第二章30『魔物の気配』
ナオトは窓の外に目を向け、口を開いた。
「今はどのあたりを走ってるんだ?」
御者台の後ろに座っていたオルガが、膝の上に広げていた地図に視線を落とす。風で紙がはためかないよう、そっと指先で押さえながら言った。
「セリオン川の下流あたりです。もう少し進むと、モルデュラス大森林の外縁部に入りますね」
「モルデュラス大森林……」
ナオトはその名を繰り返し、深く息をついた。
窓の外には、どこまでも続く緑の波。木々の間を抜けるたびに、濃い樹木の香りが鼻をかすめる。
「この辺りは湿地が多く、道も崩れやすいんです。特にこの季節は、雨が続くとすぐに土砂崩れが起こるとか」
「なるほど、さっきの崩落もそれか」
馬のいななきと車輪の軋む音が重なり、静かな森の中に旅の音だけが響き渡っていた。
ナオトはその景色に目を細め、オルガに声をかけた。
「さっきから見えてるあの森……あれがモルデュラス大森林か?」
オルガは頷き、膝の上の地図を指でなぞる。
「ええ。セリオン川の下流に広がるこの一帯がそう呼ばれています。アークロス周辺では最も古く、最も広い森ですね」
「見た感じ、だいぶ深そうだな。でも、森を突っ切った方が早く帰れるんじゃないか?おっ、森を抜けたあたりが俺のうちだな」
ナオトはオルガの膝の上の地図を見ながら提案する。
「地図上では直線距離で早いかもしれませんが、馬車は通れません。それに深いどころか、あの森は『帰らずの森』と呼ばれ、奥に入って帰ってこられた人はいません」
「俺のうちの裏の森、そんな物騒な呼び方されてんの!?」
その言葉に、ナオトは思わず外を見直した。
窓の向こうには、まるで空を塞ぐように枝葉が絡み合い、昼間だというのに薄暗い影が地面を覆っている。
オルガの声は静かだったが、どこか張り詰めていた。
「森の奥は、迷い込めば二度と戻れないと言われています。樹々が高く、方角がすぐに分からなくなります。それに――」
言葉を区切って、彼女は視線を森の方に向けた。
「風が枝を揺らす音、水面の反射、どれも似たように聞こえるので、まるで森そのものが人を惑わせているようなんです」
「……なるほどな。外から見ててもから、飲み込まれそうだ」
オルガは小さく微笑み、しかし真剣な眼差しで言った。
「森はただ静かにあるだけなんです。でも、その静けさが、何より恐ろしい」
やがて道の両脇には、高くそびえる木々が並び、枝葉が空を覆うように重なっていた。
「この辺、ずいぶん木が多くなりましたね」
ヴァニラが窓の外を眺めながら言った。
「モルデュラス大森林の外縁に入りましたね」
オルガが地図を広げ、位置を確認する。
「すごい……木がまるで壁みたい」
フィオラが息をのむ。
木漏れ日がまだらに地面を照らし、森の奥は昼間でも薄暗い。
「ねぇねぇ、あの鳥かわいい!」
ショコラが指を差す。
青い羽根を持つ鳥が、木々の間を軽やかに飛び去っていく。
「セリオンバードですね。幸運の象徴と言われています」
ヴァニラが微笑むと、ショコラは嬉しそうに手を振った。
「じゃあ今日はツイてるかも!」
みんなが穏やかに笑う中、ナオトだけは、空気の違和感に気づいていた。
空気が淀んでいる。
風が止まり、森の奥から、低く唸るような圧が漂ってくる。
ナオトは眉をひそめ、森の奥へ視線を送る。
目には何も見えないが、皮膚の奥がざわつくような感覚。
「兄様?大丈夫ですか?」
ルナがナオトの表情に気づき、心配そうに声をかける。
「……あぁ、ちょっとな」
「どうかしました?」
オルガも顔を上げる。
ナオトは小さく息を吐き、森の奥を見つめたまま言った。
「……この森、何かいるな」
「どういうこと?」
フィオラが身を乗り出す。
「分からない。けど……ただの野生動物じゃない。もっと、濃い……魔力を感じる」
「魔力……?」
ヴァニラが小さく呟く。
「確かに、最近この近辺では魔物の目撃情報が増えてるそうです」
オルガが地図の上に指を置いた。
「魔物……まさか、モルデュラスの奥から出てきたのかも」
フィオラの表情がわずかに強張る。
荷馬車の中に、静かな緊張が走った。
だが、ナオトは目を細めながら、まだ何かを探るように森を見つめていた。
「まぁ、大丈夫ですよ。この街道は森の外側を通る安全ルートですから」
オルガの声に、空気が少しだけ和らぐ。
しかしナオトは窓の外を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。
「……兄様?」
隣に座るルナが心配そうに覗き込む。
「……ルナ、あの森、やっぱり気になる」
ナオトは静かに答えた。
「ただの魔物ならいいけど、何か……意志を持った何かが潜んでる気がする」
その言葉に、オルガとフィオラも表情を引き締める。
「ナオトさんがそう言うなら、ただ事ではないかもしれませんね」
「でも、今は街道を離れたら危険だよ?」
ナオトは頷いた。
「分かってる。でも、放っておくのも気味が悪いな」
すると、ルナがスッと立ち上がった。
「では、ルナが見てきます」
「え?ルナちゃん、一人で行く気なの?」
「はい。木に登り、上の方から見渡してみます」
ルナは荷馬車を降りると、森の中へと足を踏み入れる。
小柄な体が木々の間を縫うように動き、やがて一本の大樹の前で立ち止まった。
樹皮に手をかけ、軽やかに登り始める。
枝から枝へ、まるで森の生き物のような身のこなしだった。
葉を揺らさぬよう注意を払いながら、音も立てずに上へ上へと。
数秒もしないうちに、ルナの姿は枝葉の間に消えた。
ヴァニラが、思わず息を呑む。
「……すごい身のこなしですね」
オルガが地図を見ながら呟く。
「このあたりは獣道も多いですが、魔物の巣は報告されていませんでした。ですが……」
「最近、様子がおかしいってザリナさんが言ってたよね。まさか、ここも?」
フィオラが口を挟む。
ナオトは無言で頷いた。
森の奥から、確かに何かの気配がする。
「兄様!」
そのとき、木の上からルナの声が響いた。
ナオトたちは一斉に顔を上げる。
枝葉の隙間から覗くルナの顔が、強ばっている。
ルナは枝の上に身を潜め、葉の隙間から森の奥を凝視していた。
濃い緑の海の向こう、木々の間を、黒い影がゆっくりと、しかし確実に進んでいる。
最初は一匹かと思った、だが違う。
影は幾重にも重なり、まるで波のように地を這っている。
「……あれは」
目を凝らすと、猪に似た四足の魔物、背に甲殻を持つ獣、そして不気味に脈打つ粘体の影まで混ざっている。
どれも統率を失った野生の群れではない。
何かに導かれるように、一直線に同じ方向へと進んでいた。
「どうした!何が見える!?」
ルナは慎重に木を降りながら叫んだ。
「魔物の群れです!数えきれません……でも、方向が……アークロスの街の方角に向かっています!」
「うそっ!?」
真っ先に反応したのはフィオラだった。
オルガが険しい表情で地図を広げる。
「この位置から真っすぐ進めば、確かにアークロス方面に出ます。……まるで、狙っているかのようですね」
「森の異変って……これのことだったのかもしれません」
ヴァニラが唇を噛む。
ショコラは小さく震えながらナオトの袖をつかんだ。
「ど、どうするの……?このまま行ったら、街が……」
ナオトは深く息を吸い、森の奥を見据えた。
魔物の気配は確かに動いている。
それも、偶然ではない。
何かが群れを導いている。
「……このままじゃ、荷馬車がアークロスに着く前に群れが先に街に到達する」
ナオトは低くつぶやいた。
オルガが地図を見つめながら首を横に振る。
「ですが、この荷馬車では森を突っ切ることはできません。道が整っていませんし、ぬかるみも多い。
無理をすれば、馬ごと立ち往生します」
「でも、森を迂回したら……間に合わない」
ナオトの拳が膝の上で握られる。
ルナが心配そうに顔を覗き込む。
「兄様、どうしますか?」
ナオトは答えられず、視線を落とした。
頭の中で、いくつもの計算が渦を巻く。
馬車の速度、森の密度、群れの移動速度。
間に合う可能性は低い。
だが、もしアークロスが襲われたら……。
一瞬の沈黙のあと、ルナが一歩前に出た。
風が彼女の髪を揺らす。
「兄様、ルナが行ってきます」
「ルナ、一人で行く気か?」
ルナはうなずく。
「この距離なら、匂いをたどれば群れの動きが分かります。ルナなら兄様たちが行くより早く群れの先頭に追いつけます」
ナオトは唇を噛む。
「……危険だ。森の中は視界も悪いし、何がいるか分からない」
それでもルナは、柔らかく笑って言った。
「大丈夫です。兄様がルナを信じてくれるなら、それで十分です」
その言葉に、ナオトは一瞬だけ迷いを見せたが、やがてうなずいた。
「魔物の群れの先頭に追いついて、荷馬車が来るまでの時間稼ぎをしてくれ。危険だと思ったら迷わず逃げろ」
ルナは微かに頷き、膝を軽く折ってナオトに一礼する。
「承りました」
その仕草は、ただの礼儀以上の意味を持っていた。森の奥には群れの魔物が潜み、もし失敗すれば、ナオトに再び会えることはないかもしれない。ルナの心にはその覚悟がはっきりと刻まれていた。
深呼吸を一つ、胸の奥で決意を固める。ナオトの目を見ながら、ゆっくりと微笑む。
「月狼族の末裔、ルナ・ハウンドリア」
ルナは静かに、しかし力強く宣言した。
「魔物の群れをアークロスの街には入れません。……この呪印に誓って」
その言葉には、月狼族としての誇りと覚悟が込められていた。
ナオトは彼女の決意を胸に刻み、軽く頷く。
「頼んだぞ、ルナ……無理はするな」
ルナは再び森の奥へと駆け上がっていく。
森の先で待つ魔物の群れに向け、彼女の戦いは今、静かに始まった。
ナオトが立ち上がり、荷馬車の側に回ると、風に乗って森の奥からかすかなざわめきが聞こえてきた。
「俺たちも行くぞ」
その声に呼応するように、他の仲間たちも身を引き締める。荷馬車の車輪が砂利を踏む音が響き、馬たちが軽くいななく。出発の気配が漂う中、フィオラの姿が視界に入った。
「あたしも行ってくる」
その言葉と同時に、フィオラは荷馬車の脇を駆け抜け、森の方へと一目散に走り出していた。
高くそびえる樹木の間を、軽やかな足取りで駆ける姿は、まるで森そのものに溶け込むかのようだ。
ナオトは思わず息を飲む。森の奥には魔物の群れが潜んでいる。
荷馬車は安全な迂回路を進むが、魔物の群れの先頭に追いつくにはフィオラやルナが頼みの綱だ。
「……頼んだぞ」
ナオトは仲間たちの勇気と信頼を胸に、荷馬車の進路を見据えた。
馬の蹄音がリズムを刻み、荷馬車は港町を抜け、海沿いの道を進んでいく。森の奥では、ルナとフィオラがそれぞれの決意を胸に、群れの先頭へと向かっていた。
―――
森の中、ルナは枝葉の間を縫うように慎重に進む。小型の魔物がちらほら見え、彼女は軽やかな動きでそれらを倒しながら前進する。
一方、フィオラはルナの進むルートを追いながら、一気に駆け抜ける。
枝葉を跳び越え、倒木を飛び越え、森の地形を利用してルナに追いついていく。
やがて、木々の間から先に進むルナの姿が見える。フィオラは息を切らしながらも微笑み、ルナのすぐ後ろに並ぶことができた。
「ルナちゃん!」
振り返ると、フィオラが森の障害物をものともせず、倒木も枝も飛び越え、木漏れ日の間を縫うようにして駆けてくる。
「フィオラさん……?」
ルナが驚きの声を上げる。
「あたしも一緒に行くよ!」
フィオラは笑みを浮かべながら、ルナのすぐ隣に駆け寄った。
「よし、これで二人だ。先頭まで一気に行こう」
ルナは微かに頷き、背中をまっすぐに伸ばす。月狼族の血が熱く脈打つ胸の奥で、決意が燃え上がる。二人は息を合わせ、魔物の群れの先頭に向かって走り出した。
「ルナちゃん、戦い方なんだけど……」
フィオラは息を切らしながらも真剣な顔で問いかける。
「先頭に追いつくことが最優先だよね?」
ルナは少しうなずきながら、森の薄暗い影の中で小型の魔物を小剣で払いのける。
「そうです。小型の魔物は倒しつつ、時間のかかる相手は避けて進む。群れの先頭に追いつくことが最重要です」
フィオラも理解し、目の前に現れた小型の獣型の魔物を軽くかわす。
「了解……!なるべく無駄な戦闘は避けるってことね」
二人は言葉少なに息を合わせて森の奥へ進む。枝葉のざわめきと水面の揺れが重なり、深い影と冷気が二人を包む。小型の魔物を次々と避けながら、時間をかけずに先頭を目指す。
「フィオラさん……ずっと気になっていたのですが」
ルナが息を整えながら、少し躊躇いがちな声で話しかける。
「ん?どうしたの?」
フィオラは笑顔で首をかしげる。
ルナは視線を少し伏せてから続ける。
「以前、スラム街で盗賊団と遭遇した時に……フィオラさんにそっくりな女性を見かけたのです。あの人、何か関係のある方ですか?」
「ああ、それね!会ったことあったんだね!びっくりしたでしょ、あの人はあたしの姉なんだ!」




