第一章6『運命の邂逅』
――つぼが飛んでくる。
淡い紋様が施された白いつぼは高価なものだと一目でわかる。そのつぼが放物線を描きながらナオトの顔面めがけて飛んできていた。
走馬灯のように瞬間が引き伸ばされる。つぼが回転しながら迫る一瞬一瞬が、ナオトには永遠のように長く感じられた。階段の上の少女は手を胸に重ね、祈るように身をすくめている。
避けたら割れる。受け止めるしかない。
割れたら、俺のせいになるのか?
弁償しないといけないのか?
異世界召喚早々借金生活?
一抹の不安がよぎる。
体は硬直し、心臓がはねる。息を止め、両手を前に突き出し、全神経を集中させる。
飛んでくるつぼは、光を反射して白く輝く玉のように見えた。
硬い陶器の感触と、つぼの重みがが手のひらに伝わる。
つぼを無傷で受け止められた。
安堵がわずかに胸をなでる。
しかし、安心する間もなく、中に入っていた液体が勢いよくナオトの顔や肩にかかった。冷たく、ひんやりとした感触が肌を刺す。カバンも濡れ、服は水を吸って重くなる。ナオトは両手でつぼを持ったまま立ち尽くす。冷たい液体の刺激、街のざわめき、全てが一度に押し寄せ、数秒間、世界が止まったように感じられた。
階段を駆け下りてくる少女の姿が視界に入った。
陽光を反射するブロンドの髪、透き通るように白い肌、金糸の刺繍が施された神官服。清らかでありながら、胸元のV字ネックや膝丈のスカートがどこか洗練された印象を与えていた。
その少女がこちらへ駆け寄る。
だが次の瞬間、足を踏み外した。
「きゃっ」
短い声が響いた直後、衝撃が襲う。
支えようと腕を伸ばすより早く、勢いのまま押し倒され、背中が地面に叩きつけられた。
そして同時に、柔らかな感触と体温が胸に覆いかぶさるように広がった。
少女が倒れ込んできて、そのまま俺の上に重なっていた。
服越しに伝わる温もりは驚くほど鮮明で、まるで直接肌に触れているかのように錯覚する。押し付けられた弾力は呼吸のたびにわずかに形を変え、そのたびに熱が胸の奥まで染み渡ってきた。
温かい。
頬には彼女の髪が触れ、甘い香りが鼻先をかすめる。呼吸すらもぎこちなくなるほど、距離がなさすぎた。
「ごめんなさい!」
胸元で小さく響く声。その震えまでもが直に伝わってくる。
彼女は慌てて起き上がろうとするが、結局のところ俺の胸にしがみついたまま、結果的にさらに強く押し付けられてしまう。
心臓が暴れる。
俺のものか、彼女のものか、重なった鼓動が混ざり合い、耳の奥でやけに大きく響いていた。
やばい。
このままでは色々とやばい。
それでも腕は自然に彼女の腰へと回り、支えるように抱きしめてしまっている。落とすわけにはいかない、という理屈を口実に。
喉が鳴る。言葉が出ない。
ただ、彼女の頬が胸に触れるたび、熱が全身を駆け巡っていく。
やがて少女が顔を上げた。
至近距離から見上げてくる琥珀色の瞳。
頬は赤く染まり、わずかに震える唇が俺の視線を奪う。
「す、すみません」
掠れるような声が落ちる。
次の瞬間、思いもしなかった言葉が零れた。
「その、わたしと、結婚してください!」
――。
一瞬、頭が真っ白になる。
初対面で、しかも押し倒されたこの状況で。意味を理解した途端、まだ胸に押し付けられている柔らかさと温もりが、意識に強烈に焼き付いていく。
結婚? いやいや、ありえないだろう。
頭ではそう突っぱねているのに、腕は彼女を抱き寄せたまま。
伝わる鼓動が答えを急かすように鳴り響き続けていた。
息が詰まるほどの距離感。
少女の身体が押し当てられたまま、俺の胸の上にのしかかっている。柔らかく、あたたかく、そして意識すればするほど危険な感触。
頭の中が真っ白になりそうになり、必死に理性を掴み直す。
だめだ、このままじゃまずい。こんな状況を誰かに見られたら、いや、見られなくてもまずい。
「む、胸が……」
気づけば口から言葉が漏れていた。
しまった、とすぐに思う。今のは完全にアウトだ。セクハラにしか聞こえない。
少女の瞳がぱちくりと瞬き、真っ赤に染まっていく頬。
「い、いや……」
慌てて取り繕おうと、続けて声を上げる。
「重くて……」
言った瞬間、さらに後悔が襲った。
なんで「重い」なんて言ったんだ俺は。もっとマシな言い方があるだろうに。これじゃあ完全に失礼じゃないか。
「っ……!」
少女の表情は羞恥と困惑が入り混じり、視線を泳がせていた。
けれども、次の瞬間――。
「……責任、取ってもらいますからね」
震える声で、それでもはっきりと告げてきた。
頬を朱に染めたまま、琥珀色の瞳に決意の光を宿して。
息をのむ間もなく、彼女は勢いよく身を起こし、俺の手をぎゅっと握る。温かさが掌から腕へ、心臓へと伝わってくる。
「ま、待て、話を……!」
「行きます!」
有無を言わせぬ声とともに、少女は俺を立ち上がらせ、そのまま引っ張った。
小柄な体格に似合わない強さに腕を引かれ、抗う余裕もない。
「ちょっ……どこへ?」
「決まってます、教会です!」
逃げ場のない宣言。
彼女の歩幅に合わせて必死に足を動かしながら、俺は顔を覆いたい気持ちでいっぱいだった。
完全に失言した。
彼女は真っ赤になった顔をそらさず、握った手を決して離さない。
逆らえないまま、俺は引きずられるように街の石畳を歩かされる。
数分も経たないうちに、白い外壁と尖塔が目の前に迫ってきた。
教会、彼女が所属しているという場所。
少女は振り返り、必死に表情を取り繕っているのがわかる。それでも、その笑みはどこか幸せそうだった。
「さあ、こっちです!」
力強く扉を押し開き、俺の手を引いたまま中へ。
俺が否応なく引き込まれるのを確認すると、重厚な扉は背後で静かに閉ざされた。
気づけば、見知らぬ教会の中へと、まるで運命に導かれるように連れ込まれていたのだった。