第二章25『サンマリナ観光』
丘を越えると、視界がぱっと開けた。
「わぁ……!」
ルナが思わず声を上げる。
眼下に広がるのは、陽光を浴びてきらめく蒼い海。その縁に寄り添うように、白壁と赤屋根の家々が段々に並び、港には大きな帆船がいくつも停泊していた。潮風に混じって魚やパンの香りが漂い、遠くから市場の喧騒が聞こえてくる。
「おお……あれがサンマリナか」
ナオトが感嘆の声を漏らす。
「すっごーい!ほら、屋台まで見える!あたしもう、何食べようか迷っちゃう!」
フィオラは子どものように興奮して身を乗り出す。
「気をつけてください、落ちでもしたら大変ですよ」
ヴァニラが小言を言うが、口調とは裏腹に頬はわずかに緩んでいた。
ショコラも赤い瞳を細め、潮風を吸い込んでつぶやく。
「……でも確かに、町の空気がもう違うね。胸がわくわくする」
オルガは姿勢を正し、皆の様子を一瞥してから、落ち着いた声で口を開いた。
「……とても活気のある町のようですね。海の匂いと街の熱気が、遠くからでも伝わってまいります」
ナオトはうなずきながら港の姿に見入る。
「さて、着いたら――」
「――ご飯!」
ナオトが言いかけたところで、フィオラが即答し、にやりと笑う。
「いや、俺とルナの仕事はこれからだから!」
―――
港町サンマリナの賑わう港に、荷馬車が到着した。潮風が鼻をくすぐり、船乗りたちの威勢のいい掛け声や、魚の跳ねる音が遠くから聞こえてくる。
御者が手綱を引き、馬を止めると、荷台に積まれた樽や木箱がぎしりと揺れた。
「さて……ここからが俺たちの仕事か」
ナオトは息を吐き、腕まくりをして荷台へと回る。
「はい、兄様。ルナもお手伝いします」
ルナは袖を押さえながら、控えめながらもしっかりした声で応える。
積み荷は食料の詰まった樽、布や道具の詰まった木箱など様々。大きさも重さもまちまちで、ひとつ運ぶだけでも骨が折れそうだ。
ナオトが最初の樽を抱えたところで、オルガがすっと横に来た。
「お手伝いいたします。力仕事には慣れておりますので」
きっちりした敬語に似合わず、彼女の動きは豪快そのもの。樽を軽々と抱え上げ、まるで自分の家の倉庫にでも運ぶかのように足取りも安定している。
「すげぇな……」
ナオトが思わず感嘆の声を漏らすと、オルガは微笑みを返すだけで、次の荷へ向かっていった。
「よーし、じゃあボクもやる!」
ショコラが勢いよくローブの袖をまくり、木箱に手をかける。しかし持ち上げた瞬間――
「う、うぅ……重っ!ちょ、ちょっと!これ誰か手伝ってよ!」
小さな身体がよろめき、箱が傾く。
「もう、ショコラったら。怪我をしては大変です」
ヴァニラが慌てて駆け寄り、二人で息を合わせて箱を抱える。ヴァニラの動きに引っ張られるように、ショコラもなんとか運ぶことができた。
「助かった。……二人だとなんとかいけるね」
「はい。姉妹の連携ですから」
二人は微笑み合いながら、港の倉庫へと運んでいった。
そんなやり取りを横目に、フィオラは腕を組んでにやにや笑っている。
「よし、あたしもやるかー。……っと!」
軽快に荷台に飛び乗り、素早い手つきでロープを使い、滑車の要領で重そうな箱を下ろしていく。
「おおっ、便利だなそれ」
ナオトが感心して声をかけると、フィオラは片目をつむって舌を出す。
「でしょ?ただ持つだけが能じゃないのさ。こうすれば、女の子でも楽に運べるんだ」
「なるほど……いや、女の子でも普通に持ってる人がそこに……」
視線の先ではオルガがまた大樽を抱えていた。
「……まあ、例外はいるよな」
「ふふっ、ナオトさん、今ちょっと失礼なこと考えてました?」
オルガは涼しい笑みを浮かべたまま軽やかに歩いていく。
やがて最後の箱を降ろし終え、ナオトは額の汗を拭いながら深く息をついた。
「ふぅ……やっと終わったか」
「みんなでやれば早いもんだね!」
フィオラが腰に手を当てて笑う。、ショコラは
「腕がパンパン……」
「でも気持ちいい疲れです」
ショコラがぼやくと、ヴァニラは柔らかく微笑んだ。
オルガはきちんと手を払ってから、ナオトに向かって軽く会釈する。
「お疲れさまでした。とても良い運動になりました」
「そうだな……」
ナオトは仲間たちを見回し、自然に口元をほころばせた。
「いやぁ、本当に助かりました。皆さんのおかげで無事に荷を届けられましたよ」
御者が深々と頭を下げた。
「ただ……今日はもうサンマリナに泊まったほうがいい。アークロスへ戻る道中は、夜になると獣や盗賊に出くわす危険が増える。明日の朝、日の昇ると同時に出発すれば安全だろう」
「なるほどな。夜道を馬車で走るのは危なそうだもんな」
ナオトが納得すると、御者は大きくうなずく。
「だから、今夜は各自好きに過ごしてくれ。港の宿を押さえてあるから、そこで休むといい」
「自由行動……ってことですね」
ルナが小さく目を輝かせた。
その瞬間、フィオラが両手を頭の後ろに組み、にやっと笑う。
「よっしゃー!サンマリナ探索タイムだね!食べ歩き?それとも散策?あたしは市場でお宝探ししようかな!」
「フィオラさん、宝探しって……」
ヴァニラが呆れたように眉を寄せるが、ショコラは逆に目をきらきらさせる。
「市場いいじゃん!変わった本とか置いてるかもだし。ボクも行く!」
「二人とも好奇心旺盛ですね」
オルガは口元に微笑を浮かべ、丁寧に言葉を添える。
「私は……せっかくの港町ですから、灯台や広場を見てみたいですね。人々の暮らしぶりを知るのもまた勉強になりますし」
「セレストタワーだっけ?ルナが話してた灯台」
「はい、兄様。ぜひご一緒に……」
ナオトが振り返ると、ルナはこくんとうなずいた。
「よし、それぞれ見たいものを見に行こう。ただし、集合時間は忘れないようにな」
「はーい!」
フィオラとショコラが同時に返事をして手を挙げ、ヴァニラはため息をつきながらも、どこか楽しげだった。
港の喧騒と潮の香りが、いよいよ自由時間の始まりを告げていた。
―――
港町サンマリナの外れにそびえる白亜の灯台、セレストタワー。
潮風に磨かれたその姿は、まるで海を照らす守護者のようだった。
ナオトとルナは石造りの階段を上り、ようやく最上階の展望台へとたどり着く。足元には碧い海が広がり、遠くには大小の船が点々と浮かんでいる。
「兄様、見てください……!」
ルナは胸いっぱいに潮風を吸い込み、瞳を輝かせて海を指さした。
「海が、まるで宝石を散りばめたみたい。光がこんなにきらめいて。本で読んだ以上に綺麗です」
その横顔は無邪気で、純粋に感動を言葉にする子どものようでもあり、どこか大人びた女性の表情も垣間見えた。
ナオトはそんなルナの横顔を見つめ、思わず口元が緩む。
「本当に楽しそうだな」
「はい。兄様と一緒だからです」
不意に投げかけられた言葉に、ナオトは照れ隠しのように咳払いをする。海風が頬を冷ますはずなのに、胸の奥が妙に熱かった。
その時だった。
「見ろ!人がゴミのようだ!」
突如、甲高い声が響き、ナオトとルナは驚いて顔を上げた。灯台のさらに上、尖塔の欄干にしがみつきながら、紫のローブの少女――ショコラが両手を広げていた。
「ショコラさん!?危ないですよ!」
ルナが慌てて声をかけるが、当の本人は海風に髪をなびかせながら、すっかり気分は支配者。
「すごい!上から見ると街も船もちっちゃく見える!人なんか豆粒じゃん!ボク、魔王になってる!」
ショコラは胸を張って高笑いしている。
ナオトは頭を押さえて深いため息をついた。
「おいおい……はしゃぐのはいいけど、落ちたら洒落にならんぞ……」
しかしルナは、心配しながらも小さく笑っていた。
「でも……ショコラさんらしいですね」
「……そうだな。せっかくの景色だし、落ち着いて見たいところだけど」
そう言いながらも、海風に響くショコラの笑い声は、不思議と灯台の高みにふさわしい自由さを感じさせた。
―――
サンマリナの海を見下ろす高台に広がる広場、コーラルパティオ。
白い石畳の床には珊瑚を模した模様が刻まれ、中央の噴水からは涼やかな水音が響いている。潮風が花壇の花々を揺らし、子どもたちの笑い声が混じって広場に明るさを添えていた。
「わぁ……!」
ルナが両手を胸の前で組み、目を輝かせる。
「ここからの眺め、本当にきれいですね」
ナオトも視線を巡らせながら頷いた。
「なるほどな、街全体を見渡せるから高台の広場ってわけか。風も気持ちいい」
二人が並んで景色を楽しんでいると、少し離れた欄干に立つ赤紫の髪の女戦士――オルガが、じっと街並みを見下ろしていた。彼女の眼差しはいつも通り鋭いが、その声はどこか柔らかい。
「……サンマリナは、やはり獣人が多いですね」
そのつぶやきに、ナオトとルナは顔を向ける。
「獣人?」
ナオトが首をかしげると、オルガは小さく笑みを浮かべた。
「特に猫の獣人が目立ちます。あそこをご覧ください」
オルガが指さした先、広場の石畳を行き交う人々の中に、耳と尻尾の揺れる姿が数多く見える。
しなやかな体つきの男が魚籠を肩に担ぎ、子どもの猫獣人たちは追いかけっこをして笑い合っていた。
「猫獣人はこの港町の伝統的な漁師や船乗りの家系に多いのです。耳が良く、夜目も利く。船上で役立つのでしょう」
「へぇ……やっぱり猫だから魚捕るのが上手いのかな」
ナオトは感心したように言った。
ルナも目を細める。
「ふふっ、かわいらしいですね。……兄様、あんなに小さな耳がぴくぴくしてます」
「いや、耳って……そんなにじっと見るなよ」
ナオトが苦笑する隣で、ルナは楽しそうに観察を続けていた。
オルガはそんな二人の様子をちらりと見やり、控えめに微笑むと、再び街の喧騒へ視線を戻した。
「この街を歩くだけで、文化の違いを強く感じられます。……異邦から来られたナオト様には、なおさらでしょうね」
ナオトは一瞬言葉を探したが、照れ隠しのように肩をすくめた。
「まぁ……確かに面白いもんだな。知らないことだらけだ」
広場には活気と安らぎが入り混じり、港町サンマリナの息遣いが感じられた。
―――
ナオトとルナは、港町サンマリナの中心部にある白壁の教会に足を運んだ。潮風に混ざる海の匂いが心地よく、観光客や町の人々が行き交う賑やかさの中で、二人は静かに教会の前に立った。
「この教会、けっこう大きいですね」
「うん、灯台からも見えてたけど、近くで見ると迫力があるな」
礼拝堂に足を踏み入れると、目の前に圧倒的な存在感を放つ大きな像が立っていた。漆喰の白さに青く輝く水の装飾をあしらったマリナ像だ。女神マリナは優雅に海を見つめ、片手を前に差し出して船乗りや漁師たちを見守っている。台座の周囲には、波を象った細工や貝殻のモチーフが彫られ、まるで像自体が波間に浮かんでいるかのように見えた。
「わあ……すごい……」
「これが……女神のマリナ像か……」
ナオトも息を飲む。像の瞳の奥に、海の深みのような冷たく澄んだ光が宿っているかのようだった。
祭壇の前にはヴァニラが膝をつき、祈りを捧げている。純白の髪が光を受けて輝き、神聖な雰囲気を漂わせていた。
「ナオトさん、ルナさん……お二人とも、こちらにお越しになるとは」
ヴァニラが静かに顔を上げた。
「えっと、その……祈りの邪魔しちゃったかな?」
「大丈夫です。ここは誰でも入れますから。私は女神マリナに挨拶と旅の安全をお願いしていただけです」
ルナが興味深そうに声をかける。
「ヴァニラさん、サンマリナでは皆、女神マリナを信仰しているんですか?」
ヴァニラは立ち上がり、少し首をかしげる。
「……ここでのことは人から聞いた話ですけれど、サンマリナでは六大女神のうち、特に女神マリナを信仰する方が多いそうです。船乗りや漁師さんが航海の安全を祈るそうで……」
ナオトが少し首をかしげる。
「六大女神……他にも女神がいるのか?」
「はい。火、水、風、土、光、闇。それぞれを守護する女神がいます。ここサンマリナでは、水の守護神である女神マリナが最も慕われているという話です。航海の安全だけでなく、港町の生活全体がマリナの恩恵に預かっていると考えられているのです」
「なるほど、港町全体がマリナの守りで成り立ってるわけか……。勉強になるな」
ルナはうなずきながら、マリナ像を見上げた。
「ルナも、この街の人たちのように、毎日感謝の気持ちを忘れずにいたいです」
ヴァニラは優しく微笑む。
「その気持ちがあれば、神は必ず見守ってくれますよ」
二人はしばらく教会の静けさの中で立ち止まり、港町の信仰と日常のつながりを感じていた。




