第一章2『紫水晶の瞳の少女』
腰まで届く銀糸のような髪が光を受けて淡く輝き、紫水晶を思わせる瞳は、まっすぐに直人を見据えている。白を基調としたドレスには薄紫の刺繍がほどこされ、胸元と腰には同じ色合いの宝石がきらめいていた。裾から広がる布地は透けるように軽やかで、彼女の歩みごとにふわりと揺れる。どこか現実離れした神秘さと、少女らしい柔らかさが同居していた。
「……」
彼女は直人の前まで進むと、裾を摘まみ軽く膝を折り、礼を示した。続いて微笑む。その微笑みは王城の冷たい空気を一瞬にして和らげ、直人の胸をざわつかせた。
「ルシェ・ファリエ……シルヴァ・エンステ……」
透きとおる声が部屋に満ちる。しかしその言葉は直人にとって未知の響きであり、意味は一切わからない。まるで美しい旋律のように耳に残るが、内容は掴めない。
「えっと……ごめん、わからないんだ」
直人が困ったように肩をすくめると、少女は首をかしげ、そしてまた小さく笑った。その仕草があまりに自然で、なぜか見ているだけで安心感が広がる。
彼女は部屋の中央に置かれた椅子に向かい、直人の正面に静かに腰を下ろした。スカートの裾が音もなく広がり、紫の光沢が淡く波打つ。彼女は両手を胸の前に差し出し、直人に向かって「こちらへ」と促す仕草を見せる。
「俺の手を?」
戸惑いながらも直人はゆっくりと両手を前に出した。少女はその手をそっと包み込むように、自らの両手を重ねる。
指先から温もりが伝わってきた。思った以上に柔らかく、そしてかすかに震えているようにも感じられる。彼女の体温が直接流れ込んでくるようで、直人の心臓が急に速く打ち始めた。
目の前にいるのは、この世界で初めてまともに対面した少女。言葉は通じないのに、不思議と心の奥にまっすぐ触れてくるような感覚がある。彼女の瞳と視線が重なるたびに、胸の鼓動はさらに強まった。
少女は軽く目を閉じ、唇をかすかに動かして静かに呪文を唱え始めた。透明な声は微かに震え、まるで空気の中で淡い音の波紋を描くようだった。
胸のあたりに、ほのかな紫色の光がゆらりと宿る。光は次第に広がり、少女の両手に流れていく。その光は輝きを増し、やがて直人の両手にまで移動する。
直人は驚きとともに手のひらに伝わる温かさに息を呑んだ。触れた瞬間、柔らかく、ほんのり温かく、心までじんわりと満たされる感覚だった。
少女も微かに目を開け、淡く光る手元を見つめて少し驚いた。だがすぐに、再び微笑を浮かべ、直人の両手に自らの手を添えるようにして、耳のあたりまで軽く誘った。
「こう、ですか?」
直人がぎこちなく手を移動させると、温かさが耳元にまで届き、思わず顔が赤くなる。
少女は耳元に手を添えながら、柔らかく、しかしはっきりと声を出した。
「もしもし、聞こえますか? 私の名前はセレーネ・ヴァルセリアです。私の言葉が理解できたら、何か合図をしてください」
直人の頭に、先ほどまでは理解できなかった言葉が、すっと滑り込むように意味を持って届いた。不思議だ、けれど確かに理解できる。
直人は手でOKサインを示す。セレーネの紫水晶の瞳が大きく見開かれ、驚きで一瞬きらめく。
セレーネはわずかに頬を赤くし、軽く咳ばらいをした。その仕草は少女らしい印象を与える。
「手を、口と目に当ててください」
直人は少し戸惑いながらも言われた通りに手を移動させる。手のひらが口元と目元に触れると、温かさと微かな振動が指先に伝わった。
セレーネは目を閉じ、静かに息を吐くと告げる。
「これで、あなたも言葉を話せるようになり、文字も読めるはずです」
直人は胸に温かさを感じながら、目の前に置かれた小さなメモ用紙とペンに視線を移す。セレーネはゆっくりとペンを取り、文字を書き出した。
『あなたの自己紹介をお願いします』
直人はその文字を読み取り、驚きと喜びが混じった声を漏らす。
「読める、確かに読める!」
直人は小さく息を整え、少し照れながらも口を開いた。
「えっと、俺の名前は一ノ瀬直人です。年齢は25歳で、日本というところからやってきました」
直人が自己紹介を終えると、セレーネは改めてゆっくりと口を開いた。
「私の名前は、セレーネ・ヴァルセリアです」
彼女の声は静かで澄み、言葉ひとつひとつに品格が宿っていた。
「私は、この国の国王アルデリック・ヴァルセリアの娘です」
少女の立場の重さと気品が静かに伝わる。
セレーネは少し息を整え、視線を窓の外に向けた。透ける光の中で、その紫水晶の瞳は遠くを見つめているようだった。
「今日は十年に一度の、勇者召喚の儀式の日です」
直人は思わず身を乗り出した。
「勇者召喚?」
「はい。戦争の傷を癒やし、国の復興と、他国との関係を強化するために、この儀式が行われました」
その説明に、直人は深く頷き、同時に自分が関わる重大な出来事の予感に少し緊張した。
そのとき、扉が静かに開き、重厚な足音とともに応接間に衛兵が入ってきた。
「召集です。陛下より呼び出しの命が出ております」
直人は軽く息を整え、セレーネに視線を向けた。
「俺ですか?」
セレーネは微笑みながらも、その瞳には少しの不安と緊張が混ざっていた。
「ええ、行かなくてはなりません。」
直人は深呼吸をして立ち上がり、衛兵に従って部屋を後にした。
「女神よ」
その声はかすかで、それでいてしっかりとした祈りの力を帯びている。
「どうか、この儀式に関わる者たちに、導きと祝福を」
扉が閉まると、応接間にはセレーネの静かな呼吸と、淡い紫の光だけが残った。