第二章24『持たざるものたち』
荷馬車の周囲に漂っていた緊張感が、ようやく薄らいでいく。
戦場となった草地には、倒れた牙兎の小さな影が点々と横たわり、まだところどころで土を蹴り上げた痕跡や焦げ跡が残っていた。微かな血と焦げた毛の匂いが風に乗り、戦いの激しさを物語っている。
「ふぅ……。数は多かったけど、なんとかなりました」
片手剣を肩に担ぎ直したオルガが、汗を拭いながら戻ってくる。額にかかった赤紫の髪が、陽光を受けて濡れた宝石のように光った。盾の表面にはいくつもの引っかき傷が残り、その奮戦を雄弁に物語っていた。
「オルガ!」
「大丈夫ですよ。こちらは無傷です。……さすがに疲れましたが」
そのすぐ後ろを、純白の髪を整え直しながらヴァニラが歩いてきた。神官服の袖口は泥と草に汚れていたが、彼女の姿勢は崩れない。
「防御魔法に、少し力を使いすぎましたが……怪我人はいません。ご安心ください」
そう言ってにこやかに微笑むが、その頬にはほんのり赤みが差している。戦闘中、仲間を守り切った充実感が表情ににじんでいた。
「いやー、もう!ボクのローブ焦げちゃったじゃん!」
文句を言いながら戻ってきたのはショコラだった。濃い茶色の髪を揺らし、ローブをパタパタと扇ぐ。
「でもまぁ、あれだけ群れてた牙兎を焼き払ったんだから、新しいの買ってもいいよね」
そう言って自慢げに赤い瞳を輝かせ、魔法書をぱたんと閉じる。焦げた布と土埃にまみれた姿もどこか誇らしげで、戦いを楽しんでいるようですらあった。
「皆さん、お疲れ様です!」
御者が安堵の声を上げる。ナオトも思わず立ち上がり、ルナと共に駆け寄った。
「無事で良かった……」
そう言いかけたナオトの視線に、フィオラがひょいと割り込む。
「ねぇ、見て見て!」
ナオトの前に差し出された手のひらには、透き通るような淡い青色の小さな結晶――魔石が乗っていた。
「これ、一角兎から取れたんだ。牙兎じゃ落とさないけど、群れのボス格にはこうやって魔石が宿ることがあるんだよ。ほら、光にかざすとキラキラして綺麗でしょ?」
フィオラは子どもみたいに目を輝かせながら、魔石をひらひらと動かす。陽光を受けて結晶は淡く輝き、ナオトの目の前で七色の光を散らす。
「……これが魔石か」
ナオトは目を細めて見つめる。見た目は宝石のようだが、どこか内側から脈動するような光を放っているのが不思議だった。
「うん!市場に持っていけば結構いい値になるんだよ。だから魔物退治って危ないけどやめられないの。お宝探しと一緒!」
フィオラは胸を張る。腰に下げたロープが揺れて、まだ戦いの余熱を感じさせた。
ナオトは少し眉をひそめて口を開く。
「命を張ってまで稼ぐなんて、大変だな……」
「ふふっ、心配性だね、おにいさん」
フィオラは嬉しそうにポーチへしまうと、にんまりと笑いながら胸の前で両手を組んだ。
「えへへ……さて、これで何を買おうかなぁ」
彼女は小声で指折り数えながら、夢見るように語り始める。
「新しいブーツも欲しいし……あ、冒険用のランタンもいいかも!あとはお菓子も買いたいなぁ。ショコラとヴァニラには甘いお菓子を差し入れしたら喜ぶだろうし……うーん、でも宝探し用の道具も揃えたいし……!」
興奮気味に言葉を並べるフィオラに、ナオトは少し苦笑する。
「なんだか、子どもがお小遣いをもらった時みたいだな」
「ちょっ、子ども扱いしないでよ!」
フィオラはむくれるが、頬は真っ赤に染まっている。
―――
御者の男が深々と頭を下げる。
「助かりました。皆さん本当にありがとうございます」
その顔には緊張が解けた安堵の色が濃く、握った手綱にも余裕が戻っていた。
「護衛の仕事ですから。無事にサンマリナへ辿り着けるよう、最後まで気を抜かずにいきましょう」
ヴァニラがやわらかに微笑む。
「それでは出発します」
御者が手綱を引くと、ギシリと木の音を立てて荷馬車が再び動き出した。
揺れる荷台の中では、戦闘を終えた仲間たちがそれぞれの仕草で緊張をほぐしていく。
オルガは革手袋を外して剣を磨き、ショコラは膝に魔法書を広げてぼやきながらページをめくる。
ヴァニラは隣に座ったルナとにこやかに話す。
フィオラは魔石をいじりながら、ひとりでにやけていた。
―――
荷馬車は再び街道を進み、戦いの余韻が少しずつ落ち着いていく。
ナオトは窓の外をぼんやり眺めながら、先ほどの冒険者たちの戦いを思い返していた。
「オルガは堅実に剣と盾を使いこなしてたし、フィオラは全体を見て的確に指示を出してた。ヴァニラの防御魔法も仲間をしっかり守ってたな」
そして思いが止まったのは、ショコラの戦いぶりだった。
炎の魔法は見事だったがナオトの目には、姿勢が悪いせいか、魔力の流れにわずかな歪みが出ているように感じられた。
「もしかして、猫背のせいか……?あれじゃ魔力の流れに影響しててもおかしくない」
そう考えると、整体師としての血が騒いできた。
ナオトは少し身を乗り出して、赤い瞳の魔法使いに声をかける。
「なぁ、ショコラ。魔法を撃つとき違和感があったりしないか?」
ショコラは本から目を離し、意外そうに目を瞬かせた。
「……え?なんで知ってんだよ」
「やっぱりあるんだな」
ナオトは少し身を乗り出す。
「俺から見ても、炎が出る直前にほんのわずかな滞りがあった。あれ、体の使い方のせいかもしれない」
ショコラはしばらく黙り込み、視線をそらして窓の外に赤い瞳を向けた。
「……そうだな。実はボクも気づいてた。頭の中で炎をイメージして、放つんだけど……一瞬遅れて出るんだよな。魔力が何かに引っかかるみたいに」
彼女は小さく肩をすくめる。
「でも、それが普通なんだと思ってた。だって、他に比べるもんもないし……」
ナオトは軽く首を振る。
「いや、それは普通じゃないと思う。猫背になってるせいで、魔力の流れにも影響が出てるんじゃないか?」
「……猫背、か」
ショコラは自分の背中に手をやり、むすっと唇を尖らせる。
「ボクだって好きでこんな姿勢してるわけじゃない。……胸が大きいから、気になってつい前かがみになっちゃうんだよ」
その言葉に、場が一瞬だけ凍りついた。
すると、隣に座るヴァニラの目がすっと細くなった。
「……はぁ。よくもまぁ、そんなことを悩みみたいに口にできますね」
普段の柔らかい声色が、一気に棘を帯びる。
「な、なんだよその言い方……!」
ショコラが振り向くと、ヴァニラはにこりともせず、冷ややかに続けた。
「胸が重いから姿勢が悪くなる?贅沢な悩みもいいところです。世の中には、それすら持ち合わせていない人だっているんですよ?」
言葉に込められた毒は、まるで小さな刃のようだった。
「うっ……!」
ショコラが頬を引きつらせ、猫背をさらに丸める。
その一方で、持たざるもの代表のルナはぎゅっと自分の胸元を握りしめ、表情を曇らせていた。
「……ルナは、これから大きくなるんです」
吐息のようにこぼれる声は、わずかに震えている。
ナオトは慌ててルナをフォローしようとしたが、それより早くヴァニラが皮肉を込めて言葉を重ねた。
「ほら見なさい、アンタの不用意な発言が人を傷つけるの。……それすら想像できないなんて、ほんと残念な子ですね」
「ぐ……っ!」
ショコラの顔がかぁっと赤くなる。
「な、なんだよお姉ちゃん!ボクはただ正直に言っただけなのに!」
「正直さと無神経は違いますよ、ショコラ」
ヴァニラは冷たく微笑んだ。
「ほんと、あなたって胸以外は全部足りてないんじゃないですか?」
「ひっ……ひどい!」
ショコラは涙目になって肩を震わせた。
ルナは複雑そうな笑みを浮かべながらも、ショコラを慰めるように小さな声で言った。
「しょ、ショコラさん……ルナは、少ししかそんなふうに思ってませんから……」
「……まぁまぁ、落ち着けって」
ナオトは苦笑しながら、間に割って入った。
「話を戻すけど、俺は整体をやってて、姿勢や歪みを直せるんだ。一度試してみれば、魔力の流れが変わるかもしれない」
ショコラは頬を赤くしながら、わざとらしく疑いの目を向ける。
「ふん、どうせ口実つけて触ろうってんだろ。男はみんな胸しか見てないんだから」
「だから違うって言ってるだろ」
ナオトは肩をすくめて苦笑した。
「整体は治療みたいなもんだ。俺の仕事だよ。余計なことは一切しない」
ショコラは一瞬むっとした顔をしたが、やがて肩の力を抜いた。
「……まぁ、すぐに怪しいことするんじゃないなら、ちょっとくらい試してもいいけどさ。……その代わり、効果なかったら許さないからな」
荷馬車の揺れを受けながら、ナオトはショコラの前に座った。
「じゃあ、整体を始めるぞ」
「うん……よろしく」
ショコラは少し身をこわばらせながらも、背筋を伸ばす。
ナオトは肩や背中の筋肉の状態を確かめる。猫背気味の背中は肩甲骨周りが硬く、首の付け根も張っている。
荷馬車の揺れに合わせて手の力を微調整しながら、ゆっくりと肩をほぐし、背筋をまっすぐに導く。
「背中が硬いな……少しずつ伸ばしていこう」
「………!」
肩や背中の張りが和らぐと、猫背気味の姿勢も自然と伸びていく。
「うん、これで猫背はだいぶ改善されたはずだ」
ナオトは背中の最後の張りを押さえ、ショコラの姿勢を整えた。
そして、ナオトは手のひらに魔力を集中させる。
ナオトの手が肩甲骨や背中を滑るたび、体内に流れる魔力の感触が微細に指先に伝わる。
「ここ……少し滞ってるな」
ナオトは魔力を少しずつ送り込み、滞りを解消するように循環させる。
「……すごい……なんだか、体が軽い」
ショコラの声には驚きと安堵が混ざっていた。
ナオトは最後に肩と背中全体を軽く押さえ、手をそっと離す。
「よし、これで体も魔力も安定したはずだ」
―――
荷馬車の揺れに身を任せながら、ショコラは魔力を集中させる。濃い茶色の髪が揺れ、赤い瞳が鋭く光る。
「よし……行くよ」
ショコラは火球を大きな岩に向けて放つ。炎の球は空気を切り裂く音を立て、岩に正確に命中。岩肌に炎が絡みつき、瞬間的に煙と熱風が巻き上がる。
「すごい……前より圧倒的に精度が上がった!」
フィオラは感嘆の声を漏らす。
「次はもっと遠くに!」
ショコラは手のひらを前に突き出し、火球を狙い定める。手のひらから放たれた炎は空中で勢いを増し、岩に直撃。小さな爆発音と共に煙が舞い上がり、火力も威力も以前とは比べものにならない。
「すごい!ボク、こんなの初めて!」
ショコラは目を輝かせ、笑顔を浮かべる。猫背も改善され、魔力の滞りも消えたことで、魔法の反応が自分のイメージ通りになったのだ。
オルガも感心した様子で声をかける。
「前より遥かに安定してます」
ルナも微笑みながら小さく頷く。
「良かったですね、ショコラさん。本当に魔法がスムーズに動いています」
炎の球が次々と岩に当たり、煙が草原に漂う。荷馬車の中は静かだが、魔法の力と精度の変化を感じた一同の心は高揚していた。
「はぁ、完璧!火力も精度も前より上がった……」
「ショコラ、少し胸を張っていいんだぞ」
「え……?」
ショコラは驚き、赤く顔を染める。
ナオトは真剣な眼差しで彼女を見つめ、言葉を続ける。
「人は自分の体や外見を理由に縮こまることがある。でもな、そんなことで自分を縛る必要はない。胸が大きいからって恥じることはない。堂々と胸を張って生きろ」
ショコラは言葉に戸惑う。
「隠そうとすると心まで縮こまる。背筋を伸ばせば、世界も少し違って見える。自信を持って、自分を誇れ。誰に遠慮する必要もないんだ」
その熱く、真っ直ぐな言葉に、ショコラは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「さぁ、思い切り自分らしく生きろ。胸を張るってのは、単に見た目の問題じゃない。心の強さの象徴だ」
「……わかったよ。これからは胸を隠さずに、堂々とするよ」
ショコラは少し恥ずかしそうに肩の力を抜き、背筋を伸ばした。自然と胸も前に出る。堂々としたその姿に、荷馬車の中の空気が一瞬で変わったかのようだった。
その様子を隣で見ていたルナは、胸の小さい自分と比べて少し羨ましそうに目を細める。ヴァニラもまた、胸の小さい自分の体を気にしながら、ショコラの堂々とした姿をじっと見つめていた。二人の視線には、羨望と少しの憧れが混ざっていた。




