第一章5『ウンコマン』
広場から一歩踏み出すと、ナオトの目に飛び込んできたのは雑多で活気に満ちた街の光景だった。
石畳の大通りを行き交うのは人間だけではない。耳の長いエルフの青年が露店の棚に並ぶ果物を吟味し、獣耳を持つ亜人の子供がパンを抱えて駆けていく。その後ろを追う母親らしき女性も、しなやかな尻尾を揺らしていた。角を持つ大柄な男が荷車を押せば、通りすがりの商人が声をかけて手伝い始める。そこに種族の隔たりはなく、自然に助け合う姿があった。
建物もまた、王都とは雰囲気が違っていた。石造りの重厚な家屋に混じって、木組みの二階建てが並び、屋根は赤や青の瓦で彩られている。軒先には花鉢が吊るされ、香草や乾燥肉がひもでぶら下げられているものもあった。広場の中央には噴水があり、その縁には旅人風の一団が腰を下ろして談笑していた。
通りの脇に入ると、細い路地が蜘蛛の巣のように伸びている。そこでは子供たちが人間も亜人も関係なく混ざり合い、石蹴り遊びに夢中になっていた。猫のような瞳をした少女が弾んだ石を追いかけ、隣で人間の少年が転んで笑っている。
鼻をくすぐるのは香辛料と焼き立てのパンの匂い。揚げ菓子を売る屋台の前には小さな列ができており、商人が器用に油から菓子をすくい上げるたび、歓声が上がる。通りを歩けば、旅装束の冒険者らしき者たちが行き交い、背には剣や槍、あるいは魔導書を提げていた。
王都よりも規模は小さいが、この街には自由な空気が漂っている。人と亜人が肩を並べ、生活の営みを当たり前に共有している。
ナオトは思わず深く息を吸い込む。昼下がりの陽射しは石畳を白く照らし、街の賑わいをいっそう鮮やかに映し出していた。
「いい街だな」
小さく漏らした言葉は、喧噪にかき消されて誰の耳にも届かない。だがナオト自身にとって、それはこの街での新しい生活を受け入れる第一歩のように思えた。
しかし、そんな賑やかな光景の中でナオトだけが浮いていた。
王都から持たされた肩掛けカバンを抱え、ワイシャツにスラックスという出で立ち。異世界の誰とも似ていない格好が、まるで舞台に紛れ込んだ素人役者のように場違いだった。歩を進めるたびに、視線が突き刺さる。
「あれがそうか?」
「勇者、だって聞いたけどずいぶん普通だな」
「いや、儀式で呼ばれたんだろう?本物なんだろうさ」
ヒソヒソと話す声は断片的にしか聞こえない。だが「勇者」という言葉だけははっきりと聞き取れた。その響きに心臓が跳ね、王の間で浴びた落胆の視線が脳裏をよぎる。
自分の存在は、もうこの街にまで噂として届いているらしい。足取りが重くなるのを感じながらも、ナオトは無理やり前へ進んだ。
その時だった。背後から、子どもの弾んだ声が耳に飛び込んできた。
「ねえ、お母さん。アンコモンってなに?」
空気がぴんと張り詰めた。大人たちが一瞬、息をのむのがわかる。だが母親はためらいながらも、苦笑いを浮かべて答えた。
「役に立たないってことよ」
ナオトの足が止まる。胸の奥に冷たいものが広がった。
しかし子どもは悪気もなく続ける。
「じゃあさ、ウンコマンってこと?」
ケラケラと響く笑い声。周囲の大人たちは困惑したように目を逸らしながらも、誰も叱ろうとはしない。むしろ肩を震わせ、笑いをこらえている者さえいた。
ナオトは苦々しく唇を噛んだ。だがすぐに、自嘲するように息を吐く。
(そうか。アンコモンの勇者、か)
あの王があえて「特別任務」と呼んでくれた理由が、ようやく実感を伴って迫ってきた。王都に置いておけば批判や失望の矛先となる。それを避けるために、いや、自由にさせてやるためにこの街に送り出してくれたのだろう。
それでも「勇者」として呼ばれた自分が「役立たず」と囁かれるのは、やはり堪えるものがあった。
肩掛けカバンがやけに重い。けれど、ナオトはその重みを背負うように肩を張り、歩を進めた。
「まあ、ウンコマンよりはマシだな」
心の中で呟いた冗談は、意外にもナオト自身を少し軽くした。ひそひそ声に押しつぶされそうな胸の奥に、ほんのわずかな余裕が戻ってくる。
空を見上げれば、陽光が街の屋根を照らし、青い空が広がっていた。
次の瞬間。
「あっ、あぶない!」
清らかで透んだ声が街中に響いた。
ナオトが視線を向けると、教会の大理石の階段の上にいる一人の少女が目に入った。陽光を受けてまばゆく輝くブロンドの髪。琥珀色の瞳はナオトを真っ直ぐに見据えている。肌は雪のように白く、神官服の胸元と袖口には精緻な刺繍が施され、聖なる光を宿すかのように輝いていた。まさに聖域から抜け出してきたかのような美少女の姿だった。
その口元が何かを伝えようと動く。だが、言葉が耳に届くよりも早くナオトの視界の端に、異様な動きが割り込んだ。
―それは白い塊。
――高速回転しながら迫る白い塊。
―――つぼ。
――――つぼが飛んでくる。