第二章20『永遠の赤い鎖』
ヴァルセリア王国に古くから伝わる物語がある。
『永遠の赤い鎖』
むかしむかし、大陸の果てに、闇を統べる魔王がいました。
魔王は大地を黒く染め、夜を昼へと侵食させ、民の心から希望を奪っていきました。
人々は怯え、国は荒れ果て、光なき時代が訪れようとしていました。
そんな中、一人の勇者が立ち上がりました。
彼は剣を手にしたただの戦士ではなく、心に揺るがぬ信念を抱いた若者でした。
勇者の胸にあったもの、それは名誉でも富でもなく、ただ一人の姫への愛でした。
その姫は清らかな心を持ち、人々を思いやり、勇者を信じる存在でした。
勇者と姫の間には、言葉にせずとも伝わる強い想いがありました。
そして勇者は誓ったのです。
「姫よ、必ずあなたを守る。たとえ私の命が尽きようとも、あなたの笑顔だけは失わせない」
勇者は魔王の城へと進み、数え切れぬほどの戦いを繰り広げました。
鎧は砕け、血が大地を赤く染めても、勇者は立ち上がり続けました。
その姿は炎のように燃え、雷のように轟き、やがて大地に響き渡る伝説となりました。
ついに、勇者の剣は魔王の胸を貫きました。
魔王は断末魔とともに闇の中へと消え去り、長き戦いは終わりました。
しかし勇者もまた、深い傷を負い、崩れ落ちる城の中で倒れ伏しました。
そのときでした。
遠く離れた姫が祈りを捧げていたのです。
「どうか彼を奪わないで。勇者を私に返して」
その祈りは時空を越え、勇者のもとへと届きました。
すると、姫の胸元から赤い光が伸び、勇者の胸へと繋がったのです。
その光は決して切れない鎖のようでした。
光の鎖は勇者に温もりを与え、彼の命をつなぎとめました。
勇者は再び立ち上がり、崩れ落ちる城から歩み出ることができました。
姫のもとに戻った勇者は、ただ一言、静かに告げました。
「私を生かしたのは剣でも魔法でもない。あなたと私を結ぶ、この奇跡の赤い鎖だ」
姫は涙を流し、勇者を抱きしめました。
「この赤い鎖は、ふたりの心そのもの。だから、永遠に離れることはありません」
こうして勇者と姫は国に光を取り戻し、再び人々に希望をもたらしました。
彼らの姿は時を超え、語り継がれ、やがて人々は信じるようになりました。
真実の愛で結ばれた者の間には、光り輝く赤い鎖が宿るのだと。
たとえ国が滅び、時代が移り変わろうとも、
勇者と姫の伝説は消えることなく、永遠に語り継がれていきました。
これが『永遠の赤い鎖』の物語。
―――
商業ギルドの一室。
依頼書を並べ直すカレンの手は迷いなく動いていたが、その瞳はどこか遠くを見つめていた。
永遠の赤い鎖。
ふと、胸の奥にその言葉が蘇った。
幼い頃、夜ごとに母が語ってくれたおとぎ話。
勇者と姫が出会い、幾多の試練を乗り越え、魔王を倒し、そして決して解けない赤い鎖で結ばれたという物語。
カレンは小さな少女だった頃、その話を聞くたびに胸をときめかせた。
「きっとあたしにも、いつかそんな運命の人が現れるんだ」
そう信じて疑わなかった。
窓の外にきらめく星を見上げながら、自分だけの赤い鎖の相手がどこかで待っていると夢見て、眠りについた日々。
けれども年月が過ぎ、現実は残酷であると知る。
ギルドで働くようになり、人の欲や打算を幾度も目にした。
契約と利益、信用と裏切り、冷徹な取引の中で生きるには、夢物語など役に立たない。
永遠の赤い鎖など、誰かに話せば笑われるに決まっている。
それでも――。
机に両肘をつき、指を組み合わせながら、カレンは小さく息をついた。
どうしても、その物語だけは嫌いになれなかった。
事実を大幅に脚色したおとぎ話――。
子供じみているとわかっていても、心の奥底では、まだあの鎖に憧れている自分がいる。
「……くだらない、って思われるでしょうね」
ぽつりと声に出し、ひとり笑う。
ギルド職員としては冷静で、時に皮肉すら口にする彼女だが、その胸の奥にはまだ幼い日の夢が眠っているのだ。
「でも、あたしは……好きなのよね。あのお話」
彼女の瞳には、わずかに柔らかな光が宿っていた。
商業ギルドの机の上で積み重なる書類の中、その一瞬だけ、カレンは幼い頃に戻ったかのように微笑んでいた。
けれど、現実に現れた「勇者」は――。
「おーい、カレン。今日も依頼を受けに来たぞ」
扉を押し開け、気楽な調子で顔を出したのはナオトだった。
軽い笑みを浮かべ、手を振って入ってくる。
彼が異世界から召喚された勇者だと知ったとき、誰もが驚いたが、カレンにとっては衝撃を通り越して苦笑するしかなかった。
物語に出てくる勇者とは、似ても似つかない。
本来ならば、勇者とは剣を掲げ、姫を守り、民を導く存在。
目の前の男は、笑顔は人懐っこく、悪い人間ではないのだろう。
だが、子供の頃に夢見た「赤い鎖の勇者」とは、あまりにも違っていた。
書類の山に目を落としながら、彼女は小さくため息をついた。
カレンはナオトを完全に否定しているわけではなかった。
むしろ逆だ。
仕事に対しては真面目に取り組み、結果を出す。
この世界の常識を知らないだけで、説明すれば素直に理解し、きちんと応用もできる。
頭は悪くない。
それに、彼には「整体」という誰も真似できない技術があった。
異世界から持ち込んだその技術を仕事にしたいと語るとき、彼の表情は真剣で、目の奥には迷いのない光が宿る。
そこまでは、確かに認められる。
――だが。
彼には決定的に欠けているものがある。
それは「野心」だ。
整体という技術を足掛かりに、領主の庇護を得て成り上がることだって可能だろう。
大商会に雇われ、莫大な富を得ることだってできるだろう。
けれどナオトはそうした未来を望まない。
彼は整体を人のために使うことを望む。
それは誠実さの表れでもある。
だが、カレンにとっては、どこか物足りない。
カレンは帳簿を閉じ、机の上に依頼書を置いた。
「最初に言っておくけど……今回の依頼は少し長めよ」
「長め?」
ナオトが眉を上げる。
「ええ。行き先は港町サンマリナ。ここから馬車で半日。荷馬車の輸送を手伝ってもらうわ。護衛はすでに別の冒険者パーティーに頼んであるから、あんたは力仕事と荷物の管理をお願いしたいの」
ナオトは依頼書を手に取り、ざっと目を通す。
「ふむ……荷物の種類は?」
「織物、保存食、香辛料。サンマリナは交易の要だからね。依頼主が特に気にしているのは荷物の扱いの丁寧さよ。粗雑に扱うと文句を言われるから、そのつもりで」
「なるほどな。危険度は低いってことか」
「そうね。道中の安全は護衛に任せればいい。問題は港町に着いてからよ。サンマリナは人も物も多いし、引き渡し先の倉庫はいつもごった返してる。だから確認はしっかりすること」
「了解。俺に任せとけ」
ナオトはにやりと笑い、親指と人差し指で丸を作り、パッと掲げる。OKサイン。
その瞬間、カレンはこめかみに手を当てた。
「……また、それ」
この世界でその仕草はただの軽い合図ではない。
『永遠の赤い鎖』の物語を模した恋人同士が愛を誓い合う特別なサイン。
互いの指で作った輪を重ね、鎖の輪のように結ぶのが意味するのは、永遠の結びつき。
ナオトは、異世界から来たがゆえに、無自覚のまま三度目の誓いをしていた。
「はぁ……」
カレンは深くため息をつき、心の中で決意を固める。
ナオトの差し出した手を取り、彼の指に自分の指を絡める。
二人の輪が重なり合い、鎖のように結ばれた瞬間、永遠の愛を誓うサインが完成する。
――あたしが育てるしかない。この男を、立派に、そして一人前に。
「……他の人には絶対に同じことをしないで」
カレンはわずかに口元を吊り上げる。
――鎖が切れないよう、しっかりこの手で捕まえておかないと。
―――
ナオトとルナはアークロスの街を抜け、依頼の集合場所へ向かっていた。石畳の道には商人の呼び声や荷車の音が響き、街の活気がまだ色濃く残っている。ルナの青い瞳は、通りの光景を見つめながらも、少し浮ついたように輝いていた。
「ナオトさん、サンマリナって港町ですよね」
ルナが少し声を弾ませる。
「そうだな。港町ってのはただ海があるだけじゃなくて、いろんな人が集まるから街の雰囲気も独特だ」
ナオトは横顔のルナに目を向ける。
ルナは小さな声で、これまで本で読んだ情報を思い出すように話す。
「サンマリナ……名前の由来は、古い伝説によると、この港町を守る女神マリナの名から来ているそうです。本では、彼女が海を渡る船乗りたちに幸運をもたらしたと書かれていました」
「へえ、そういう由来か」
ナオトは興味深そうにうなずく。
ルナはさらに目を輝かせ、港町の特産品や観光名所の話に移る。
「この街の特産品は、海藻を使った『アクアリスサラダ』や、貝殻を加工した『サンマリナアクセサリー』です。それに港町ならではの魚介類も豊富で、『深海燻製フィッシュ』は遠くの町でも評判なんです。本では観光名所として、灯台『セレストタワー』や、海を望む高台の広場『コーラルパティオ』が紹介されていました」
「なるほどな。港町って、単に海がある街じゃなくて、生活も文化も独特なんだな」
ナオトは歩きながらルナの話を聞き、街の外の景色に想像を巡らせる。
ルナは少し口元をほころばせる。
「港の市場『サンマリナ・マルシェ』では、遠くの国から来た船が運ぶ香辛料『紅蓮の胡椒』や絹織物『蒼天の布』、珍しい工芸品『星の彫刻』も売られているそうです。街並みや海風の匂い……考えるだけで胸が高鳴ります」
ナオトは軽く笑い、ふと提案する。
「時間があったら、少し観光してみるか?市場を見て回ったり、灯台まで歩いたり、広場で海を眺めたり……港の風を感じてみるのも悪くない」
ルナの目が一層輝きを増す。
「はい! きっと、忘れられない思い出になります!」
小さく息を吸い込み、目の前の道だけでなく、これから訪れる街の未来を思い描く。
街の喧騒から少しずつ離れていく。ルナは胸を弾ませ、初めて訪れる港町の景色と匂いを想像し、無意識に歩幅を早める。
ナオトはそんなルナの様子を横目で見ながら、心の中で静かに微笑んだ。
この旅が、ルナにとっても、自分にとっても、特別な経験になる。そう直感していた。
―――
ナオトとルナが集合場所の門の近くに着くと、そこには大きな荷馬車が待機していた。木製の車体はしっかりとした造りで、幾重にも縛られたロープが荷物を固定している。車輪は深く刻まれた溝があり、砂利や泥道を走るにも耐えられる丈夫さを感じさせた。
荷馬車の上には、大きな木箱や麻袋が整然と積まれていた。木箱には陶器が入っているらしく、角には縄で「上積み厳禁」と書かれた札が下げられている。麻袋には穀物や塩漬けの魚が詰められ、ところどころから微かな香りが漂う。荷物の重さと種類から、港町サンマリナへの重要な輸送であることが一目で分かった。
御者の席には、中年の男性が腰掛けて鞭を手に持ち、落ち着いた眼差しで馬たちを見守っている。馬は黒毛と栗毛の二頭立てで、筋肉質な体をしており、足元には蹄鉄の光がちらりと反射していた。馬車の脇には、依頼主と思われる男性が立っており、二人を見つけると軽く頭を下げる。
「おはようございます。今回の荷物の輸送、どうぞよろしくお願いします」
依頼主の声は柔らかく、しかししっかりとした威厳が感じられる。
ナオトは軽く頭を下げ返す。
「こちらこそ。最後まで気を抜かず、無事に届けます」
ルナも少し緊張したように頭を下げる。
「よろしくお願いします……」
御者も鞭を軽く振りながら、荷馬車の状態を確認している。
「荷物の固定は問題なし。馬たちも元気だ。出発できる準備は整ったぞ」
ルナは荷馬車の積み荷を見上げながら小さく息をつく。
「こんなにたくさんの荷物……無事に運べるのでしょうか」
ナオトは笑いながら肩をすくめる。
「まあ、大丈夫だ。御者さんは慣れているし、俺たちが護衛を兼ねるわけじゃないからな」
荷馬車の木の床や側面からは、長年の使用でついた小さな傷や擦れが見え、荷馬車が日常的に働き続けてきたことを物語っていた。ナオトは手を伸ばして、荷馬車の側面を軽く叩き、木材の感触を確かめる。硬く乾いた木の香りが手のひらに伝わる。
ルナも荷馬車の脇に立ち、馬の毛並みや鞍の細部まで目を配る。馬の息が白く立ち上り、穏やかな眼差しが彼女の不安を少しだけ和らげる。
―――
出発前、護衛の冒険者たちがやって来た。四人の女性が荷馬車の前に整列し、揃って礼をする。ナオトとルナは軽く会釈を返し、準備万端の様子を確認した。
「さあ、準備が整ったようですね」
依頼主が声をかけると、御者が軽く鞭を打ち、馬たちはゆっくりと歩き出す。砂利を踏みしめる音、荷馬車の軋む木の音、積み荷が微かに揺れる音が混ざり合い、街の朝の静けさの中に心地よいリズムを作り出す。
荷馬車は門をくぐり、アークロスの街外れの道へと足を進める。道端の商人や通行人が足を止め、荷馬車の行く先を興味深そうに見送っていた。




