第三章26『扉』
ルナは一度だけ振り返った。
逃がした男の足音は、もう聞こえない。
森のざわめきも、川のせせらぎも、ここまでは届かない。
残っているのは、洞窟の奥から流れ出してくる冷たい空気と、かすかな水音だけだった。
「……行きます」
誰に向けた言葉でもない。
それでも口に出さなければ、足が止まりそうだった。
貝殻のイヤリングが、かすかに揺れた。
「ウルル。起きてください」
囁くように名を呼ぶと、貝殻の内側が淡く光り始める。
水滴が弾けるような音とともに、空気中に透明な雫が集まり、形を成した。
水の雫が人の姿を取ったような、小さな精霊。
長い髪のように流れる水が揺れ、丸い瞳がぱちりと開く。
「は〜い、なの〜!」
明るい声が洞窟に響いた。
「おはようなの、ルナ!ここ、ひんやりしてるの〜!」
「声、少し抑えてください。洞窟ですから」
苦笑しながら注意すると、ウルルは両手で口を押さえた。
「はっ!ごめんなの〜!」
けれど、その表情はまったく懲りていない。
ルナは小さく息を吐き、洞窟の奥を見据えた。
「奥で、何かが起きています。慎重に進みますよ」
「了解なの〜!ウルル、がんばるの〜!」
ウルルはぴょこんと跳ね、ルナの肩ほどの高さに浮かぶ。
その身体から零れる水の粒が、淡く周囲を照らした。
魔晶石の光とは違う、やわらかな水光。
それだけで、洞窟の闇が少し遠のいた気がした。
「足元、滑りやすいの〜。右側、ぬかるんでるの〜!」
「助かります」
言葉を交わしながら、ルナは一歩、洞窟の中へ踏み出す。
足裏に伝わる湿った感触。
苔と泥が混じり、慎重に重心を移さなければならない。
通路は思ったよりも広く、天井も高い。
壁面には魔晶石が点在し、青白い光が影を長く引き延ばしている。
ウルルは空中でくるりと回りながら、先へと視線を向けた。
「でも、なんだか変なの〜」
「変、とは?」
「水が怖がってるの〜」
その言葉に、ルナは足を止めた。
「怖がっている……?」
精霊の感覚は、人間よりも正確だ。
ルナは自然と短剣に手をかける。
(普通の洞窟じゃない)
それは、もう確信に近かった。
「ウルル。周囲の水の動き、教えてください」
「任せるの〜!」
二人は並んで、洞窟の奥へと進んでいく。
静かな決意と、精霊の明るい声が混じり合いながら、闇は少しずつ、その口を開いていった。
―――
洞窟の奥へ進むにつれ、空気の質が変わっていくのをルナは感じていた。
湿気は相変わらずだが、足裏に伝わる感触が重い。
柔らかい土と小石が混ざり、踏みしめるたびにわずかに沈む。
「ルナ!来るの〜!」
ウルルの声と同時に、影が地面から盛り上がった。
それは犬ほどの大きさ。
体は岩と土が混ざったような塊で、関節部分だけが不自然に可動している。
ルナは即座に短剣を抜く。
次の瞬間、魔物が跳ねる。
「っ……!」
ルナは横へ跳ぶ。
魔物の爪が地面を叩き、土と石が弾け飛んだ。
踏み込みの瞬間を見切り、ルナは魔物の側面へ滑り込む。
右の短剣が閃いた。
刃が弾かれ、火花が散る。
「やっぱり、表面は岩ですね……!」
魔物はすぐさま体を回転させ、尾のような石の塊を振り回す。
「ウルル!」
「任せるの〜!」
ウルルが両手を広げると、水の魔力が集まり、地面へと叩きつけられた。
地面を一気に濡らし、土を緩ませる。
魔物の動きが、わずかに鈍る。
「今です!」
ルナは一歩踏み込み、今度は関節部を狙う。
左の短剣で岩を削り、右の短剣を、削れた隙間へ滑り込ませる。
手応えがあった。
魔物が唸り声を上げ、体を震わせる。
だが、完全には止まらない。
体表の土が蠢き、再び盛り上がろうとする。
「再生するの〜!」
「核を叩きます!」
魔物が低く唸り、突進する。
洞窟の地面が震え、土埃が舞う。
「ウルル、頭を濡らして!」
「了解なの〜!」
ウルルが両手を広げる。
放たれた水流が、魔物の頭部を正面から叩いた。
水が土を含み、表層が崩れる。
露出する、歪な魔石。
ルナは一気に距離を詰めた。
突進の勢いを利用し、短剣二刀が、迷いなく振るわれる。
一閃目で頭部の装甲を削り、二閃目で核を正確に捉える。
金属を叩いたような音。
次の瞬間、確かな手応え。
三撃目。
核が砕け、魔力が暴走する。
魔物は声にならない音を上げ、そのまま崩れ落ちた。
岩と土の塊へと戻り、洞窟の床に散らばる。
湿った空気の中、微かな魔力の残滓がゆっくりと霧散していくのを、ルナはじっと見届けた。
「……もう、動かないですね」
短剣についた土を軽く払う。
刃こぼれはない。
だが、刃を伝った微細な震えが、先ほどの戦闘の重さを物語っていた。
「最初がこれなの〜。この先も、きっといるの〜」
ウルルの声は明るいままだが、漂う水の粒がわずかに張り詰めている。
精霊もまた、この洞窟がただの空洞ではないことを感じ取っていた。
「進みましょう。立ち止まるほど安全な場所じゃありません」
そう言って歩き出すと、足音がすぐに洞窟に反響した。
慎重に、音を抑えながら進む。
―――
血の匂いが、再び濃くなった。
洞窟の奥へ進むにつれ、湿った岩の冷気に混じって、鉄臭さが鼻腔にまとわりつく。
新しい血だ。乾いていない。
「ウルル」
「うん、わかってるの〜」
水の精霊が小さく頷き、淡い光が周囲を照らす。
その光の縁で、岩陰に倒れている影が見えた。
人間だ。
男が一人、横倒しになっている。
片腕で腹を押さえ、肩は不自然に落ち、足元には血が広がっていた。
生きてはいるが、呼吸は浅く、意識も途切れかけている。
ルナはすぐに膝をついた。
「大丈夫です。動かないで」
声をかけると、男のまぶたがわずかに震えた。
「……すま……ない……」
絞り出すような声だった。
謝る必要などないはずなのに、男はそれしか言えない様子だった。
傷は一つではない。
肩の裂傷、腹部の打撲、足の擦過傷。
致命傷ではないが、放っておけば確実に命を落とす。
ルナは手を翳し、水属性の魔力を練る。
「今から治癒します」
男の指が、ルナの袖を掴んだ。
「……奥に……」
男の喉が鳴る。
「……まだ……仲間が……」
息が、乱れる。
「……助けて……くれ……」
その言葉を吐き切ると同時に、男の手から力が抜けた。
ルナは一瞬だけ目を伏せ、それからすぐに魔力を流し込んだ。
淡い水光が傷を包み、血の流れが止まる。
男の呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
しばらくして、男が微かに目を開く。
「……あ……」
「話さなくていいです」
ルナは短く告げた。
「今は休んでください。動けるようになったら、ここから離れて」
男は何か言おうとしたが、言葉にはならなかった。
それでも、最後に小さく、確かに口が動いた。
「……ありがとう……」
そして、もう一度。
「……仲間を……」
それだけだった。
ルナは立ち上がり、洞窟の奥を見据える。
血の匂いは、まだ消えていない。
――一人じゃない。
ここで倒れているのは、始まりに過ぎない。
「分かりました」
ルナは静かに呟き、そして、再び歩き出した。
―――
さらに奥へ進んだところで匂いが変わった。
生きている血の匂いではない。
時間が経ち、冷えきった、重たい気配。
魔晶石の淡い光が、通路の先を照らす。
その中で、人が横たわっているのが見えた。
動かない。
呼吸の揺れも、気配も、感じられない。
ルナは足を止める。
近づく前から、理解してしまった。
――これは、もう助からない。
慎重に距離を詰める。
男は仰向けに倒れていた。
胴体には、魔物の爪によるものと思われる深い傷。
血はすでに乾き、命の温度は残っていない。
男の顔は、洞窟の奥を向いていた。
暗く、見通せない通路の先。
まるで、最後の瞬間まで、何かを見据えていたかのように。
ルナは膝をついた。
脈に触れる必要もない。
水の魔力を使う理由もない。
「……」
言葉は、喉の奥で止まったまま出てこない。
ルナは静かに息を吐き、男のまぶたに手を伸ばす。
そっと、閉じさせる。
「……お休みなさい」
それだけ告げると、簡単な弔いを施した。
魔法でも、祈祷でもない。
ただ、この場所で、確かに一人の命が終わったという事実を、心に刻むための行為。
立ち上がったとき、胸の奥が、わずかに締めつけられた。
(……間に合わなかった)
その思いが、重く、しかし確実に沈んでいく。
足を止めれば、こうなる。
躊躇すれば、同じ光景が増える。
血の匂いは、まだ、奥から流れてきている。
ルナは一度だけ振り返り、そして前を向いた。
もう、立ち止まれない。
彼女は、洞窟のさらに奥へと歩き出した。
―――
通路を進むにつれ、空気がざらついていくのをルナは感じていた。
魔晶石の光が、わずかに揺らいでいる。
一定だったはずの輝きが、不規則に明滅していた。
「ルナ!来るの〜!」
ウルルの声と同時に、足元の岩が軋んだ。
土が、盛り上がる。
次の瞬間、通路の壁面が崩れ、土塊の魔物が這い出してきた。
魔石は胸部。
鈍く濁った光を放ちながら、岩の腕を振り上げる。
「――はっ!」
ルナは迷わず踏み込んだ。
右の短剣で牽制し、左で一気に間合いを詰める。
土の腕が振り下ろされるより早く、刃が魔石を抉った。
低い振動音とともに、魔物が崩れる。
だが、終わらない。
崩れた土の向こうから、また別の盛り上がりが生まれる。
一体、二体――。
「多すぎるの〜!」
ウルルが水弾を放つ。
水は土を削ぎ、動きを鈍らせるが、完全には止まらない。
ルナは戦いながら、通路の端に人影を見つけた。
岩陰に身を縮め、息を潜めている。
岩陰に駆け寄ると、男が二人、うずくまっていた。
一人は肩を深く裂かれ、もう一人は腹部から血を流している。
「俺たちは……いい……から……」
ルナは答えず、膝をついた。
水の魔力を引き出し、最低限の治癒を施す。
血は止まり、呼吸が落ち着く。
「すま……ない……」
男が、震える声で言う。
「助けて……くれ……」
視線が、通路の奥を向く。
「奥に……まだ……」
ルナは頷くだけで立ち上がった。
通路にはまた新たな魔物が湧き出していた。
斬る。
砕く。
水で削る。
だが、倒しても、倒しても終わらない。
通路を進むたび、岩陰に人影がある。
息を潜め、必死に音を殺している者。
すでに動かなくなっている者。
治せる者には治癒を。
手遅れの者は、目を閉じさせるだけ。
「仲間を……助けてくれ」
「奥に……頼む……」
同じ言葉が繰り返された。
誰一人、自分を優先せず、仲間の命だけを気にかけている。
胸の奥に、重たいものが溜まっていく。
助けに来た、という感覚は、もうなかった。
ルナは、進みながら、斬りながら、治しながら、理解していた。
これはもう、引き受けてしまったのだと。
洞窟の奥から、低く、重い音が響く。
それでも、ルナは立ち止まらない。
「……行きます、ウルル」
「うん、なの!」
短剣を握り直し、彼女はさらに奥へと進んでいった。
通路を進むにつれ、洞窟の空気は目に見えて変質していった。
湿った岩肌から立ち上る冷気は薄れ、代わりに、張り詰めたような静けさが支配し始める。
水滴の落ちる音も、遠くで軋む岩の音も、いつの間にか消えていた。
ルナは歩みを緩め、自然と呼吸を整える。
やがて、視界の先に壁が現れる。
岩肌に溶け込むようにして、それは存在していた。
洞窟の一部だと思ってしまうほど自然に、しかし明らかに異質な形で。
それは巨大な扉だった。
天井近くまで届くほどの高さ。
横幅も、馬車がそのまま通れそうなほどある。
扉一面には、幾何学的な紋様と、見たことのない文字が刻まれていた。
魔術式のようにも見えるが、どこか宗教的で、祈りの痕跡にも似ている。
「洞窟の中、ですよね?」
思わず口から零れた言葉は、静まり返った空間に吸い込まれるように消えた。
人が作ったものだ。
だが、普通の人間が、この場所に、これほどのものを築いたとは思えない。
ルナは無意識に一歩、距離を詰めた。
その瞬間。
低く、腹の底に響くような音が、洞内を震わせた。
石が擦れ合い、長い眠りから覚めるような、不快な重音。
触れてもいないのに、巨大な扉はゆっくりと、内側から動き始めていた。
扉の中央に、細い隙間が生まれる。
そこから、ひやりとした空気が流れ出し、ルナの頬を撫でた。
冷たい。
だが、洞窟の冷気とは違う。
もっと澄んでいて、どこか外の世界を思わせる風。
「ウルル」
「なんだか、変なの〜」
ウルルは目を丸くし、扉を見上げる。
「……呼ばれてる、みたいです」
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。
だが、それが一番近い感覚だった。
扉は、警告も拒絶もしていない。
むしろ、こちらの存在を認め、迎え入れようとしているように見える。
扉の動きは止まらない。
重々しい音を立てながら、少しずつ、しかし確実に開いていく。
その奥は闇に沈み、何が待っているのかは分からない。
魔物かもしれない。
人かもしれない。
あるいは、もっと別の何か。
ルナは一度、深く息を吸い、短剣を握り直した。
指先に伝わる感触が、彼女を現実に繋ぎ止める。
ここまで来た。
引き返す理由は、もうない。
救うと決めた。
進むと決めた。
扉は完全に開き切り、静まり返った空間の向こう側を晒す。
その佇まいは、まるで長い間、彼女を待ち続けていたかのようだった。
「行こう、ウルル」
「うん、なの!」
一人と一体は並び立ち、開かれた扉の向こうへと足を踏み出す。
その先に待つものが、何であろうとも。




