第一章25『アリアの治癒魔法』
「 ここは私たちに任せて。ナオトさんもお父さんも、ちょっと外で待ってて」
二人が部屋を出ると、ナディアは深呼吸をひとつし、ルナの額に布をあてがう。
ルナは荒い呼吸を繰り返し、額や首筋には玉のような汗が浮かんでいた。服はすでに湿り、肌に貼りついている。熱と寒気が交互に押し寄せるせいか、ルナは小刻みに震え、時折うめき声を漏らしていた。
アリアはベッド脇にしゃがみ込み、心配そうにルナの額の汗を布でそっと拭うと、ナディアに目を向けた。
ナディアは衣装棚から柔らかな素材の着替えを取り出した。汗で湿った衣が体に張り付いているせいで、動かすたびにルナの顔が苦しげに歪む。
「ごめんね、ちょっとだけ我慢して……」
アリアは耳元に小さく囁きかけながらルナを抱き起こす。
肩の黒い蜘蛛の巣状の模様は、じわじわと広がりながら熱を帯びている。そこに指先が触れぬよう、二人は細心の注意を払いながら作業を進めた。
二人は息を合わせ、濡れた衣をそっと滑らせるように脱がせていく。ルナの荒い息が一瞬止まり、呻き声が漏れるたびに、アリアの手は動きを止めてしまう。だがナディアが「今は早く着替えさせた方がいい」と静かに背中を押し、アリアは再び慎重に作業を続けた。
ようやく服を脱がせ終わると、ナディアは乾いた布でルナの体を優しく押さえ、汗を拭き取っていく。その手つきは落ち着いていたが、目の奥には心配の色が隠しきれない。アリアも濡れた髪をまとめ直しながら、ルナの唇の色が薄れていることに気づき、胸が締めつけられるようだった。
ルナは新しい寝間着に身を包み、肩や腕の汗を拭かれたことでわずかに楽になったかのように見えた。しかし、体の奥では闇蜘蛛の災がじわじわと進行していた。肩から腕にかけて、蜘蛛の巣のような黒い模様がさらに濃く浮かび上がる。ルナは痛みに顔をしかめ、息を荒くした。
「……うっ……はぁっ……」
アリアはすぐにルナのそばに駆け寄り、話しかける。
「ルナちゃん、大丈夫……?」
ルナの体は熱を帯び、細い体は小刻みに震え、浅い呼吸が小さな胸を上下させる。
「……うっ……うっ……」
小さな嗚咽が漏れる。苦痛に顔を歪め、体全体で痛みに耐えているかのようだ。肩の模様がじわじわと広がり、肩と腕は固まったまま動かせず、痛みが指先にまで伝わる。
アリアは目の前のルナを見て、一瞬も迷うことなく詠唱を始めた。声は震えているが、意志は揺らがない。
「解毒魔法!」
――毒性物質はすでに解毒されている。
「麻痺回復魔法!」
――麻痺性の物質は存在していない。
「盲目回復魔法!」
――効果はなかった。
「睡眠回復魔法!」
――効果はなかった。
「呪詛解除魔法!」
――効果はなかった。
「燃焼回復魔法 !」
――効果はなかった。
「凍結回復魔法!」
――効果はなかった。
「停止回復魔法!」
――効果はなかった。
部屋中に光の渦が立ち上り、白や青、緑の光が揺れる。ルナの肩の黒い模様は光に照らされ、まるで生き物のようにうねる。小さな体は光と痛みの交錯に反応し、身をよじるたびに息を荒げる。
アリアは一呼吸おき、手に残る力の限り、次の詠唱に移る。魔力の消耗が激しく、唇はわずかに青ざめていた。
「混乱回復魔法!」
――効果はなかった。
「瘴気回復魔法!」
――効果はなかった。
「加速回復魔法!」
――効果はなかった。
光がルナの肩と腕を包み込み、空間に青白い閃光が走る。ルナは痛みに顔を歪めつつも、布団を握りしめた手が小さく震え、額の汗が滴る。
魔法の詠唱を続けるアリアの体力が限界に近づく。息を荒くしながらも、決意は揺るがない。
「……っ……ああ……うぅ……」
苦悶の声に、アリアの手が震える。魔力が尽きれば詠唱も止まる。しかし、ルナを助けたい一心で、アリアは教会から持ってきていた小瓶を手に取る。赤く輝く液体——魔力回復薬を一気に飲み干す。体中に力が巡り、再び手に魔力が戻るのを感じる。光の流れが体内を駆け巡るように増し、呼吸が整う。アリアは立ち上がり、再びルナに手をかざす。
「治癒魔法!」
「完全回復魔法!」
部屋中に眩い光が広がり、ルナを包み込む。体のあらゆる痛みや疲労、異常な熱感が浄化されていく。ルナは呼吸を荒くしながらも、なんとか微笑む力を振り絞る。
だが、肩の蜘蛛の巣状の模様は依然として濃く残り、左腕はまだ自由に動かせない。アリアは額に汗を浮かべ、息を整えながらも目を見開き、必死に魔法をかけ続ける。彼女の手からは光が絶え間なく放たれ、部屋の隅々まで輝きで満たされる。
「……ルナ、しっかりして……まだ諦めない……!」
アリアの声に、ルナはかすかに頷く。全身を震わせながらも、なんとか意識を保ち、わずかな光を頼りに目を開ける。
部屋の中は、魔法の光と汗の匂い、焦燥の混じった熱気で充満していた。魔法の効果でルナの苦痛は幾分和らいだが、病の根本はまだ残っている。
アリアは荒く息をつき、額の汗を拭いながら肩の蜘蛛の巣状の模様を見つめた。ルナはまだ苦しげに身を震わせ、左肩の動きは鈍いまま。治癒魔法をかけ続けても、思ったほど改善しない現実に、アリアの胸は締め付けられるようだった。
「……どうして、もっと……ちゃんと……勉強しておかなかったんだろう……」
小声で自分を責める。教会の古い蔵書には、『闇蜘蛛の災』について記されたページがあった。だか、三十年以上症例がなかったから後回しにしていた。あの蔵書を、もっと真剣に読み込んでいれば、何か手がかりがあったかもしれない。
「……わたしがもっと、勉強していれば……」
アリアは肩を落とし、両手を握りしめた。目の前で苦しむルナを見つめながら、焦燥と後悔が胸を満たす。
「……こうなったら……最終手段の究極魔法を使うしかない。……今のわたしの状態で魔法の反動に耐えられるか……」
……それでもやるしかない、アリアは決意した。
「……お願い!……女神様!」
――その時、突然部屋の扉が勢いよく開いた。
「ナオトさん……!」
アリアが思わず声を上げ、ナディアも慌てて振り返る。
ドアの向こうから現れたナオトは、息を切らしながら宣言する。
「施術を……開始する!」
ルナは薄く目を開け、苦しそうにうめいた。左肩から腕にかけて蜘蛛の巣のような黒い模様が広がり、肩は微動だにしない。冷たい汗が額や首筋を伝って床に落ちる。
ナオトはすぐにルナのそばに駆け寄り、慎重に肩や腕を観察した。
「……肩が……熱い」
だが、その熱さは体温の熱ではない。じんわりと伝わる熱と微かな振動。この感覚をナオトは感じた事があった。異世界召喚された初日、王城の一室で、セレーネに握られた手から伝わってきた紫の光。その時の感覚。
「……魔力の熱とでも言うべきか」
手のひらで肩を軽く触れ、模様の入り方や熱の範囲を確かめる。黒い蜘蛛の巣状の模様は熱を帯び、触れただけで腕全体に微かな振動が伝わる。
「……大丈夫だ、ルナ。……まずは状態を正確に知る必要がある」
ナオトは慎重に肩と腕の感触を確かめ、模様の広がりや硬さ、熱感を一つずつ記憶する。視線を顔に戻すと、微かに唇を震わせ、痛みで眉を寄せるルナの表情が胸に刺さった。
「……何とかしてやる……絶対に……」
胸の奥に、じりじりとした焦燥感が溜まっていく。
だがその焦燥の中で、脳裏に一つの光景がよみがえった。
それは、かつて自分が整体師として触れてきた患者たちの姿だ。
「血は全身を巡って、酸素や栄養を運ぶ……滞れば痛みや痺れを生む」
無意識に口が動く。
肩こりの患者を思い出す。ぎゅっと固まった筋肉に指を当て、血の流れを取り戻させることで顔色が変わり、呼吸が楽になった瞬間。
あのとき確かに、目に見えぬ血の流れを動かしていた。
視線がルナの肩に戻る。
黒い模様は蜘蛛の巣にも見えたが、血管の走りにも似ている。細かく枝分かれし、詰まりによって色濃く浮かび上がっているのだ。
まるで血が滞っているかのように。
「魔力……これも、流れるものなんじゃないか?」
ナオトにはこの世界の常識というものが分からない。魔力というものがどういう性質を持つか、まだよく理解できていない。
だが、今見ている光景は、自分が知っている血液の停滞にあまりにもよく似ていた。
背後から、アリアの必死な声がした。
「ナオトさん、私の魔法じゃ……どうしようも……!」
震える声に、ナオトは少しだけ目を閉じた。
――あきらめるのは簡単だ。だが、俺は何度も痛みに苦しむ患者たちを、この手で治療してきたじゃないか。
手を添えるだけで「楽になった」と笑顔になった患者の顔。
「腰が良くなった」と言いながら立ち上がって帰っていった老人の背中。
その一つ一つが、ナオトの中で重なっていく。
……魔力を血に置き換えて考えればいい。血が滞ればマッサージで流れをよくするように、魔力が滞れば……魔力を通す整体をすればいいんだ。
きっとそんな魔法は存在しない。誰一人として、そんなことを考えた人間はいないだろう。だが、それで構わない。むしろいい。
「俺にはこの世界の常識なんてわからない。だからこそ、囚われる必要もない」
心臓がドクンと鳴った。
胸の奥に熱い決意が灯る。
「もし魔力の通り道が血管みたいなものなら……俺がこの手で流れを取り戻す。もしそんな魔法がないなら――俺が作る」
ルナの苦しそうな息づかいが耳に届く。
彼女はまだ若い。夢も、未来も、たくさん残している。
それを「知らなかった」「できなかった」で終わらせていいはずがない。
ナオトは深く息を吸い、両手を見つめた。
元の世界では何千人の患者たちを支え、癒し、立ち上がらせてきた、この手。
次は、この世界そのものに挑む番だ。
仮定し、推測し、試行錯誤し尽くして……
「世界に認めさせてやる……俺の魔法を」
言葉は静かに、しかし鋭く突き刺さるように響いた。
アリアもナディアも、思わず息を呑む。
彼の目はもう迷っていなかった。
恐怖も、焦燥も、すべては決意の炎に焼かれていた。
「……力を貸してくれ、セレーネ」
セレーネにもらった肩掛けのカバン、銀色の小さなチャームにはめ込まれた紫色の宝石がまばゆい光を放ちながら揺れていた。
紫の光に触れたナオトの指先からは、今までにない感覚が広がっていく。
まだ名前もない、誰も知らない新しい魔法が、ここに生まれようとしていた。




