第三章27『共闘』
扉の向こうへ一歩踏み出した瞬間、音が変わった。
靴底が触れたのは、これまでの湿った岩床ではない。
硬く、平らで、わずかに冷たい感触。
「床が、違う」
石を切り出し、意図的に敷き詰めた床だと、踏んだだけで分かる。
洞窟の中であるはずなのに、空間が整えられている。
「ここ、洞窟なのに変なの〜」
ウルルが、ふわりと浮かびながら足元を覗き込む。
「ええ。嫌な感じがします」
ルナは足元を確かめるように、ゆっくりと体重を移した。
足音が、低く澄んだ反響となって奥へ伸びていく。
その音が、やけに遠くまで届く。
背後で、低く重たい音が鳴った。
石が擦れ合い、ゆっくりと動く音。
振り返らなくても、何が起きているのかは分かった。
扉だ。
開かれていた巨大な石の扉が、内側へと静かに閉じ始めている。
ルナは歩みを止めるが、振り返りはしない。
足元から伝わる微かな振動を感じ取りながら、ただ状況を受け入れる。
「……やっぱり、ですね」
小さく、独り言のように呟いた。
逃げ道を残すつもりがない。
この場所は、最初からそういう造りなのだ。
ごう、と空気が押し出される音とともに、扉の隙間が狭まっていく。
外の洞窟から差し込んでいた光が細くなり、
やがて一本の線となって消えた。
重い終止音が響く。
それだけで、外の世界は完全に遮断された。
「閉まっちゃったの〜」
ウルルが振り返り、そう言った。
「ええ、問題ありません」
即答だった。
「戻るつもりは、最初からありませんから」
閉じ込められた、という感覚はない。
「生存者がいるなら、行くしかありません」
その声には、迷いも焦りもなかった。
ウルルは一瞬だけルナの横顔を見てから、ぱっと笑う。
「うん!ウルルも一緒なの〜!」
ルナは視線を前方へ戻し、短剣を握り直した。
「行きましょう」
それだけ言って、彼女は再び歩き出す。
この場所で、やるべきことは一つしかない。
生きている者を、必ず連れ帰る。
扉の内側は、まっすぐに伸びる通路だった。
「ここ、広いの〜……」
ウルルが声を落とし、周囲を見回した。
水の粒が静かに揺れ、淡い光が通路の輪郭を浮かび上がらせる。
天井は高く、壁は滑らかに削られている。
自然洞の荒々しさはなく、苔も、滴る水もほとんど見当たらない。
「自然洞じゃない……完全に人工ですね」
あるのは、均一な石肌と、意図的な造形。
通路の左右に、等間隔で影が立っていた。
人の背丈ほどの石の像が、整然と並んでいる。
剣を持つ者。
槍を構える者。
盾を前に掲げた者。
どれも戦士の姿を模しているが、表情はない。
顔の部分は滑らかで、目も口も刻まれていなかった。
「……石像?」
問いかけるように呟くと、声が反響して戻ってくる。
その反響が、像の間を縫うように揺れた。
ウルルが一体に近づき、首を傾げる。
「ただの石なの〜」
「中央を進みます。像には触れないでください」
「は〜い、なの!」
通路の空気は、ひんやりとしているが澄んでいる。
洞窟特有の息苦しさがない。
それが逆に、不安を煽った。
整えられすぎている。
静かすぎる。
「ルナ……」
ウルルが小さな声を出す。
「音、聞こえるの〜」
ルナは立ち止まり、耳を澄ませた。
低く、重い音。
石と石が、ゆっくりと擦れ合うような響き。
規則的ではないが、完全に無秩序でもない。
まるで、どこかで巨大な構造物が呼吸しているかのようだった。
「……奥から、ですね」
通路はやがて、緩やかな下り坂になる。
視界の先が、少しずつ開けていく。
石像の列が途切れ、その先に空間があった。
思わず、息を呑む。
洞窟の中とは思えないほどの広さ。
天井は遥か高く、暗闇の中に吸い込まれている。
壁面には魔晶石が埋め込まれ、淡く、不規則に輝いていた。
巨大な広間だ。
静まり返った、圧倒的な空間。
声を出せば、その小ささが即座に突きつけられそうな場所。
「……すごいの〜……」
ウルルの声が、小さく反響する。
床は通路と同じく整えられ、中央へ向かって緩やかに広がっている。
そして、その視線の先。
広間の最奥。
一段、高くなっている場所があった。
床から切り出されたような石の基壇。
周囲とは明らかに異なる造形。
「……あれは……」
「台なの……?」
「……祭壇、でしょうか」
確信はない。
だが、理由もなくそう思った。
祭壇の上には、ひときわ存在感のある箱が置かれている。
「宝箱……なの?」
「……かもしれません」
広間の空気が、わずかに重くなる。
どこかで、石が動く音がした。
耳ではなく、骨の奥で感じ取るような、鈍く重い違和感。
腹の底を引きずるような、低い軋みが広間に滲む。
硬質な石が、長い静止を破って擦れ合う音。
洞窟の反響とは違う。
足裏から伝わる微かな震え。
整えられた石床を通して、振動が遅れて届く。
その瞬間だった。
「伏せて!!」
張り裂けるような叫び声が、広間を切り裂いた。
考えるより早く、身体が動いた。
ルナは床を蹴り、前方へ、否、下へ跳ぶ。
視界が反転し、石床が迫る。
同時に、腕を伸ばしてウルルを引き寄せ、胸元に抱え込む。
次の瞬間――
空気が、潰れた。
衝撃波が背中を叩き、鼓膜が悲鳴を上げる。
頭上を、巨大な岩が通過した。
速すぎて、形が追えない。
だが、質量だけは嫌というほど伝わってきた。
「っ……!」
身体を伏せたまま、歯を食いしばる。
風圧が、髪を引き剥がす。
空気を裂く音が耳元を掠めた。
それは投げられた岩ではなかった。
振り抜かれた一撃だ。
壁から伸びた巨大な石の腕が、広間を横薙ぎに薙ぎ払ったのだ。
石と石が擦れ合う轟音とともに、その腕は反対側の床へ叩きつけられる。
爆発のような衝撃。
床石が耐えきれず砕け、破片が跳ね上がる。
鋭利な石片が雨のように降り注ぎ、床を叩き、壁を弾き、音を増幅させる。
ルナのすぐ横を、拳ほどの石片が転がり落ちた。
「……!」
遅れて、衝撃の意味が理解に追いつく。
もし、伏せるのが一瞬遅れていたら。
もし、あの叫びがなかったら。
「今の……腕なの〜!?」
ウルルの声が、腕の中で震えていた。
ルナはゆっくりと顔を上げる。
身体を低く保ったまま、短剣に指を掛ける。
視線の先、広間の壁面、その一部が、壁であることをやめていた。
石が剥がれ、組み替わっていく。
崩壊ではない。
破壊でもない。
まるで、最初からその形になることを想定されていたかのように。
関節が生まれ、骨格が浮かび上がり、
先ほど振り抜かれた腕が、再び壁から引き抜かれる。
「……なるほど」
ルナは短く息を吐いた。
「あれは……最初から、ここにいたんですね」
壁ではなかった。
隠れていたのでもない。
待っていたのだ。
侵入者が、踏み込むその瞬間を。
―――
石の腕が床を薙ぎ払った直後、衝撃波が広間を走った。
砕けた床石が跳ね、砂塵が舞う。
ルナはその勢いを利用するように身を低くし、転がるように前へ出た。
視線は、叫び声の方向、広間の側壁近く。
壁面から張り出した巨大な石柱が数本、等間隔で並んでいる一角。
元は天井を支える構造だったのだろう。
だが長い年月で一部が崩れ、柱と柱の間には瓦礫が積み上がっている。
「……いた」
石柱の影。
崩れた石材と柱の陰を使い、位置を変え続けている人影があった。
完全に隠れてはいない。
ゴーレムの視界から外れつつ、攻撃が来ればすぐに身を翻せる距離。
逃げながら、戦っている。
その人影が、短剣を投げた。
金属音が響き、刃はゴーレムの肩口を弾く。
効いてはいない。だが、確実に注意を引いた。
「こっちよ、石頭!」
掠れ気味だが、芯のある声。
ゴーレムの上体が、ゆっくりとそちらへ向く。
「ウルル、足元を!」
「うん、なの!」
水が走り、床に薄い膜を作る。
わずかな遅滞。
その隙を突き、ルナは柱の影へ飛び込んだ。
石柱の裏。
そこに、彼女はいた。
金髪を後ろで束ね、緑の瞳で敵の動きを睨み続けている。
息は荒いが、姿勢は崩れていない。
ただ、一歩踏み出した瞬間、わずかに足が遅れた。
「……怪我、してますね」
ルナの視線が、彼女の脚を捉える。
太腿の外側。
石片で裂かれた傷が、布越しにも分かるほど赤く滲んでいた。
「ええ、まあね。さっき、柱ごと吹き飛ばされかけたの」
軽口のように言うが、血の量は誤魔化せない。
背後で、ゴーレムが方向を修正する音がした。
重い足音が、再び近づいてくる。
「治します。ウルル!」
ウルルが、すぐに前へ出る。
「大丈夫なの〜!すぐ良くなるの〜!」
淡い青の光。
水が集まり、彼女の傷口を包み込む。
ひやりとした感触のあと、痛みが引いていく。
裂けた皮膚が塞がり、出血が止まる。
完全ではないが、動ける程度には回復する。
「……水の精霊。珍しいわね」
彼女は脚に体重をかけ、確かめるように一度踏み込む。
「……問題ない」
治癒の光が消え、静寂が一瞬だけ戻った。
石柱の陰。
砕けた床石の隙間を縫うように、微かな砂埃が舞っている。
ゴーレムはまだ距離を測っているのか、踏み込まずにこちらを見据えていた。
その間隙で、二人は、ようやく互いを正面から見た。
金髪に緑の瞳。
薄汚れた軽装だが、動きに無駄がない。
ルナは、その顔を見た瞬間、胸の奥で何かが噛み合う感覚を覚えた。
記憶が、はっきりと輪郭を持つ。
アークロスの街。
人混みの中で起きたスリ騒ぎ。
逃げる背中を追い詰め、行き止まりまで追い込んだ。
それでも、躊躇うことなく川へ飛び込み消えていった女。
「あの時の……」
同時に、別の光景が重なる。
スラム街の外れ。
幽霊屋敷の調査。
気配を察した瞬間、足元に転がされた煙玉。
白煙の中、視界と嗅覚を奪われ、気付けば、誰もいなかった。
短剣の柄に、わずかに力が入る。
その変化を、相手は見逃さなかった。
「……その顔」
女が、わずかに目を細める。
「気づいた?」
緑の瞳が、楽しげに揺れた。
「やっぱり。どこかで見たと思ったのよ」
一拍置いて、彼女は軽く肩をすくめる。
「アークロスの街。スリ騒ぎの時」
ルナは視線を逸らさず、静かに頷いた。
「……逃げられました」
「ええ。結構、追い詰められてたわ」
その声に、後悔はない。
むしろ、懐かしむような響き。
「それと、スラム街の空き家」
「煙玉……」
「効いたでしょ?」
一瞬、ウルルがきょとんと二人を見比べる。
「え?え?知り合いなの〜?」
「……宿敵、です」
ルナはそう答え、改めて相手を見る。
「ルナです」
名乗りは、簡潔だった。
その言葉を受け、ヘレナは一瞬だけ真顔になる。
戦場の中で。
命のやり取りを前にして。
それでも、彼女ははっきりと言った。
「ヘレナ。盗賊団の一員」
自嘲するように、口元が歪む。
「二度も逃げ切った相手に、助けられるなんてね」
「……今は」
ルナは、ゴーレムへ視線を向けた。
「過去のことを話している場合ではありません」
ヘレナは一瞬だけ驚いた顔をし、それから、短剣を構え直す。
「……真面目ね」
だが、その声には、警戒ではなく、信頼が混じっていた。
「いいわ。今は共闘」
石の足音が、再び近づく。
ゴーレムが、明確にこちらを敵と認識した。
「生きて出たら、その時は、続きを話しましょ」
「……はい」
短剣が、同時に構えられる。
かつては追う者と逃げる者だった二人が、今は並んで、同じ敵を見る。
戦闘が、再開する。




