第二章37『破滅の刃』
10年前、街は炎と煙に包まれていた。
セリオン川の両端を結ぶ架け橋の街は、人間も亜人も共に暮らす場所であった。
しかしその平穏は、聖魔戦争の影に蹂躙されていた。
兵士たちも冒険者たちも力を合わせて戦った。だが、魔族の波状攻撃に次々と倒れ、街は絶望の淵に沈みかけていた。
逃げ惑う人々の悲鳴が、炎の爆ぜる音にかき消される。
その中に、一人の少女が現れた。
肩まで届く赤髪を揺らし、身の丈以上の大剣を軽々と構える幼い体。だがその瞳は冷静で、恐怖も迷いもない。
「――っ!」
少女は走り出す。振り上げた大剣が炎に反射し、まるで赤い稲妻のように光った。
迫る魔族たちの攻撃を、彼女は躊躇なく切り裂く。爪や斧が振り下ろされる音、骨が砕ける鈍い音。
戦場のすべてが彼女を取り囲む中、刃はまるで生きているかのように動いた。
大剣の一振りで、数体の魔族が同時に薙ぎ払われる。
鋭い金属音と悲鳴が混ざり合い、煙の中に黒い血が舞った。
「……まだ足りない……!」
彼女の動きは怒涛のようだった。
後方から追いかけてくる魔族の群れも、一瞬の迷いもなく斬り倒す。
大剣は振るうたびに空気を裂き、地面を抉る。
倒れる魔族の数に応じ、戦場の絶望は少しずつ希望に変わっていく。
巨大な魔族が壁を破って飛び出してきた。斧を振り上げ、建物の梁を粉砕する。
だが少女は躊躇わない。跳び上がり、大剣を縦に振るう。
その刃が魔族の胸を貫き、巨大な魔族が轟音と共に地面に叩きつけられた。
少女は次々と押し寄せる魔族の群れを蹴散らす。剣の軌跡は赤く燃える炎のようで、刃に当たった魔族の体は砕け、血と黒煙が混ざり合い、戦場を覆った。
逃げ惑う市民は恐怖に震えるが、同時に少女の存在に一筋の希望を見た。
炎と煙が立ち上る中、街の人々はその光景を目の当たりにし、言葉を失った。
大剣を振るい終えた赤い少女は立ち止まり、頬についた魔族の血を拭う。
血塗れの顔には笑みが浮かぶ。
戦うことそのものに歓喜し、高揚感に満ちたその表情。
まさしく、街の人々が後に『紅蓮の狂戦姫』と呼ぶ所以であった。
―――
「これが『紅蓮の狂戦姫』カレン・ティルフィングの物語です」
オルガが紅蓮の狂戦姫の物語を語り終えると、ヴァニラが小さく息をつき、目を伏せながら口を開く。
「……たった一人で、街を守ったなんて……想像できません……。本当にすごい……」
「……ボクだったら怖くて逃げてるかも……」
フィオラは額に手を当て、少し戸惑った表情で口を開く。
「でも、本当にそんな子がいるなんて、信じられない」
その瞬間、三人の視線の先で、肩まで赤く染まった髪が炎のように揺れ、大剣を振るうたびにオークが次々と倒れていく。
黒い血が飛び散る戦場で、少女の表情には恐れも迷いもなくオークの群れに立ち向かっていた。
フィオラの瞳が大きく開く。
「あれが……『紅蓮の狂戦姫』……!」
息を呑む彼女の肩が小さく震える。
目の前で繰り広げられる光景は、オルガが語った物語そのものだった。
信じがたいと思った記録の全てが、今、現実として目の前にあった。
―――
アークロス郊外、荒れ果てた平原に土煙が舞い上がる。
燃えるような赤髪を翻し、カレンは大剣を肩に担いだまま、迫るオークの群れを真正面から睨み据える。
「豚ごときが、数だけ揃えて勝てると思っているのかしら?」
踵が地を踏み鳴らすと同時に、瞬閃。
刃が閃き、最前列のオークの首が斜めに滑り落ちた。
断面から黒赤い血が噴き上がる。
背後のオークが腰を抜かす。
カレンは剣をひと振り。付着した血が弧を描き大地へ散った。
「まだ始まったばかりよ? 立ちなさい。見苦しいわ」
怒号を上げながら四方から襲いかかるオークたち。
巨体が生む影が覆いかぶさる。
カレンは軽く息を吐き、赤い瞳を細める。
次の瞬間、刃が炎の尾のようにしなり、三体の腹を横一文字に裂き払う。
臓物が大地に落ち、腐臭が漂った。
「その程度であたしの前に立つだなんて身の程をわきまえなさい」
足元の屍を踏み砕きながら前進。
振り下ろされた棍棒を剣の側面でいなし、逆手に回転させ、顎を砕き、頭蓋を真っ二つに分断する。
さらに別のオークが背後へ回り、叫び声とともに槍を突き出す。
カレンは振り向きもせず、しなやかに体をひねる。
槍の穂先が頬をかすめ血が滲む。
「やるじゃない。褒めてあげる。……でも、死になさい」
振り返りざまの斬撃。
槍を構えていた腕ごと胴体が斜めに滑り落ちた。
泣き叫ぶオーク。
這いずるオーク。
逃げ出すオーク。
カレンは静かに、だが圧倒的な威圧で告げ放つ。
「逃げても無駄よ。あたしに歯向かったことを後悔しなさい」
彼女の赤い髪が炎のように揺れた。
血煙をまとい、紅蓮の姫が屍山を築く。
その姿を前にオークは恐怖以外の感情を抱けなかった。
―――
カレンは幼き日に思いを馳せる。
魔族によるアークロス侵攻。
赤い夕陽が、燃え盛る街を照らしていた。
家々から上がる炎は空気を焦がし、悲鳴と金属音が響き渡る。
「カレン、母さんと一緒に逃げろ!」
戦士である父は背中越しに言い残し、剣を抜いたまま駆けていく。
その肩は大きく、頼もしかった。
だがカレンは動けなかった。
父が遠ざかるほど、不安が胸を締めつけた。
小さな足で追う。
気づけば、戦場だった。
父は強かった。
雄叫びを上げる魔族たちを、斬り倒し、殴り倒し、仲間を守り続けた。
だが。
数が違いすぎた。
四方八方から押し寄せる魔族。
父は剣を振るい続けたが、ついに膝をついた。
「……父さん!」
カレンが駆け寄る。
父の身体は傷だらけで、赤い川が周囲に広がっていた。
「泣くな……カレン……」
父の呼吸は浅く、鎧はひどく血に濡れていた。
炎の反射で、その頬は赤く光る。
カレンは震える手を伸ばし、父の腕を抱きしめるようにして膝に縋りついた。
父はかすかに笑みを作ると、薄れゆく声で口を開いた。
「戦争が終わったら……母さんと平和に生きろ。」
「父さん、しゃべったら駄目だよ」
父は少しだけ目を細め、続ける。
「お前は……頭がいい。商いをやってみるのも悪くない。帳をつけて、品を見極め、人を見抜ける者になれ」
その言葉は、戦場の喧騒に不釣り合いなほど日常的で温かな響きを持っていた。
父は力を振り絞るようにして、カレンの髪を撫でる。
「……父さん……」
言葉にならない唇から零れた声を、父は軽く首を振って遮った。だがその瞳には、確かな誇りがあった。
燃え盛る街の光が、二人の顔を赤く染める。
「……人から信用されるような人間になれよ、カレン」
カレンは涙をこらえ、力なく笑ったように見えた。
「うん……わかったよ、父さん」
父の手が、カレンの頬に最後の力で触れる。
その瞬間、父の瞳の光が静かに消えた。鼓動が止まり、剣はカランと地面の間で音もなく滑り落ちた。
周囲の喧騒が、まるで遠い世界のもののように薄れていく。
炎の匂いと血の冷たさだけが、確かにそこに残った。
父はもう、戻らない。
カレンの目に涙が溢れた。
震える指で、父の形見の剣の柄を握った。冷たさが掌を貫くが、同時に手に馴染むような感覚があった。
炎が揺れ、影が迫る。
魔族たちが低い唸り声を上げながら近づく。
そのとき、脳裏に囁きが届いたような気がした。
──殺せ。
次の瞬間。
叫び声。
血しぶき。
黒い身体が宙を舞う。
カレンの小さな腕で振り回せるはずのない剣が、炎を裂き、屍を刻んでいく。
彼女の足元で、魔族が積み重なっていく。
感触が、温度が、匂いが、恐怖が、すべてが混ざり合う。
気がつけば彼女の周囲には、動く魔族はもう一体もいなかった。
カレンの赤い髪が、炎と血に照らされ揺れた。
その瞳に涙はあったが、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
―――
斬り伏せたオークが地に沈むたび、カレンの胸は熱く、激しく脈打つ。
黒い血潮が頬を掠め、ぬるりとした感触が肌を伝う。
本当は戦いなんて、望んでいない。
朝はパンとスープ。
昼は商業ギルドでお客様を相手に笑顔で過ごす。
夜は好きな物を食べて、たまにちょっと贅沢をしてスイーツを食べたりなんかして。
そんな普通こそ、彼女の願いだ。
「普通に働いて、普通にお給料もらって、普通に暮らして。それで十分……なのに」
どうしてだろう。
剣を握る指先が震える。
肉を断つ感覚。
倒れる命の重さ。
火のような高揚が駆け上がる。
呼吸が荒くなるにつれ、唇から零れる吐息が熱を帯びていく。
「こんなはずじゃ……ないのに……どうしてだろう」
それでも止まらない。
それどころか瞳が細まり、頬を染めて、尾をゆらりと揺らす。
「……ゾクゾクしちゃう……」
妖艶な微笑みは、戦場には似つかわしくないほど色っぽくて。
血煙の中、彼女の紅い瞳だけが甘美に輝いていた。
「グガァァァァァ――!!」
咆哮。
地響きが戦場に鳴り渡る。
オークの群れを背負い、ひときわ巨大な影が歩み出た。
オークロード。その肉体は岩塊のように分厚く、握る戦斧は人の胴回りほどの刃を持つ。
戦意を失っていたオークたちが再び奮い立つ。
オーク達の巨体が一斉に、狂気を帯びた眼でカレンへ殺到する。
カレンは微笑んだ。
頬には返り血。
赤い髪が風に踊る。
「いいわ。まとめて相手をしてあげる」
一歩踏み込み、大剣が火花を散らす軌跡を描いた。
まるで舞踏。
しかし、その剣筋は殺意そのもの。
オークの首が弾け飛び、血飛沫が花のように散る。
「ほらほら、もっと来なさい?豚共にはお似合いの最期をあげるから」
笑みは艶やかに深まっていく。
だが、雑兵を蹴散らす彼女の背に、殺意の影が迫る。
巨斧が振り下ろされ、カレンは剣を横薙ぎに振る。
刃と刃が激突し、衝撃が地面を揺らす。
オークロードの巨大な体躯が、一歩ごとに地面を砕く。
力任せではない正確な間合い。
カレンの唇が、愉悦に震えた。
「少しは出来るみたいね。ほら、動きなさい。デカ豚」
オークロードは応えるように巨腕でオーク一体の死体を掴み、投擲。
重すぎる質量が迫る。
カレンは剣の腹で受け流すが、衝撃で腕が痺れた。
その隙。
四足で駆けるように突進。硬い牙が目前に迫る。
カレンは身をひねり、オークロードの脇をすり抜ける。
すれ違いざま、大剣が分厚い脇腹へ突き刺さる。
肉が裂け、血が噴き上がる。
だがオークロードは止まらない。
痛みを力に変え、すぐさま反転。
巨斧が地を割り、破片が飛び散る。
カレンの瞳は輝き、呼吸はわずかに弾む。
「もっと楽しませて頂戴」
オークロードが血を滴らせながら咆哮。
その姿は王の威厳すら帯びていた。
「グガァァァァァッ!!」
その咆哮に呼応し、残ったオークたちが盾のように前へ押し寄せる。
分厚い肉の壁。
刃を通させまいと、命を捧げる本能の障壁。
カレンは鼻で笑った。
「雑魚、雑魚、雑魚」
一歩踏み込む。
その動きは、もはや人のそれではない。
大剣が弾け、火花が散り、オークの腕が宙を舞う。
斬撃を重ねるたびに剣が赤く、熱を帯びていく。
鉄ではない。
まるで炎。
オークの断末魔が重なる。
肉を割り、骨を砕き、血を蒸発させる。
オークロードが掠れた声で命じるように吼える。
血が地を濡らし、カレンの靴跡だけが真っすぐ王へと伸びていく。
「そこを退きなさい、豚共。踏み潰すわよ」
踏み込む。
オーク数体をまとめて、爆ぜるように斬り割った。
熱を帯びた剣が、ついに紅蓮の光を放つ。
炎の刃。
纏う熱気に大気が震える。
「さあ、王様?あたしに跪きなさい」
カレンの紅い瞳が細められる。
宣告のような、絶対の支配者の声。
オークロードは咆哮と共に大地を割る勢いで突進。
巨斧が振り下ろされるその瞬間。
カレンは一歩、軽やかに横へ抜けた。
すれ違うと同時に、大剣が閃光のように走る。
分厚い足首が断ち切られ、オークロードの巨体が前のめりに崩れ落ちる。
地面に顔面を叩きつけられた王者は、呻き声と共に体を震わせることしかできない。
カレンはその背に回り込み、コツ、コツとゆっくり歩く。
「王が地に臥すなんて、みっともないわね」
そして、無造作に。
倒れたオークロードの顔を、すっと細い足で踏みつけた。
ぐり、と力を込める。
「頭が高いのよ。跪けと言ったでしょう?」
スカートの裾がひらりと揺れ、わずかに白い太腿が覗く。
返り血を浴びながら微笑むその姿は美しく、妖しく、残酷。
倒れ伏す王者は抵抗しようともがくが、カレンはまるで飽きた玩具を押さえつけるように、軽く体重を乗せるだけで動きを封じる。
「最期は華麗に散りなさい」
喉元を、灼熱の紅刃が貫いた。
肉が焼け弾け、黒煙が立つ。
オークロードの巨体が揺らぎ、崩れ落ちた。
カレンは息も乱さず、血で濡れた頬に舌を這わせるように笑む。
「ふふっ……悪くなかったわ」
燃える剣を肩に担ぎ、倒れ伏した王を見下ろすその姿は、血と狂気の支配者。
まさしく『紅蓮の狂戦姫』だった。




