第一章8『悪評は聖水に流す』
ナオトが少し息を整えると、アリアはにっこり笑いながら小さな声で言った。
「でもでも、すぐに結婚ってわけじゃないんです。さっきは勢いでプロポーズしちゃいましたけど……恋愛って、微妙な距離感を楽しむのも醍醐味だと思うんです」
「……なるほど、微妙な距離感ね」
ナオトは少し苦笑しながら頷く。とりあえず、返事は先延ばしに出来そうだ。勢いだけでなく、彼女なりの慎重さも見え隠れしていて、妙に安心できた。
「じゃあ、時間もあることですし、少し教会の案内をしますね!」
アリアは元気よく手を振り、ナオトを連れて部屋を出た。
白い外壁に囲まれた静かな通路を歩きながら、アリアは説明を続ける。
「ここは集会室です。神父様や信者さんが集まる場所で、普段は賛美歌の練習とかもやってます」
「なるほど……思ったより落ち着いた雰囲気だな」
ナオトは周囲を見回しながら感心した。
「次は図書室です!歴史や神学の本がたくさんあります。わたしも勉強に来ることがありますよ」
歩きながらアリアは元気よく紹介する。
しばらく歩き、やがて二人は小さな扉の前に立った。アリアは少し緊張したように扉の前で立ち止まる。
「ここは関係者以外立ち入り禁止なんですが……」
小声で呟きながら、扉をそっと開ける。
「……え?普通の部屋みたいだけど」
ナオトは少し首をかしげ、部屋の中を覗き込む。
アリアはにっこり笑い、胸を張って答えた。
「はいっ、ここが私の部屋です!」
「なっ……!?」
ナオトは反射的に後ずさった。
「ちょ、ちょっと待て。さっき関係者以外立ち入り禁止って言ってただろ!」
「そうですよ?女性の神官の部屋に男の人が入るなんて絶対ご法度なんです。バレたらタダじゃ済まないです。ホントは入っちゃダメなんですけど……」
アリアは首をかしげ、悪びれる様子もなく笑う。
「でもナオトさんは特別です!バレなきゃ大丈夫ですから!」
アリアはぴょこんと手を合わせて、きらきらした目でナオトを見つめた。
「二人だけの秘密ですよ!」
「秘密って……!」
ナオトは慌てて声をひそめる。
もし他の神官に見つかったら、何を言われるかわからない。いや、それどころか社会的に抹殺されるかもしれない……。
「……とにかく、もう俺は出る!」
ナオトは踵を返してドアへ向かった。だが、背後からアリアの声が飛ぶ。
「えっ、もう帰っちゃうんですか?」
「当然だ!ここに長居したら、余計に――」
「でもでも……」
アリアは少し寂しそうに唇を尖らせ、窓の外を指差した。
「外、もう暗くなっちゃいますよ?」
ナオトは思わず窓の外をのぞく。
夕焼けはすでに沈み、青紫の夜が街を包み始めていた。石畳の道は影を落とし、街灯の明かりがぼんやりと灯り始めている。
「……」
夜道を歩くのは確かに危険だ。ましてや土地勘のない異世界の街で。
「ね?」
アリアが無邪気に微笑む。
「だから、もう少しここにいてください」
「……だめだ。……やっぱり、泊まるなら宿屋じゃないと」
ナオトは小さくため息をつき、アリアに視線を向けた。
「え?」
アリアはぱちぱちと瞬きをしてから、少し不安そうに首を傾げる。
「わ、私の部屋じゃ……嫌ですか?」
潤んだ瞳に艷やかな唇。理性が吹き飛びそうになる。――だが、
「ち、違う違う!」
これは絶対バレて教会から追放されるフラグに違いない。ナオトは慌てて両手を振った。
「嫌とかそういうことじゃない。ただ、その……常識的に考えて、女性の部屋に男が泊まるなんて、やっぱりまずいだろう」
「……常識、ですか」
アリアは小さくつぶやき、すぐにふっと笑った。
「ナオトさん、真面目ですね」
「真面目っていうか……いや、普通だろ!」
くすくすと楽しそうに笑いながら、アリアは腰に手を当てた。
「じゃあ、近くの宿屋の場所を教えますね」
「助かる」
ほっと胸をなで下ろすナオト。
アリアは小悪魔めいた笑みを浮かべ、声をひそめる。
「宿屋のほうが非日常的な感じがして、盛り上がりますもんね」
「は……?」
ナオトは思わず素っ頓狂な声を上げる。
「盛り上がるって、何がだよ!」
「だって大人のデートっぽくて、ドキドキするじゃないですか」
アリアは両手を胸の前で組んで、楽しげに言う。
「……お前、からかってるだろ」
「えへへ、ごめんなさい」
アリアは軽く頭を下げると、くるりと踵を返した。
「宿屋はこの教会を出て右にまっすぐ行って、広場の噴水の向こうにあります。『陽だまりの宿』っていう宿屋兼酒場です。灯りも賑やかなので、きっとすぐ分かりますよ」
「……『陽だまりの宿』だな」
いつの間にか乾いていた服を受け取りナオトは教会を出ようとする。
アリアは手を振って見送ろうとしたが、ナオトはふと立ち止まり、振り返る。
「――ああ、それと」
「はい?」
「……ありがとう。あの時、聖水をかけてくれて」
少し照れくさそうに目を逸らしながら、ナオトは言葉を続ける。
「あれがなかったら、俺はもっとひどいことになってたかもしれない」
ナオトは小さく咳払いをして背を向ける。
「じゃあ、また」
「はいっ!いつでも会いに来てください!」
アリアは勢いよく手を振り、声を張った。
ナオトは教会を後にし、夜の街へと歩き出した。
白い壁が闇に溶けていくのを振り返りながら、背中に残るアリアの明るい「おやすみなさーい!」という声を、妙に心地よく感じていた。
――そして、教会の門前に立ったアリアは、そっと胸に手を当てて小さくつぶやく。
「……やっぱり、バレていたんですね。わざと聖水をかけたってこと」