第一章4『出発』
王城の石畳に太陽の光が差し込む。
ナオトは馬車の前に立ち、少し緊張した表情で周囲を見渡す。
「ナオト様、こちらをお持ちください」
セレーネが軽やかに歩み寄り、ナオトに革のカバンを差し出した。淡い茶色の革で作られた肩掛けのカバンには控えめな淡紫色の刺繍が走り、銀色の小さなチャームにはめ込まれた紫色の宝石が揺れて光を反射していた。
「ありがとうございます」
ナオトはぎこちなくカバンを受け取る。中には簡単な地図、乾燥パン、飲み水、そして軽くまとめられた包帯や傷薬が収められている。
セレーネは微笑み、優しく声をかける。
「アークロスの街は、人間と亜人が共に暮らす街です。戦争の傷はありますが、街の人々は互いに助け合っています。どうか、心配しないでください」
ナオトは息を整える。胸の奥でじわりと緊張感が広がる一方で、セレーネの言葉にわずかな安心感も宿った。
漆塗りの馬車は銀の装飾が施され、王国の旗がはためく。御者が手綱を握り、布製の屋根が光を反射して柔らかく輝く。
「準備は整いました、ナオト様」
御者の声にナオトは軽く頭を下げ、慎重に馬車に乗り込む。木製の座面はひんやりとしていて、揺れるたびに心臓が少し速く打つ。
御者が手綱を動かすと、馬車はゆっくりと動き出す。石畳の音がリズムを刻み、王城の門が視界から遠ざかっていく。
ナオトは肩に掛けたカバンを軽く押さえ、窓の外の景色をぼんやりと眺める。丘陵と森が淡い緑の帯となり、太陽の光に霧が溶けてゆく。
「王様は、俺のスキルを見て任務をくれたんだ」
水晶で鑑定された『UCスキル 協調性◎』王都では批判もあるかもしれない。だが王は、アークロスの復興という「特別任務」を託してくれた。重責の任務のように見えるが、ナオトは直感する。これは表向きの口実で、王はただ、自由に動ける時間を与えてくれたのだ、と。
「ラノベとかだともっとひどい扱いもあるもんな。国外追放とかじゃなくてよかった」
ナオトは心の奥で小さく安堵する。王都では過剰に干渉され、緊張し続けることになったかもしれない。だが特別任務なら、遠く離れた街で自分の判断で行動できる。責任はあるが、それは罰ではなく信頼なのだ。
窓の外には緑の木々が広がり、馬車の揺れが、ナオトを眠りへと誘う。頭はぼんやりとし、重く、目の奥がじんわりと痛む。朝から晩まで働き、召喚されたあとも驚きの連続だった体は、さすがにもう限界だ。
視界がゆっくり霞むのを感じた。馬車の揺れが心地よい子守唄のように響き、昼の光がまぶたの裏で揺らめく。任務の重みも、王の思惑も、いまは置いておこう。
「眠い」
そう呟くと、ナオトは自然と目を閉じた。緊張と期待、そして少しの安心感を胸に、馬車の揺れに揺られながら、深い眠りに落ちていく。昼の穏やかな光が車窓を照らし、静かに、旅路の始まりを刻んでいた。
―――――――――。
――――――。
―――。
「お目覚めくださいませ、ナオト様」
耳に届いた落ち着いた声に、ナオトは重たいまぶたを開いた。どのくらいの時間が経ったのだろうか。目の前に立つ御者が、丁寧に頭を下げて告げる。
「目的地へ到着いたしました」
慌てて体を起こし、肩にかけていた革のカバンを抱え直す。まだ頭の奥に眠気が残っていたが、外の空気に触れると、ようやく現実に引き戻された気がした。
馬車を降りた先にあったのは、ひと目で老朽化しているとわかる木造の小屋だった。壁板は色あせ、屋根はあちこち剥がれ、窓枠にはひびが走っている。人が住んでいた痕跡はあるものの、長いこと放置されてきたのだとすぐに分かった。
「こちらが、国王陛下よりご提供いただいた住居です。ですが、ご覧の通り、修繕を要します」
御者は事務的に説明したが、その声色にはわずかに同情がにじんでいた。ナオトはため息をつき、ゆっくりと中を覗き込む。
扉はギィ、と軋んで開いた。室内には湿った土と埃の匂いがこもっている。床板は一部が沈み、壁の隅には小さな獣の足跡が残っていた。家具はほとんどなく、倒れた椅子がひとつ転がっているだけ。
「これは、しばらく寝泊まりできる状態じゃないな」
小声でつぶやく。
「まずは道具を揃えるところから、ですね」
御者が助言を添える。
「このまま街の中心までお連れします。ただ、私は別の任務がございますので、そこで失礼させていただきます」
ナオトは頷き、再び馬車に乗り込んだ。小屋は背後に遠ざかり、窓から見えるのは草むらや荒れ地ばかり。王都の賑わいとは比べようもない静けさが広がっていた。
やがて石畳の道に入ると、少しずつ建物が増え、道行く人の声や露店の香りが近づいてくる。
「ここからアークロス市街の中心に入ることができます」
馬車が停まり、御者が手綱を引いた。広場を囲むように商店や露店が並び、果物や布地を売る声が飛び交う。
「住居の修繕に必要な物資は、この界隈の商店で揃えられます。木材、大工道具、日用品も手に入るでしょう。」
御者は深々と頭を下げた。
「では、私はこれにて失礼いたします。ナオト様のご健勝をお祈り申し上げます」
馬の蹄音と車輪の音が遠ざかっていく。馬車はすぐに人混みに紛れ、姿を消した。
ナオトは広場を見渡した。活気ある声、行き交う人々の笑顔。王都から離れたこの街で、自分はどう生きていくのか。胸の奥に不安と期待が同時に芽生えていく。
国王からの特別任務としてアークロスにやってきた。だが、少なくともこの街で過ごす時間は、自分に委ねられている。
昼下がりの陽光に包まれながら、ナオトはゆっくりと一歩踏み出した。新しい暮らしの始まりを、確かめるように。