第三章1『領主の褒美』
アークロス街、街道を少し外れた丘の上に、領主の館はそびえていた。
石造りの重厚な建物は、魔物の襲撃にも耐えうるように設計されており、屋根には漆黒の瓦が整然と並ぶ。
丘の傾斜に沿って広がる庭園は、手入れが行き届き、低木や花壇が整然と配置されている。
高い城門の鉄製の扉は重く、深い溝に落とし込まれた鎖と装飾が威厳を放っていた。
館の外壁には古い紋章が刻まれ、日差しを受けて微かに金色に輝く。
館内に入ると、広々とした謁見室がナオトを迎えた。
天井は高く、重厚な梁が何本も走る。壁には古代の戦闘図や領地の地図が飾られ、歴史の重みを感じさせる。
窓から差し込む光は柔らかく、床の大理石に反射して淡い輝きを放つ。
部屋の中央には長大な木製の会議台が置かれ、その向こう側に威厳ある椅子が一つ。
椅子の背もたれには紋章が精巧に彫られ、座る者の権威を象徴していた。
隅には小さな飾り棚があり、魔術書や貴重な書類、装飾品が整然と並んでいる。
室内は静かで、重厚感と落ち着きが同居する空間。
ナオトは自然と背筋を伸ばしていた。
謁見室の静けさと威厳に圧倒されながらも、視線を前方の一人の男性に向ける。
男はゆっくりと立ち上がり、ナオトの前に歩み寄った。
背筋が伸び、整った体格からは、ただ者ではない威厳が漂う。
「アークロスの領主、シュセン・D・ケティです」
「イチノセ・ナオトと申します。今日のお話は何でしょうか」
ナオトは深く頭を下げ、目の前の領主に言葉を告げた。
しばしの沈黙のあと、シュセン・D・ケティは落ち着いた声で応じる。
「ナオト殿、今回の魔物討伐におけるご功績、私としても誠に感謝しております」
領主は静かに立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「その活躍に対し、私からささやかながら褒美をお渡ししたく存じます」
「褒美……ですか?」
「はい。爵位でございます」
シュセンは書類の束を机から取り、ゆっくりとナオトに差し出した。
「ナオト殿には、男爵の称号とともに戦功を讃え、名誉と権限をお与えする次第でございます」
「……いえ、俺はそのようなものは、必要ありません」
ナオトはゆっくりと首を振った。
「爵位をお断りになるとおっしゃいますか?」
「はい。俺一人では何もできませんでした。皆の協力があったからこそ、魔物を討伐できたんです。だから、爵位や名誉は俺一人のものではありません」
シュセンは目を見開き、驚きを隠せない。だがすぐに落ち着いた表情に戻る。
「なるほど、ナオト殿は、名誉や称号よりも、ご自身の志や周囲の力を重んじるお方なのですね」
シュセンは静かに頷き、優しい声で告げた。
「承知いたしました。無理に受けていただくつもりはございません。むしろ、ナオト殿がそうお考えになることこそ、真の力量と申せましょう。ですが、私としてはナオト殿の力を今後ともお借りできれば、これ以上の喜びはございません」
ナオトは息をつき、胸の奥で少し熱いものを感じる。
「わかりました。できる限り力を尽くします」
「感謝いたします、ナオト殿」
シュセンは微笑み、書類を静かに机に戻した。
ナオトは深く頭を下げ、謁見室の重厚な扉に向かって歩き出した。
しかし、扉の前でふと立ち止まり、思い出したように振り返る。
「そういえば……」
―――
謁見の間を後にし、ナオトは静まり返った廊下を歩いていた。
足元には赤い絨毯が敷かれ、壁にはアークロス領の歴代当主の肖像が並ぶ。
磨き抜かれた大理石の柱が、外の光を反射して淡く輝いていた。
「兄様、お疲れ様でした」
柔らかな声に振り向くと、そこには可憐な少女が立っていた。
肩までのライトブルーの髪が陽を受けて淡く輝き、頭の上で小さく動く狼の耳が愛らしく揺れる。
腰の後ろから伸びたふさふさの尻尾が、心なしか嬉しげに揺れていた。
ナオトは思わず微笑んで歩み寄り、彼女の頭に手を置いた。
「ルナ、お待たせ。少し長くなっちゃったな」
「大丈夫です。兄様が無事に出てこられて……それだけで安心しました。兄様が領主様に何か言われていないか、ずっと心配していたんです」
「大丈夫。むしろ、ちゃんと話せてよかったよ」
ルナの声は控えめながらも温かく、ナオトの胸の疲れを少しだけ軽くした。
その穏やかな空気を破るように、低く艶やかな声が背後から響く。
「ナオト様……本当によろしかったのかしら?」
黒を基調としたドレスを身に纏い、女性が姿を現した。
夜の闇のような濃い紫の髪が肩を流れ、深い紫の瞳が静かに光を宿している。
その視線には、どこか試すような、あるいは見透かすような色があった。
「……あなたは……」
「ジゼルと申します。先日はどうも……それよりも爵位の件……お断りになったと聞きましたわ」
「いえ、俺一人の力じゃありませんから。皆の協力があってこその討伐でした」
「まったく……信じられませんわ!」
ピンク色の髪をツインテールにまとめ、華やかなドレスを揺らして少女が現れた。
胸元には繊細な刺繍が入り、エメラルドグリーンの瞳が怒りとも呆れともつかない光を放っている。
「お父様からの褒美を断るなんて!どれだけ名誉なことかわかってますの!?」
ナオトは肩をすくめて苦笑した。
「ありがたい話だけど、俺には分不相応だと思っただけだよ」
「はぁ……庶民の感覚って本当に理解できませんわ……」
「あらあら、クイン、口が過ぎますわよ」
ジゼルが軽くたしなめると、娘はむくれたように唇を尖らせた。
「だってお母様!」
「損得だけで動く方ではありませんわ。ナオト様はもっと遠くを見ている」
女性の視線がナオトに向く。その瞳には、わずかに興味と敬意が混じっていた。
ルナが小さく手を合わせる。
「兄様は、皆が笑って過ごせる方がいいんです。爵位なんて、兄様にとっては飾りにしかなりません」
ナオトはその言葉に微笑み、ルナの頭を軽く撫でた。
狼耳がぴくりと揺れ、尻尾が嬉しそうに揺れる。
「ありがとう、ルナ。お二人もご心配、感謝します」
「ふふ、礼を言われるようなことではありませんわ」
「ふんっ……お父様の申し出を断ったことを後悔するといいわ」
クインが背を向けると、裾のフリルが揺れ、淡い香水の香りが残る。
女性はそんな娘を見送りながら、ナオトに小さく微笑んだ。
「……ナオト様は、不思議な方ですわね」
「そうですか?」
「ええ。人の心を動かす魅力を持っていらっしゃるわ」
「俺なんて大したことないですよ」
ナオトは苦笑しながらも、どこか照れくさそうに頭を掻いた。
「じゃあ、ルナ。行こうか」
「はい、兄様」
二人が歩き出す。
ジゼルはその背中を見つめながら、静かに囁いた。
「あの方は、きっとこの地を変えてしまうわね」
その声は、重厚な石造りの廊下に吸い込まれていった。
―――
「バッカじゃないの!?」
燃えるような赤髪を揺らし、赤い瞳を輝かせながら、猫耳をピンと立ててカレンが叫んだ。
長い尻尾も感情の高ぶりとともに左右に揺れている。
赤を基調とした商業ギルドの制服は、彼女の明るく活発な性格にぴったりで、背筋を伸ばして立つ姿は威勢と自信に満ちていた。
「あたしがどんだけ苦労して領主に取り次いだと思ってんの!?」
ナオトは少し顔を背け、肩をすくめて困ったように答える。
「わ、悪い……でも、俺一人の功績じゃなくて、皆の協力があったから……」
カレンは腕を組み、尾を軽く巻きながらため息をついた。
「ったく……普通なら爵位くらい喜んで受けるでしょ」
ナオトは少し苦笑いを浮かべる。
「確かに、普通じゃないかもしれないな。でも、俺にとっては自然なことだ」
「それで爵位は断って領地だけ貰ってきたって聞いたけど?」
「いや、今まで小屋の周りの川や森を勝手に使ってたから、せめて正式に許可をもらおうと思ったら……」
ナオトは苦笑しながら首をかいた。
「モルデュラス大森林と、その周辺の土地を領地として譲り受けたと」
カレンの声には、あきれと呆然が半分ずつ混じっていた。
「なんか断りきれなくて」
「はぁ〜〜……」
カレンは両手を腰に当て、大きくため息をつく。
長い尻尾がパタパタと揺れ、そのたびに小さな風が起こった。
「それ、良いように使われてるってわかってる?」
「どういうこと?」
ナオトが首を傾げると、カレンは両腕を組み、鋭い口調で言い放つ。
「アークロスの街は今、人手不足に悩まされてるの。モルデュラス大森林で魔物の群れが発生した以上、調査も管理も必要だけど、それをやる余裕がこの街にはないのよ。で、そこに『有能だけど無欲な部外者』が現れたってわけ」
ナオトの眉がぴくりと動いた。
「……つまり?」
「つまり、あんたに丸投げしたの。爵位をあげる代わりに領地としてモルデュラス大森林を与えれば、文句なしに責任を背負わせられる」
カレンは人差し指をナオトの胸に突きつける。
「爵位を貰わなかった分、あんたの大損ね」
ナオトは少し沈黙したあと、ふっと笑った。
「……まぁ、それでもいいさ。人の役に立つなら」
「信じらんない……本物の聖人か何かと勘違いしてるんじゃない?」
カレンの声が部屋に響き渡る。
「そんなつもりじゃないよ。ただ、居場所をもらっただけさ」
ナオトの穏やかな笑顔に、カレンは一瞬だけ言葉を失う。
「はぁ……ま、あんたの勝手だけど。あたしには関係ないわ。用が済んだらさっさと帰りなさい」
「あぁ、そういえば……出世おめでとう。支部長補佐」
カレンの胸元の名札には金色の縁取りが施され、「支部長補佐」と丁寧に刻まれている。
「……出世って、給料は増えたけど仕事も倍増したんだけど……あんた、これ本当に褒美って言えると思ってるの!?」
カレンの声がギルドの奥まで響き渡った。
ナオトは苦笑いを浮かべ、軽く手を振って扉を押し開ける。
夕暮れの風が頬を撫で、熱気に満ちた室内とは対照的に、外の空気はひんやりとして心地いい。
石畳の前で、ライトブルーの髪が陽光を受けて柔らかく揺れていた。
「ルナ!」
「兄様!」
振り返ったルナが、ふわりと笑みを浮かべる。
狼耳がぴんと立ち、尻尾がうれしそうに揺れた。
「待たせたな、ルナ」
「いえ。カレンさんと話していたのでしょう?すごい声、外まで聞こえてましたよ」
「はは、聞かれてたか」
ナオトは苦笑しながら後頭部をかいた。
ルナはくすくすと笑いながら隣に並ぶ。
ルナの尻尾が小さく揺れ、ナオトの腕に軽く触れる。
二人の足音が、夕暮れの街路に心地よく響いた。
アークロスの街は、ちょうど一日の終わりを迎えていた。
行き交う人々の表情には安堵があり、屋台からは焼いた肉や甘いパンの匂いが漂う。
子どもたちの笑い声と、遠くの鐘の音が交じり合い、街全体がどこかあたたかな色に染まっていた。
「それにしても……」
ルナがふと空を見上げる。
「アークロスの夕暮れは綺麗ですね」
「あぁ、綺麗だな」
ナオトも同じ方向を見上げる。
夕陽が山の端に沈み、赤と青が混ざり合う空が広がる。
背後では、アークロスの街の灯がひとつ、またひとつと灯っていく。
街を抜け、草の香りが混じる風が吹き始める。
やがて視界の先、道の向こうにナオトの小屋が見えた。
「……見えてきたな」
「はい。兄様の小屋――いえ、兄様の領地ですね」
ナオトは小さく息を吐き、苦笑いを浮かべる。
「やめてくれ、今はただ古い小屋と焼け焦げた畑があるだけだ」
そう言いながら歩を進めると、焼けた草の匂いが風に混じって漂ってくる。
畑の土は黒く焦げ、ところどころに炭化した木の杭が突き刺さっていた。
それでも小屋の壁は無事で、煙突からは細い煙が上がっている。
「でも……」
ルナがそっと言葉を継ぐ。
「魔物の群れから兄様が守った場所です。こうして灯りがともってる。それだけで、きっと意味があります」
ナオトは静かに息を吐き、焦げた大地を見つめる。
「……まぁ、ここまで無事なら上等だな」
ルナは隣に並び、そっとナオトの腕に手を添える。
その瞳は、沈みゆく夕陽のように穏やかで、強かった。
「兄様。畑はまた耕せばいいです。木々も、花も、きっと戻ります」
ナオトは目を細め、少しだけ笑う。
「そうだな。焦げた土だって、いつかまた芽を出す」
ルナは風に揺れる髪を押さえながら、まっすぐに前を見つめた。
そしてその声は、静かに、けれど確かに響いた。
「ここから始めましょう」
ナオトはその言葉に、ゆっくりとうなずく。
焦げた畑、夕陽に染まる小屋、吹き抜ける風。
そのすべてが、新しい始まりを告げているようだった。




