第二章15『ヤングベア』
ルナが小剣を抜き放ち、一歩前に出た。
その瞬間、ヤングベアの眼光が彼女に定まる。低く重い唸り声が響き、森の空気が凍りつく。
「ルナ!無理はするな!」
ナオトの声が背後から飛ぶ。しかしルナは小さく頷くだけで、眼前の獣から視線を逸らさない。
「……大丈夫です。ルナが前に出ます」
ヤングベアが突進した。
大地を蹴る音が雷鳴のように響き、落ち葉が舞い上がる。
ルナは息を止め、刹那、身をひねってかわした。獣の毛皮がかすめ、獣臭と土の匂いが鼻を突く。
「はッ!」
ルナはすかさず小剣を横薙ぎに振るう。刃は確かに熊の脇腹をとらえた、が。
毛皮が刃を弾き、硬い感触が腕を伝う。切れたのは表面の毛だけ、肉には届いていない。
「……硬い……!」
ルナの額に汗が浮かぶ。
ヤングベアが吠え、後ろ足で跳ねるように振り返った。巨体とは思えぬ速さで、前足の爪が振り下ろされる。
ルナは身を沈めてかわす。地面に爪が突き刺さり、土が飛び散った。
すぐさまルナは踏み込み、剣先を喉元へ突き出す。
――しかし。
刃は再び弾かれた。熊の毛皮と筋肉は、まるで鎧のように硬い。手首に重い衝撃が走り、小剣を落としそうになる。
「くっ……!」
ルナは体勢を崩しかけながらも、すぐに足を蹴って後退した。
ナオトは弓を構えながら焦る。
「ルナ!大丈夫か!?」
「……攻撃は当たります、でも……刃が立ちません!」
ルナは荒い呼吸を整え、獣を睨む。
ヤングベアは怒りに駆られたように前足で地面を掻き、再び突進の構えを見せる。
地鳴りのような足音が迫る。ルナは再び身を翻し、毛皮の隙を探しながら斬撃を浴びせ続けた。
左脇、後脚、肩口――。
だが、どれも浅くしか入らない。
硬い毛皮が壁となり、金属の刃を拒む。
ルナの腕は重く、肩は悲鳴を上げ始めていた。
それでも彼女は退かない。
「……兄様、狙える位置に……持っていきます……!」
ヤングベアは怒り狂ったように吠え、ルナを追い立てる。
ルナはぎりぎりの距離でその巨体をかわし続け、必死に隙を作ろうと動いていた。
森の空気は獣の唸り声と荒い呼吸音で満たされ、時間が引き延ばされたかのように感じられる。
ナオトは弓を握りしめ、汗ばむ手で矢を番えながら、ルナの動きと熊の動きの交錯を必死に追った。
「……撃てねぇ……!」
ルナが熊の懐に入り、剣を振るっていた。完全に射線の中だ。
ナオトの額から冷や汗が伝う。
このままでは撃てない。ルナを巻き込んでしまう。
「兄様!構わず撃ってください!」
「バカ言うな!お前が当たっちまう!」
「大丈夫です!ルナを信じてください!」
ナオトの心臓が高鳴る。
ルナの眼差しは真剣で、一切の迷いがない。
ナオトは全身の震えを押し殺し、矢を引き絞った。
「……頼むぞ、ルナ!」
次の瞬間、弦が弾かれ、矢が唸りをあげて飛び出した。
ルナはその一瞬を待っていた。
熊の正面に立ちながら、地面を蹴り、身体を大きく跳ね上げる。
「はあっ!」
空気を裂くように宙を舞い、巨体の上を飛び越える。
熊が見上げた瞬間、ルナの足が後頭部を強烈に蹴りつけた。
「ぐゥッ!」
獣の首が揺れ、顔がのけぞる。
そこへナオトの矢が一直線に飛び込んだ。
鋭い衝撃音とともに、ワイドブレードの矢がヤングベアの左目に突き刺さった。
獣が絶叫し、巨体がぐらりと揺れる。
ルナは着地し、ナオトの方へ振り返る。
「……やりました!」
「よっしゃあ!ルナ、ナイスだ!」
ナオトも弓を下ろし、息を荒げながら叫んだ。
二人は束の間、勝利を確信した。
だが――。
ヤングベアの体が、ぐらりと揺れたあと。
ズズッ……と足を踏みしめた。
「なっ……!」
ナオトが息を呑む。
矢が突き刺さったままの熊が、再び頭を振り上げる。
左目から血が滴り、毛皮を赤黒く染めている。
その目には、痛みよりも激しい怒りが宿っていた。
「グオオオオオオオオッ!!」
森を揺るがす咆哮が響き渡り、木々の枝が震える。
「まだ……動けるんですか……!」
ルナが歯を食いしばり、小剣を握り直す。
ヤングベアは怒りに駆られたように暴れ、地面を爪で抉りながら突進の構えを見せる。
その一つ目に光る視線が、まっすぐにナオトを射抜く。
「……俺か……!」
ナオトの背筋に冷たいものが走る。
次の瞬間、地響きが起こった。
巨体が大地を揺らしながら一直線に突進してくる。
土が跳ね、枯葉が巻き上がり、森そのものが怒りをぶつけるように轟く。
「兄様!!」
ルナが叫び、小剣を構えて飛び出した。
熊の前に割って入り、刃を脇腹に突き立てる。
だが――。
刃は弾かれ、かすり傷すら残せない。
「くっ……止まらない!」
ルナは横から斬りつけ、足を狙う。
しかし硬い毛皮に阻まれ、またも刃は通らなかった。
熊の巨体は揺らぎすらしない。
「ルナ、下がれぇッ!」
ナオトが叫ぶが、ルナは踏みとどまり必死に刃を振るう。
だが、ヤングベアの怒りは止まらない。
その巨体はまるで暴走する岩のように、真正面からナオトを狙って突進してくる。
「兄様に……触れさせないッ!」
ルナは必死に足を踏ん張り、小剣を構え直した。
だが次の瞬間、熊の前足が横薙ぎに振り抜かれる。
衝撃波のような一撃が地面を抉り、ルナの体を容赦なく弾き飛ばした。
「ルナぁッ!」
ナオトの叫び声が森に響く。
熊の照準はブレない。血に濡れた牙をむき出しにし、狂ったようにナオトへと突進してくる。
森の空気が裂け、地響きが近づく。
ナオトの心臓が爆発するように脈打った。
逃げ場はもうない。
ナオトは迫る巨影に背筋を凍らせながらも、弓を構えた。
「くそっ……来いよ……!」
震える手で矢をつがえ、弦を引き絞る。
限界まで張り詰めた弦を放つと、矢は鋭い風切り音を立てて熊の眉間へと飛んだ。
だが――。
「グオッ!」
ヤングベアは片腕を振るい、まるで小枝でも払うように矢を弾き飛ばした。
硬い爪が矢を粉砕し、破片が宙に散った。
「な……!」
ナオトはすぐさま次の矢をつがえる。
「まだだッ!」
二本目、三本目、矢は次々と放たれ、光の筋となって獣を襲う。
だが、その全てをヤングベアは怒りの腕で払い落とす。
木の枝を折るような乾いた音が続き、矢は一本も通らない。
「そ、そんな……!」
ナオトの顔から血の気が引いた。
必死に射続けるが、矢はまるで子供の投げ石のように、巨体の前では無力だった。
ヤングベアの残った片目がぎらぎらと光り、怒りの唸りが森に満ちる。
「グルルルル……オオオオオッ!!」
さらに速度を上げて突進してくる。
「兄様!!」
ルナが必死に叫ぶが、さっきの衝撃で体勢は完全には戻っていない。
熊の巨体は止まらない。
払い落とされた矢の残骸を踏み砕きながら、牙をむき出しにして一直線にナオトへ。
「くっそおおおおッ!!」
ナオトは矢筒をまさぐりながら、後ずさった。
だがもう、矢も射程も、熊を止めるには足りない。
巨体を揺らしながら突進してくるその姿は、まるで土石流の塊が迫ってくるようだった。
「やばい……!」
ナオトは必死に後ずさる。
だが背後には木々が迫っており、逃げ道はすでに塞がれている。
次の瞬間――。
ヤングベアの前足が地面を抉り、巨体が弾丸のように加速した。
「グオオオオオオッ!!」
咆哮とともに迫るその姿に、ナオトの全身が硬直する。
熱気を帯びた獣の息吹が肌を焼く。
牙の先端が、もう数歩先で彼の喉笛を噛み砕こうとしていた。
「……っ!!」
ナオトの瞳孔が開き、世界がスローモーションになる。
耳に響くのは心臓の鼓動だけ。
ドンッ!!
熊の巨体が飛びかかると同時に、大地が揺れる。
その影がナオトを覆い尽くし、振り上げられた爪が振り下ろされる寸前だった。
「どっせぇぇぇぇぇぇいッ!!!」
耳をつんざく声とともに、横合いから影が飛び出した。
時間が引き延ばされたかのように、ナオトの視界に映ったのは、振り抜かれる巨大な鉄塊だった。
金属の塊が、夕陽を浴びて赤黒く輝く。
柄は硬い黒檀の木で作られており、その先端に取り付けられた鉄塊は、四角く削り出され、鈍い光を放っている。
長年の使用と修繕を繰り返したハンマー。それは、まさしく職人兼戦士の道具だった。
ハンマーの側面には、ドワーフの古い文字で彫られた紋様が走っている。
光を反射し、まるで刻まれた符が熱を帯びて輝いているかのように見えた。
振り抜かれるたび、空気が震え、鈍重なはずの鉄塊が風を切る音を生む。
ヤングベアの横っ面にボニーの巨大なハンマーが叩き込まれた。
骨がきしむような衝撃音とともに、血飛沫と土煙が舞い上がる。
熊の巨体は弾き飛ばされ、突進の軌道が大きく逸れる。
その巨体が地面を抉りながら横に倒れ込み、土煙が舞い上がった。
「ナオトさん、無事ですかッ!?」
振り抜いた姿勢のまま、ボニーが叫ぶ。
彼女の小柄な体には似合わぬほどの巨大なハンマー。
それを両腕でしっかりと握りしめ、荒い息を吐きながらナオトの前に立つ。
「た、助かった……!ボニー……お前……」
ナオトは目を凝らす。
熊の巨体が、よろよろと揺れながら立ち上がろうとしていた。
前足を突き、血走った片目にまだ怒りの光を宿して。
「まだ……動くのか……」
ナオトの背に冷たい汗が流れる。
だが次の瞬間、熊の膝が崩れ落ちた。
巨体が大地を震わせながら倒れ込み、そのまま動かなくなる。
土煙の中に沈むその姿は、もはやただの巨大な肉の塊にしか見えなかった。
激しい息遣いと血の臭いだけが森に残る。
「……倒した、のか?」
ナオトは弓を下ろし、膝から力が抜けていくのを感じた。
「……ふぅっ……危なかったですね、ナオトさん」
その小柄な背中に、確かな安堵と誇りが漂っていた。
ルナも小剣を構えたまま、慎重に熊の亡骸へ近づく。
数瞬見つめた後、静かに頷いた。
「……動きません。完全に絶命しています」
ナオトはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて力が抜けたように大きく息を吐いた。
「……助かった。本当にありがとう、ボニー」
振り返ると、ハンマーを肩に担いだボニーがこちらを見ていた。
小さな体に不釣り合いな鉄塊を支えながらも、表情はどこか気まずげだ。
「……すみません、ナオトさん。隙をうかがっていたせいで、助けに入るのが遅くなってしまいました」
普段の元気な声とは違い、少し俯いたような声色だった。
ナオトは首を横に振った。
「いや、あれだけの獣だ。下手に飛び込んでたら、お前がやられてたかもしれない。結果的に仕留められたんだ。お前のおかげだよ」
その言葉に、ボニーは一瞬だけ目を丸くした後、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
ナオトはすぐにルナへ視線を移す。
「ルナ、お前こそ大丈夫か?熊に吹き飛ばされてたろ」
ルナは小剣を鞘に収めながら、静かに首を振った。
「いえ。あの瞬間、後ろに飛んで衝撃を逃がしました。受け身も取りましたので、怪我はありません」
「そうか……なら良かった」
だが次の瞬間、ルナの視線がナオトの手元に向いた。
「……兄様、その手……」
弓を放ち続けた右手の指先は赤く腫れ、皮がめくれて血が滲んでいた。
「……はは。慣れないことを無理にやったせいだな。連射なんてするもんじゃない」
ボニーが慌てて駆け寄り、ナオトの手を取る。
「ちょっ、これはすぐに処置しないと!」
ルナが腰のポーチから清潔な布を取り出し、ナオトの手を優しく包み込む。
「とりあえず、ここで応急処置だけでも」
彼女の細やかな指先は冷静で、無駄な力が入っていない。
「しっかり押さえていますから……小屋に戻ったら、きちんと治療をしましょう」
「……ああ、頼む」
ナオトは苦笑いを浮かべながら、布で巻かれた手を見下ろした。
「よしっ、じゃあ帰りましょう!」
元気な声を上げたのはボニーだった。
彼女は躊躇なくヤングベアの死骸に近づくと、その巨大な首筋に縄を巻きつけ、ずるずると引きずり始めた。
「お、おい待て、ボニー!?それ持って帰るつもりか!?」
ナオトは思わず目を見開いた。
「もちろんです!狩った獲物は持ち帰るのが当然の権利です! 肉も毛皮も骨も、全部役に立ちますから!」
ボニーは胸を張り、縄を握る手をぎゅっと引き締める。
その小さな体に見合わぬ怪力で、巨体が土を擦りながらずるずると動いていく。
「……はは、マジかよ」
ナオトは半ば呆れ、半ば感心して頭をかいた。
そのやり取りを見ながら、ルナは静かに小剣の柄を握りしめた。
あの時、もしボニーがいなければ、ルナ一人ではナオトを守れなかった。
もう大切な人を失いたくない。
「……もっと強くならないと」




