第三章25『決断』
腰の袋の感触を指先で確かめながら、ルナは小さく息を吐く。
長かった調査も、ようやく終わりが見えてきた。
崖の露頭で見つけた魔晶石を報告のために少量採取した。
加工すれば装飾品にもなるし、市場に出せば魔石以上の価値がある。
何より、あの石を見たらボニーがどんな顔をするか――それを想像するだけで、自然と口元が緩んだ。
「早く戻って、報告しないと」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
ナオトの顔も、頭に浮かんだ。
成果を伝えれば、きっと穏やかに頷いてくれるだろう。
夕刻が近づき、森の空気は少しずつ冷え始めている。
ルナは来た道を振り返り、帰路につこうと踵を返した。
そのときだった。
微かに、風に混じって――違和感が鼻先を掠めた。
洞穴の前で立ち止まったルナは、無意識に鼻をひくつかせた。
ひんやりとした空気が、洞窟の奥から流れ出している。
湿った岩の匂い、冷たい水気――それだけなら、よくある洞穴の気配だ。
だが、その中に。
「……血?」
ごく小さく、声が漏れた。
洞窟の奥から、微かだが確実に漂ってくる。
鉄を思わせる、生々しい匂い。
獣が狩りをした後のそれとは違う。
もっと鋭く、重い。
人の体から流れ出た血の匂いだ。
背筋がぞくりと震えた。
魔晶石に気を取られていたせいで、気づくのが遅れたのかもしれない。
「……誰か、いる?」
声は洞窟の闇に吸い込まれ、返事はない。
耳を澄ます。
水滴が岩に落ちる音。
風が奥を抜ける、低い唸り。
だが、それらに混じって――かすかに、不規則な音が聞こえた。
何かを引きずるような、湿った音。
ルナは反射的に洞穴の入口横に身を寄せ、短剣に手をかけた。
視線は闇の奥へと固定される。
血の匂いが、確かにそこから来ている。
風に乗って、少しずつ外へ流れ出しているのだ。
獣なら、ここまで強く匂いを残す前に、獲物を引きずってどこかへ行く。
魔物なら、もっと魔力の気配があるはずだ。
だが、感じるのはそれらではない。
「……人間の、血」
洞窟の奥で、何かが動いている。
それは激しくはない。
むしろ弱々しく、必死に耐えているような気配だった。
引き返すべきだ、という理性の声が頭をよぎる。
洞窟は視界が悪く、罠や強力な魔物が潜んでいてもおかしくない。
だが――。
ルナは一度、深く息を吸った。
「確認だけ」
自分に言い聞かせるように呟き、足音を殺して洞窟の中へと踏み出す。
闇の向こうから、さらに濃くなる血の匂いが、彼女を迎え入れていた。
洞窟の中へ一歩踏み入れた瞬間、空気の重さが変わった。
音が、妙に近く感じる。
壁に反射し、距離感を曖昧にするせいだ。
それでも、ルナの耳は確かに捉えていた。
湿った地面を何かが擦る音。
洞窟の奥、やや左側。
反響を差し引いても、その方向は明確だった。
ルナは足を止め、身体を低くして耳を澄ます。
音が、今度は少し近くに聞こえる。
呼吸が、自然と浅くなる。
胸の奥で心臓が強く脈打ち始め、その振動が喉元まで伝わってきた。
(落ち着いて)
自分に言い聞かせるが、身体は正直だった。
足元の地面は湿っている。
苔と泥が混じり、踏み込めばぬかるむ。
慎重に重心を移さなければ、音を立ててしまう。
鈍い音が、闇の奥から響いた。
石に、何かが当たった音だ。
乾いた衝突音ではない。
重く、鈍く、力のない当たり方。
引きずられた何かが、転がる小石にぶつかったのだろう。
ルナの背筋に、冷たいものが走った。
獣なら、こんな音は立てない。
魔物なら、もっと荒々しい。
これは――人間だ。
剣を握る手に、わずかに力がこもる。
(生きてる……?)
音が続いている。
止まらないということは、まだ動けている。
だが、その動きは遅く、不規則で、必死だ。
息を吸うたびに、血の匂いが濃くなる。
洞窟の冷気が肺に入り込み、喉の奥がひりついた。
呼吸が、さらに早くなる。
心拍が、耳の内側で響く。
自分の足音さえも、それに掻き消されそうだった。
ルナは一歩、また一歩と進む。
足の裏に伝わる感触を確かめながら、湿った地面を選んで踏む。
再び、石に当たる音。
今度は、すぐ近くだ。
闇の奥で、何かが動いた気配がした。
影が、わずかに揺れた。
ルナは息を止め、身体を壁際に寄せる。
剣先を下げ、しかしいつでも振るえる位置に構える。
心臓が、早鐘のように鳴っていた。
ルナは、音のする方向へ、静かに踏み出した。
洞窟の奥から差し込む光は、ほとんど意味を成していなかった。
外光は入口付近で力尽き、奥へ進むほど闇が濃くなる。
代わりに、壁面に露出した魔晶石が、淡く冷たい光を放っている。
それは灯りというより、影を浮かび上がらせるための装置のようだった。
その光の境目で――何かが動いた。
最初は、影が揺れただけに見えた。
岩肌に映る濃淡が、呼吸するようにわずかに歪んだだけ。
だが、次の瞬間、その影は不自然な動きを見せた。
低い。
あまりにも低い位置で、影が前へ進んでいる。
「……?」
ルナは無意識に一歩、足を引いた。
視線は影から外せない。
魔晶石の光が、ゆっくりとその輪郭を削り出していく。
腕のようなものが伸び、地面を掴む。
次いで、引きずられるように影全体が前へ滑った。
――這っている。
その事実に気付いた瞬間、胸の奥がざわりと波立った。
獣ではない。少なくとも、四足で歩く魔物の動きではなかった。
だが、人間だと断じるには、まだ何かが足りない。
影は歪で、動きはぎこちなく、時折止まっては震えている。
頭部らしき部分が垂れ下がり、顔は影の中に沈んで見えない。
人型の魔物。
そうである可能性が、脳裏をよぎる。
ルナの右手が、無意識に腰元へ伸びた。
武器に触れようとして――途中で止まる。
(……待って)
この距離、この状況で武器を構えれば、相手は確実にこちらを認識する。
もし魔物なら、襲いかかってくるかもしれない。
もし人間なら、その行動は決定的な誤解を生む。
影が、再び動く。
魔晶石の光が、這う存在の一部を照らした。
ぼろ切れのような布。
泥と血で濡れ、色を失った服。
その瞬間、ルナの喉が小さく鳴った。
(……服)
装備だ。
獣では身につけない。
魔物も、こんな布切れを纏わない。
だが、それでもまだ確信には至らない。
敵か味方か。
影は、力尽きたように一度止まり、かすかに肩を上下させた。
荒い呼吸。
喉の奥で、空気を掻き集めるような音。
ルナは、心臓の音が耳の内側で響くのを感じながら、一歩だけ前へ踏み出す。
武器は抜かない。だが、いつでも抜けるよう、指に力を込めたまま。
「……誰?」
声は、思ったよりも低く、慎重だった。
問いかけに応えるように、影がわずかに身じろぐ。
魔晶石の光が、ついに顔の輪郭を捉える。
土と血に汚れた頬。
苦痛に歪む口元。
――人だ。
その確信が胸に落ちた瞬間、恐怖は消えなかった。
むしろ、別の種類の緊張が背筋を走る。
この人間は、何者なのか。
なぜ、こんな場所で、這っているのか。
敵か、味方か、判断できない。
影は、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてきていた。
正確には近づいているというより、引きずられている。
ルナは一歩、距離を保ったまま立ち止まる。
呼吸音を抑え、相手の様子を観察した。
荒い息。
不規則な動き。
こちらに向けられる視線には、敵意よりも切迫した焦りが滲んでいる。
「……たす……て……」
かすれた声だった。
喉の奥から無理に絞り出したような、言葉になりきらない音。
その瞬間、張り詰めていた緊張が、わずかに揺らぐ。
近づくにつれ、姿がはっきりする。
見た目は人間の男。
だが、冒険者でも、採掘者でもない。
鎧はない。
道具らしいものも持っていない。
軽装で、武器の気配も感じられなかった。
そして――足。
湿った地面に引きずられた跡の先で、男の右足が不自然な角度で止まっている。
布は裂け、赤黒く染まっていた。
「……ひどい」
ルナは反射的に膝をつく。
完全な治療はできない。
それでも、放っておけば命に関わる。
指先に意識を集中させ、水属性の魔力を練る。
流す魔力は、最低限、止血と、痛みを抑える程度でいい。
淡い水光が、男の足を包み込む。
血の流れが緩み、呼吸がわずかに落ち着いた。
「これ以上は無理です。でも、今すぐ死ぬことはありません」
そう告げてから、ルナは男の顔を見た。
怯えと、安堵と、まだ拭えない恐怖。
「何が、あったんですか?」
短く、しかし逃げ場を与えない問いだった。
男は答えようと口を開き、
けれど言葉は、まだ出てこなかった。
しばらく、男は何も言わなかった。
水の魔力が残る足を押さえ、荒い呼吸を整えるだけだった。
ルナは急かさない。
ただ、逃げ場を塞ぐように、その場に留まる。
やがて、男は小さく唾を飲み込み、震える声で口を開いた。
「洞窟に、宝があるって、話を、聞いたんだ」
途切れがちだが、意識ははっきりしている。
作り話をする余裕もない声だった。
「本当かどうかは、分からなかった、けど」
男は一度、天井の闇を見上げる。
そこに、まだ何かがいるかのように。
「最初は、何もなくて、ただの洞窟だと、思った」
指先が、ぎゅっと握られる。
「奥で、扉を、見つけた。でかい、扉だ」
ルナの眉が、わずかに動く。
「中は、広い部屋で。祭壇、みたいなのが、あって、その奥に、宝箱が」
声が、そこで一度、詰まる。
「近づいた、瞬間」
男の呼吸が早くなる。
目が、怯えに揺れた。
「影が、動いた」
言葉を探すように、首を振る。
「最初は、壁だと、思った、でも、違った。生きてた」
喉が鳴る。
「でかい、魔物だ。見たことも、ない」
ルナは無言で聞いている。
「仲間の一人が、叫んで。逃げろって」
男の声が、低く震えた。
「囮になるって。俺を、押し出して」
沈黙。
「振り返れなかった。逃げる途中で、足を、やられた。暗くて、湿ってて。気づいたら、仲間とはぐれて、一人で」
男は、ぎゅっと目を閉じる。
「奥に、まだ、仲間が、いる」
視線が、ルナに向く。
「頼む」
掠れた声が、必死に続く。
「助けて、くれ」
洞窟の奥から、冷たい空気が流れ込む。
まるで、その証言を裏付けるかのように。
ルナはその言葉を受け止めたまま、すぐには動かなかった。
視線を落とし、短く息を吸う。
「一度、戻ります」
静かな声だった。
森の探索任務はほぼ終わっている。洞窟と魔晶石の存在も確認した。
この状況を正確に伝え、判断を仰ぐべき相手がいる。
(兄様なら……)
無茶を止めるかもしれない。
あるいは、万全の準備を整えてから向かうと言うだろう。
ルナが踵を返しかけた、その時だった。
「だめだ」
男の声が、必死に引き止める。
「それじゃ間に合わない」
ルナは、足を止めた。
「どういう意味ですか」
「時間が」
男は言葉を探すように、何度も息を吐く。
「きっと、生きてる」
震える指が、洞窟の奥を指した。
「仲間が、まだ」
その一言で、ルナの胸に冷たいものが落ちた。
帰る。報告する。判断を仰ぐ。
それは、正しい。
だが、その間にも洞窟の奥では、誰かが命を削っている。
ナオトの顔が、脳裏をよぎる。
困ったように笑って、それでも最後には言う声。
『ルナがやりたいようにすればいい。見捨てるって選択肢、あるか?』
ルナは、静かに目を閉じた。
(ないですね)
開いた瞳には、もう迷いはなかった。
「分かりました」
ルナは膝をつき、男の前に戻る。
「あなたは、ここから離れてください」
「え?」
「今から応急処置をします。その後、安全な場所へ」
水属性の魔力を練り、男の負傷した足へと手を伸ばす。
淡い水の光が、傷口を包み込む。
「行くのか?」
「はい」
迷いのない声だった。
「あなたの仲間を、助けに行きます」
治癒が終わると同時に、ルナは立ち上がる。
「走れますね?」
「……あ、ああ……」
「なら、今すぐ逃げてください。振り返らずに」
男は何か言いかけ、しかし言葉を飲み込み、深く頭を下げた。
ルナはそれを見送り、洞窟の奥へと視線を向ける。
闇は、変わらず深い。
だがもう、引き返す気はなかった。
「必ず、助け出します」
誰に向けた言葉かも分からないまま、ルナは一歩、闇へ踏み出した。




