第一章28『呪印に誓って』
意識が浮上し、まぶたをゆっくりと押し上げる。
天井の木目が視界に映り、ナオトは自分が宿の一室のベッドに横たわっていることに気づく。乾いた喉がひりつき、全身はまだ鉛のように重い。
「……生きてる……。どうなった……?」
掠れた声を漏らしながら、ナオトはゆっくりと上体を起こす。窓から朝日が差していた。まず確かめたのは自分の腕だった。恐る恐る肩から腕にかけて目を凝らす。
――黒い模様は、どこにもなかった。
あれほど生々しく広がっていた蜘蛛の巣のような痕跡は、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に消えていた。
「……消えてる……アリアが治療してくれたのか……」
安堵が胸を突き抜けた直後、脳裏に閃光のように別の記憶が甦る。
「そうだ、ルナは!?」
慌てて周囲を見渡したその瞬間、静かな声が返ってきた。
「こちらにおります」
はっとして振り返る。
そこには、ベッドの横に立つルナの姿があった。頬にわずかな紅潮を帯び、瞳にはいつもの光が戻っている。その表情は穏やかで、先ほどまでの苦悶に歪んだ顔とはまるで別人のようだった。
「ルナ……!大丈夫なのか?」
ナオトの声は震えていた。心配と安堵とが入り混じり、言葉が途切れそうになる。
ルナは一歩、彼のそばへ近づき、まっすぐに視線を向けて微笑んだ。
「……はい。旦那様のおかげで……倒れる前よりも調子がいいんです」
その声は澄み切っていて、聞く者の胸を温める力を持っていた。
ナオトの肩から力が抜け、深い息が漏れる。
「……そうか。それは……本当によかった」
ただその事実だけで十分だった。ルナが生きて、ここに立っている。それ以上に望むものはなかった。
ルナは胸の前でそっと手を重ね、少し潤んだ瞳でナオトを見つめていた。
「……旦那様……本当に――」
ルナが感謝の言葉を伝えようと口を開いた、その時……
コンコン、とノックの音。続いて扉が開き、ナディアとアリアが姿を見せた。
「ナオト!」
「目を覚ましたんですね!」
二人はほっとしたように駆け寄ってきた。アリアは安堵の表情を浮かべ、ナディアは腕を組んで呆れ半分の視線を向ける。
「……本当に無茶ばっかりして。自分が倒れたらどうなるか、少しは考えなさいよ」
「そうです。心配しましたよ」
ナオトは苦笑しながら片手を挙げた。
「……ああ、悪い。けど、あれしか方法が浮かばなかったんだ」
アリアは小さくため息をつきながらも、瞳の奥には尊敬の光を宿していた。
「無茶ですけど……そのおかげでルナちゃんは助かったんですから。本当によかったです」
ナディアも渋々うなずき、口元をわずかに緩めた。
「……まあ、結果オーライってことにしてあげるわ」
場が落ち着き、ほんの少し静寂が訪れたその時――
ぐぅぅぅぅ……。
空気を切り裂くように、ナオトの腹の音が響いた。
「そういえば、何にも食べてない!」
ルナはきょとんとした顔をし、アリアは「ふふっ」と肩を震わせる。ナディアは腰に手を当て、嬉しそうに微笑む。
「準備は出来てるわよ!食事会を始めましょう!」
食堂には食事会のための料理が温め直してあった。温かなスープの香りが立ちのぼり、焼きたてのパンと香ばしい肉料理が並ぶ。
椅子に腰掛けたナオトは、思わず深く息を吸い込んだ。
「……いい匂いだな」
「ふふ、頑張ったご褒美です」
アリアが微笑む。
ルナは椅子を少し近くに寄せ、ナオトの皿にスープをよそった。
「旦那様、熱いので気をつけて」
「ありがとう、ルナ」
彼女の笑顔はどこか柔らかく、先ほどまで病に侵されていた影は微塵も見えない。その姿にナオトの胸は安堵でいっぱいになった。
食事が始まると、自然と笑い声が絶えなくなった。
――ただ一緒に食卓を囲む。
それだけのことが、こんなにも温かく、こんなにも幸せだとは。
ナオトはパンをちぎりながら、目の前の仲間たちを一人一人見渡した。
「……本当に、こうして皆で食べられるのが一番だな」
みんなで囲む食卓は、これまでの苦しみや不安を忘れさせる、ほんのひとときの安らぎだった。
―――
アークロス郊外の小屋に戻ると、ナオトは真剣な顔で話し始める。
「……ルナ、どうしてもやりたいことがあるんだ」
「やりたいこと……って、何ですか?」
ルナが首をかしげる。ナオトはにやりと笑う。
「風呂だ。もう何日も入ってない。川から水を汲んできて、湯を沸かして、風呂桶にお湯を張る。今日こそゆっくり風呂に入りたい!」
「……かしこまりました」
ナオトが川に水を汲みに行く間に、ルナは手際よく火を起こす。
ルナにはゆっくり休むよう言ったのだが、体力が有り余ってるらしい。アリアが治癒魔法をかけまくったせいだろうか。
大鍋でお湯を沸かして風呂桶にお湯を張る。ナオトは何往復も水を汲みに行くが、風呂のためなら苦にならない。やがて風呂桶いっぱいのお湯が溜まった。
ルナはそっと横で見守りながら、ナオトが湯加減を確かめるのを見つめる。
「熱すぎるといけないからな……ちょっと調整しないと」
ナオトはお湯を手で触りながら、微妙な温度を確かめる。
「よし、ちょうどいい……」
ルナには席を外してもらい服を脱ぎタオル一枚を腰に巻く。手桶を使い頭からざぶんとお湯をかぶる。
「最高に気持ちいい……日本人ならこれだよ……」
「……お背中流します」
「……ルナ!?まさか……」
ルナの声に振り返るといつも通りのワンピース姿。
決してガッカリなどしていない。
「……思いっきり頼むぞ」
ルナは柔らかい手に石鹸をとり、ナオトの背中に泡をつける。最初は軽くこするように、次第に力を入れて丁寧に流していく。
「……痛くないですか?」
「大丈夫だ。もっと強くてもいいぞ、ルナ」
ルナは小さな笑みを浮かべながら、静かにナオトの背中を洗い続ける。
「……旦那様、もう少し力を入れますね」
「うん、頼む」
ナオトは目を閉じ、背中を預けながら静かに呟く。
「……ありがとう、ルナ……」
ルナは背中を洗い終わるとそそくさと小屋に入っていった。
ナオトは風呂桶に手をかけてゆっくりと体を沈める。湯の温かさが全身を包み込み、日頃の疲れを溶かしていくようだった。
ナオトが風呂から上がり服を着ると、ルナも風呂に入りに行った。
風呂から上がったルナは初めての風呂に興奮していた。
「体の奥まで温まる感じ……不思議です。」
「気に入ってくれたようで良かったよ」
湯上がりのルナは、まだ頬が赤らんでいて、濡れた髪をタオルで軽く押さえていた。ほんのり漂う石鹸の香りと、ほてった肌の輝きが、いつもの可憐な姿とはまた違う魅力を纏わせている。
ナオトは寝床に腰を下ろし、湯の心地よさにぼんやりと目を閉じていたが、ふと気配を感じて横を見る。そこに、そっと腰を下ろすルナの姿があった。
「旦那様……」
上目遣いで見つめられ、ナオトは少し戸惑う。
「どうした、ルナ?」
ルナは両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、少し迷うように言葉を探す。
「……旦那様に助けていただいたのに、恩返しもできていません」
ナオトは慌てて手を振る。
「そんなこと気にしなくていい。俺はしたいことをしただけだから」
だがルナは首を横に振る。その頬はまだ湯気の余韻で赤く染まっていた。
「いえ……ルナの気がすみません……横になってください」
唐突な言葉にナオトの心臓が跳ねる。
「えっ……な、なんで横に……!?」
ルナは一歩も引かない。むしろ穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくり繰り返す。
「横になってください」
ナオトの頭の中に一瞬、不埒な想像がよぎり、耳まで赤くなる。
「お、おい……ルナ……っ」
ルナは首をかしげ、真っ直ぐに告げる。
「整体をいたします。旦那様、お疲れでしょう?」
一瞬の沈黙の後、ナオトは深々と息をつき、額に手を当てた。
「……お前なぁ……驚かせるなよ」
それでも言葉とは裏腹に、うつ伏せになるナオトの口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「では……始めます」
ルナはナオトの背中に両手をそっと当てた。慣れない手つきで肩から背筋にかけて指を滑らせ、見よう見まねでこわばりを探りながらほぐしていく。ぎこちない指先だが、そのひとつひとつに、彼女の真剣さと気持ちがこもっていた。
「……ルナは、付き人失格です」
小さな声が、静かな小屋の中に響いた。ナオトは少し驚き、振り返ろうとしたが、ルナが押さえるように背に手を置いたまま続ける。
「旦那様や皆様に、迷惑をかけてしまいました……」
「そんなことない。迷惑だなんて思ってないし、いつも掃除や料理を頑張ってくれてるじゃないか」
「……孤児院には、ルナよりずっと掃除も料理も上手な子がいます」
その声には諦めに似た響きがあった。ナオトは少し間を置き、別の言葉を探した。
「狩りだってしてくれただろう。俺には真似できないことだ」
「ルナよりも力が強くて、護衛の訓練をきちんと受けている子がいます」
その言葉に、ナオトは言葉を詰まらせた。背に当たるルナの小さな手の温もりだけがじんわりと広がっていく。
「ルナが出来ることは他の子たちはもっと上手に出来ます……ルナには、特別なことなんて、何も出来ないんです」
吐き出すように呟かれたその声は、細く震えていた。
「それに……ルナは月狼族です。人間とは違う耳と尻尾があって……隷属の呪印まで刻まれていて……力も弱くて、病気がちで……体も小さくて……女性としての魅力もなくて……。そんなルナと一緒にいると、旦那様が偏見の目で見られるかもしれません……ルナは付き人失格です」
……旦那様は優しいから、きっとルナのことを引き止める。いつも正直で真っ直ぐで、誰よりも温かい。だからルナのことを見捨てたりはしない。けれどそれは旦那様にとって本当の幸せではない。もっとふさわしい付き人がいるはず。
……旦那様に甘えてはいけない……
涙を堪えながら、ルナは自分に言い聞かせるように心の中で繰り返した。
その瞬間、ナオトがぐっと両腕に力を込めて、うつ伏せの姿勢から上体を起こした。動きは強く、どこか苛立ちすら含んでいる。
その勢いにルナは思わず尻もちをつく。
「だ、旦那様……?」
驚いて顔を上げるルナの目に、いつもより鋭い光を宿したナオトの瞳が映った。
「……確かに、ルナは付き人失格かもしれない」
その瞬間、ルナの視界が揺らいだ。全身の力が抜けそうになる。やっぱりそうなんだ、と。自分の言葉を肯定された気がして、息が詰まる。
「掃除も料理も、狩りも護衛も……もっと上手くて頼りになる子は、きっと他にいるだろう。そう言われたら俺だって反論できない」
ルナは唇を噛んだ。もうこれ以上、聞きたくない。
しかしナオトはわずかに声を荒げるようにして、ルナの目をまっすぐに見据えた。
「でもな、俺は掃除や料理、狩りや護衛をしてもらいたくてルナを選んだんじゃない」
ルナの肩がびくりと揺れる。唇を噛み、かすれた声で問い返した。
「……じゃあ、どうして」
その問いに、ナオトは迷わず言葉を返した。
「最初に言っただろ。理由なんて無い、直感だ」
ルナは息を呑む。ナオトの瞳は揺らがず、ただ真剣な色を宿していた。
「月狼族で、呪印があって、力も弱くて体も小さい……それでもいい。いや、そんなルナだからこそ、俺は選んだんだ」
その言葉は真っ直ぐすぎて、ルナの胸を強く打った。だが彼女はすぐに顔を伏せ、必死に反論を探す。
「でも……それだと、付き人としての役割が……」
ナオトは一歩踏み込み、低く力を込めて言い放った。
「俺はルナを付き人だとは思ってない」
言葉が重く、ルナの胸に深く突き刺さる。目を見開き、声を失った彼女は、そのまま小さく震えた。
ルナはしばらく言葉を失ったまま、ただナオトを見上げていた。
「……付き人じゃない?」
自分の声がかすれて震えているのに気づき、慌てて口を閉ざす。
胸の奥で、もしかしたら優しい言葉で引き止めてくれるのではと、そう思っていた。けれど今、ルナの存在する価値すら否定されてしまった。
この数日間、付き人として掃除や料理、狩りや身の回りの世話をしてきた。完璧ではなくてもそれなりに頑張ったつもりだった。だが、旦那様はルナのことを付き人にも足らない存在だと言い放ったのだ。
「じゃあ……ルナのことは、何だと思ってるんですか」
ナオトは少しの沈黙を置き、強い口調で答えた。
「家族だ」
その瞬間、ルナの心臓が強く跳ねた。頭の中が真っ白になる。
「俺は、ルナを家族だと思ってる」
「…………!」
ナオトの声音には一切の迷いがなく、ただ揺るぎない確信だけがあった。
その一言に、ルナの胸の奥が大きく揺さぶられる。あまりに想像もしていなかった答えだった。
「……俺はルナともっと話がしたい」
ナオトは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。誤魔化すことなく、真正面からルナを見据える。
「ルナのことをもっと知りたいんだ。好きな食べ物、好きな本、好きな歌……。小さい頃の思い出や、孤児院でどんな風に過ごしてきたのか」
その声音はまるで子どもを諭す父親のように優しく、けれど同時に大切な人にしか向けられない深い想いが込められていた。
「さっきルナに出来ることは他の子たちにも出来るって言ってたけど、ルナが何を見て、何を考え、何を感じてきたのか……。それを俺に話してほしい。それは他の誰でもない、ルナにしかできない特別な話だから」
ルナの胸の奥に、これまで押し込めてきた記憶や感情が一気に揺さぶられる。
欠点ばかりを抱えてきた自分を、旦那様は知りたいと言ってくれる。
その言葉は慰めではなかった。価値のないものと自分で決めつけていた過去や日々を、大切にしてほしいと願ってくれている。
――でも、だからこそ。
「……そんなの、屁理屈です」
ルナは唇を噛みしめながら、絞り出すように言った。目尻には涙がにじみ、声は震えていた。
けれどその言葉の裏には、本当は信じたいという切実な思いが滲んでいた。
ナオトは深く息を吐き、少し困ったように、それでも力強くルナを見据えていた。
「そうだな。屁理屈だ」
あっさりと認めたその声は、むしろ力強かった。
最後の一歩を踏み出せないルナのために大義名分を用意する。
カバンから書類を取り出しルナに突きつける。
「それは……」
「これは俺の最終兵器だ。孤児院でもらったルナの隷属の呪印の契約書。しっかりと俺の血判も押してあるぜ。ルナには隷属の呪印があって、その主は俺だ。……だから、ルナは俺の命令に逆らえない」
「……!」
その言葉にルナはびくりと肩を震わせる。ずっと忌まわしいものとして隠し、憎み続けてきた呪印。その存在を、ナオトはためらいなく告げた。普通なら蔑みや支配の色を含むはずの言葉なのに、そこにあったのは温もりと決意だけ。
「俺の願いは……」
ナオトの声は低く、けれど一切揺るぎない。
「ルナ、お前はこれから先、笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒り、泣きたい時に泣き、自分の感情に素直に生きろ。もちろん、俺と一緒に、だ」
ルナの瞳が大きく揺れた。
心のどこかでずっと思っていた。自分は呪印に縛られ、自由を奪われ、ただの駒として扱われる存在なのだと。
けれどナオトはその同じ呪印を逆に使い、ルナに「笑え」と、「生きろ」と命じたのだ。
涙が頬を伝い、膝の上に滴り落ちる。
「……そんなの、ずるい……です……」
言葉にならない。ずっと重荷でしかなかったものが、初めて心を軽くする。
涙が溢れて止まらなかった。
「……今……初めて……この呪印があってよかったって思います」
「返事を聞かせてくれるか?」
ルナは両手を胸の前でぎゅっと握った。わずかに上目遣いになり、顔には恥ずかしさと真剣さが入り混じる。
「……心も命も、ルナの全てを旦那様に捧げます。喜びも悲しみも分かち合って、旦那様の隣で歩んでいきます。……この隷属の呪印に誓って」
微かに赤く染まる頬に涙が流れ、まっすぐにナオトを見据えるその姿は、照れながらも揺るがぬ決意を示していた。
―――
窓の外では月明かりが柔らかく差し込み、小屋の中を淡く照らしていた。
二人で並んで座り、些細な話をした。
言葉に詰まることもあれば、笑い合うこともある。とりとめのない話も心地よく、ゆっくりと時間が流れていった。
ナオトの横顔をぼんやりと見ながら、心の奥で小さな安堵を感じる。
……今日は、こうして話せてよかった……
そんな声にならない思いが、ルナの胸の奥で静かに広がる。
目の重さが増して、言葉を紡ぐ力も少しずつ抜けていく。ルナは静かに目を閉じた。
そのまま、夢の世界へと滑り込むように眠っていく。温かな呼吸のリズムが、夜の静けさに溶けていく。
ナオトはそっと横に座り、ルナの寝顔を見つめる。言葉はなくとも、ここにいることの大切さが、互いの胸にしっかりと伝わっていた。
―――
夢を見た。
あの日から毎晩見ている夢。
―――
闇に覆われた世界の中を、ルナはただひたすらに駆けていた。
足元には白い霧が立ち込め、踏み出すたびに冷たい靄が割れて広がる。前方には三つの影――父と母、そして兄の姿があった。彼らは確かに大切な家族であり、幼いころのルナにとって全てだった。けれど、いくら目を凝らしてもその顔立ちは霞がかかったように曖昧で、はっきりと思い出すことができない。
「……お父さん……お母さん……お兄ちゃん……!」
声を張り上げ、必死に呼びかける。温かな笑顔や、大きな手のぬくもりを思い出そうとするのに、記憶は霧に遮られ、指の間から零れ落ちてしまう。
必死に走る足は重く、まるで沼に沈むように動きが鈍っていく。影の三人は歩いているだけなのに、ルナの手の届かぬところへと離れていく。小さな背中を追いかけて、ただただ伸ばした両手は空を切るばかりだった。
「待って!置いていかないで!……ひとりにしないで!」
声が掠れ、涙が頬を伝う。心の奥底から湧き上がる恐怖と焦燥に押し潰されそうになりながら、ルナはさらに手を伸ばす。あと少し、あと少しで手が届く……。
――だが、その刹那。
父も母も、まるで幻のように輪郭がほどけていった。淡い霧となって形を失い、風にさらわれるように溶けて消えてしまった。そこに残されたのは、果てしなく広がる暗闇と、深い沈黙だけ。
「やだ……行かないで……戻ってきて……」
地に崩れ落ち、すすり泣く声が虚しく響く。呼べども、返事はない。求めても、誰も振り向かない。ただ孤独だけが、ルナの小さな身体を冷たく締めつけていった。
しかし、かすかな光が闇の中で揺らめき、ルナの指先に触れる。震える手を伸ばすと、その光の中に小さな温もりを感じた。
手を伸ばすと、温かな感触――それは、確かに兄の手だった。霧のように揺れるけれど、逃げはしない。ルナは震える手をそっと重ね、強く握り返す。
「……お兄ちゃん……」
その瞬間、孤独と恐怖がすっと消え、胸の奥に温かな光が広がる。冷たかった暗闇の世界も、ほんの少し柔らかく溶けていくようだった。
手を握り返してくれる力強さに、ルナは泣きながらも笑った。悲しみと不安の中に、確かな希望を見つけた――もう一度、家族に触れられる未来を、心のどこかで信じられる瞬間だった。
―――
深い眠りの中、ルナの小さな手が、自然にナオトの手を握りしめていた。
ルナの横で、ナオトは静かに座っていた。
ルナはまだ眠ったまま、かすかに唇を動かす。
「……お兄ちゃん……」
その声は夢と現実の境を漂うように、静かに、しかし確かにナオトの耳に届いた。その声に応えるようにナオトはぎゅっと手を握り返した。
外の風は静かに小屋を撫でる。月明かりは二人を柔らかく包み込み、夜の時間は静かに流れていった。
ようやく第一章終了です!
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