第二章35『紅蓮の狂戦姫』
森の中、ルナはスケルトンキングと対峙していた。
先程の戦闘で小剣は折られてしまっていた。
腰にはボニーが作った二本の短剣が光る。
ルナはふと、幼い頃の記憶を思い出していた。
ルナがまだ小さかった頃、父と兄が狩りに行くのを見学した事があった。
父も兄も短剣を手にし、素早く獲物を狩っていた。
ルナは力が弱かったから両手で小剣を振っていた。
彼女の力では短剣で獣を狩ることなど不可能だと思っていた。
だが今は違う。
「速さこそ最大の武器。それが月狼族の戦い方」
スケルトンキングの姿を前に、ルナはそっと腰の短剣を抜いた。
光を反射してわずかに煌めく、黒褐色の二本の刃。
右手には爪の短剣。
ヤングベアの鋭く湾曲した爪を加工した、切れ味重視の攻撃用。
刃渡りはやや長く、軽い振りで空気を裂く。
斬るよりも裂くための武器。細身の彼女の動きを最大限に活かす形だった。
左手には牙の短剣。
同じ獣の牙を素材に、ボニーが衝撃を吸収するよう鍛えた防御用の刃。
表面には薄く刻まれた波紋のような模様があり、受け流す際に衝撃を分散させる。
彼女はそれを逆手に握り、体の前でわずかに傾ける。
構えた瞬間、ルナの心が静かに落ち着いていく。
金属ではない自然の牙と爪。
それはどこか、生き物の鼓動を感じさせる温もりがあった。
「……ありがとう、ボニーさん。あなたの鍛えた刃、無駄にはしません」
短く息を整える。
森を渡る風が、彼女の髪を揺らした。
小さな体が闇に溶けるように沈む。
かつて、幼い頃に見た父と兄の姿が脳裏をよぎる。
狩りの朝、二人は同じように短剣を磨き、静かに構えていた。
「刃は心と同じだ。恐れを宿せば鈍り、迷えば折れる。けれど、守る想いがあれば、どんな鋼より強くなる。」
その教えが、今も胸に残っている。
ルナは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……ルナはもう、迷いません」
牙の短剣を前に突き出し、間合いを測る。
体重をわずかに低く落とし、相手の動きを読む構え。
その瞳には、恐れの代わりに確かな決意が宿っていた。
スケルトンキングがゆっくりと剣を振り上げるのを見据えながら、ルナは小さく呟く。
「行きます」
鉄がぶつかり合う鈍い音が、森の奥に響き渡る。
スケルトンキングが四本の腕を広げ、巨大な剣を交差させて振り下ろした。
空気が裂け、地面が抉れる。
かつてルナが折られた小剣では、この一撃を防ぐことすらできなかった。
だが今は違う。
ルナは左手の牙の短剣を逆手に構え、斜めに刃を滑らせるように受け流す。
金属の衝突音ではなく、鈍く柔らかな衝撃音。
波紋模様の刃が衝撃を吸収し、彼女の体を吹き飛ばすことなく受け止めていた。
「……っ、まだ!」
受け流しながら身を翻し、右手の爪の短剣が閃く。
斜めに切り上げる一撃。
獣の爪を思わせるその曲線が、スケルトンキングの左腕の関節をかすめ、黒い霧を散らした。
霧が裂け、骸骨の胴体がわずかに揺らぐ。
スケルトンキングが重心を崩した一瞬、ルナは地面を蹴って後退し、体勢を整える。
「……いい動きです、ルナ様」
頭の奥に、ボニーの声が聞こえた気がした。
その声が、刃を握る力を少し強くする。
スケルトンキングが再び剣を振り上げた。
今度は四本の腕が同時に襲いかかる。
上段からの斬撃、左右からの薙ぎ払い、そして下段の突き上げ。
まるで嵐のような連撃。
ルナは一歩も退かない。
左の短剣で右からの斬撃を滑らせ、体を回転させながら下段の突きをかわす。
同時に右手の短剣で上段の腕の隙を狙い、肘の関節を断ち切った。
金属が砕ける音とともに、一本の剣が地に落ちる。
スケルトンキングが初めて、その空洞の頭をわずかに傾けた。
ルナの胸が高鳴る。
恐怖ではない。手応えだ。
「……やれる」
汗が額を伝う。
息は荒いが、心は澄んでいた。
牙の短剣が光を弾き、爪の短剣が再び闇を裂く。
四本の剣が三本に減っても、敵の動きはなお速い。
だが、ルナの動きもそれ以上に冴えていた。
彼女は流れるような動きで刃と刃をいなし、反撃の軌跡を描く。
剣と剣の隙間をすり抜け、逆手の刃で受け、返す。
受けては流し、流しては斬る。
やがて、スケルトンキングの胸部を覆う鎧が裂け、内部の怨気が漏れ出した。
黒い霧が渦巻き、森の中の温度が一気に下がる。
ルナは距離を取り、呼吸を整える。
肩で息をしながらも、瞳は決して揺らがない。
「ボニーさん……あなたの刃、確かに届いてます」
そしてもう一度、構えを取った。
右手の爪、左手の牙。
対を成す二本の刃が、静かに呼応する。
「ここで終わらせます」
彼女の足元の落ち葉が舞い上がる。
次の瞬間、ルナの姿は風のように掻き消えた。
ルナの短剣が閃き、スケルトンキングの腕が再び吹き飛ぶ。
黒い骨が宙を舞い、地面に落ちて砕けた。
「はぁ……はぁ……これで!」
ルナは息を切らしながらも構えを崩さない。
両の短剣の刃には、かすかな血のような黒煙がこびりついている。
戦いの流れは完全に彼女のものだった。
スケルトンキングは膝をつき、残る腕で地を支えるようにして動きを止めた。
ルナは踏み込み、渾身の力で胸部を貫くように突き出した。
その瞬間。
重々しい音が、空気を震わせた。
スケルトンキングの胸の奥で、黒い魔石が脈打つように光り出した。
禍々しい漆黒の輝きが、骨の隙間から漏れ出す。
「……何、これ……?」
ルナが後ずさる。
スケルトンキングの全身から黒い霧が噴き上がった。
それはただの煙ではなかった。
霧は生き物のようにうねり、骨の欠片を包み込み、溶かし、再び形を作る。
砕かれた腕が、音もなく再生していく。
裂かれた胴体も、霧に満たされながらつなぎ合わされていく。
「まさか……再生してる?」
ルナは短剣を構え直し、攻撃を仕掛ける。
右手の爪の短剣が唸りを上げ、再生途中の腕を狙って斬りつけた。
だが。
鋭い音が響き、刃が弾かれた。
見えない力が、スケルトンキングの骨を守っているようだった。
「刃が通らない……!?」
ルナは構えを変え、続けざまに右の刃を突き出すが、それもやはり骨に届かない。
硬度が上がったのか、あるいは霧が骨の内部に浸透しているのか。
スケルトンキングの四本の腕がうねり、次々と大剣を振り下ろす。
ルナは軽やかに回避しつつ、最小限の動きで刃を滑らせて衝撃を逸らす。
だが、手応えがまるでない。
「……防御力まで、増してる……!」
足元の地面がえぐれ、破片が飛び散る。
スケルトンキングの攻撃は、力任せではない。
まるで、ルナの動きを学習しているかのように、的確に追ってくる。
ルナは息を詰め、低く身を沈める。
防御一辺倒では勝てない。
反撃の糸口を探るが、どの角度から切り込んでも刃が通らない。
ついに、スケルトンキングの一撃を完全には捌ききれず、肩をかすめられた。
浅い傷だが、衝撃で体が大きく揺らぐ。
「くっ……!」
スケルトンキングは間髪入れずに次の剣を振り上げる。
巨大な刃が光を反射し、黒い霧の中で妖しく輝いた。
ルナは歯を食いしばり、両の短剣を交差させて構える。
受け止めるしかない。
耳をつんざく金属音とともに、衝撃が全身を貫く。
勢いを止められず、土を削りながら後退する。
「これじゃ……押し切られる……!」
スケルトンキングの胸の魔石が再び光る。
まるで嘲笑うかのように、霧が蠢いた。
その気配は、まるで不死そのものだった。
ルナは短剣を握り直し、深く息を吐いた。
腕が震える。
それでも、瞳の奥の光だけは消えなかった。
「負けない……こんなところで、絶対に!」
彼女は再び踏み込む。
だが、戦況は明らかに傾き始めていた。
―――
戦場を覆う血と汗と焦げた臭い。
それはもはや戦いではなく、耐えるだけの地獄だった。
オルガの腕は震えていた。
盾は幾度も打ちつけられ、縁が歪み、表面には亀裂が走っている。
剣を振るたびに腕の筋肉が悲鳴を上げた。
「……はぁっ、はぁ……!くっ……!」
息を切らしながら、次々と襲い来るオークを盾で押し返す。
背後ではヴァニラが必死に祈りを続けていた。
「光よ、癒しの加護を……!」
彼女の結界はひび割れ、治癒の光も薄くなっていく。
それでも仲間を守るために、唇を噛んで耐えていた。
「ヴァニラ!無理しないでください!」
オルガの声が飛ぶが、ヴァニラは小さく首を振る。
「まだ……大丈夫です……!」
ショコラの魔法はすでに息切れ寸前だった。
焦げた地面の上で、震える手を前に突き出す。
「ボクの魔力、もう残り少ないけど……!燃えろぉっ!!」
炎の弾が放たれ、数体のオークを焼き尽くす。
だが、焼け焦げた死体を踏み越え、次の群れがまた押し寄せてくる。
「くそっ、終わりがない!」
ショコラが叫び、オルガは奥歯を噛み締めた。
フィオラの動きも鈍ってきていた。
短剣を構え、息を乱しながらも、群れの隙を縫って一体、また一体と倒していく。
しかし、腕の感覚はもう限界に近い。
「これ以上は……っ!」
そう呟いたその瞬間、地面が揺れた。
大地を踏み砕くような、低く重たい足音。
森の奥から、異様な圧力が近づいてくる。
オークたちが道を開けるように左右へ退く。
そして、その奥からそれは現れた。
通常のオークの倍以上の巨体。
筋肉は鋼のように硬く、肌は焦げた黒鉄色。
右腕に握られた戦斧は、人間ならそれだけで家を潰せそうな巨大さだった。
「な……なんて、でかさ……」
ショコラが息を呑む。
「……尋常ではありません……!」
ヴァニラの声が震える。
オルガは汗まみれの額をぬぐい、低く構えを取った。
「……オークロード……皆、退きましょう。無理に抗えば、ここで終わります」
だが、退路を塞ぐように、オークの群れが囲い込んでくる。
逃げ場はない。
オークロードがゆっくりと斧を持ち上げた。
その動作一つで、空気が震える。
振り下ろされるたび、地面が爆ぜ、衝撃波が周囲を薙ぎ払った。
「うわぁっ!」
ショコラが吹き飛ばされ、地面を転がる。
すぐにヴァニラが駆け寄り、治癒の光を放つが、その表情には焦りが滲む。
オルガは盾を構え直し、吠えるように叫んだ。
「踏ん張って!まだ倒れてはいけません!」
だが、その声は、絶望の咆哮にかき消された。
オークロードの怒号が空を震わせ、森全体がその声で軋む。
オルガたちの背中に、冷たい風が吹き抜けた。
それは、死の予感だった。
「くっ……もう、持たない……!」
オルガが膝をつきかけたその時だった。
――風が、吹いた。
「……え?」
ショコラの視界を、赤い閃光が横切った。
血と煙に満ちた空気を切り裂くように。
次の瞬間、オークの群れが一斉に吹き飛ぶ。
轟音とともに、十数体のオークがまとめて斬り裂かれ、黒い血が宙に舞った。
誰もがその光景を理解できず、息を呑む。
そして、静まり返った戦場の中央に、一人の少女が立っていた。
少女の装いは、まるで戦場の炎を纏ったかのように美しかった。
厚手の布地に金糸の縁取りが施された深紅の上着、
胸元には徽章が輝いている。
膝までのスカートは動くたびに炎のように揺れる。
彼女の赤い髪が陽光を受けて燃えるようにきらめき、その頭には猫耳がぴくりと動く。
長くしなやかな尻尾が静かに弧を描くたび、まるで舞う炎のような残光がきらめいた。
彼女は、身の丈を超えるほどの巨大な大剣を片手で持ち上げ、オークたちを冷ややかに見下ろす。
オークたちが唸り声を上げる。
だが、少女は冷たい瞳で彼らを一瞥すると、小さく吐き捨てるように呟いた。
「……豚の群れがよくも好き勝手暴れてくれたわね」
その声は静かで、しかし戦場全体に響くほどの鋭さを持っていた。
少女が一歩踏み出す。
その一歩が、まるで大地を裂くかのように重く響く。
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
オークの巨体が次々と崩れ落ちる。
「――ッ!?」
「す、すごい……」
ヴァニラは目を見開き、ショコラの口から自然と声が漏れる。
少女は静かに剣を振り下ろし、刃についた血を払う。
そしてちらりとオルガたちを見やり、柔らかく微笑んだ。
「間に合ってよかった。ここからは、私が引き受けます」
その瞳は、紅玉のように美しく輝いていた。
オルガは盾を握りしめたまま、その姿に息を呑んだ。
「……まさか……」
記憶の奥に焼きついていた、ひとりの名が脳裏をよぎる。
「思い出しました……『紅蓮の狂戦姫』カレン・ティルフィング」




