第二章10『新たな居候』
朝靄が立ち込める小屋の裏手。まだ空気はひんやりとしていて、草木の露がきらめいていた。
澄んだ空気の中、ルナは剣を握り、静かに呼吸を整えていた。
そこへメルが駆け寄ってくる。普段は明るく元気な彼女だが、この時ばかりは真剣な眼差しをしていた。
「ルナ!お願い、手合わせしてくれない?」
「……急にどうしたんですか?」
「今日、王都に向けて旅立つんだ。武術大会に出場するために!」
その声はいつもの朗らかさではなく、胸の奥から燃え上がる決意に満ちていた。
ルナは驚いたように彼女を見つめ、それから小さく微笑んだ。
「……なるほど。旅立つ前の手合わせですね」
「うん!ルナと戦えたら、きっと自信になると思うの!」
ルナは静かに頷き、剣を正眼に構える。
「分かりました。お相手いたします」
「ありがとう!本気でいくよ!」
二人は地面を蹴り、間合いを詰めた。
最初に動いたのはメルだった。鋭い踏み込みから、右の拳が弾丸のように突き出される。
ルナは瞬時に剣を動かし、刃ではなく剣の腹で拳を受け止めた。
金属と肉体がぶつかる音が朝の空気を切り裂き、衝撃で二人の髪がふわりと揺れる。
「いい踏み込みです。でも、甘いです」
ルナは拳を受け流すと同時に体をひねり、剣先を突き出した。
メルは咄嗟に身を屈め、そのまま低い姿勢から足払いを繰り出す。
「っ!」
ルナは後ろへ跳び、足をかわした。地面に草が散り、メルの蹴りの勢いが伝わる。
メルは体勢を戻し、笑みを浮かべた。
「やっぱりルナは速い!でも負けない!」
「ルナも負けません」
次の瞬間、メルは連撃を繰り出した。拳、肘、蹴り。体全体を武器にし、目まぐるしい速さでルナへと襲いかかる。
ルナは剣をしならせるように振り、時に受け流し、時に鋭い突きで牽制する。
剣筋は風を切り、メルの拳がそれに弾かれて火花のような衝撃が散った。
しばし互角の攻防が続いたが、やがてルナの連撃に押され、メルは一歩、二歩と後退した。
「くっ……やっぱり速い……!」
「まだ終わってないです」
ルナの声は冷静そのものだ。
メルは荒い息を整え、額の汗を拭うと、大地を蹴った。
拳を繰り出す寸前、彼女の瞳が鋭く光る。動きが速く、予測がつかない。
ルナは即座に剣を構え直す。だがその瞬間、メルの拳が鋭く軌道を変え、ルナの頬をかすめた。
「っ……!ここからが本番です」
ルナの剣が一段と速さを増す。鋭い突きがメルの肩をかすめ、踏み込みと同時に振られる一撃が彼女の視界を覆った。
メルは歯を食いしばり、その剣筋に拳を叩き込む。
甲高い音が鳴り響き、互いの力が拮抗する。
「いくよ、ルナ!」
鋭い拳が突き出されると、その瞬間、拳の周囲にきらめきが走った。
淡い光が火花のように散り、風の渦を巻き込んで拳を押し出す。
メルの打撃は肉体の力だけではなく、何か見えない力に押されるように勢いを増していた。
ルナは剣を横に払ってその拳を受け止める。
「っ……重い!」
金属音のような衝撃が響き、剣と拳の間に火花のような光が散った。
メルは攻撃の手を緩めない。拳、肘、蹴り——動きのたびに光の尾が残り、衝撃が風を裂いていく。
「はぁっ!」
回し蹴りが振り抜かれると、その軌跡に閃光が走り、空気が震える。
ルナは目を細め、剣を翻す。
「まだまだ!」
再び地を蹴ったメルの拳が唸りを上げる。その瞬間、光の尾が弾け、衝撃波がルナの前髪を揺らした。メルの叫びとともに蹴りが放たれる。右からの蹴りをルナが受けると、続けざまに左足で回し蹴り。
それも防がれたが、メルは止まらなかった。
最後に体を低く沈め、渾身の跳び膝蹴りを繰り出す。
ルナは驚きながらも剣を構え直し、間一髪で受け止めた。衝撃で剣が唸り、二人の身体が離れる。
やがて二人は同時に間合いを取った。胸を上下させ、大きく息を吐く。
「なら、こちらも……」
ルナの手のひらから水滴が滲み出すように現れた。
その小さな水の粒は瞬く間に彼女の周囲に散り、淡い光を反射して宙に舞う。
ルナは手を払うようにして水を弾いた。
「っ!」
メルの視界に、水の粒が閃きながら飛び込み、一瞬の死角を作る。
メルは慌てて身を翻すが、その隙にルナは横合いから踏み込み、剣を突き出す。
刃は寸前で止まり、メルの頬に冷たい風をかすめただけだった。
メルは息を荒げながら、しかし目を輝かせて笑った。
「……はぁ……ありがとう、ルナ。すごくいい鍛錬になったよ!」
「こちらこそ。きっと大会でも勝てます」
メルは汗だくの顔でにっと笑い、拳を突き出す。
「うん!絶対いい報告するから!」
ルナは剣を納め、彼女の拳にそっと拳を合わせた。
朝日が二人の額を照らし、煌めく汗が光った。
「……なあ、パメラ」
ナオトは膝にちょこんと座る小さな人形に目を落とし、問いかける。
「なんでメルは剣に素手で対抗できるんだ?普通なら一発で切られて終わりだろ?」
「妾が見たところ、あの娘は肉体に魔力を纏わせておる。剣の刃は鋭いが、あれも物理の衝撃の一つにすぎぬ。体の表層に魔力を巡らせれば、打撃の瞬間に衝突を散らし、刃を鈍らせることができるのじゃ。攻撃の時は魔力を流し拳の威力を上げ、防御の時は魔力の壁を作っておるのよ」
ナオトは感心したように息を吐く。
「なるほどな……だからメルは剣に素手で対抗出来るってわけか」
「そういうことじゃ」
ナオトは横目でパメラを見る。
「俺も練習すれば出来るようになるかな?」
「お主の魔力量、あまりに少なすぎるわ。他の人間と比べても一割か、下手をすればそれ以下しかないじゃろう」
「うっ……そんなに少ないのか」
ナオトは気まずそうに頭をかいた。
パメラは青いガラスの瞳を鋭く光らせ、尊大に告げる。
「少量ゆえに粗末というわけではない。むしろ質は良い。だが、このままでは本領を発揮する前に枯渇してしまう。ゆえに、妾が直々に訓練を施してやろう」
「訓練……って、どうするんだよ」
ナオトは怪訝そうに眉をひそめる。
パメラはふわりと宙に浮かび、小さな両手を掲げた。
白い指先には、透明な小さな結晶がきらりと浮かび上がる。
「これは幼子でも遊びながら出来る初歩の訓練じゃ」
パメラは結晶を抱えるように胸の前に掲げた。
「妾がやってみせるゆえ、よく見ておれ」
すっと呼吸を整えたその瞬間。
結晶はまるで朝露に陽が差したかのように、淡く、しかし確かな光を放った。
きらめく光が小さな影を地面に映す。
「さあ、今度はお主の番じゃ。胸の奥から指先へ、流すように……遊びだと思って気楽にやってみよ」
ナオトは結晶を受け取り、両手で包む。
「遊びだと思え、か」
深呼吸を一つ。額に薄く汗がにじむ。
意識を集中すると、結晶がかすかに熱を帯びたような感覚がした。
「……っ!」
瞬間、結晶がぱちっと小さな光を弾いた。
一瞬だけ、淡い輝きがナオトの手の中で花火のように灯る。
「……今、光ったか?」
ナオトがそう呟いた直後、全身にずしりとした重さがのしかかる。
指先が痺れ、呼吸が荒くなる。まるで長距離を走り切った後のような疲労感に膝が揺れた。
「たったこれしきでその疲労……やはりお主は魔力の扱いに関しては赤子同然じゃ」
ナオトは結晶を置き、肩で息をしながら顔をしかめた。
「……おいおい、これが子供でも出来る遊びだって?冗談だろ……」
パメラは小さな体を揺らし、まるで笑いを堪えているように見える。
「妾の目には赤子が一歩歩いたようにしか見えぬ。だが安心せい、そこから育てるのが妾の役目じゃ」
―――
朝の訓練が終わり、ナオトは軽く伸びをして深呼吸した。
「さて、そろそろ行くか」
「妾はここで留守番をしておる」
パメラは小さな体をふわりと浮かせ、部屋の中へ戻っていく。
「喋る人形が街中にいたらパニックになるもんな」
ナオトは苦笑いしながら小さく頷く。
「よーし、あたしも王都へ出発するね!武術大会、思いっきり頑張ってくるから!」
「頑張ってください」
「途中で道に迷わないようにな、メル」
「今度は大丈夫だよ〜!」
ナオトは足を踏み出し、ルナと共にアークロス市街へ向かう。
「それじゃあ、出発だ」
朝の光が二人の影を長く伸ばし、街への道を照らしていた。
―――
少女は元気いっぱいに街道を駆け抜け、王都への旅路に向かう。
朝の光が木々の葉を照らし、風が髪を揺らす。
「あ〜!本当に楽しかった〜!」
走りながら、この数日の出来事を思い出す。
森で迷子になり、空腹で倒れたところをナオトとルナに助けられたこと。
トーヴィアさんの畑の収穫を手伝ったこと。
ルナと一緒にひったくり犯を追いかけたこと。
初めて温かいお風呂に入って、整体してもらったこと。
小屋の前に畑を作ったこと。
アリアと皆でご飯とお菓子を食べて、女子トークをしたこと。
幽霊屋敷を探索して、盗賊を退治したこと。
ナオトとパメラをからかったこと。
「王都に行ったら、もっといろんな人と会えるんだ……武術大会で優勝したら褒めてもらえるかな」
歩く足取りに合わせて、体も軽くなるような気がした。
「よーし、頑張るぞ!」
元気いっぱいの声を上げると、朝の道に小さく響いた。
「……それにしても……『メル・フェイリン』って名前、まだ慣れないや……」
少女は王都へ向けて街道を駆け抜けていった。
―――
ナオトとルナはアークロス市街に入ると、鍛冶屋『鉄の手』の前で足を止めた。
「ルナ、ボニーに頼んでいた弓矢の改良が進んでいるか確認しに行こう」
「そうですね。先日の強盗との戦いで傷んだ小剣の手入れもお願いしたいです」
ナオトは荷物を肩に掛けながら頷いた。扉を押し開けると、店内から元気な声が響いた。
「いらっしゃい!あら!ナオトさんにルナちゃん!」
店主の明るい声に、二人は安心して店内に足を踏み入れる。鉄の匂いと煤の香りが漂い、金属を叩く音が断続的に響く。
ナオトは店主に話しかける。
「以前ボニーにお願いした弓矢の改良の件で伺ったんですが……」
「ルナは小剣の手入れをお願いしたいです。傷んでしまっているので」
二人が店主と話をしていると、奥から突然声が飛び込んできた。
「ちょっと待て、ボニー!」
「うるさい!お父さんには分からない!」
どうやらボニーと父親が口論しているらしい。
「……随分と激しいな」
ナオトは眉をひそめ、扉の隙間から中を覗く。
「心配ですね。ちょっと話を聞いてみましょう」
「すみません、いったい何があったんですか?」
店主は少し疲れた表情で答えた。
「心配かけてごめんなさいね。最近ちょっと色々あって、ボニーも旦那も頭に血が昇ると人の話を聞かなくなるから……」
すると、奥の部屋から突然、ボニーが飛び出してきた。
「あ、ナオトさん!」
ナオトは少し驚き、目を細めてボニーを見る。汗をぬぐいながら、彼女は真剣な表情で立っていた。
ボニーは小さく息を整え、少し考え込むように目を伏せる。
そして、顔を上げると、真っ直ぐナオトを見つめて言った。
「ナオトさんのおうちに、居候させてください!」
「いきなり居候って、どういうことだ?」
ボニーは両手を小さく握りしめ、必死にお願いするような仕草を見せる。
「父さんと喧嘩ばかりして……もう、うんざりしました。……だから、ナオトさんのところで、少しだけ……!」
「ちょっと待て、ボニー。勝手に居候とか、そういう話は店主に確認しないとな……」
店主は少し考え込み、目を細める。鉄の匂いと火の熱でほてった顔に、やや疲れた様子が混じった。
「うーん……ナオトさん、ボニーも、旦那も、ちょっと距離を置いた方がいいと思うの。私からもお願いします」
ナオトは軽くうなずき、ボニーの方へ目を向ける。
「わかった。店主がそう言うなら、少しの間だけだぞ」
ボニーは嬉しそうに小さくジャンプし、元気よく手を振った。
「はい!ありがとうございます、ナオトさん!よろしくお願いします!ルナさん!」
ルナは苦笑しながらナオトに小声で言う。
「……また、騒がしい日常が始まりますね」
「まあ、面白そうだし、少しくらいならいいか」




