第一章26『黒い魔力』
肩から腕へ伸びる黒い蜘蛛の巣模様に目を凝らす。
蜘蛛の糸のように細かく張り巡らされた黒色の筋。人体解剖図で見た毛細血管に似ているが、違う。――魔力の通り道だ。
「大丈夫だ……俺がやる」
その声は自分に言い聞かせるようでもあり、ルナを安心させるためのものでもあった。
ナオトは紫色に光る手のひらでルナの肩を包み込み、皮膚の下にある筋肉と骨の位置を探る。筋肉の走行を思い描きながら、彼は圧を少しずつ加えた。
「……硬い。血じゃない……けど、詰まっている感覚は同じだ」
整体で凝り固まった筋肉をほぐすとき、硬直した部分を見つけて少しずつ緩めるように圧をかける。それと同じ手順で、ナオトは魔力の流れが滞っている部分を探り当てようとした。
すると、指先に奇妙な抵抗が走った。まるで見えない膜が張っているかのような感触。押すと反発があり、放すとじんわりとした熱が返ってくる。
「……これか」
ナオトは息を整え、整体のときの集中力を総動員した。骨と筋肉、血管の走行を頭の中でトレースする。それに並行して、この世界に存在するもう一つの通路――魔力の通り道をイメージの中に重ねていく。
「詰まりを解くには、ほぐすしかない……!」
彼は肩の前方に手を当て、もう片方の手を肩甲骨の裏側に添える。肩を前後から挟み込む形だ。少しずつ圧を加え、魔力の流れが塞がっている部分を押し広げていく。
ルナの体がびくりと震えた。苦しげに息を呑むが、それでも、必死に耐えている。
「痛むか……?だが、ここを越えなきゃならない」
ナオトは心の中で謝りながら、さらに慎重に力を込めた。
すると、黒い模様の一部がかすかに脈打ったように見えた。滞っていたものが、少しだけ押し流されたのだ。
「動いた……!やっぱり流れるんだ!」
興奮を抑えつつ、ナオトは呼吸を整え、再び押し広げる動作を続ける。強すぎず弱すぎず。その中間を探り、適切な圧を送り続ける。
黒い模様もわずかに薄くなっている。まるで蜘蛛の巣がところどころ破れ、光が差し込んでいるように見えた。
だが同時に、ナオト自身の体にも奇妙な疲労感が押し寄せてきた。まるで自身の体力をそのまま注ぎ込んでいるような感覚。額に汗がにじむ。
「……関係ない。俺は医者じゃない。魔法使いでもない。けど……整体師として、人を助けるために積んできた技術ならある!」
ナオトは手を滑らせ、肩甲骨の可動域を広げるようにして腕を前に導いた。すると、筋肉の奥に詰まっていた硬直が少しずつ解け、滞っていた魔力が通路を見つけて流れ出すような感覚が指先を通じて伝わってきた。
ルナの表情がわずかに和らぐ。呼吸が浅いながらも、先ほどの苦悶の色は薄れていた。
ナオトは次のポイントへと手を移動させた。
鎖骨下、腋の下、上腕の付け根。整体でリンパの流れを意識するように、魔力の流れもひとつひとつ探り、押し、解きほぐしていく。
時間の感覚は失われていった。ただ必死に手を動かし、ルナの体を救うことだけを考える。
やがて肩から広がっていた黒い線が淡く薄れ、皮膚本来の色が戻りつつある。
「……効いてる。確かに効いてる。整体で覚えた技術を応用すれば、この病も乗り越えられる!」
ナオトの瞳に強い光が宿る。彼の中で、絶望に覆われていた未来にわずかな希望の道筋が描かれつつあった。
ナオトは喜びを噛みしめつつ、しかし気を緩めなかった。整体でも、最後の詰まりを取り切らなければすぐに再発する。魔力の流れも同じだろう。
彼は両手でルナの腕を包み込み、手首から肘、そして肩へと流れを戻すように何度も擦り上げた。魔力を押し流すのではなく、導くように。血液を心臓へと返す静脈マッサージの要領をそのまま応用する。
ルナの肩の模様は、わずかに薄くなった。しかし、その速度は緩やかで、腕から手に広がる黒い筋の侵食は続いている。
――まだ完全には治っていない。蜘蛛の巣模様は消えきっておらず、腕から手にまだ濁った流れが残っている。
ナオトは深く息を吸い込み、そっとルナの細い手を握った。
もう片方の手を、ルナの左肩に当てる。じんわりと温かさが伝わり、そこから鼓動のように魔力が反発してくるのを感じ取った
「……指先に魔力を送る」
ルナと繋いだ手から、自らの魔力をゆっくりと流し込むイメージをする。温かい泉の水が細い川を伝って広がっていくように、微かな力がルナの指先に行き渡っていくように。
紫色に光っていたナオトの手のひらは、今はナオトの魔力の色――無色透明に光を放っていた。
指先から送り込まれた魔力は、血の流れに似た通路を通り、肩へと押し上げられていく。だが、肩口に近づくと流れは淀み、まるで堰き止められた水流のように跳ね返された。
「ここで溢れ出して、黒い模様になってるんだ……!
ナオトは肩に当てた手のひらに意識を集中し、「吸い出す」ように魔力のイメージを描いた。まるでポンプのように、自分の手のひらで詰まった魔力を外へと引き取る感覚。
「……俺の想像力なめんなよ……!」
ナオトの額には汗がにじむ。整体で培った経験を思い出す。人の体は、一点を押せば他の部位が緩むこともある。逆に、一番固い場所をほぐさなければ流れは戻らないこともある。
「……指先から魔力を流す……そして、肩から吸い出す……!」
ルナの吐息が荒くなり、細い肩が震えた。ナオトは肩に置いた手のひらに出口を作るように意識を深めた。
ナオトの手のひらから、ずるり、と重い感覚が流れ込んできた。
それはルナの詰まった魔力――本来は透明で澄んだはずのそれが、どす黒く濁り、熱と毒のような痛みを伴って押し寄せてきた。
「……ッぐ……!」
ナオトの歯がきしむ。手のひらから腕に黒い模様が浮かび上がり、刃物を突き立てられたような激しい痛みに思わず膝が折れそうになる。
だが、まぶたの裏に浮かんでくるのは、彼女と過ごした短い日々の断片だった。
――最初の出会いは、孤児院だった。
数多の子どもたちの中で、ルナは静かに佇んでいた。
その青色の髪と、目の下のクマ、狼を思わせる耳、胸元の呪印が印象的だった。
周囲に溶け込もうとせず、自分を否定し、必要のない存在だと思っているような気配を放っていた少女。
ナオトは直感で、彼女を選んだ。「ルナ、俺と一緒に来てくれ」そう言ったとき、ルナは言葉を失い、うつむいたまま小さく肩を震わせ、そのあと顔を真っ赤にした表情は、忘れようがなかった。
――街での買い物のとき。
店主に勧められたワンピースを手渡したとき、ルナは「ルナなんかが……」と視線を伏せていた。
けれど鏡の前でそっと袖を通した彼女の頬はほんのり赤く、どこか恥じらうように揺れていた。
小剣を買い与えたときのことも鮮明だ。
柄を握りしめたルナは、揺るがない決意を宿していた瞳で「……旦那様の護衛はルナにお任せください」と口にした。
その言葉は本気で、彼女がどれほど強く「居場所」を欲していたかを痛感させられた。
――狩りの成果を持ち帰った日。
ルナが自ら仕留めた小さなウサギを差し出し、「……美味しいものを食べてもらいたくて」と言った。
ルナが丁寧に作った料理は見るからに美味しそうで、一口食べると自然と顔がほころんだ。
照れくさそうに目を伏せながら少し誇らしげに笑った顔が浮かぶ。
――整体を施した夜。
触れられることに慣れていない彼女は、最初こそ強張っていた。
だが施術が進むにつれ、肩の力が抜け、安堵に染まった吐息がもれた。
「……体が軽いです」
彼女の声には、信頼がこもっていた。
その信頼を受け取った瞬間、自分がただの異邦人ではなく、この世界で誰かの役に立てるのだと確かめられた。
――街の広場での出来事。
子どもたちが走り回る様子を、ルナが目を細めて見つめていた。
「……楽しそうですね……」
そのとき、彼女はそっと両手を胸の前で組み、憧れるように呟いた。
彼女の横顔は、柔らかで、切実で。
彼女が心から望んでいるものが何なのか、その一端を垣間見た気がした。
――そのすべてが、今、ナオトの胸に蘇る。
失いたくない。
この少女の笑顔も、声も、温もりも。
どんな理屈を並べても、この思いだけは揺るがなかった。
「ルナ……絶対に、俺が助ける」
その誓いは祈りではなく、決意そのものだった。
「ナオトさん!」
アリアが両手を差し伸べ、即座に詠唱を開始する。
淡い光がナオトの身体を包み込み、痛みによって崩れかけた均衡を何とか支えた。だが黒い魔力は次々と流れ込み、治癒の光を押しのけるように体内を這い回る。
ナオトの呼吸は荒く、激痛に思わず視界が揺らぐ。
だが、肩に当てた手から流れ込む黒い魔力を止めることはできない。止めてしまえば、ルナの命が削られる――それだけは絶対に許せなかった。
「……くそ……っ!」
歯を食いしばった瞬間、背中を撫でるような柔らかな光が彼を支えた。その光にナオトの迷いは霧散した。
ナオトは振り返ることもせず、ただルナの冷たい手を強く握りしめる。――アリアを信じる、それで十分だった。
「……頼んだぞ、アリア」
低く呟き、彼は目を閉じる。意識の中でルナの体を巡る流れを描き出し、固まった黒い淀みを自分の方へと引き込むイメージに集中する。
その顔色は蒼白に変わり、額から汗が滴って床に落ちていった。ルナの肩の黒い模様は確かに薄れている。けれど、代わりにナオトの腕から肩へと同じ模様が広がり始めていた。
熱い針を突き刺されたような痛みが腕から肩へと広がるが、背後から降り注ぐアリアの魔法がその都度、崩れかけた均衡を立て直してくれる。
「……光が……守ってくれている」
心の奥でそう感じた瞬間、恐怖は静かに和らいでいった。
ナオトはさらに深くルナへと意識を沈める。彼女の肩を覆う黒い蜘蛛の巣模様の奥――そこに詰まっている澱みを掴み取り、吸い上げる。
そのたびに己の身体は灼けるように軋むが、背から伝わる清らかな温もりが絶えず彼を現実へと繋ぎ止めた。
「アリアがいる……だから、俺は大丈夫だ」
全ての不安を切り捨て、ナオトはただ、ルナを救うという一点に全てを懸けた。




