第二章7『幽霊騒ぎ』
夕暮れ、小屋の中には香ばしい匂いが広がっていた。
ナオトがスープを鍋ごと机に置くと、ルナとメルが焼いた肉や川魚を並べ、賑やかな夕食の準備が整う。
「おぉ、今日は豪華だな」
「畑仕事のあとに食べるご飯は最高!」
ナオトが笑うと、メルが胸を張って言う。
ルナは小さく微笑みながら木の皿を配る。
「はい、アリアさんもどうぞ。遠慮なく召し上がってください」
「わぁ!ルナちゃんありがと!」
アリアは目を輝かせ、さっそくスープを口に運ぶ。
「ん……あったかくて……美味しいです!こうしてみんなで食べると特別に感じます」
「はい。ルナもとても楽しいです」
夕食の片付けが始まる。
ルナとメルは鍋を拭いたり、机を整えたりしている。
アリアは積み上げた皿を抱え、水場へ運ぼうと歩き出した。
「よいしょ……あ、あれっ!?重い……!」
アリアはバランスを崩し、皿の山が宙に舞う。
「きゃあっ!」
「うわっ!」
倒れ込んだアリアは、真っ直ぐナオトにぶつかり、そのまま押し倒す。
ひらひらと宙を舞った皿を、ルナとメルが素早く手を伸ばしてキャッチした。
「……セーフ!」
「落ちなくてよかったです」
床に倒れたまま、アリアはナオトの胸の上で目を見開く。
至近距離で見つめ合い、みるみるアリアの頬が赤く染まっていく。
「な、ナオトさんっ……ご、ごめんなさい!」
「お、俺は大丈夫……」
アリアは慌てて立ち上がろうとしたが、裾が椅子の脚に引っかかってしまった。
「きゃっ!」
再びバランスを崩し、今度は尻もちをつくように転んでしまう。
その拍子にスカートの裾がひらりとめくれ……。
「……っ!」
「〜~~っ!!!」
すぐさまアリアは慌てて裾を押さえ、床にぺたりと座り込む。
「み、見ました!?ナオトさん、今、絶対……!」
「見てない!見てないから!」
「う、嘘ですっ!絶対に嘘っ!」
ルナは小さくため息をつきながら、皿を机に置いた。
「……アリアさん。クマさんパンツは、ちょっと子供らしすぎるのでは?」
「~~~~~っ!?!?!?」
メルは吹き出しそうになりながら、皿を胸に抱えてにやにや。
「ルナ、言うねぇ~!でも確かに、ピンクのクマさんは可愛すぎるかも」
「な、なっ……っ!!メルちゃんまでっ!!」
「と、とにかく!皿が無事だったのが一番だ!」
ナオトは頭をかきながら、必死に話題を変えようとした。
―――
片付けが終わり、小屋の雰囲気も落ち着いた頃、ルナが立ち上がり、木の小箱を取り出した。
「トーヴィアさんに教わったお菓子を作ってみました。よかったら皆さんで」
「おっ、いいじゃん!」
「わぁ、手作りですか!?」
箱の中には、小麦粉を焼いて蜂蜜で甘みをつけた素朴なクッキーが並んでいる。
ナオトがひとつ口に入れると、さくっとした軽い食感とほのかな甘さが広がった。
「おお……うまいな、これ。ほっとする味だ」
「嬉しいです。少し不格好ですけど、頑張って作ったので」
「そんなことないよ!あたし、こういうの大好き!」
「これ、教会に持っていったらみんな喜ぶだろうなぁ……」
メルが笑顔でかじりつくとアリアもにこにこしながら呟く。
お菓子を食べ終えたころ、アリアがそわそわと落ち着かない様子で口を開いた。
「そろそろ帰りますね。……一応わたし神官見習いなので、男の人のお家に泊まるわけには……」
ルナがすぐに首を振り、真剣な顔で言う。
「夜道は危険です。……兄様の隣には、ルナが寝ますので安心してください」
「おいおい、言い方!」
ナオトが苦笑しながらルナの頭を軽く撫でる。
「変な誤解されるだろ。アリア、気にしなくていいから泊まってけよ」
「……ナオトさんがそこまで言うなら。お世話になります」
アリアは一瞬迷ったが、ナオトの言葉に頬を赤くして小さく頷いた。
メルがぱちんと手を打ち、満面の笑みを浮かべる。
「決まりだね!みんなで寝れば楽しいよ!」
こうしてアリアも加わり、小屋の夜はさらに賑やかさを増していった。
ナオトが布団に潜り込むと、あっという間に静かな寝息が聞こえてきた。
「……兄様、寝ましたね」
ルナが囁くと、アリアとメルもくすっと笑う。
「ナオトさん。やっぱり働き疲れてたんですね」
「うん。今日は鍛冶屋のお手伝いだったしね」
自然と女子たちの声は小さく、秘密を分け合うみたいにトーンが落ちていく。
メルが枕を抱えながら、にやりと笑った。
「ねぇねぇ、ルナはナオトっちとずっと一緒にいるんでしょ?どうなのさ?」
「ど、どう……とは?……兄様は兄様です」
ルナはそっけなく答えたが、布団の端をきゅっと握る手が正直だった。
メルとアリアが目を合わせ、にやにや笑いをこらえる。
「ふふっ、ルナってわかりやすい~」
「そうですね、ルナちゃん可愛いです」
ルナは顔を赤くしながら背を向けてしまったが、その耳まで真っ赤になっているのは隠せなかった。
ルナは振り返り、じっとアリアを見つめる。
「……そ、それならアリアさんはどうなんですか?」
「えっ、わ、わたし!?」
突然の矛先に、アリアは目を丸くして慌てふためいた。
「お、いいねぇ!アリアはナオトっちのこと、どう思ってるの?」
「そ、そんな……! そりゃあ、ナオトさんは優しいですし、頼りになりますし……」
アリアは布団の上で手をぶんぶん振って真っ赤になる。
ルナがじっと追い打ちをかけるように見つめると、アリアはさらに焦って声を上ずらせた。
「な、ナオトさんは……だ、大事な人ですけど……そ、そういうのじゃないです!……ナオトさんのことを考えると、背中がムズムズして……」
その独特な表現に、メルが思わず吹き出し、ルナも小さく目を見開く。
「……なんというか、ドキドキというか……体の奥の方が……」
アリアは顔を赤くして布団に潜り込み、言葉を詰まらせた。
「……わたし……ナオトさんのこと、好きなのかな」
「アリア、表現が独特すぎるよ~」
メルが笑いをこらえながら肩をすくめると、アリアは布団に潜り込んでしまった。
ルナは小さく肩をすくめ、少し微笑んだ。
「……素直なんですね、アリアさん……ですが……」
ルナは微妙に唇を引き結びながらも、何か心の中で納得したような表情を見せた。
「……ルナは第一夫人の座は譲りません」
「えっ……!?」
メルとアリアは同時に目を丸くする。
ルナは真剣な顔をアリアに向け、少し胸を張った。
「兄様の隣で、ずっと支える役目は……ルナのものです」
「そ、そうなんだ……!でも……でも、頑張るよ、わたしも!」
「ふふっ、これで恋のバトル開始ってわけか~?」
メルは楽しそうに肩を揺らして笑う。
小屋の中は、笑いと赤面とちょっとしたドキドキが混ざった、賑やかで温かい夜の空気に包まれていった。
―――
朝、小屋で朝食を済ませたナオトたちは商業ギルドへ向かう準備を整えた。
街に着き、アリアと別れ、ナオトが商業ギルドに顔を出すと、カレンの部屋に通された。
「来たわね。今日の依頼は少し特別よ」
ナオトは軽くうなずき、カレンの手元を見る。
「商業ギルドからの依頼よ。幽霊が出るという屋敷の調査をお願いするわ。」
ナオトは眉をひそめる。
「幽霊……だと?」
「ええ、夜になると無人のはずの屋敷の二階から白い人影が見えたり、謎の囁き声が聞こえたりするらしいわ。扉や窓が勝手に動くこともあるそうよ。原因を突き止めなさい」
ナオトは書類を握りしめ、決意を固めるように小さくうなずいた。
「わかった。俺たちで確かめる」
こうして、ナオト、ルナ、メルの三人は幽霊騒ぎの屋敷へ向けて街を歩き出した。
「東部に来るのは初めてか……」
街の東部へ向かう橋を渡り切ると、街並みの様子が少しずつ変わっていく。
石畳の道にはひび割れが入り、建物の壁には刃の跡や焼け跡が残っている。
「……戦争の跡が、まだこんなに残っているんですね」
ルナは静かに目を細め、瓦礫や崩れた壁を注意深く見て歩く。
メルは少し心配そうに周囲を見回す。
「ここ、スラム街って呼ばれてるところ……?雰囲気がちょっと怖いね」
「建物も崩れかけだ……この辺りに住む人は大変だろうな」
路地を進むと、住民たちの姿も見えた。
衣服はほつれ、表情には疲労と警戒心が混じっている。
子供たちは裸足で石畳の間を走り回り、時折大人たちが注意を促していた。
「気を抜くと危険そうですね……」
路地を進むと、スラム街の子供たちが三人に気づき、物欲しそうな表情で近寄ってきた。
「……お腹減ってるのかな」
ナオトはバッグからパンを取り出そうと手を伸ばす。
「兄様、やめてください」
「え、どうして?」
ルナが素早く手を止める。
ナオトは驚いてルナを見る。
ルナは真剣な表情でナオトに説明した。
「無闇に食べ物を渡すと、子供たちが争ったり、他の大人がやってきてトラブルになる可能性もあります。もちろん善意であげるのは分かりますが、ここで不用意に行動すると、子供たちの安全を損ねることになりかねません」
ナオトは少し肩をすくめ、納得した様子でパンをバッグに戻す。
「わかった……そうか、善意でも危険になることもあるんだな」
子供たちは少し離れた場所でこちらの様子をうかがうように立ち止まった。
「気をつけて進みましょう。屋敷まではもうすぐです」
スラム街の細い路地を抜けると、やがて目の前に問題の屋敷が現れた。
一見して、どこか異様な雰囲気を漂わせる二階建ての古い邸宅である。屋根の瓦はところどころ割れ、外壁には長年の風雨にさらされた跡がくっきりと残っている。塗装は剥がれ、木枠の窓は年月のせいか歪んでいた。
庭は手入れが行き届いておらず、雑草が生い茂り、枯れた花や倒れた小さな柵が散乱している。小道の石畳も割れて沈み、歩くたびに不気味な軋み音を立てる。
門はかろうじて閉まっているが、錠は錆びつき、開閉の度にギシギシと軋む音をたてた。塀の向こう側からは、かすかに腐葉土の匂いと湿った空気が流れてくる。
屋敷全体から漂うのは、長い間誰も管理していなかったような放置感。だが、どこか人の気配がまだ残っているような不思議な感覚もある。夜になれば、この静けさの中で白い人影が浮かぶのではないか、と想像させるような、そんな空気だった。
「……すごい雰囲気だな。確かに、幽霊騒ぎもあり得そうな見た目だ」
ナオトは少し身をすくめ、屋敷を見上げる。
ルナは眉をひそめ、細かく屋敷の構造を観察する。
「木の軋む音や外壁の歪み、影の出方も注意深く確認した方がよいです。物理的な原因で現象が起きている可能性もあります」
メルは少し緊張した声で呟いた。
「……なんだかドキドキしてきたね」
三人は息を整え、屋敷の門をゆっくりと押し開ける。
埃っぽい空気が鼻を突き、床板は歩くたびにギシギシと軋む。壁には古い絵画が掛けられているが、どれも色あせ、額縁も歪んでいる。窓から差し込む薄暗い光で、部屋の影が揺れ、屋敷全体に不気味さを増していた。
やがて二階へ続く階段にたどり着く。ナオトが慎重に先頭を歩き、ルナとメルが後を追う。
階段を上りきり、左手の扉を開けると、埃っぽい古書と巻物がぎっしり詰まった棚が並ぶ静かな空間が広がっていた。
床の一角に椅子があり、その上に一体の西洋人形が置かれている。散乱した書類や本とは対照的に、人形だけは驚くほど綺麗な状態を保っている。白い顔に赤い頬、緻密に描かれた瞳が、書庫の薄暗い光に不気味に反射している。
「……気になるけど、まずは屋敷全体の調査を優先だな」
屋敷内の探索は慎重に進められたが、特に不可解な現象は起こらず、三人は静かに調査を続けた。廊下を歩き、部屋の中を確認し、窓の外や床下も目を配る。しかし、風で揺れるカーテンや床板の軋み以外に、幽霊らしき存在の気配は感じられなかった。
ナオトは少し肩をすくめ、ルナとメルに向かって言った。
「……まさか、幽霊の正体は風で揺れるカーテンでしたってオチじゃないよな……まぁ、何事もなかったみたいだし、そろそろ帰ろうか」
ルナは少し立ち止まり、鼻をひくひくと動かす。
「……兄様、少し待ってください……この屋敷の中、人がいる匂いがします。生きた人間の匂いです」
メルも慌てて辺りを見回す。
「えっ、人?幽霊じゃなくて……?」
ナオトは口を引き結び、慎重に視線を巡らせた。
「なるほど、幽霊騒ぎって言うけど、もしかして人の仕業かもしれないな」
ルナは微かな匂いをたどり、空気の流れや壁の隙間から漂う、人間特有の体臭を敏感に嗅ぎ分ける。ナオトとメルも慎重に後を追い、足音を立てないように進む。
二階の奥、かつて子供部屋だったと思われる一室の隅に不自然な影を見つけた。壁の一部が微かに開き、棚で目隠しされている。そこから、金属や革の匂いと人の体臭が漂ってくる。
「……あそこです、気をつけてください」
ルナは囁き、小剣を握り締める。メルも身構え、ナオトは扉の前に静かに近づいた。
隠し扉をそっと押すと、中には盗賊らしき数人の人間が潜んでいた。部屋は簡単な仕切りや家具で目隠しされ、金品を整理している様子だ。一人の男が袋を手にし、隣の仲間は机の上で金貨や宝飾品を数えている。さらに奥の影には二人が身を潜め、こちらに気づいていない。
「なるほど、幽霊騒ぎの正体はこいつらか。さて、どう対処するか……」
ナオトが小声で方策を練っているその時だった。
「相談は終わったか?」
不意に背後から声がした。振り返るより早く、大柄な男が手にした棍棒を振り下ろしてきた。
「……っ!」
ナオトは本能的に身をひねり、肩をかすめる寸前で攻撃をかわす。重い風切り音とともに棍棒が床を叩きつけ、埃が舞い上がった。
「兄様!」
ルナが叫び、小剣を構えて一歩踏み出す。
大柄な男は口元を歪めて笑う。
「ククッ……まさか俺たちの隠れ家を嗅ぎつけるとはな。だが運が悪かったな、ここで見たものは忘れてもらうぜ」
その声に呼応するように、隠し部屋から残りの盗賊らしき者たちが姿を現す。短剣を抜いた者、棍棒を振り回す者、それぞれが獲物を手にして迫ってきた。
ルナは小柄な身体を低く構え、鋭い目で敵を睨む。
「兄様に手を出させません!」
メルは拳を固め、気合を込める。
「よし、やるしかないね!」
ナオトは弓を手にし、素早く矢を番えた。
「……作戦は中止だ。正面から叩き潰すぞ!」
狭い二階の部屋で、三人と盗賊たちの戦いが幕を開けた。




