第二章16『ルナの治癒魔法』
三人は小屋に戻ると、まずボニーが入口の脇にヤングベアの巨体をどすんと横たえた。
「さすがに中には入りませんから、一旦ここに置いておきますね!」
明るい声にナオトは思わず苦笑する。
小屋に入ると、ナオトは腫れた指を庇いながら椅子に腰を下ろす。
ルナはすぐに棚から薬草を取り出し、すり鉢ですり潰しはじめた。狼耳を少し伏せた横顔は、静かだが緊張を帯びている。
「兄様……今日はすみませんでした」
「いや、ルナが無事だったなら、それで十分だ」
そう答えるナオトの指は、弦に擦れて赤く腫れ上がり、血もにじんでいる。
「動かさないでください」
薬草を丁寧に塗り込み、布を巻いて固定していく。ひんやりとした感触にナオトが小さく息を漏らすと、ルナは視線を落としたまま声を和らげた。
「これでしばらく安静にすれば大丈夫です。弓は数日は控えてください」
「わかった。助かるよ、ルナ」
ナオトの言葉に、ルナはほんの少しだけ微笑んだ。
「ふむ……」
不意に澄んだ声が上から降ってきた。
三人が顔を上げると、棚の上でじっとこちらを見下ろす西洋人形――パメラが脚を組んで座っていた。
ガラスのように透き通った瞳が、ルナにまっすぐ向けられる。
「狼の娘よ。お主、水属性の魔法が使えるであろう?ならば治癒魔法で指先など一瞬で癒せるはずではないか」
ルナはすぐに耳を伏せ、首を横に振る。
「……ルナには、治癒魔法は使えません」
パメラは顎に手を当て、つまらなそうにため息をつく。
「ほう……水の適性がありながら、癒しの力は持たぬと」
「ちょ、ちょっと待ってくださいパメラさん!」
ボニーが慌てて手を振る。
「ルナさんは戦いでも本当に頑張られてますし、治癒魔法なんてなくても立派なんですよ!」
ルナは少しうつむき、言葉少なに続ける。
「……ルナは、手のひらに水を集める程度の魔法しか扱えません」
ナオトは包帯の巻かれた手を軽く握り、落ち着いた声で言った。
「いいさ。ルナがいなきゃ俺は今頃、熊の爪に貫かれてただろう。治癒魔法なんかなくても、ルナはもう十分頼りになる」
その言葉に、ルナは驚いたように目を見開き、ほんの少しだけ耳を立てた。
「……なるほど。愚直ではあるが、悪くはない答えじゃな」
棚の上で脚を組んだまま、パメラはしばし考え込む。
「魔法は想像力が大事じゃ……自分が出来る想像がなければ、いくら適性があっても発動せん」
その声は静かだが、どこか重みがあった。
ナオトとルナが顔を見合わせる。ルナは少し眉を寄せる。
「想像力……ですか」
パメラは瞳を細め、ルナを見下ろすように言った。
「じゃが、お主の中には治癒魔法の残滓がある。数日以内に治癒魔法を受けたのではないか?それも、強力な魔力の持ち主から」
ルナは一瞬、過去を思い返す。
「……そういえば、数日前、病で倒れた時に……見習い神官のアリアさんから治癒魔法を受けました」
パメラは頷き、薄く微笑む。
「ならば、その感覚を再現するだけじゃ。思い出せ、その時の魔力の温かさと流れを」
ルナは深く息を吸い、目を閉じた。手元のナオトの指をそっと見つめる。
「魔力の温かさと流れ……アリアさんの手のひらの感覚……」
ルナは数日前に受けた治癒魔法の感触を思い浮かべる。
手のひらに宿る柔らかな温かさ、指先まで伝わる生命の流れ。
手のひらの奥で、柔らかな温かさがじんわり広がるあの感覚を再現するのだ。
パメラは静かに棚から体を少し前に乗り出す。
「想像せよ、創造せよ……お主の中の記憶を、魔法に変換せよ」
ルナは手のひらに力を込めるように意識を集中させた。指先に、微かな温かみが湧き出してくる感覚。
「ルナ、行きます……」
最初は光の感覚が手のひらに残り、微かに眩しい感触が指先まで届く。
しかしルナは意識を水の性質に変換する。光の温かさを清らかで透明な流水に置き換え、手のひらの中で流れを描き出す。
「……水よ、癒しを……」
手のひらの奥から青白い光がにじみ出すと同時に、手元の空気が湿り、水蒸気が立ち上るように揺らめく。
水の流れは手のひらから腕へと伝い、まるで小さな泉の水が血流に沿って広がるようだ。微かな波紋が指先に響き、生命の力が循環していく感覚。
手のひらをそっとナオトの指に触れた瞬間、柔らかい水の気配が手から指先へと流れ込む。
青白い光はまるで水が指の表面を滑るように動き、腫れた部分を包み込む。赤みは青白い水の光に浸され、痛みがゆっくりと和らぐ。
水の音は聴こえないのに、耳の奥でさざ波のような微かな響きが感じられる。
生命の流れそのものが手のひらに宿ったかのようだ。
青白い水の光は徐々に消え、手のひらには穏やかな清涼感だけが残る。ルナは手をそっと離し、深く息を吐いた。疲労が全身に広がるが、ナオトの指は明らかに回復している。
「……兄様、どうですか?」
ナオトは手を開閉しながら、その変化を確かめていた。
つい先ほどまで赤く腫れてまともに動かせなかった指が、嘘のように軽い。痛みも引き、ただ心地よい治癒魔法の余韻だけが残っている。
「……ルナ、すごいよ」
驚きと感嘆が入り混じった声が、小屋の中に落ちた。
ルナは少し戸惑ったように耳を揺らし、視線を伏せる。
「ルナは……ただ、アリアさんの魔法を思い出して、真似しただけです……」
「それがすごいんだ」
ナオトは思わず身を乗り出していた。
「普通なら思い出すだけで真似できるものじゃない。ルナにしかできない才能だよ」
その言葉に、ルナの狼耳がぴんと立ち、頬がじんわりと赤らむ。
「……そんな大したことは……」
「大したことあるさ!」
ナオトはきっぱりと言った。
「ルナがいてくれたから、俺はこうして無事でいられる。ありがとう、本当に助かった」
真剣な眼差しで言葉を重ねるナオトの姿に、ルナは胸の奥が熱くなるのを感じた。
俯いたまま、そっと呟く。
「……兄様に褒められると……嬉しいです」
棚の上でパメラが微笑む。
「なるほど……小さき狼よ、光の治癒魔法の感覚を水魔法に置き換え、光の温かさを癒しの流れとして再現するとはの」
ルナは目を閉じ、静かに息を整える。
小屋の中には、柔らかく清らかな水の力が満ち、静かだが力強い空気が漂った。
―――
「それじゃあ、私はヤングベアの解体をしてきますね!」
ボニーは外の窓からチラッとヤングベアの死骸を見てから、にっこり笑った。
「ヤングベアの牙や爪はとても貴重な素材ですから……加工すれば、きっといい道具が作れますよ!」
明るい声と共に、ボニーは腰に解体用の短いナイフを差しながら小屋を出ていった。扉の隙間からは、外に横たわる巨大な熊の死骸が見える。
「皮も肉も無駄にはしませんから!任せてください!」
外からは骨を割る鈍い音や、肉を切り分けるナイフの鋭い音が響いていた。
ボニーが明るい声を上げる。
「いやぁ、さすがヤングベア!肉も皮も上質です!いい素材も取れそうですよ!」
小屋の中、ナオトは肩掛けのカバンに必要な道具を詰めながら肩をすくめた。
「元気だなぁ……さっきまで死闘だったのに」
―――
ヤングベアの解体を進めていたボニーの耳に重厚な蹄の音が響いてきた。
ボニーが顔を上げると乾いた音が近づき、やがて大きな車輪のきしむ音が重なる。
畑の向こうから姿を現したのは、王都でも滅多にお目にかかれないような豪華な馬車だった。
漆黒の外装に銀の紋章が刻まれ、屋根や窓枠には繊細な装飾。四頭立ての馬は艶やかに手入れされ、従者らしき人物が手綱を操っている。
「な、な、なんですかあれは!? 王都の……貴族の馬車!?まさかこんな辺鄙な所に来るなんて……!」
ボニーは慌てて小屋の中へ駆け込んだ。
「ナオトさん! 大変です、大変です!! すっごい豪華な馬車が来ました!」
驚いたナオトとルナが顔を見合わせる。
「……俺たちを訪ねてきたのか?」
「ルナには……心当たりがありません」
外に出ると、ちょうど馬車が小屋の前で止まるところだった。
砂埃が静かに落ち着く中、先頭を歩いていた馬から、凛とした気配を纏う一人の女性が降り立った。
陽光を浴びて輝く銀色の胸甲、背に負った細身の剣。
長い外套を翻し、きりりと結んだ髪に鋭い眼差し。
一目で、彼女が王都の騎士団に属する者だと分かった。
女性は真っ直ぐにナオトたちの方へ歩み寄り、硬質な声を響かせる。
「此処が、ナオト殿の小屋で間違いないか」
突然の問いにナオトは思わず背筋を正し、緊張した声で答える。
「あ、ああ……そうだが」
女性はわずかに頷き、鋭い視線を緩めぬまま続けた。
「我らは王都から参った。王女殿下の命により、この場を訪れている」
その言葉に、ナオトもルナも一層強張る。
「やっぱり貴族様関係だったんですかぁぁ……!」
ボニーは小さく悲鳴をあげた。
その時、従者が恭しく馬車の扉を開ける。
腰まで届く銀糸のような髪が光を受けて淡く輝き、紫水晶の瞳がまっすぐにナオトを見据える少女。
白を基調としたドレスには薄紫の刺繍がほどこされ、宝石がきらめきを添えている。裾の軽やかな布地は彼女の一歩ごとにふわりと揺れ、その存在自体が現実離れした輝きを放っていた。
「……セレーネ……」
自然に名前を呼んだその瞬間、横に立つ騎士風の女性の瞳が鋭く光った。
彼女は一歩前に出て、腰の剣に手をかけかける。
「無礼であるぞ!王女殿下を呼び捨てとは、辺境の者に礼儀を説かねばならぬのか!」
一触即発の空気に、ルナとボニーが思わず身を固くする。
しかしセレーネは、そっと手を上げて騎士を制した。
「イザベル、構いません」
その声音は静かで、それでいて揺るぎない強さを帯びていた。
彼女は裾を軽く押さえ、ふわりと歩み寄る。
そして柔らかな笑みを浮かべ、真っ直ぐにナオトを見つめた。
「ご無沙汰しております、ナオト様」
ナオトは苦笑しながら頭をかいた。
「様なんてやめてくれよ……俺はここで、仲間と楽しくやってるだけの男だ」
セレーネは小さく首を振り、ほんの少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「本来ならば、ナオト様をこのような辺境の任務に就かせるべきではありませんでした。それでも元気そうなお顔を拝見できて、心から安心いたしました」
ナオトはその気持ちを否定せず、少し照れたように笑って応じる。
「気にするな。むしろ悪くない暮らしだよ。畑を耕して、狩りに行って、仲間に恵まれて……。俺は楽しくやってるさ」
その言葉にセレーネは安堵の笑みを浮かべ、わずかに肩の力を抜いた。
ナオトは深く息を吐き、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「……あの、セレーネ、実は前に頂いた紫の宝石、割ってしまったんだ」
セレーネの瞳が一瞬、驚きに大きく見開かれる。
「え……?それは……いつですか……?」
ナオトは俯き、ルナの腕に手を添えながら答えた。
「数日前、ルナが『闇蜘蛛の災』で倒れた時、治療を試みたんだ。その時に、いつの間にか宝石が割れてしまって……」
「……『闇蜘蛛の災』……」
その告白に、セレーネは一瞬言葉を失った。しかしすぐに落ち着きを取り戻すと、身につけていたネックレスをナオトに差し出した。
「……そうでしたか。驚きましたが、これをお渡しします」
銀の鎖に三つの紫の宝石が並ぶ、繊細で上品なネックレスだった。
「私の身につけていたものですが、どうか受け取ってください」
ナオトは思わず目を丸くして手を伸ばす。
「……これは……本当に……いいのか?」
セレーネは微笑み、穏やかに頷く。
「ええ、ナオト様なら大切に扱ってくれると信じています」
セレーネは微笑みながら、ナオトの首にネックレスをかけてやった。距離が近い。いい匂いがする。
その瞬間、ルナとイザベルの視線がナオトを刺す。
ルナは黙ってじと目で彼を見つめ、内心のもどかしさを押し殺す。
イザベルは目を細め、剣の柄に手をかけたまま、無言の警戒心を燃やす。
「……視線が痛い……」
セレーネはただ柔らかく微笑み、ネックレスを調整して首元で軽く留める。
「……ありがとう、セレーネ」
胸元で紫の宝石が小さく瞬き、ナオトの心に温かさが広がった。
ネックレスをナオトの首元にかけ終えると、セレーネは少し真剣な表情に変わった。
「ナオト様……本日は大事な話があります」
セレーネは静かに言葉を続ける。
「辺境の地で、魔物の目撃情報が報告されています。数は少ないものの、強力な個体も含まれているとのことです」
「……魔物?」
ナオトの眉がわずかに寄る。
セレーネは頷き、穏やかに微笑みながらも目は真剣そのものだった。
「ナオト様、どうか十分に気をつけてください。無理はなさらず、危険を感じたら退くことも重要です」
紫の宝石が胸元で淡く輝く中、セレーネは軽く頭を下げた。
「ナオト様……お話はこれで以上です。私も街へ向かわねばなりません」
「あぁ、教えてくれてありがとう」
馬車がゆっくりと動き出すと、セレーネは後ろを振り返り、最後に優しい笑みをナオトたちに向けた。
皆を見渡し、優しい微笑を浮かべたまま言った。
「……どうか、無事で。戻られたとき、また皆で笑顔でお会いできますように」
―――
豪奢な馬車の中。
クッションのきいた座席に身を沈めながら、セレーネは静かに視線を落とした。
長い睫毛が影を作り、紫水晶のような瞳にわずかな思索の色が宿る。
「……不治の病とされている『闇蜘蛛の災』を治療するなんて」
声は小さく、揺れる馬車の中で自分だけに聞こえるほどの囁きだった。
「それも、私の魔力を注ぎ込んだ結晶石が砕けてしまうほどに……」
目を細めると、ふっと微笑が浮かぶ。
「研究のしがいがありそうですね。ふふ……」
―――
小屋の奥、棚の上のパメラは、静かにその様子を見下ろしていた。
パメラは首をわずかに傾げ、静かに、しかしどこか困惑した声で呟いた。
「……どうして、あのお方が……」




