第三章16『支援契約』
ナオトが小屋の扉を押し開けると、ふわりと甘いような、少し酸味を帯びた独特の匂いが漂ってきた。
「ザリナ、入るよ」
中では、ザリナが細い机いっぱいに並べた小皿と小瓶を前に、真剣な表情でピンセットのような道具をつまんでいた。
「師匠っ、あ、気をつけて!昨日フィオラさんが持ってきてくれたゴムの樹液、一滴でも無駄にできなくて……!」
机の上には、指先でつまめる程度の固まりや、小皿の底に薄く塗られた膜のようなものが数枚。
「今は何をしてるとこだ?」
「この樹液の性質の研究がメインだね!」
ザリナは小皿をそっと持ち上げ、乾きかけの樹液の膜を指でつつく。
ぷにっ。
薄いわりに、妙な弾力が返ってきた。
「完全に乾く前に揉むと、性質が変わるみたい。柔らかくなるし、伸びやすい」
「なるほど。まず性質を理解してから大量生産、と」
ナオトは頷きながら、机を覗き込む。
小瓶のひとつには、果汁か何かを少し加えたのだろう、樹液が白く固まりかけている。
「固まる条件も、少しずつ分かってきたよ。これは酸を入れた実験で、こっちは水を混ぜてみたもの。反応が全然違うんだよ」
ザリナは、小動物のように忙しく手を動かしながら言った。
「ザリナは本当に楽しそうだな」
「うんっ……たのしい!すっごく!未知の素材だよ? 夢が広がるよ!」
ザリナは照れながらも、すぐに机へ向き直る。
「まずは、とにかく性質を確かめて……弾力、伸縮、乾燥速度……。この辺がわかれば、いろいろな物が作れると思う」
「お前、やっぱりすごいな。助かるよ」
ナオトが言うと、ザリナの肩が嬉しそうに揺れた。
「量が増えたら、もっと試せるよ!フィオラさんたちが今日も採りに行ってくれるはずだから……次は、もう少し大きな実験が出来るかな!」
「それから、ちょっと相談があるんだけど」
「師匠、どうかしたの?」
「……チェーンソーって作れないかな?」
「ちぇ……んそ……?」
聞き慣れない単語に、ザリナは小首をかしげる。
「それって……どういう物なの?」
ナオトは手振りで説明を始めた。
「刃が鎖の形になっていて、その鎖に小さな刃がいっぱいついてるんだ。で、それをぐるぐる高速で回して木を切る。斧よりずっと速いし、倒したい方向に正確に倒せる」
「……刃を鎖のように繋げて、しかも高速回転……」
自分で書きながら自分で首を振る。
「今の設備だと……かなり難しいかも。まず鎖を安定して回す仕組みがないし、刃同士の接合も壊れやすそう」
彼女ははっきりと言う。
「やっぱり難しいか……」
「うん、高速回転させるのは難しいかな」
ザリナは胸元でペンをくるりと回し、紙の上に何かアイデアを探すように視線を落とした。
──が、数秒後。
ペン先が止まり、彼女の瞳に火が灯る。
「師匠……今の話で、ひとつ思いついた!」
「え?」
ザリナは勢いよく紙をめくり、新しいページに描き始める。
「回転が難しいなら……往復運動なら出来るかも!高速で前後に動く刃を使って木を切るようにすれば!」
「往復……?」
「うん!高速回転は無理だけど、手動のノコギリの動きを自動化すると考えれば実現可能だよ!短い距離を高速でガッガッと動かすだけだから、魔石の力を使える。刃も通常のノコギリを流用できるはず!」
「おお……すごいなザリナ!」
ザリナは胸を張った。
「木を切る速度も、斧の数倍にはなるはずだよ!」
ナオトは心からの声で言った。
「頼りになるよ、ザリナ。これができたら、本当にみんな助かる」
「今ある材料で出来るから早速試作に入るね!」
―――
ナオトが建築現場へ向かうと、もうすでに木槌の音が軽快に響いている。
屋根の骨組みは、しっかり固定され、今日はいよいよ壁張りと床張りの作業に入っていた。
大工たちはすでに汗を光らせながら、ハツラツと動いていた。
そしてその間には、整体を受けた年配の四人が混じり、手押し車を押したり、加工済みの板を運んだりと、実に活き活きと動いている。
「みんな……無理はしてないか?」
「むしろ調子いいぞ!体がよく動くと、気持ちも若返るみたいだ!」
年配の一人が胸を張って笑う。
その背中は、来たときよりも確かにまっすぐだった。
親方が図面を持って近づいてくる。
「昨日の時点で屋根の骨組みまでは終わったので、今日は壁材の取り付けと床の張りを進める」
「ここまで来ると一気に建物って感じが出てくるな」
「順調にいけば昼までに外壁まで終わるな」
ナオトは現場を見渡す。
すでに柱と梁はがっしり固定され、壁に使う板材が地面に並べられている。
板を運ぶ年配たちは息を切らしながらも楽しそうだ。
オルガ達の簡易拠点へ近づくと、すでにトントン、カンカンと軽快な音が響いていた。
声をかける間もなく、三人の大工は作業に没頭している。
内装の壁板はほとんど張り終わり、床もほぼ完成している。
木材の切り屑の匂いがほんのり漂い、見ているだけで気持ちが温かくなるような現場だった。
「もうここまで進んでるのか……昨日より動きが速いな」
三人は昨日整体を受けて体調が良くなり、明らかに動きが軽い。
一人は壁の隙間を調整し、一人は窓枠に油を塗り、もう一人は道具を整えながら他の二人を補助していた。
ナオトはその補助役の大工に近づいた。
「お疲れ様。今、比較的手が空いてるか?」
「ええ、あとはあの二人の仕上げを手伝うくらいで。何かあるかい?」
ナオトは頷き、小声で続ける。
「実はザリナが新しい発明に取り掛かっていて……人手が欲しいんだ。細かい計測や木材の加工を頼める人がいると助かる」
年配の大工は目を丸くした。
「おお、あの魔道具職人の娘さんか、わしで良けりゃ、ぜひ手伝わせてもらおう」
「助かるよ。無理のない範囲で頼む」
「こう見えて手先は器用なんでな」
大工は工具を腰に下げ、他の二人に声をかける。
「おーい!ちょっとザリナ嬢のところに応援で行ってくる!仕上げは任せとくぞ!」
「おうよ!気をつけてなー!」
「頼んだぞ!」
声を掛け合うそのやり取りは、長年同じ現場で働いてきた仲間のようで、見ていて微笑ましかった。
大工はナオトの方に軽く頭を下げる。
大工は軽やかな足取りでザリナいる小屋へと向かっていった。
そんなときだった。
背後から、明らかにこちらへまっすぐ突っ込んでくる足音。
「ちょっとアンタさぁ」
振り向けば、真っ赤な影が視界の端に飛び込む。
風に揺れる鮮やかな赤い髪。
さらに強い色彩を持つその瞳は、陽光を受けて宝石のように輝く。
「……仕事増やすの、いい加減やめてくれない?」
「いきなりなんだよ、俺、何かしたか?カレン」
ナオトが困ったように眉を寄せると、カレンは鋭い目つきで書類の束を突きつけてきた。
「したに決まってるでしょ。ここの開拓速度、ギルドの予想より二倍速いのよ。報告書が全部書き直しになったの、誰のせいだと思ってんの?」
尻尾がビシッと怒りの矢印みたいに跳ねる。
「いや、それ俺のせいか?」
「ほんっと、あんたは……」
「で、今日は何しに来たんだ?遊びに来たってわけでもないだろ?」
「はぁ?あたしだって商業ギルドの人間よ。仕事で来たに決まってるでしょ」
カレンは書類の束を胸の前でトンッと叩いた。
「まずは現場のチェック。それと、あんたに渡す物があるの」
カレンは書類から一枚、金色の縁取りの書類を引き抜いた。
「これ。商業ギルドとあんたの領地の支援契約書」
「え、支援契約書?そんな契約してたっけ?」
「まだ契約してないけど、どうせ契約するだろうからこっちで全部書いておいたわ。サインだけ書きなさい」
ナオトは目を丸くする。
「え、そんなのありなのか?」
「この契約書があれば、ギルドが公式にアンタの後ろ盾になる。他の商会や貴族も、そう簡単に絡んでこなくなるの。牽制のためよ、感謝しなさい」
「牽制って……そんな物騒な話だったのか?」
ナオトが眉を寄せると、カレンは大きくため息をついた。
「物騒よ。むしろ、アンタがのんきすぎるの」
「そんなにか?」
「そんなに、よ」
カレンは足元の土をトンッとつま先で蹴り、視線を森の奥へ向けた。
伐採されつつある樹々の向こう――そこにサンマリナへ続く新しい交易路が伸びている。
「アークロスからサンマリナまで、従来は半日かかったのが、この道路が完成したら半分の時間で行けるようになるんでしょ?」
「ああ。そのつもりだ」
「その時点で、もう十分事件なのよ」
カレンは書類をひらりと持ち上げた。
「まず、時間が半分になるってことは、商人にとっては利益が倍よ。行き来の回数が増える。扱える品物も増える。物流の中心地であるアークロスの価値が一段跳ね上がるわけ」
「まぁ……そういう計算にはなる、か?」
「サンマリナは港町。海産物、異国の品、交易品が山のように流れ込む。アークロスは内陸で、農産物と加工品が強い。この二つが最短距離で結ばれるってだけで、どれだけのお金が動くと思う?」
「……想像がつかないな」
「つかなくて当然よ。あんたは金勘定で人を蹴落とすタイプじゃないからね」
カレンは少し肩をすくめた。
「でもね、他の連中は違う。商会は独占したいし、貴族は抑え込みたい。利益を握るためなら、手段なんて選ばない連中もいる」
「そんな危険なものだとは……」
カレンは指を一本立て、説明を続ける。
「まず、商会。あんたが作るこの街道を独自で管理したいって思ってる連中がいる。通行料、物流ルートの優先権、取引の独占交渉……全部まとめて握れば、それこそ一気に成り上がれるからね」
「独占……」
「次に貴族。彼らはこの街を発展させたっていう名誉と地位を欲しがってる。だから、勝手に発展されると困る。つまり、あんたを自分の陣営に引き込もうとするか、最悪、邪魔を考える者だっている」
ナオトは思わず言葉を詰まらせた。
「……ほんとか?冗談じゃないよな、それ」
「冗談じゃないの。だからこの支援契約よ」
カレンは契約書をナオトの胸に押しつけた。
「商業ギルドが後ろ盾につけば、他の商会も貴族も、迂闊に手を出せなくなる」
そこで、ようやくカレンは言葉を切り、じっとナオトを見上げた。
「自覚しなさい。森を切り開いて道を作るだけじゃない。街と街を繋げて、経済の流れを変えるってことをやってるの。そんなの、個人の趣味なんかじゃ済まないのよ」
「いや、趣味で森林伐採してるわけじゃないんだけど……」
ナオトは深く息を吐き、空を見上げた。
想像していた道路工事とは、あまりに別方向からの重さがのしかかる。
そしてカレンは、最後に短く言い放った。
「だからこっちは、あんたを守るために動いてんの。文句ある?」
ナオトはしばらく考え、ゆっくり頷いた。
「……わかった。支援契約、受け入れるよ。ギルドが味方してくれるってのは、正直ありがたい」
「最初からそう言えばいいのよ」
カレンは書類を差し出しながら、淡々と続けた。
「一応言っとくけど、サンマリナ側にはもう話を通してある。あっちは港町で物流の要。そこの商業ギルドと連携しないと、この交易路は意味を成さないから」
「え、もう話つけてあるのか?」
「当然でしょ。こっちから道を伸ばすだけじゃ片手落ち。サンマリナ側からも同時に森を伐採して道を広げてもらう。サンマリナ側から伸ばして、あんたの領地側からも伸ばして、途中で繋げる。これが一番効率が良いわ」
カレンは書類を軽くたたき、その縁を指先でなぞる。
「この支援契約には、交易路完成後の物流権益の一部をギルドが保障し、同時にあんたの領地と作業に干渉する権利を他者から排除するって条項がついてる」
「……つまり、ギルドが俺とこの土地を守る、ってことか」
カレンは最後に、少しだけ静かな声で言った。
「あんたが好むと好まざるとに関わらず、この土地はもう価値を持ってしまってるの。だからギルドは、あんたを守る必要がある」
ナオトは書類にサインをし、深く息を吐いた。
ひと通り説明を終えたカレンは、踵を返し帰ろうとする。
「もう帰るのか?カレン。せっかくだから、昼飯、一緒にどうだ?」
「は?仕事で来たの。食事のために寄ったわけじゃないから」
「忙しいのは分かるけど……休みはあるのか?ずっと働いてばかりじゃ、倒れるぞ」
「あんたのせいで仕事増えたって言ったばっかりなんだけど……」
そう言いつつ、カレンは少しだけ視線を外した。
「成長祈願祭の日。あの日の午前中なら、自由。屋台を見てまわるつもり」
そこまで言って、カレンはくるりと背を向ける。
「というわけで、昼食はパス。報告書まとめるから帰るわ」
その声は、相変わらず淡々としていたが決して突き放すだけの冷たさではなく、きちんと仕事としての区切りをつける響きだった。




