第二章39『虎印の魔法瓶』
「まさか自爆技か!?ルナ!逃げろ!」
だが、ルナの体は思うように動かない。
視線を落とすと、崩れたスケルトンキングの上半身が、彼女の両足をしっかりと掴み取り、逃げ道を封じていた。
「くっ……!」
短剣を何度も振り下ろすが、骨は砥石のように固く、刃は弾かれ、金属音がむなしく響くだけ。
「ルナさん!頑張って離れてください!お願いですから!!」
ボニーの声は震えていた。
明らかに時間がない。
ルナは全身の力を込めて斬りつける。
衝撃は伝わるが、骨はびくともせず、逆に力を奪われるように手に重みが返る。
彼女の呼吸は荒く、額には汗が滲み、指先は冷たく震えた。
黒い霧はなおも渦を巻き、魔石が内部で脈打つたび、地面が震え、木々が軋む。
空気は重く、胸を押しつぶすようだ。
ルナの心臓は恐怖と焦りで早鐘のように打ち、冷たい汗が背筋を滑り落ちる。
足を封じられ、前にも後ろにも進めない状況。絶望はじわじわと全身に広がった。
「逃げ……られない……」
「ルナ!今助ける!」
ナオトは必死に駆け寄ろうとするが、その声の必死さが、逆にルナの胸を締め付ける。
間に合わない。
その残酷な予感だけが濃くなる。
魔石がさらに膨れ、内部から黒い光が漏れ出した。
これが爆ぜれば、この一帯は木々も街も、仲間も、粉々になる。
ボニーが泣き叫ぶ。
「だめ……こんなの……嘘です……!!」
ルナの視界が揺れる。
絶望が、全身に宿っていく。
その時。
ルナの視界の端に、異様な動きが割り込んだ。
―それは白い塊。
――高速回転しながら迫る白い塊。
―――白い瓶が飛んでくる。
光を浴びて眩しく煌めく純白の瓶。
正面には猛虎が咆哮する刻印。
表面にびっしりと描かれた魔法陣が、回転の遠心力で青白い残光を撒き散らす。
「これ……見たことある……」
その瞬間、アリアの声が記憶の中で蘇る。
「温かいものは夜まで温かく、冷たいものは翌日まで冷たいまま!魔力の壁が熱を通さないだけじゃなく、音も振動も通さない!なんなら爆発さえも吸収してしまう逸品なんですよ!」
瓶は一直線に魔石へ飛び込む。
キュボンッ!!!
音を飲み込むような静かな衝突。
黒い魔力が吸われる。
魔石は抵抗すら許されず、瓶の口へ吸い込まれた。
カシィン!
独りでに蓋が閉じる。
刻印が強く発光。
次の瞬間。
世界は沈黙した。
瓶が地面に転がる。
コロ……コロコロ……。
ポンッ。
跳ねて止まる。
その全てが鮮明すぎて、逆に夢のようだった。
「……終わった、んですか……?」
誰かが呟く。
だが返事はできない。
心臓が耳元で騒いでいる。
ナオトは震える呼吸を整えながら、ゆっくり振り返る。
「……アリア、大丈夫か?」
そこには膝に手をつき、肩で大きく息をする少女の姿。
背にあった光の羽は幻のように消え失せ、いつもの姿に戻っていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……っ……ちょっと、頑張りすぎました……」
その声は震えていた。
威厳も神々しさもない。
ただの、仲間を救うために全力を出した少女。
「虎印の魔法瓶……役に立ちましたね……」
「……助かった。本当に……ありがとう」
「えへへ……仲間ですから。失わせませんよ……絶対に」
―――
黒煙が空へと消えていく。
地面には焼け焦げたオークの巨躯が積み重なり、
まだ熱を帯びた空気が揺れていた。
剣を下ろしたカレンは、ただ静かに前を見据えている。
「……全員、無事ですか?」
その問いに、オルガが剣を杖代わりにしながら笑った。
「ありがとうございます……助かりました」
ヴァニラはまだ戦慄を隠せず、震える声で言う。
「全部……一人で倒しちゃいました……」
ショコラは信じられないというように思わず唇を噛む。
「ボクも、もっと強くなりたい……!」
フィオラは燃える戦場を眺めながら、ゆっくりと小さく息を漏らした。
「……さすが、『紅蓮の狂戦姫』ね」
カレンは肩をすくめる。
「その名前は忘れてください」
その背を、風だけが優しく押した。
―――
砕けた鎧片が、光を反射する。
リビングアーマーたちの魂が解き放たれた静寂が、
まるで嘘のように広がっている。
ガルドは戦斧を肩に担ぎながら、破片を踏んでブライアンの隣に立つ。
「すげぇな……全部、アリアちゃんの魔法か」
ブライアンは壊れた鎧を見下ろし、ふっと寂しそうに笑った。
「俺たちの見せ場がなくなっちまったな」
「何言ってんだよ。ここは感謝するところだろ」
「……そうだな。助かったよ、アリアちゃん」
遠くにいる彼女に向かい、ブライアンは照れくさそうに感謝を告げた。
―――
モルデュラス大森林。
風が静かに、枝葉を撫でていく。
長い間、瘴気に閉ざされていた大森林は、まるで悪夢から目覚めたように息を吹き返していた。
土の匂いが戻った。
湿り、腐り、病みきっていたはずの大地に、ほんのりと緑が差し始める。
朽ち果てた幹のひび割れから、若い苔が顔をのぞかせる。
空を仰げば、黒く曇っていた天蓋の隙間から、
光が柔らかく降り注ぐ。
小さな粒となった光は、舞い落ちる雪のようにゆっくりと地表へ達し、触れた草木をそっと優しく目覚めさせていく。
腐り果てていた泉が、まるで生命を取り戻したかのように澄み渡り、小さな魚影が揺れる。
鳥たちが帰ってきた。
小鳥のさえずりが、枝の上から響き始める。
風が一度、森全体を駆け巡った。
まるで感謝するように。
その声は、音にさえならない。
だが確かに、森は笑っていた。
足元には、粉々になったリビングアーマーやスケルトンたちの残骸が砂に還るように消え失せ、怨念すらも清浄な空気に溶けていった。
あれほど禍々しかった場所が、いまはただ、静かで美しい。
ここにはもう、恐怖も、痛みも、絶望も存在しない。
代わりにあるのは再生の息吹だけだった。
ナオトはゆっくりと息を吸い込み、肩に溜まった緊張を吐き出すように、空を見上げた。
森を蝕んでいた瘴気はどこにもない。
敵の姿ももう、どこにもない。
勝利の確信が、胸の奥からじわじわと溢れ出す。
重い沈黙を破ったのは、ナオトの晴れやかで、どこか少年のような声だった。
「……やったな、みんな」
誰に言うでもなく、仲間全員に向けて。
握った拳が、震えていた。
恐怖ではない。
ようやく掴んだ、誇りと安堵の震え。
「アークロスの街も……大森林も……」
ナオトは拳を高く突き上げる。
「俺たちが守ったんだ!!」
その声は木霊し、森全体がそれに応えるように、
葉擦れの音がざわりと響いた。
ボニーがへなへなと座り込み、苦笑する。
「ふぅ……やっと終わりました、ね……!」
離れた場所でオークを討ち倒したカレンも、
遠くからその声に気づき、小さく微笑む。
「……悪くないわね」
アリアは胸に両手を当て、こぼれる涙を拭う。
「守れた……ちゃんと、みんなを……」
ルナは短剣を鞘に収め、少し照れくさそうに呟く。
「……兄様」
しばらくして、ナオトは笑った。
少しだけ肩の力が抜けた笑みで。
「これで……アークロスは救われた。俺たちの勝利だ!」
その瞬間、世界が応じるかのように光がふわりと舞い落ち、彼の拳に触れては消えていった。
―――
炎の名残りがちらつく静かな戦場。
オークの亡骸が点々と転がり、風だけがこの地を駆け抜けていた。
「カレン!!」
ナオトが駆け寄り、目を大きく見開く。
「な、何これ……全部お前が倒したのか!?」
「まあ、オークくらいなら大したことないわ」
ナオトは信じられないものを見るような顔で、
カレンへと歩み寄る。
「なあカレン……お前、なんでそんなに強いんだ?」
「別に特別なことはしてないわよ?」
そう言いつつ、彼女は視線を遠くへ向けた。
「ただ、先祖に勇者がいるだけよ」
「……勇者!?」
ナオトは目を丸くする。
カレンは苦笑いを浮かべる。
「別に勇者の血だからどうってことはないわ。戦争が終わったら無意味な血よ」
ナオトは深く息を吸い、真正面から感謝を伝える。
「でも俺は助かった。カレンがいてくれて良かったよ」
一瞬、彼女の動きが止まる。
そしてそっぽを向いたまま、小さく呟いた。
「……そう言われると、悪い気はしないわ」
風が吹き抜け、カレンの赤い髪とスカートの裾が揺れる。
カレンの尻尾も少しだけ揺れていた。
ナオトはルナの方に駆け寄る。
「ルナ、大丈夫か?」
「はい、兄様。なんとか無事です……」
ナオトは安堵の笑みを浮かべる。
「お前がいなかったら、俺たち全員危なかった」
ルナは少し目を伏せ、控えめに微笑む。
「でも、兄様も無事で何よりです。本当に危険でしたから」
ナオトは肩をすくめ、笑いを交えて言う。
「まあな。でも、ルナがスケルトンキングを抑えてくれていたおかげで突破口ができた。ありがとう」
ルナの頬がわずかに赤くなる。
「……いえ、ルナなんてまだまだです……」
「……ルナ、そういえば水の魔法、前よりめちゃくちゃ強くなってなかった?」
ルナは少し恥ずかしそうに頬を染めながら、微笑む。
「ふふ……兄様のおかげです」
「俺の……?」
ルナは小さなイアリングに触れる。
「はい、兄様が以前、ルナに買ってくださったイアリング……あれには水の精霊が宿っていて、ルナの魔力を増幅してくれたんです」
ナオトは驚きと感心の入り混じった表情で目を見開く。
「そうだったのか……まさかあの小さなアクセサリーに、そんな力が秘められていたとは」
ルナは目を輝かせて続ける。
「だから、兄様のおかげで、今回の戦いでも力を発揮できました。ほんとうに、ありがとうございます、兄様」
ナオトは微笑み、ルナの頭を軽く撫でる。
「いや……俺はただ、必要なものを渡しただけだ。お前自身が使いこなせるからこそ、その力が出せたんだ」
ルナは少し顔を赤らめ、控えめに頷く。
「……でも、やっぱり、兄様がいてくださると心強いです」
「そうか……なら俺も、少しは役に立てたってことだな」
イアリングの水の精霊も、ルナの魔力とともに静かに光を放っていた。
ナオトはふと、パメラのことを思い出す。
安全のためにクローゼットにパメラを隠したことを。
「無理やり閉じ込めたから怒ってそうだな」
そうつぶやき、ナオトは静かにクローゼットの扉を開ける。中には、無理やり閉じ込められていた小さなパメラが、不満そうな顔をして潜んでいるはずだ。
「さあ、出てこい、パメラ」
だが、そこにいたのは、先ほどまで無理やり閉じ込められていた西洋人形のパメラではなかった。
中には腰までの金髪を揺らし、白い肌を持つ少女が倒れていた。
長いまつげの下で閉じた瞳はかすかに震え、呼吸は浅く、それでも微かに生きていることを示している。
「……パ、パメラ……じゃない、これは……」
ナオトは一瞬息を呑む。驚きと戸惑いが入り混じる。
しかし、少女の肩にそっと手をかけると、温もりを感じた。まだ生きている。それだけで、心はほっと緩む。
その瞬間、ナオトの背後からアリアがそっと近づく。
目を細め、少女の様子を確かめながら、静かに言った。
「ナオトさん……クローゼットの中に小さい女の子を隠していたんですか」
「いや、俺にもわからなくて」
「話は後で聞きます。ナオトさん、慎重に。無理はさせないようにしてください」
ナオトはうなずき、慎重に少女を抱き上げる。
アリアはその隣に立ち、手を添えるようにして支えた。
少女は軽く身をよじるものの、抵抗する力は弱く、すぐに安定した。
「大丈夫……安心しろ、もう安全だ」
少女のかすかな声が耳元で震える。ナオトは穏やかに微笑み返し、アリアもそっと肩に手を置いて落ち着かせる。
外の窓から差し込む光が、少女の金髪を柔らかく照らす。
アリアはナオトの横で、少女の呼吸が安定するのを確認しながら、優しい声で続けた。
「ゆっくりでいいです。深呼吸して……大丈夫、もう怖くないです」
ナオトはそっと少女の額に触れ、優しく問いかける。
「名前は……?」
少女はゆっくりと目を開き、青いガラス玉のような瞳がナオトとアリアを捉えた。その瞬間、小屋の中に新たな緊張と期待が静かに広がるのだった。




