第三章21『成長祈願祭、夕方』
川辺には、夕方の涼しい風が流れていた。
昼の祭りの喧騒が少しずつ落ち着き、空の色は青から橙へ、そして紫へと移ろい始めている。
屋台の明かりとは別に、川沿いには小さな灯籠がずらりと並べられ、準備を終えた人々が集まり始めていた。
ナオトはその光景を眺めながら、ふと隣に立つルナに気づく。
ルナは手に小さな灯籠を持ち、じっと川の流れを見つめていた。
どこか懐かしむような、静かな表情だった。
「ルナ」
声をかけると、ルナは小さく肩を揺らして振り向いた。
「……兄様」
「灯籠流しって、どういうものなんだ?詳しく知らないんだよなぁ」
ナオトの問いに、ルナは少し考えるように視線を下げ、やがてゆっくりと話し始めた。
「成長祈願の祭りの灯籠流しは……未来に向けて願いを流す儀式です」
灯籠の紙を指でなぞりながら、ルナは言葉を選ぶ。
「朝の祈祷は、神様に『見守ってください』とお願いするものです。でも、夜の灯籠流しは少し違います」
「違うって?」
「神様に頼る、というより……自分たちが、これからどう進みたいのかを、世界に示す行事なんです」
ルナは川面を見つめる。
流れは穏やかで、夕焼けを映してゆっくりと光を揺らしていた。
「灯籠には、子どもの成長、作物の成長、商いや仕事の成長……それから、自分自身の成長を書きます」
「成長、か」
「はい。このお祭りは、前に進むためのものなんです」
その言葉は、静かだが芯があった。
「願いを書いた灯籠を川に流すのは、『この願いと一緒に、これから先へ進みます』という意味なんです」
ナオトは灯籠を手に取り、その軽さを確かめる。
紙と木でできた、ささやかなもの。
だが、そこに書かれる言葉は、これからの一年を方向づけるものになる。
「願いが叶うかどうか、じゃないんだな」
ナオトの呟きに、ルナは小さく微笑んだ。
「はい。叶うように『願う』というより、叶えるために『宣言する』……そんな感じです。だから、願い事は一つでなくてもいいんですよ。欲張りでも、曖昧でも、その人らしいものであれば」
ルナはそう言ってから、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「ルナは、この灯籠流しが好きなんです」
「どうして?」
「未来の話をしても、怒られないからです」
その言葉に、ナオトは一瞬、息を詰めた。
孤児院で育ったルナにとって、未来はいつも不確かなものだった。
それでも、この祭りの日だけは、堂々と「これから」を語っていい。
「だから、兄様も」
ルナは灯籠を胸に抱き、真っ直ぐに言った。
「難しく考えなくて大丈夫です。今の兄様が、これからも大事にしたいと思うものを書けば」
ナオトはしばらく黙り込み、やがて苦笑する。
「……それが一番難しいんだけどな」
ルナはくすっと、小さく笑った。
川辺には、少しずつ人が集まり始めていた。
灯籠流しの時間が、近づいている。
ナオトは手にした灯籠を見下ろし、深く息を吸う。
「未来に向けて、か……」
ナオトが灯籠を手に考え込んでいると、背後から聞き慣れた声がした。
「おーい、ナオトさーん!」
振り向くと、腕を大きく振りながら近づいてくるボニーの姿がある。
その背後には、落ち着いた足取りのザリナ、そして——
「……なんで妾まで……」
明らかに不機嫌そうなパメラがいた。
「いいからいいから!今日は祭りですよ?こういうのは参加しないと損なんです!」
「……家から出た時点で損なんじゃが」
パメラは腕を組み、露骨にため息をついた。
「ほらほら、そんな顔しないでください。ザリナさんも一緒に来たんですし」
ザリナは小さく肩をすくめる。
「ボニーに『研究者こそ、成功を祈願するべき』と言われたんで」
「……妾は研究者じゃないんじゃが」
パメラはぷいっと顔を背けた。
「無理やり連れてこられたってやつだな」
ナオトが苦笑交じりに言うと、パメラは即座に頷いた。
「……祭りなど妾の性に合わん」
「でも灯籠、ちゃんと持ってるじゃないか」
ナオトの指摘に、パメラは一瞬、視線を逸らす。
手には、しっかりと灯籠が握られていた。
「……流さないとは言っておらん」
「ほら、結局ノリノリじゃないか!」
「違う」
即答だった。
ルナはそんな二人を見て、静かに微笑む。
「賑やかですね。こうして全員揃うのも、悪くありません」
ボニーは灯籠を掲げる。
「そうそう!成長祈願ですよ?だったら、みんな一緒じゃないと!」
その言葉に、ナオトは周囲を見渡した。
すでに仲間たちはそれぞれ灯籠を手に、思い思いの表情で川辺に立っている。
昼の喧騒とは違う、夜へ向かう静かな時間。
「……確かに」
ナオトは小さく頷いた。
「ここまで来たら、全員で流した方がいいな」
川の上流では、最初の灯籠が流され始めている。
光が一つ、流れに乗り、静かに遠ざかっていった。
「そろそろ、だな……けど」
ナオトは、灯籠を一つ手に取りながら、立ち尽くしていた。
願い事を書くための筆は持っている。
灯籠もある。
だが、肝心の言葉が浮かばない。
「……困ったな」
子どもの成長。
作物の成長。
街の発展。
事業の成功。
どれも大事で、どれもすでに日常として願い続けていることだった。
わざわざ灯籠に書くほど特別な願いなのかと考えると、どうにも筆が進まない。
その様子を見て、先に書き終えた面々が楽しそうに集まってきた。
「おにーさん、まだ決まらないの?」
最初に声をかけたのはフィオラだった。
彼女はすでに灯籠を胸に抱え、文字を何度も読み返している。
「まぁな。みんなはもう書いたのか?」
「うん!あたしはね――」
フィオラは少しだけ胸を張って、嬉しそうに言った。
「来年も、再来年も、みんなでこの街にいられますように、って」
成長祈願祭らしい、まっすぐな願いだった。
ジェシカ、リーネ、ウィスも灯籠を見せてくる。
「あたしは、畑が豊作になりますように!」
「わたしは素敵な服が作れますように、です」
「……たくさんお絵かきしたい」
オルガは少し照れたように頭をかきながら言った。
「私は単純です。みんなを守れるように強くなりたい、です」
守る側の願いだった。
「ボクは魔法がもっと上手くなりたい!」
「私は……人の役に立てる自分でありたいです」
ヴァニラとショコラは並んで灯籠を掲げていた。
「ディアは、何を書いたんだ?」
そう尋ねると、ディアは特にためらう様子もなく、あっさりと答える。
「ナオト様と幸せになりたい、です」
その口調は一切の迷いがなかった。
「ブレないな……」
「ブレません」
即答だった。
ディアはそっと灯籠を水面に浮かべる。
小さな光が流れに乗り、他の灯籠と並んでゆっくりと進んでいく。
「来年も、同じことを書きます」
「毎年それか?」
「はい。達成するまでは」
ナオトは肩をすくめながらも、流れていく灯籠から目を離さなかった。
「ボニー、もう書いたのか?」
「一瞬ですよ!」
誇らしげに胸を張る。
「『もっといい武器が作れますように』です。正確には私が納得できる一振りを作ることですね」
ナオトは思わず笑う。
「仕事じゃなくて趣味って言ってたな」
「もちろんです。鍛冶は癒やしの時間ですね」
ザリナは灯籠を前に、少し考え込むような表情をしている。
「ザリナは、もう書いたのか?」
「うん。『未知の現象に出会えますように』と」
研究者らしい答えだった。
「危なくないのか?」
「危険じゃなくするための実験だから」
そう言って、静かに微笑む。
その少し後ろでは、パメラが腕を組んで灯籠を睨んでいた。
「……まだ書いてないのか?」
ナオトが声をかけると、パメラはちらりと視線を寄こす。
「……ふん。神に願うというのは、久々でな……お主は?」
ナオトは少し困ったように笑い、正直に答えた。
「まだ決まってない。欲しいものが多すぎるのか、逆に、欲張る気がしないのか……」
その言葉に、周囲は笑ったり、首を傾げたりした。
だが誰も急かさない。
少し離れた場所では、ルナが灯籠を胸に抱くように持っていた。
その表情は、どこか晴れやかだ。
「ルナ、願い事は?」
「はい。 『大切な人たちと、これからも一緒にいられますように』です」
ナオトは一瞬、言葉を失った。
「それは……成長祈願なのか?」
「ルナはずっと一人でした。成長したからこその願いです」
ナオトは短冊を持ち上げ、苦笑する。
「ルナ、俺さ、まだ願い事が決まってないんだ」
ルナは驚いた様子も見せず、静かにナオトの隣に座った。
「皆さん、とても素敵な願いを書いていましたね」
「ああ。だから余計にさ。みんなはちゃんと前を向いてるのに、俺だけ何を書けばいいか分からなくて」
ナオトは川面を見つめる。
灯籠の光が、水に揺れて形を変えていく。
「成長祈願なんだろ?子どもの成長、作物の成長、街の成長……どれも大事だ。でも、それってもう、俺が願わなくてもみんなが願ってる気がしてさ」
ルナは、少し首をかしげた。
「兄様は、ご自身のことを願わないのですか?」
「……それが、一番ピンと来ない」
正直な言葉だった。
「俺は、特別な夢があるわけじゃない。世界を救うとか、英雄になるとか、そういうのじゃないんだ」
しばらく沈黙が流れる。
水の音と、人々のざわめきだけが耳に入る。
ルナは、そっと問いかけた。
「では……兄様は、何をしている時が一番好きですか?」
ナオトは少し考えた。
「好き、っていうか……自然にやってるのは整体かな」
ルナは、その言葉を大切に噛みしめるように頷いた。
「兄様の整体を受けた後、皆さん、とても嬉しそうでした」
「そうか?」
「はい。体が楽になるだけでなく、心まで軽くなっているように見えました」
ルナは柔らかく微笑む。
「成長とは、必ずしも大きくなることだけではありません。笑顔になれることも、立派な成長です」
ナオトは、その言葉に胸を突かれた。
「……笑顔、か」
思い返せば、老人たちも、大工たちも、仲間たちも。
整体を終えたあと、嬉しそうにしていた。
「じゃあさ……」
ナオトは短冊を見つめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺の願いは——『整体で、みんなを笑顔にしたい』でいいのかな」
ルナは、はっきりと頷いた。
「とても、兄様らしい願いだと思います」
「派手じゃないぞ?」
「はい。でも、優しいです」
ナオトは、少し照れたように笑い、筆を取った。
短冊に、丁寧に文字を書いていく。
――整体で、みんなを笑顔にしたい。
子どもが書くようなシンプルな願い事。
だが、書き終えた瞬間、胸の奥にあった曇りが、すっと晴れた気がした。
「……決まったよ。ありがとう、ルナ」
「いえ。兄様が、もう答えを持っていただけです」
二人は立ち上がり、灯籠を手に取る。
やがて、それは静かに川へと浮かべられ、他の願いと並んで流れ始めた。
小さな光は、重なり合いながら、未来へ向かって進んでいく。
ナオトはその光を見送りながら、心の中で思った。
(俺は、これでいい)
誰かを支え、笑顔にする。
それが、彼の選んだ成長だった。
その時だった。
「皆さま――このまま、空をご覧ください」
川辺の一角から、運営役の声が響いた。
数名の職員が、大きな魔道具を慎重に設置している。
「本日は、成長祈願祭の締めくくりとして、魔道具職人エリー・グレイヴン氏が開発した新型魔道具による、特別演出をご覧いただきます」
人々の視線が、ゆっくりと夜空へ向けられる。
魔道具が起動した瞬間、低く、澄んだ魔力音が夜に響いた。
そして――光。
光はひとつではなかった。
二つ、三つ、十、百――。
無数の光点が、夜空に浮かび上がる。
まるで、見えない手に導かれるように、それらは静かに位置を変え、整列し、形を作り始めた。
光は線となり、線は形を成し、やがて巨大な花が、空に咲いた。
「……わあ……」
思わず、あちこちから感嘆の声が漏れる。
花はゆっくりと開き、次々と絵が描き出されていく。
次に描かれたのは――芽。
小さな双葉が、夜空に浮かぶ。
光の粒が集まり、線となり、柔らかな輪郭を描く。
芽はゆっくりと伸び、茎となり、葉となり、やがて一本の若木へと変わっていく。
「……木だ」
誰かの呟きが、夜に溶けた。
若木はさらに枝を伸ばし、光の実をいくつも結ばせた。
その実が、ひとつ、またひとつと弾ける。
すると今度は、光点が一斉に散り、空いっぱいに、新しい絵を描き出す。
肩を並べて歩く人々。
手を取り合う親子。
笑い合い、支え合う姿。
どれも、細かな光の集合体なのに、不思議なほど温かみがあった。
川を流れる灯籠の光と呼応するように、空の絵も、ゆっくりと色を変えていく。
黄金、淡紅、深い藍。
やがて光は一度ほどけ、再び集まり――
今度は、大きな円を描いた。
満月のような、柔らかな輪。
その中に、次々と小さな光が流れ込む。
まるで、願いそのものが空へ昇っていくようだった。
ルナは息を呑み、ただ見上げていた。
言葉にすると、きっと足りない。
ナオトもまた、黙って夜空を見つめていた。
光の粒は、規則正しく、しかし柔らかく動く。
完璧に制御されているのに、どこか人の心を映している。
最後に描かれたのは――大きな、光の川。
空に流れる、もうひとつの灯籠流し。
無数の光が、同じ方向へ、静かに進んでいく。
そして――
一つずつ、ゆっくりと消えていった。
最後の光が消えたあと、
夜空には本物の星だけが残る。
数秒の沈黙。
それから、堰を切ったように、拍手と歓声が湧き上がった。
ルナは胸の前で手を組み、そっと微笑んだ。
川面では、まだ灯籠が流れている。
―――
人々がそれぞれ帰路につく中、ナオトとルナは、川べりに並んで立ったまま、しばらく動かなかった。
「……すごかったですね」
最初に口を開いたのはルナだった。
名残惜しそうに、夜空を見上げたまま。
「空に、願いが流れていくみたいで……」
ナオトは小さく頷く。
「ただの祭りじゃなかったな。未来に向けて背中を押される感じがした」
「はい……」
ルナは胸の前で指を組み、少し照れたように笑う。
一瞬だけ言葉を選び、それから、はっきりと言った。
「来年も兄様と一緒に見たいです」
「当たり前だろ」
そう言って、夜空を見上げる。
「来年も再来年もずっと一緒だ」
ルナの瞳が、灯籠の光を映して揺れる。
「……はい」
短い返事だったが、そこには確かな安心と、静かな喜びが込められていた。
成長祈願の祭りの夜は、穏やかに、そして確かに、続いていった。
―――
皆が夜空を見上げていた、その同じ時刻。
灯籠の明かりと魔法の光が川面を照らし、人々の視線が空に集まっていた頃。
祭りの中心部から、少し離れた場所。
高い塀に囲まれた、古い貴族の屋敷があった。
その屋敷の奥、夜の闇を裂くように、不自然な赤が立ち上る。
次の瞬間、乾いた音とともに火の手が広がった。
屋敷の屋根を舐める炎。
祭りの光とは違う、生々しく、危険な赤。
しかしその炎に気づく者は、まだいない。
誰もが願いを空に託し、未来を見上げている、その裏側で、火は、確かに燃え始めていた。




