第二章4『街の小さな事件』
食後のお菓子を囲んで、しばし和やかな時間を過ごした後。
ナオトはふと畑のことが気になり、トーヴィアに尋ねた。
「ところで、畑って普段は一人でやってるのか?」
トーヴィアは少し困ったように微笑む。
「ううん、ほんとは父さんと一緒にやってるの。でも……最近、腰を痛めちゃって。今は奥の部屋で休んでるの」
「腰を……もしよければ、俺が見てみてもいいか?」
トーヴィアは驚いたように目を瞬かせる。
「え? ナオトさんって、治癒魔法できるの?」
「まあ、治癒魔法ってほどじゃないけど……ちょっとした治療ならできるんだ。力仕事で痛めた腰なら、少しは楽にしてやれるかもしれない」
トーヴィアは目を輝かせ、ぱっと笑顔を見せた。
「本当!? ぜひお願いしたいわ! 父さんもきっと喜ぶ!」
奥の部屋に通されると、布団に横たわる中年の男性がいた。
日焼けした肌と大きな手、がっしりした体つきは、長年農作業をしてきた証だ。
しかし、その表情は痛みに歪んでいる。
「……あんたが手伝ってくれた若者か。すまんな、娘に任せきりで……腰がもう、動かんのだ」
「気にしないでください。ちょっと腰、見てもいいですか?」
「見ても、って……あんた、治癒魔法が出来るのか?」
「まあ、整体って言うんですけど。腰の骨と筋肉のバランスを整えれば、少しは楽になると思いますよ」
父親は苦笑しながらも頷いた。
「……じゃあ、頼んでみるか」
「まずは力を抜いてください。息をゆっくり吐いて……はい、そのまま。少し足を曲げますね」
ナオトは父親の腰にそっと手を当て、深く息を吸った。
ぐっと脚を立て、腰の関節を支える。
固まった筋肉が指先から伝わってきた。
「だいぶ張ってますね。農作業で無理しました?」
「ああ……人手が足りなくてな。畑も広いし、つい若い頃みたいに体を動かしてしまったら……」
「なるほど。……じゃあ、いきますよ。少し音がしますけど、驚かないでください」
ナオトは体重をかけ、腰をゆっくりとひねった。
ぱきり、と小気味よい音が鳴る。
「うおっ……!? ……お、おお……!」
父親の目が大きく開き、驚きと共に声が漏れる。
「さっきまで重石みたいに痛かった腰が……少し軽くなったぞ」
ナオトは頷き、さらに肩や背中を順番に押し、関節を調整していく。
「血の巡りが悪くなって固まってるだけです。ここを押して……はい、息を吐いてください。……そうそう」
「……ふぅ……なんだ、体がぽかぽかしてきた……」
再び小さな音が響き、父親は深く息を吐いた。
ナオトは微笑みながら手を離した。
「これでしばらく無理しなければ、大分楽になるはずですよ」
父親は布団から身を起こし、試しに腰をひねってみる。
「おお……! さっきまでとは大違いだ。まだ完全じゃねえが、動ける……!」
トーヴィアはその様子を見て目を潤ませ、父親の手を取った。
「よかった……! ナオトさん、本当にありがとう!」
「恩に着るぞ、若いの。娘のためにも、まだまだ畑を守らにゃならんからな」
そう言ってから、ふと真剣な眼差しでナオトを見やった。
「若いの、あんたはただのギルド員じゃないな。……正直、驚いた」
「そんな大したもんじゃないですよ。ただ、ちょっと人の役に立てるくらいの経験があるだけです」
父親は深く頷き、力強くナオトの手を握った。
「なら、またこの畑に寄ってくれ。娘や家族にとっても、あんたみたいな人は頼りになる。」
「俺でよければ、また来ますよ。腰のことも、畑の手伝いも」
その言葉に、トーヴィアの顔がぱっと明るくなる。
「本当に……? すごく嬉しい!父さんの腰のこと、ずっと心配だったんだ。ナオトさんが来てくれるなら安心できる……」
彼女は胸に手を当て、少し照れたように笑った。
「それに、ルナちゃんもメルちゃんも一緒だし……みんなで来てくれるなら、うちもきっと楽しくなると思う」
「兄様はこう見えて役に立ちますから」
「なんか信用されてるんだか、されてないんだか……」
ナオトは苦笑して頭をかいた。
父親は豪快に笑い、娘に向かって言う。
「よかったな、トーヴィア。こんなに頼もしい奴らに出会えるなんて、めったにないぞ」
「うん……」
トーヴィアは小さく頷き、ナオトに緑の瞳を向ける。
その瞳には、ただの感謝以上の温かい信頼が宿っていた。
こうしてナオトは、思わぬ形で農家の一家と深く繋がりを持ち始めたのだった。
―――
アークロスの街、商業ギルド。
ナオトは受付で収穫の手伝いを終えたことを告げ、案内に従って奥の部屋に通される。
扉をノックし入ると、赤い髪を揺らしながらカレンが顔を上げた。
「戻ったのね。座りなさい」
ナオトは椅子に腰を下ろし、収穫の様子を簡潔に報告する。
「依頼は無事に終わったよ。農家の娘さんも喜んでくれてた。野菜も全部収穫し終わったし、特に問題はなかった」
カレンは帳簿にさらさらとペンを走らせ、確認の印を入れる。
机の上に小さな革袋を置き、ナオトに視線を向ける。
「これが報酬。数は確認しておきなさい」
「問題なさそうだ。ありがとな」
だがその瞬間、カレンの瞳がすっと鋭くなる。
「ひとつ忠告しておくわ。最近、この街の治安が悪化してる。街道沿いでのスリや盗賊、夜の裏路地での強奪……お金を持ち歩くときは、くれぐれも気をつけなさい」
ナオトは少し驚き、眉をひそめる。
「そんなに荒れてるのか?街の中なのに」
「人が集まるところには、必ず影ができるのよ」
カレンは真剣な声で続ける。
「特にあんたは目立つ。身分証もそうだし、妙に世話焼きな性格もね。油断したら、すぐ狙われるわ」
「世話焼きは余計だろ。でも、分かったよ。気をつける」
ギルドの重い扉を押し開け、ナオトは外に出た。
石畳の通りに出ると、すぐにルナとメルが駆け寄ってくる。
「兄様、おかえりなさい」
「どうだった? 依頼の報告、無事に終わった?」
ナオトは小さく頷き、手にした革袋を軽く持ち上げる。
「ちゃんと報酬も受け取った。……けどな、ちょっと気になる話をされた」
「気になる話?」
「最近、この街の治安が悪化してるんだと。スリや盗賊が増えてるらしい。金を持ち歩く時は注意しろって」
二人の表情がわずかに曇る。
メルは不安そうに声を上げた。
「えっ……街の中でそんなことあるの?」
「……賑やかな場所ほど、人に紛れる者が出ます。油断は禁物ですね」
ルナは冷静に答えるが、その耳は警戒するようにぴくりと動いていた。
その時――。
「きゃああっ! 誰か! 財布を盗まれた!」
通りの向こうから悲鳴が響いた。
視線を向けると、人混みをかき分けて走り去る犯人の影と、地面に崩れ落ちる女性の姿が見えた。
「……まさか、今まさに起きたってことかよ」
ナオトは小さく舌打ちし、すぐに判断を下す。
「ルナ! あの方向に逃げてる!」
「了解、追います」
ルナが鋭く声を上げ、そのまま風のように駆け出した。ライトブルーの髪が後ろへ流れ、しなやかな足取りで人混みを裂いていく。
「待って! あたしも!」
メルもすぐに続き、通りへ飛び出していった。
「お、おいっ!」
止める間もなく二人の背中は人の波に消えていく。
ナオトは短く息を吐き、倒れている女性へ駆け寄った。
「大丈夫ですか! ケガはありませんか?」
「だ、大丈夫です……財布を……盗まれて……」
女性は蒼白な顔で震えながらも、なんとか首を振る。
ナオトは安堵しつつも周囲に目を走らせ、警戒を解かない。
「安心してください。仲間が追いかけてます。すぐに取り返してきますから」
女性は潤んだ瞳で小さく頷き、震える指先を胸元に押し当てた。
ナオトはそっとその肩を支え、混乱する人波の中、逃げた方向をじっと睨みつける。
「……頼んだぞ、ルナ、メル」
石畳を蹴る靴音が、通りに鋭く響いた。
黒いフードの犯人は振り返りもせず、手にした財布を握りしめて人混みを縫うように逃げていく。
「逃がさない」
ルナは人と人の間をすり抜けつつ、ひたすら獲物を見失わぬよう食らいつく。
「待てって言ってんでしょー!」
後ろからメルも続く。
追われる犯人は路地へと飛び込む。
狭い通路に木箱や樽が乱雑に積まれている。
「どけぇっ!」
犯人が箱を蹴倒し、後続を妨害しようとする。
「そんなの邪魔にならない」
ルナは小柄な体で驚くほどの跳躍力を発揮し、箱の上を駆け抜ける。その軽やかさに周囲の人々が思わず目を見張る。
「くそっ……!」
犯人は舌打ちしながら速度を上げるが、呼吸は荒れ、足取りも次第に重くなる。
階段を駆け上がり屋根の上へ飛び出す。ひったくり犯は素早く瓦を踏みしめ、逃げていく。
ルナも屋上に跳び上がり、身を低くし滑るように追跡する。
やがて屋根の先に夕日に照らされた川面が目に飛び込んできた。
「その先は行き止まり」
追い詰められた犯人が屋根の端で立ち止まる。
しかし犯人は怯むどころか、不気味に口角を吊り上げた。
犯人は手にしていた財布を振りかぶる。
その瞬間、ルナは飛びかかり、犯人と組み合った。
「……女……?」
犯人の肩や腕に触れた瞬間、ふと違和感を覚える。
男だと思っていた相手の腕は、想像より細くしなやかで、小さな唇や細い首筋。
犯人のフードが少しずれて、金色の髪がちらりと見えた。間違いなく、女性だ。
「……っ!」
だが、一歩遅かった。財布が中を舞う。
ルナの目が見開かれた瞬間、隣の建物に待機していた人影が見えた。飛んでくる財布をキャッチしようと手を伸ばす。
「そんな……」
ルナが焦りで足を踏み出そうとした、そのとき。
軽やかな声とともに、メルが飛び出した。
壁を蹴って屋上の高さへ跳躍。空中で身をひねると、宙を舞う財布を見事にキャッチする。
「はい、いただきっ!」
メルはそのまま体を反転させ、屋上に軽やかに着地。膝で衝撃を吸収し、猫のようにしゃがみ込む。
「ちっ……計画が台無しじゃねぇか!」
そう吐き捨てると、犯人は突然川へと飛び込んだ。
「……っ!」
ルナが手を伸ばすが、その指先は届かない。
水しぶきを上げた犯人は、すぐに小舟に引き上げられた。
「……逃げられた……」
ルナは拳を握りしめ、夕暮れの川面を睨みつける。
小舟は流れに乗って、あっという間に遠ざかっていった。
だが、メルが高々と掲げた財布が、確かな成果を示していた。
「大丈夫、財布はちゃんと守ったよ!」
「……助かりました」
悔しさを押し隠しながらも、ルナは小さく笑みを返した。
ルナの胸には、犯人が女性だったことへの驚きと複雑な感情が、ほんのわずかに残っていた。
―――
ルナとメルが戻り、被害者の女性に財布を返した。
女性は「お礼をしたい」と申し出たがナオトは断る。
三人は街を歩きながらナオトの小屋へ戻る。
こうして街の小さな事件は解決されたのだった。




