
ヘレナが、舌打ちする。
「最悪ね。一番それっぽい場所が、実は一番安全ってわけ?」
「ええ」
ゴーレムが、再び動き出す。
先ほどよりも、わずかに速く。
そして、迷いがない。
「来るの〜!」
ルナは短剣を握り直した。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
これまで数多の敵を見てきた。
強敵も、異形も、理不尽も。
だが――
ただ一つ分かるのは、このゴーレムは、こちらの常識の外側で作られているということだけだった。
戦いは、まだ終わらない。
だが、勝ち筋は――見えなくなった。
正面からの核破壊が通らない以上、残された手段は一つ。
「……外側から、削り落とす」
ゴーレムの外殻が、確実に削れていた。
一撃一撃は致命に届かない。
それでも、積み重ねた攻撃が、表層の石を剥がし、砕き、削り取っていく。
床に転がる破片の量が増え、ゴーレムの巨体には、無数の浅い傷が刻まれていた。
「……削れてる。けど……」
ヘレナが息を吐きながら呟く。
短剣を投げ、即座に距離を取り、また走る。
動きはまだ鋭いが、肩で呼吸をしているのが分かった。
ルナも同じだった。
腕が重い。
足に溜まった疲労が、踏み込みの一瞬を遅らせる。
「ウルル、魔力は?」
「……減ってきてるの〜……」
ウルルの光が、わずかに揺らぐ。
それでも彼女は水を生み、流し、圧縮し続けていた。
水の刃が外殻を削り、ルナの短剣が、その隙間へと食い込む。
――だが。
「……っ」
ルナの刃が、途中で止まった。
硬い。
だが、今までの石の硬さとは、明らかに違う。
刃が弾かれたわけではない。
切れ味が失われたわけでもない。
力が、吸い取られる。
そんな感触だった。
「……何?」
短剣を引き抜くと、刃先がわずかに熱を持っている。
石を削った後のそれとは、まったく異なる感触。
外殻が剥がれ落ちた箇所。
石ではない。
だが、金属とも断言できない。
鈍い質感の層が、外殻の下に存在している。
「外殻の中に……別の何かがある!」
ヘレナの声が飛ぶ。
彼女が投げた短剣が、その部分に命中し、高い音も、砕ける感触もなく、
ただ、重く鈍い衝撃だけを残して弾かれた。
ゴーレムが、一歩踏み込む。
動きが、変わっていた。
さきほどまでの、力任せに薙ぎ払うような攻撃ではない。
最小限の動作。
最短距離。
こちらの位置を正確に捉え、無駄なく腕を振るう。
「……動きが、洗練されてきてます」
ルナが歯を食いしばる。
外殻が削れたことで、何かが目覚めている。
そんな感覚が、はっきりとあった。
「ウルル、水の流れはどう?」
ウルルは一瞬、目を閉じる。
水の粒が、彼女の周囲で静かに揺れた。
「変なの〜」
その声は、珍しく曖昧だった。
「水、当たってるのに、中で、散らされてるの〜」
集中させた水圧が、触れた瞬間に、霧散する。
吸収されているわけでも、弾かれているわけでもない。
ただ、拡散させられている。
「魔法を、受け流してる?」
ルナの言葉に、答えはなかった。
ヘレナが歯を鳴らし、再び走る。
「冗談じゃない……!」
瓦礫を蹴り、柱を回り、ゴーレムの死角へ潜り込む。
だが、その動きを、ゴーレムは一拍遅れで、正確に追ってきた。
外殻が削れたことで、視界が、広がっている。
「……っ」
ルナが割り込む。
短剣で腕を逸らし、ウルルの水の壁が衝撃を和らげる。
だが、そのたびに、三人の消耗は確実に積み重なっていく。
呼吸が荒くなる。
判断が、わずかに遅れる。
それでも、攻撃を止めるわけにはいかなかった。
外殻は、確かに削れている。
その内側にあるもの――
それが、完全に露出する前に。
ゴーレムが、ゆっくりと一歩、下がる。
その胸部の奥で、鈍い光が、強く脈動した。
嫌な予感が、背筋を走る。
「……これは……」
ルナは反射的に足を踏みしめ、姿勢を低くした。
ウルルの水の粒が、音もなく揺れ、歪む。
「嫌な感じがするの〜」
ウルルが、ルナの肩口に寄り、声を落とした。
その直後だった。
微かな音。
最初は、ただの反響かと思えた。
遠くで石が擦れ合う、いつもの洞窟音。
だが、それは次第に、はっきりとした方向性を持ち始める。
「通路の方から」
ヘレナが、歯を食いしばりながら振り返る。
広間へ続く通路の闇。
その奥で、何かが、同時に動き始めていた。
石と石が噛み合う音。
重いものが、長い静止を破って姿勢を変える音。
「まさか」
ルナの脳裏に、先ほど通ってきた光景が浮かぶ。
等間隔に並んでいた、無数の石像。
剣を持つ者。
槍を構える者。
盾を前に掲げた者。
「来るわ」
ヘレナが、短剣を握り直す。
通路の闇が、わずかに揺れた。
石像の影が、像であることをやめ、一体、また一体と、姿勢を変えていく。
「数……多いの〜……」
ウルルが息を呑む。
広間と通路を繋ぐ空間が、ゆっくりと、しかし確実に敵で満たされていく。
ルナは、短剣を構え直した。
視線は、前。
削れた外殻。
脈動する胸部。
そして、背後には――
迫り来る、新たな敵影。
挟み撃ち。
戦況は、明確に悪化していた。
「……ヘレナさん」
「分かってる」
視線を交わすだけで、意図は伝わる。
「退路は、ほぼ無いわね」
「ええ」
ルナは、静かに答えた。
「だからここで、踏み止まります」
ウルルが、力強く頷く。
「ウルルも、全力なの〜!」
ゴーレムの胸部の光が、一段、強く脈動する。
それに呼応するように、通路から、石の足音が一斉に鳴り響いた。




