第二章36『ドワーフですから』
小屋の前、ナオトの矢筒の中の矢は尽きかけていた。
ボニーの呼吸は荒く、額には汗と煤が入り混じる。
鋼鉄の鎧を叩く腕も、徐々に力が抜けていく。
「くっ……もう矢がなくなっちまう……」
息が荒く、足元もふらつく。
リビングアーマーの増援が小屋に迫りくる中、絶望感が二人を覆う。
ボニーはハンマーを肩に担ぎ直し、汗だくの笑顔を浮かべた。
「……まだ……まだ諦めるわけにはいかないんです……!」
戦場の喧騒の中、ボニーの目が一瞬遠くを見つめる。
思考は自然と、幼い頃の記憶に向かっていた。
―――
ボニーの両親は、少し極端なほどの親バカだった。
物心ついた頃から、父も母も口を揃えて言った。
「この子は天才だ!自慢の娘だ!」
朝の光が差し、母が焼くパンの匂いに誘われて目を覚ますと、食卓にはいつも温かな朝食が並んでいた。
ボニーがまだ小さかった頃、配膳の手伝いをするだけで、父と母は目を輝かせて褒めてくれた。
「この配膳の仕方は素晴らしい!うちの子は本当に器用だ!」
ボニーは少し恥ずかしくなりながらも、嬉しさを隠せなかった。
夕方には父と庭先で小さな庭作業をした。土を掘り、種をまき、水をやる。
手が土で真っ黒になっても、父はいつも笑顔で言った。
「ボニー、その手で、いつか素晴らしいことを成し遂げるんだぞ」
母も隣で、庭の花の世話や水やりの仕方を教えながら、微笑んでくれていた。
雨の日には家の中で小さな工作をした。紙を切り、折り、色を塗る。
出来上がった作品を父母に見せると、二人は目を輝かせた。
「うちの子は天才だ!将来は大物になるぞ!」
両親は口々に褒めてくれた。
ボニーは自分が特別な存在だとは思っていなかった。
ただ、褒めてもらえるのが嬉しくて、なんでも一生懸命に取り組んだ。
両親の過剰な期待は重く感じることもあったが、それは決して押し付けではなく、愛情そのものだった。
自然と『やればできる』という信頼のもと、ボニーはいつも全力を尽くした。
ボニーは人より物覚えが良く、人より少しだけ才能があったとしても、それに驕ることはなかった。
勉強もいっぱいした。努力を怠ったこともなかった。
両親が期待してくれたから、そして二人に恩返ししたいから。
父の真似をして鍛冶の練習もした。
いつしかボニーには夢が出来ていた。
父の鍛冶屋をこの国で一番の鍛冶屋にすることだ。
それがボニーに出来る恩返しだった。
……だが。
「後を継ぐな……お前は自由に生きろ」
その愛情を返す手段を、父は与えてくれない。
腹が立った。
これまで注いでくれた愛情を、恩返しすることすら許されないのか。
ボニーはもう子供ではない。
幼い頃には小さな違和感でしかなかったが、大人になるに連れて確信していた。
考えればわかることだ。
容姿も、体格も、自分は父とも母とも似ていない。
そもそも種族が違うとしか考えられない。
だからこそ、自分たちの子供として立派に育ててくれたその愛情に応えたいのだ。
―――
「私……私は……折れない」
ボニーは小さく息をつき、体を起こす。
泥と煤で汚れた服の上から胸を張り、鋭い視線を前方に据える。
両手で握るハンマーの感触が、冷たく、重く、だが確かな現実感を与えてくれる。
自分の力で、この戦場を切り抜けなければならない。
立ち止まるわけにはいかない。
考えながらも、自然と心が固まっていく。
恐怖や疲労、挫折感は全て意識の奥底に押し込める。
そこに残るのは、愛する両親への想いと、絶対に諦めないという決意だけだ。
「こんなところで、鉄の塊なんかに負けている場合じゃない……」
口の端に微かに笑みを浮かべる。
それは緊張のせいではなく、自分を奮い立たせる力強い表情だった。
胸の奥で燃える感情が、全身に熱を走らせる。
膝の痛みも、腕の疲労も、すべてはハンマーを振るう力に変わっていく。
ボニーはハンマーを肩に担ぎ直した。
握りしめた手に力を込め、腰を落として構える。
目の前の敵は鉄と怨念の塊。
しかし、ボニーの心は揺るがない。すべての力を込める覚悟はできていた。
「だって……私はドワーフですから!」
それは小人族の少女の世界への宣言だった。
その声は戦場に鮮やかに響き渡る。
金属音や地面を揺らす重圧の中で、ボニーの言葉だけが、まるで静かな鐘のように力強く響いた。
誇りと愛情、そして決して折れない意志が、そのハンマーに込められていた。
――その時、地面を踏みしめる力強い足音が小屋の前で止まる。
「よくぞ言った!それでこそ俺の自慢の娘だ!ボニー!」
現れたのは、ボニーの父、鍛冶屋のガルド。
父の声に、ボニーは一瞬息をのむが、すぐに満面の笑みを返す。
「お父さん……!」
ガルドはドワーフらしいずんぐりとした体格に、鍛え上げられた筋肉が鎧越しにも力強さを示す。手には巨大な戦鎚が握られていた。
そしてもう一人。
「おうおう、苦戦してるみたいじゃねぇか!ナオト!俺の出番ってわけだ!」
陽だまりの宿の店主で元冒険者のブライアンだった。
ブライアンはマントを翻し、両手に大剣を構える。
ガルドは前に踏み出し、戦鎚を大きく振り上げる。
「鉄の塊め……俺の手で叩き直してやる!」
地面に響く衝撃と共に、リビングアーマーの脚が揺れ、僅かにバランスを崩す。
ブライアンも勢いよく前進し、大剣を振るう。
「行くぞ!ぶった切ってやるぜ!」
その一撃がリビングアーマーの腕部を叩き、鋼鉄が軋む音が戦場に響く。
ナオトはハンマーを握るボニーを見やり、力強く頷いた。
「ボニー、もう大丈夫だ。父さんとブライアンが来てくれた!」
ガルドはリビングアーマーの群れに突っ込む。
「ボニー!下がってろ!!」
ガルドの背は小柄だが、全身が岩のように分厚い筋肉で覆われている。
肩から背中にかけては鍛冶屋特有の煤と傷が刻まれ、右手には戦槌、左腕には分厚い鉄の籠手。
その姿はまさに鍛冶の巨人だった。
「どけェェェェェッ!!」
轟音とともに大地が揺れた。
振り下ろされた戦槌が、地面ごとリビングアーマーを叩き潰す。
鉄が砕け、霧が飛び散り、空気が震える。
その一撃はまるで鍛冶場の炉が爆ぜたかのようだった。
「おっそいぞ、ガルド!」
豪快な笑い声が続く。
現れたのは、陽だまりの宿の店主。いや、元冒険者のブライアンだった。
彼の剣は長く、幅広く、刃こぼれすら戦いの勲章のように輝いている。
豪放磊落な笑みを浮かべながら、ブライアンは躊躇なくリビングアーマーの前に立つ。
「いやぁ、まさかまたこんな魔物共とやり合う日が来るとはな!懐かしいぜ!」
「喋ってる暇があるなら腕を振れッ!!」
「言われなくても振ってるさ!!」
二人の叫びが重なると同時に、剣と槌が唸りを上げた。
ガルドの一撃は重く、確実。
打撃のたびに地面が割れ、リビングアーマーの足元が沈む。
その隙を逃さず、ブライアンの剣が流星のように閃く。
甲冑の継ぎ目を狙い、断ち切るような精密な斬撃。
「……へっ、やっぱり現役じゃねぇか、ガルド!」
「黙れ!まだ半分も壊してねぇぞ!」
轟音、火花、金属の悲鳴。その中で、ボニーは息を呑んで見つめていた。
父の動きは鈍重に見えて、決して止まらない。
一撃、一撃が確実に敵を砕く。
その鍛え抜かれた技は、まさに鉄を制する鍛冶職人そのものだった。
ブライアンもまた、豪快に笑いながら剣を振るい続ける。
リビングアーマーの刃が胸を掠めても、彼は怯まない。
むしろ血を拭いながら、さらに笑う。
「これが俺たちの現場の仕事ってやつだ!見とけ、ボニーちゃん!!」
「うるさい!ボニーに話しかけるな!」
「嫉妬か!?ドワーフの親父は相変わらずだなぁ!!」
そんな軽口を交わしながらも、二人の動きは鋭く、止まらない。
戦場の中心で、鉄と鉄がぶつかり合うような激闘が繰り広げられる。
しかし、次第に空気が変わる。
倒したはずのリビングアーマーの残骸が、黒い霧となって再び形を取り戻していく。
周囲の空気が冷え、吐く息が白く変わった。
ガルドが低く唸る。
「……再生してやがる。こいつら、本気で止まる気がねぇな」
ブライアンが剣を構え直し、笑みを引き締めた。
「上等だ。だったら止まるまでぶっ壊すまでだろ!」
ガルドの戦槌が地を叩き割り、ブライアンの大剣が火花を散らす。
轟音が腹の底まで響き、ナオトは思わず息を呑んだ。
「……すごい……」
言葉が漏れた。
目が離せない。
恐怖があるはずなのに、胸の奥では別のものが渦を巻いていた。
ボニーも同じだった。
肩を上下させながら、拳を握りしめる。震えは疲労ではない。
「こんなの……あんなの、ずるいですよ……」
父の背中が巨大に見える。
誇らしい。
羨ましい。
いつか、自分もあそこへと願わずにはいられない。
ナオトの喉が乾く。声が震える。
「こんなに……強いんだな。ボニーのお父さんも、ブライアンさんも」
「ええ……だからこそ……すごく悔しいです」
ボニーは小さく笑った。
それは涙が混じりそうな笑みでもあった。
「今の私じゃ、足手まといにしかなれない」
ナオトも、弓を握る手が熱を持っていた。
矢はもうない。戦場へ飛び込む術もない。
「ボニー」
視線を向けられ、ボニーは目を合わせた。
不思議と、二人とも笑っていた。
「俺たちも……強くなろう」
「はい……必ず」
金属音が重なり、火花が空へ散る。
二人はその光景を、拳を握ったまま見守った。
「ナオトさん!ボニーさん!」
振り返ると、息を切らした神官見習いアリアが駆け寄ってくる。
「アリア……どうしてここに……!」
ナオトが驚いた声をあげる。
アリアは胸に手を当てながら、荒い呼吸のまま頷いた。
「知らせを聞いてすぐ駆けつけたんです。少しでも力になりたくて……だけど急だったので冒険者ギルドはみんな依頼で出払っていて……」
ボニーは息を整えながら微笑む。
「来てくれるだけで十分ですよ。ありがとう、アリアさん!」
アリアは強く頷き、両手をかざす。
その手のひらに淡く清らかな光が宿った。
「ナオトさん、ボニーさん、すぐ回復します!」
「助かる……!」
アリアが短く祈りの言葉を紡ぎ、光がナオトとボニーを包む。
「おお……体が軽い」
「助かりました、アリアさん。本当にありがとうごさいます」
アリアはほっと息をつきながら、ふたりを見渡した。
「今の状況を教えてください。みんな、大丈夫ですか?」
ナオトは深く息をつき、声を潜めて説明する。
「ガルドとブライアンはリビングアーマーの群れと戦っている。けど……減らない。壊しても、また再生してくる」
ボニーが唇を噛み、額の汗を拭った。
「向こう側では、冒険者パーティがオークの群れと戦っています。オークの数が多く、油断はできません」
ナオトが視線を少し暗くする。
「森の中では、ルナがスケルトンキングと戦ってる。今はまだ踏ん張ってるけど……」
その瞬間、森の奥から枝を踏みしめる音が近づく。
視界の端で、木々の間を揺れながらルナが後退してくるのが見えた。
「ルナ……!」
助けに行きたいが、ナオトが行っても足手まといになってしまう。
森の薄暗い影から現れたのは、スケルトンキング。
骨格を覆う黒い鎧の胸には、禍々しい魔石が鈍く光っている。
その光が、まるで生きているかのように周囲の空気を歪ませ、黒い霧を生み出していた。
「どうすれば……」
小さくつぶやいたその声は、アリアの心の迷いそのものだった。
耳を澄ませば、リビングアーマーと戦うガルドとブライアンの金属音、オークと冒険者たちの戦う声、そしてスケルトンキングと戦うルナの必死の叫び。
すべてが重なり、頭の中でざわめく。
支援魔法はある。
回復魔法は十分に使える。
だが、今の自分の力でこの状況をひっくり返せるのか。
リビングアーマーの群れは減らず、スケルトンキングの魔石は禍々しく光り、ルナは圧されている。
杖を握る手がほんの少し震えた。
額の汗をぬぐいながら、アリアは深く息を吸う。
魔力の残量はまだある。
だが、使い方を誤れば自分自身が無力化する。
それに、戦場には仲間がいる。
彼らを危険に巻き込むわけにはいかない。
「根本から無力化しないと……」
アリアの目が森の奥、ルナのいる方向に向く。
剣を握りしめ、スケルトンキングに押されて後退するルナの姿。
黒い魔石が胸で禍々しく光り、周囲の空気を歪ませる。
「……でも、わたしにできることは……」
アリアは一度目を閉じ、静かに祈るように息を整える。
「ナオトさん……力を貸してもらえたら……」
思案は決意へと変わる。
自分一人では間に合わない。仲間を守るためには、迷いを捨てて頼るしかない。
「あぁ、俺に出来ることならなんでもするぜ!」
アリアの目が決意で輝く。
その瞳には強い意志が宿っていた。
「これは禁忌に触れることになるかもしれません。上手く行くかどうかも分かりません」
「……禁忌に触れる?アリア、俺は何をすればいい?」
アリアは、大きく深呼吸する。
「……これしかありません。ナオトさん、わたしに整体をしてください」
「えっ?いま?この状況で?」




