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異世界で『整体×魔術』始めます  作者: 桜木まくら
第一章『アンコモンの勇者』

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第一章27『幼い日の記憶』

熱に浮かされ、荒い呼吸の合間にうわ言のように呻きながら、ルナの意識は奈落の底へと沈んでいく。

夢を見た。

あの日から毎晩見ている悪夢。


―――


闇に覆われた世界の中を、ルナはただひたすらに駆けていた。

足元には白い霧が立ち込め、踏み出すたびに冷たい靄が割れて広がる。前方には三つの影――父と母、そして兄の姿があった。彼らは確かに大切な家族であり、幼いころのルナにとって全てだった。けれど、いくら目を凝らしてもその顔立ちは霞がかかったように曖昧で、はっきりと思い出すことができない。


「……お父さん……お母さん……お兄ちゃん……!」


声を張り上げ、必死に呼びかける。温かな笑顔や、大きな手のぬくもりを思い出そうとするのに、記憶は霧に遮られ、指の間から零れ落ちてしまう。

必死に走る足は重く、まるで沼に沈むように動きが鈍っていく。影の三人は歩いているだけなのに、ルナの手の届かぬところへと離れていく。小さな背中を追いかけて、ただただ伸ばした両手は空を切るばかりだった。


「待って!置いていかないで!……ひとりにしないで!」


声が掠れ、涙が頬を伝う。心の奥底から湧き上がる恐怖と焦燥に押し潰されそうになりながら、ルナはさらに手を伸ばす。あと少し、あと少しで手が届く……。


――だが、その刹那。


父も母も兄も、まるで幻のように輪郭がほどけていった。淡い霧となって形を失い、風にさらわれるように溶けて消えてしまった。そこに残されたのは、果てしなく広がる暗闇と、深い沈黙だけ。


「やだ……行かないで……戻ってきて……」


地に崩れ落ち、すすり泣く声が虚しく響く。呼べども、返事はない。求めても、誰も振り向かない。


ただ孤独だけが、ルナの小さな身体を冷たく締めつけていった。


―――


彼女がまだ物心つくかつかないかの頃、家は小さかったが、温もりで溢れていた。

父は村のまとめ役として、人々の中心に立ちながらも決して偉ぶることはなく、畑を耕す農夫とも、荷を運ぶ若者とも、同じ汗を流して笑っていた。

母は静かで穏やかだったが、その眼差しは強く優しかった。母が紡ぐ子守歌は夜の闇をやわらげ、幼いルナにとっては何よりの安心だった。

兄は快活で負けん気が強く、よくルナの手を引き、村の外れまで走り回った。


「いつか俺が父さんみたいに村を守るんだ!」


そう胸を張る兄の姿を、幼いルナは憧れの眼差しで

追いかけた。

家族四人が揃えば、粗末な木の食卓でさえ祝宴のように賑やかで、笑い声が絶えなかった。


ある日は、母と一緒に小麦をこねてパンを焼いた。

粉だらけになったルナの顔を見て、兄は腹を抱えて笑い転げた。


「ねえ、見て母さん!ルナの顔、真っ白だ!」

「だって難しいんだもん!」


ルナはむきになって叫び、母はやさしく布で彼女の頬を拭った。

焼き上がったパンは不格好でも香ばしく、父が頬張って「これが一番美味い」と言ってくれた時、ルナは心から誇らしかった。


ある日の午後、澄んだ風が村を吹き抜けていた。

ルナは兄の手を引かれ、川辺に立っていた。父が網を投げ、母が裾をまくって笑いながら水をすくっている。


「見てごらん、ルナ。あそこに魚がいるよ」


兄はそう言って石の陰を指さす。小さな魚影がきらめき、ルナは目を輝かせた。


「捕まえられるかな?」

「よし、やってみろ」


川に手を突っ込むと水の冷たさに驚いて声をあげた。


「ひゃっ!つめたい!」


その声に父も母も声を上げて笑い、母は手ぬぐいでルナの手を拭ってやった。

その日、川辺で焼いた魚の香りと、皆で笑いあった声は胸に深く刻まれた。


狩りの日、兄の背中を追いながら森を歩いたこともあった。兄は狩りの仕方を父に叩き込まれていた。

幼いルナは森へついていくのが楽しくてたまらなかった。短剣を片手に獲物を仕留める兄の姿は眩しく、ルナは草陰から目を輝かせて見ていた。


「いつか私も、一緒に狩りに行きたい!」

「焦るなよ、ルナ。まずは走って転ばないようになれ」


夢を語ると、兄は笑いながら額を指で弾いた。

その言葉に頬を膨らませたルナの笑顔を、木漏れ日が照らしていた。


ある日は、村の広場で小さな祭りが開かれた。

父は歌い、母は踊り、兄は木の枝で作った笛を吹いた。

ルナも真似して手を叩きながらくるくると回り、母に抱き上げられて大笑いした。

灯火が夜空を照らす中、四人の影は寄り添うように揺れていた。


またある日、夜空に流星が降り注ぐのを見上げたことがあった。


「ルナ、お願い事をしてごらん」


母がそう言い、兄もまじめな顔をして両手を組んだ。


「ずっと、家族が一緒にいられますように」


ルナは小さな声で祈った。

その時、父が肩に手を置き、そっと言った。


「願うだけじゃ足りない。家族は、みんなで支え合って守り合うものなんだ」


幼いルナには意味がわからなかったが、父の大きな手は温かかった。


家族の時間は、ずっと続くと思っていた――。

だが、運命は無慈悲にその夢を引き裂いた。

人間と魔族の戦いの炎は、村にも及んだ。

月狼族は避けられぬ事情から、人間と刃を交える側に立たされてしまった。

ある晩、月が赤く染まる夜、突然の叫び声が響いた。

悲鳴と怒号、武器がぶつかり合う音が夜を引き裂き、村は混乱に包まれる。


「ルナ、ここに隠れて!」


母が震える声で言った。小さな手を取り、家の奥の隠し部屋に押し込む。

母の頬は涙で濡れ、必死に笑顔を作ろうとしていた。


「ごめんね……ごめんね、ルナ。すぐに迎えに行くから」


その言葉は約束のようでいて、別れのようでもあった。

戸が閉じられ、薄暗い部屋にひとり残されたルナは、ただ膝を抱えて震えていた。

外では怒鳴り声、悲鳴、何かが崩れる音が途切れず響き、幼いルナの心臓を締め上げる。


「……うぅ……ひぐっ……」


必死に手で口を塞いだが、堪えきれず嗚咽が漏れた。

その小さな声が、暗闇の中でやけに大きく響いた気がした。


――ギシ、ギシ。


重い靴音が近づいてくる。ルナの全身が凍りつく。息が止まり、鼓動だけが耳の奥で大きく鳴り響いた。

やがて、板戸がわずかに軋み、隙間から光が差し込む。


「……!」


ルナの胸が締め上げられる。外に立っていたのは、見知らぬ男――鎧を着た敵の兵士だった。

その姿を見た瞬間、ルナの視界は涙でぼやけた。

父と兄が話していた「敵」だ。村を襲った恐ろしい存在だ。血と煤で汚れた鎧を着た兵士は低い声で優しく言った。


「……大丈夫だ。怖がらなくていい。さあ、出ておいで」


逃げたい。

でも逃げ場はない。

幼いルナには抗う術がなかった。

逆らえば何をされるかわからない。

村を襲った兵士の手が伸びてくる。


「……はい……」


言葉にならない声を漏らしながら、ルナは従うしかなかった。

敵の兵士の手はルナの背を支えるようにそっと触れていた。


外に出ると、村の景色はもうルナの知っている村ではなかった。崩れた家、倒れた人影、鼻を突く血の匂い。

ルナは必死に首を振って父や母、兄の姿を探そうとしたが、兵士の腕に導かれるまま足を進めるしかなかった。


「おとうさん……おかあさん……おにいちゃん……」


小さな声で呼んでも、返事はない。

喉が締めつけられるように痛い。視界は涙で滲む。


「安全な場所に連れていくから」


敵の兵士は繰り返し囁いた。

振り返ることも許されず、ただ見知らぬ場所へと連れて行かれる。

最後に家族を目にすることもできなかった。


―――


夜の闇を切り裂くように、きしむ音を立てて馬車が進んでいた。

車輪がでこぼこの道を叩き、そのたびに子どもたちの体が揺さぶられる。

ルナは他の子どもたちと一緒に、古びた馬車の中に詰め込まれていた。隣の少女は声を殺して泣き続け、もう片方に座る年下の少年は、すすり泣きながらも眠気に負けて横になっていた。

外からは、馬を操る兵士の掛け声と、蹄の音が絶え間なく響いてくる。


「安心しろ、すぐ着くからな」


荷台の後ろに座った敵の兵士が、やわらかい声でそう告げる。

けれど子どもたちは誰も答えなかった。

ルナは膝を抱え、唇を噛んで視線を落とした。

頭の中では、家の隠し部屋に押し込められたときの母の涙が、何度も繰り返しよみがえる。

「ごめんね……」と謝った母の声が、馬車の揺れに合わせて胸の奥で震えていた。


――もう会えないのかもしれない。


その考えが浮かぶたびに、喉の奥がつまって息が苦しくなる。声を出せば泣いてしまう。泣けば隣の子をもっと不安にさせてしまう。だから、ただ耐えるしかなかった。

やがて馬車は少し速度を緩め、石造りの門をくぐった。


「着いたぞ」


兵士が幌をめくると、月明かりに照らされた大きな建物が現れた。重たい木の扉、無骨な石の壁の施設。


石造りの広間の中央。子どもたちは怯えた瞳で肩を寄せ合い、兵士たちを見つめていた。すすり泣く声が重なり、重苦しい空気が漂う。

鎧の音を鳴らしながら一人の兵士が前に出て、できる限り穏やかな声で語りかけた。


「……これから、お前たちに呪印を施す。『隷属の呪印』と呼ばれるものだ。怖がらなくてもいい。これは、お前たちがここで生きていくために必要なものだ」


子どもたちの中から、不安げな声が漏れる。

兵士はしばし口をつぐみ、申し訳なさそうに眉を寄せた。


「身体に小さな紋様を刻む。肩や腕に……。少し痛むだろうが、すぐに終わる。そして呪印があれば、この施設で守られる。食べるものも、眠る場所も与えられる。誰も飢えたり、外に捨てられたりはしない」


別の兵士も口を添える。


「お前たちが逃げないようにするためでもある……。だが、それは罰ではない。この時代、この戦の世を生き残るための……決まりだ」


子どもたちは黙り込む。守られるという言葉よりも、体に何かを刻まれるという恐怖の方が勝っていた。中には、声を上げて泣き出す子もいる。

兵士は膝をつき、子どもたちと目線を合わせるようにして言った。


「……辛いことをさせるのは分かっている。私たちも好きでやっているわけじゃない。だが、この印がなければ……お前たちは行き場を失い、誰にも守られず、死んでしまうかもしれないんだ」


説明が終わると、兵士は深く息を吐き、儀式の準備を始めた。松明の火が揺れ、器具の先端が赤黒く光り始める。

子どもたちは列に並ばされ、一人ずつ前に進まされていた。


「安心してくれ。痛みはすぐに収まる」

「これは君たちがここで安全に暮らすための決まりなんだ」


兵士たちはできる限り穏やかに、繰り返し「怖がらなくていい」と言い聞かせる。けれどその言葉は逆効果だった。

最初に印を施された少年は肩に触れられた瞬間、鋭い悲鳴を上げ、床に崩れ落ちてのたうち回った。肩に黒く光る紋様が浮かび上がり、燻るような光を放つ。その様子を見た子どもたちの顔色は一気に青ざめ、すすり泣きが広間に満ちていく。

ルナは列の中ほどだった。小さな体を強ばらせ、必死に呼吸を整えようとする。心臓の鼓動は速く、胸の奥が焼け付くように痛んだ。


――逃げたい。けれど、逃げ場なんてない。


次々と子どもたちが呪印を刻まれていく。泣き叫ぶ声、苦しみによじれる体。それを抑える兵士たちの顔は険しく、だがどこかで「申し訳ない」という影が差していた。

そして、ルナの隣に並んでいた年下の女の子の番が来た。


「大丈夫だよ、すぐ終わるから」


兵士がそう言って手を伸ばした瞬間、女の子は恐怖に耐えきれず大声をあげ、体を振り回して暴れ出した。


「いやっ!やめて!やめてぇぇ!」

「待て、押さえろ!」


兵士たちが慌てて駆け寄り、必死に女の子の腕を掴まえる。

その時だった。

ルナは咄嗟に飛び出し、両手を広げて女の子を庇った。


「お願い!やめて!」


小さな体を盾にするように、ルナは兵士たちを睨みつける。震えながらも必死に前を向いたその姿に、一瞬だけ兵士たちは手を止めた。


……だが。


儀式の光は止まらなかった。兵士が手にした器具から、黒い光がほとばしる。

次の瞬間、ルナの胸元に焼き付けるような熱が走った。


「っ……ああああああっ!」


声にならない悲鳴が広間に響き渡る。胸の奥深くをえぐられるような激痛。全身の筋肉が硬直し、膝から崩れ落ちる。胸元に黒く光る刻印がじわじわと広がっていった。


「しまった!胸元は……!」

「まずい、そこは……!」


兵士たちは顔を引きつらせ、慌てて駆け寄った。肩や腕に刻むはずの呪印が、心臓に近い位置に刻まれてしまったのだ。その影響がどう出るのか、兵士たち自身もわからない。

ルナは床に倒れ込み、必死に呼吸を繰り返す。胸を掻きむしりたいほどの熱と痛み。目の端には涙が滲み、それでも隣の女の子を庇ったまま、決して後悔の言葉を口にはしなかった。


その日から、ルナの体は目に見えて変わっていく。

孤児院に引き取られたあとも、同年代の子どもたちが走り回り、少しずつ背を伸ばしていくのに対し、ルナだけは小柄なまま取り残された。食事をしても力はつかず、骨ばった肩はいつまでも華奢で、細い手足は折れてしまいそうに見えた。


熱を出して寝込むこともしばしばだった。ちょっとした風邪でも長引き、夜には胸を押さえて咳き込む。頬はこけ、目の下には常に薄暗い影のようなクマが刻まれ、顔色は青白い。

胸元に禍々しく黒光りする呪印が、ルナの命を少しずつ削り取っていた。


―――


「ルナ……絶対に、俺が助ける」


ナオトは荒く息をつき、視界が揺れる中で声を震わせた。身体中の力が抜け、腕の痛みに堪えながらも、ルナの黒い魔力をすべて吸い出す。肩から指先まで、流れはようやく均衡を取り戻す。しかし、ナオトの腕には確実に負荷がかかり、痛みが強まる一方だった。


「……終わった……か?」


ルナの肩の黒い模様は完全に消え、指先まで魔力が自由に流れている。しかし、ナオトの意識は限界に達していた。熱と痛み、魔力の逆流に耐えきれず、ゆっくりと視界が暗くなっていく。


「アリア……あとは頼んだ……っ」


ナオトの腕は黒い魔力に侵食されていたが、きっとアリアが何とかしてくれる。ふと手元にあったセレーネからもらった紫の宝石に目をやる。光を宿していたはずの宝石は、いつの間にか粉々に砕け散っていた。


「……そういえば、魔力が尽きると死ぬって誰かが言ってたような……」


ナオトはルナのベッド脇に倒れ込み、意識は遠のいていった。


「ナオトさん!」

「任せろ。……こいつは俺が運ぶ」


すぐにブライアンが駆け寄り、がっしりとした腕で抱え上げる。

そう言って、隣の部屋へとゆっくり運びこみ、ベッドにそっと寝かせた。


その横にアリアがすぐさま駆け寄る。白い指先を重ね、真剣な眼差しで詠唱を紡いだ。

治癒魔法の淡い光がナオトの身体を包み込む。光は脈打つように優しく瞬き、確かに変化が訪れていた。


「……黒い模様が消えてきてる」


傍らで見守っていたナディアが、小さく息を呑む。しばらくすると黒い模様は完全に消失した。


「ありがとう、アリア」


ナディアがアリアに微笑む。だがアリアは、首を横に振る。


「いえ……これはわたしの魔法の力ではありません」

「そうなの?何にせよルナちゃんもナオトさんも無事で良かった。それじゃ、ルナちゃんの様子を見に行ってくるね」


ナディアが部屋から出て行き、ナオトと二人きり。柔らかな朝の光が差し込む部屋で、アリアはぽつりとつぶやいていた。


「さすがナオトさん。……女神様が選んだ勇者様」

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