第二章29『サンマリナからの出発』
朝日が港町サンマリナの街を淡く黄金色に染める頃、ナオトたちは荷馬車の前に集合していた。
潮風がまだほんのり冷たく、静かな通りに落ち着いた空気が漂う。
木製の荷馬車の車輪が光を反射し、馬の毛並みもつややかに輝いている。
「おう、準備はできてるか?」
御者が肩にかけた手綱を軽く揺らしながら、声をかけた。声は明るく、どこか気さくな響きを持つ。
ナオトはルナと隣に立ち、荷馬車の荷物を見渡した。ルナは肩にかけた鞄を整え、背筋をぴんと伸ばして静かに立つ。
その時、商業ギルドの女性職員が荷馬車の脇に現れ、丁寧にお辞儀をした。
「サンマリナ商業ギルドのザリナ・コルデルと申します。本日は積み荷を引き受けていただきありがとうございます。道中お気をつけてお帰りくださいませ」
ザリナ・コルデルは、朝の光の中で一際目を引く存在だった。
サンマリナ商業ギルドの制服は、深い海のような蒼を基調としており、胸元と袖口に金糸で織り込まれたギルドの紋章が輝いていた。
軽く張りのある布地は整ったラインを描き、ジャケットの下には白いブラウス。
その首元には淡い水色のスカーフが結ばれ、真面目な職員としての印象をより引き締めている。
スカートは膝丈で、動きやすさを重視した実用的なデザイン。
青地に細い銀のラインが一本走り、端正な制服に静かな気品を添えていた。
整った顔立ちは、どこか気品を感じさせる。
長いまつげの下に並ぶ金色の瞳。
口元は引き結ばれ、きちんとした職員らしい丁寧な微笑みを浮かべているが、その目元にはどこか落ち着かない影が見える。
ナオトはふと違和感を覚えた。
声質は昨夜、夜市で会った、あのセクシーなバニーガールと同じだった。
よく見ると、彼女の頭には特徴的な兎耳がぴょこんと覗いている。
どんなに制服で取り繕っても、彼女の兎耳だけは隠しようがなかった。
ピンと立った二本の耳は、陽光を受けて柔らかく光り、時折ぴくりと動く。まるで彼女の心の動きをそのまま表すように。
「うげっ!し、ししょう」
ナオトと目が合った瞬間、その表情が一瞬だけ固まる。視線を逸らそうとする仕草がぎこちなく、耳が小さく震えていた。
制服の上からでも伝わる緊張感。
ほんのわずかに震える声と、額に滲む冷や汗が、彼女の心の動揺を隠しきれてはいなかった。
「やっぱり、間違いない。昨夜のバニーガール……」
「な、なななな……何の話でしょうかっ!?わ、私は今、勤務中ですのでっ!」
慌てて背筋を伸ばすザリナ。顔は真っ赤に染まり、声が裏返る。
その様子を、少し離れた場所でヴァニラがじっと見ていた。
彼女は首を小さく傾げ、細めた瞳でナオトとザリナを交互に見比べる。
「……ナオトさん。知り合いですか?」
どこか探るような声音。
ショコラが屈託のない声で口を開いた。
「ザリナさん、すごい汗だよ?大丈夫?顔も真っ赤だし」
「い、いえっ!その、朝から少し走りまして……! ぜんぜん、問題ありません!」
ザリナは慌ててハンカチで額を押さえながら早口で言い訳を並べる。
兎耳がばたばたと揺れ、動揺が隠しきれていない。
「そういえば、昨夜の夜市、にぎやかでしたね。ああいう雰囲気、俺は結構好きですよ」
ザリナは一瞬、目を見開いた。
彼が何を言っているのか、すぐに理解する。
しかしその意味を口にするわけにはいかない。
「そ、そうですか?わ、私は……ええと、あいにく行ってませんけど!評判は聞いてますっ!」
その受け答えにナオトは小さく頷き、あえて深くは突っ込まなかった。
昼は商業ギルドの職員、堅い仕事だ。
もし夜はバニーガールの姿で夜市に立ってるなんて知られたらギルドの信用問題にもなりかねない。
彼女の努力と秘密を、守るように視線をそらす。
気づいても、知らないふりをするのが一番だ。
「そういえば、昨夜は兄様の帰りが遅かったです」
その一言に、フィオラがくすくすと笑いながら身を乗り出した。
「それってちょっと怪しくない?夜市でナンパしてたんじゃないの〜?」
ナオトは咄嗟に手を振って否定する。
「違うよ!……説明すると長くなるんだ。」
そこへオルガが淡々と口を挟む。声は冷静だが、どこか面倒を見る姉のような落ち着きがある。
「ナオトさんも成人した男性ですから、深く詮索するのはいけませんよ。事実を知るまでは余計な憶測を広めないことです」
ザリナが、咳ばらいをする。
「ええと……本題に入ります」
ナオトは軽くうなずき、耳を傾ける。
「最近、冒険者の方々から報告がありまして……森の様子がおかしいとのことです」
ザリナは少し眉を寄せ、真剣な顔で続けた。
「野生動物の縄張りが普段と変わってきているそうです。普段は穏やかな森の獣たちが、急に気性が荒くなったり、群れの行動が不規則になったりしていると……」
「なるほど……つまり、森の生態系に何か変化が起きているってことか」
「はい。冒険者の方々も、安全のために注意して進んでいるそうですが……普段通りの行動ができないこともあるらしいです」
フィオラは少し興味深そうに顔を上げる。
「へえ、気性が荒くなった動物なんて見てみたいかも!」
オルガはそれをたしなめるように小さく首を振った。
「興味本位で近づくのは危険です。森の中で何が起きているのか、まず情報を集めるべきです」
ナオトはザリナに視線を向けた。
「それにしても冒険者の報告まで、商業ギルドでちゃんと把握してるんだな」
ザリナは少し誇らしげに豊満な胸を張った。
「当然です。ナオトさん、商売に一番大切なものは何か、分かりますか?」
ナオトは少し考え、以前カレンから聞いたことを思い出して口に出す。
「うーん……信頼とか?」
ザリナは肩を揺らして、軽く笑った。
「甘いですね。人は必ず裏切ります」
ナオトは眉をひそめ、反論する。
「そんなことはないだろ」
ザリナは軽く咳払いをし、声を少し低めて言葉を続ける。
「善意であれ、悪意であれ、大なり小なりの誤差が発生します」
ナオトはその鋭い言葉に、一瞬言葉を失ったが、すぐに納得したように頷く。
「……なるほどな。信頼だけじゃダメってことか」
「信頼は大事ですが、無闇に信用してはいけません。重要なのは、情報を収集し、吟味して、適切に活用することです」
「……なるほど、情報は本当に大事だな」
ナオトが静かに呟くと、ザリナが耳をぴんと立て、誇らしげに続ける。
「そうですよ。情報収集は私の得意分野ですから」
ナオトはその自信に少し微笑みを返す。
「君の言う通りだ。正しい情報がなければ、いくら力があっても意味がない」
ザリナは軽く身を乗り出し、声をひそめるように言った。
「ナオトさんの情報も、私の耳には入ってきていますよ」
「そうなのか……」
「大事な荷物を預けることになりますし、これから長い付き合いになるかもしれませんからね」
ザリナは言葉を続ける。
「でも……ちょっと女性関係の乱れが気になりますね」
「いや、全然乱れてないから!」
―――
「それじゃ、出発するぞ」
御者が鞭を軽くあおると、馬はゆっくりと前に進み始める。砂利を踏みしめる音と車輪のきしむ音が、朝の港町に響く。
通り沿いにはまだ開店前の店があり、魚市場の匂いと海風が混ざって鼻をくすぐった。
港には停泊中の船が並び、朝日を反射して水面がきらきらと輝いている。
ナオトは馬車の端から港の景色を眺め、昨夜の夜市の喧騒と対照的な静けさを楽しんだ。
ルナはナオトの隣に座り、落ち着いた様子でナオトに微笑む。
フィオラとオルガは少し窓の外をのぞき込み、港町特有の雰囲気を楽しんでいる。
ヴァニラとショコラは会話を交わしながら、波の音や潮風を感じていた。
港町を抜けると、馬車は海沿いの道へと入る。潮の香りが強くなり、海面に反射する朝日がまぶしい。
道路脇には小さな崖と岩場が続き、足元には小石や貝殻が散らばっている。馬車の揺れが少し大きくなるが、御者は手綱を巧みに操作して安全な速度を保った。
荷馬車の揺れに体を預けながら、ヴァニラは興味深そうにナオトを見上げた。
「先ほどのギルド職員のザリナさんとは、どういうご関係ですか……?」
ナオトは前方を見つめながら、少し間を置いて答える。
「えっと……あの人とは、昨夜夜市で偶然会って、少し話をしただけだ……」
ヴァニラの瞳が一瞬きらりと光り、口元に微かな不安の色が浮かぶ。
「……ナオトさん、その少し話したっていうの、もしかして……その、大人の関係ってことですか……?」
ナオトは驚いて振り返る。
「えっ、な、何を言ってるんだ? ちょっと話しただけで、そんなことになるわけないだろ」
「でも、夜に二人きりで話していたら雰囲気に流されちゃったり……」
ナオトは苦笑しながら、荷馬車の揺れに合わせて肩をすくめる。
「……あの人は発明家だ。だから、話してたのは魔道具のことだけだよ。大人の関係なんてまったくない」
「……そ、そうですか……でも、ナオトさん、ちょっと無防備すぎるんじゃないですか……」
ヴァニラは少し赤くなり、でも納得しきれない様子でつぶやく。
「それにしても、ヴァニラといい、アリアといい、この国の神官はそういう話題が好きだな……」
「この国の女性は大体そうですね……って、ナオトさん……アリアさんをご存知なんですか?」
ナオトは一瞬肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「知ってるさ。聖水をぶっかけられた関係だな……」
ヴァニラは目を丸くし、軽く口を開いて驚いた表情を見せる。
「聖水をぶっかけられっって……そんなことがあったんですか……?」
ナオトはヴァニラをちらりと見て、少し呆れたように笑った。
「あぁ、アークロスに来てそうそう濡れネズミにされたな。アリアは普段からあんな感じなのか?」
ヴァニラは首をかしげ、困ったように微笑んだ。
「実は、アリアさんとはほとんど話したことが無くて……。私は普段、冒険者として活動していますし、アリアさんがアークロスに来たのも割と最近なんです」
「そうなのか、それは知らなかった」
「ほんの一、二年前くらい前だと思います。聞いた話だと、以前いた場所で、偉い方の大事にしていたツボを割ってしまって……そのせいで飛ばされてきたとか」
ナオトは目を細め、苦笑交じりに言った。
「なるほど……前の場所でも色々やらかしてたんだな」
「そういうことらしいです。でも……アリアさんて憎めないですよね」
ナオトも微かに笑みを浮かべ、揺れる荷馬車の中で少し気が緩むのを感じた。森の香りと風に混じり、二人の会話は穏やかに続いた。
―――
しばらく進むと、やがて道は徐々に山道へと変わっていく。木々が生い茂り、海沿いの開けた景色から一転し、峠道となった。
木漏れ日が揺れる影を作り、鳥のさえずりが響く静かな道。しかし、峠に差し掛かる手前で、ナオトの目に異変が映る。
前方の道が、土砂で大きく塞がれていた。大きな岩や崩れた土が道いっぱいに広がり、馬車が通るのは到底不可能だ。
御者は馬を止め、眉をひそめてため息をつく。
「……やれやれ、こりゃ通れねえな。峠の土砂崩れ、か。仕方ねえ、回り道で行くしかねえ」
ルナは馬車から降り、周囲の安全を確認する。木の枝が折れ、土の匂いが濃く漂う。フィオラは少し不安そうに、肩をすくめながら馬車の揺れを感じる。
「えー、回り道って、どれくらい時間かかるんだろう……」
オルガは冷静に地図を取り出し、迂回路を探る。
「安全を優先するなら、峠を迂回するのが賢明です。距離は少し伸びますが、危険な崖道を無理に進むよりはましです」
ヴァニラとショコラも顔を見合わせ、緊張した様子で周囲を見渡す。ナオトは静かに土砂崩れを見つめ、自然の力の前では人間も無力であることを噛み締めた。
御者は再び馬の手綱を握り直し、慎重に迂回路へと馬車を進める。
峠の土砂崩れを回避するための迂回路を、ナオトたちは静かに進むことになった。




