第一章1『突然の異世界召喚』
一ノ瀬直人、二十五歳。職業は整体師。
「はい、これで終わりです。肩の動き、だいぶ楽になったと思いますよ」
施術台から起き上がった女性は、ゆっくりと肩を回して驚いたように声を上げる。
「わぁ、本当に軽い!ありがとうございます!」
その笑顔に、俺はにかっと笑い、片手でOKサインを作ってみせた。
女性は一瞬きょとんとしたあと、恥ずかしそうに吹き出し、笑い返してくれる。
その瞬間を見るために、俺はこの仕事を続けているのかもしれない。
整体師という職業は、派手さもなければ脚光を浴びるものでもない。
痛みを抱えた人の体を少しでも楽にする。
その積み重ねは小さくて、誰かに大きく評価されるわけではない。
だが、整体をきっかけに「明日も頑張れる」と思ってくれるならそれで十分だ。
閉店後、店の明かりを落として外に出ると、夜風が汗ばんだ肌を撫でていく。
昼間の喧騒が嘘のように、街は落ち着きを取り戻していた。
白衣を脱ぎ、シャツの袖をまくって、俺は軽い足取りで駅へ向かう。
「今日も悪くない一日だったな」
そんな独り言が自然と漏れる。
整体師として働き始めてから数年。最初は患者の体をほぐすことに必死で、余裕なんてなかった。
だが今は違う。人と向き合うことの面白さを感じられるようになった。
体だけでなく、心の重荷まで少し軽くできたとき、その充足感は何にも代えがたい。
「明日は、あのおじいさんが来る日か」
腰を痛めた常連客の顔が浮かぶ。最近、寝不足気味だと話していた。
「少しでも楽にしてやれるといいな」
そう思うと、自然と頬が緩んでくる。
コンビニの明かりが遠くに見えてきた頃、ふと空を見上げた。
ビルの隙間に広がる夜空には、都会にしては珍しく星が瞬いている。
「ああ……なんか、ちょっといい夜だな」
心地よい疲労感と達成感に包まれ、俺は満たされた気分で歩を進める。
そのときだった。
「え?」
足元に、淡い光がにじみ出す。
最初は街灯の反射だと思った。だが違う。
地面に浮かび上がったのは、見たこともない幾何学模様。
複雑に絡み合った線が脈打つように光り、まるで生き物のように俺の足元を囲んでいく。
「な、なんだこれ!」
飛び退こうとした瞬間、体が動かなくなる。
足が床に縫いつけられたかのように固まり、息が詰まる。
光は瞬く間に強さを増し、視界を白で塗りつぶした。
耳の奥で、誰かが呟くような声が響く。
言葉の意味は分からない。だが、不思議と抗えない力を持っていた。
体が浮いた。
重力が失われ、心臓が跳ね上がる。
まるでエレベーターが急降下するような感覚。
だが、そのままどこまでも上昇していく。
「っ!」
声を上げようとしても、喉は凍りついたみたいに動かない。
そして次に目を開いたとき。
そこはもう、帰り道ではなかった。
高い天井から吊るされた巨大なシャンデリア。
壁には金の刺繍が施された紋章旗が掲げられ、赤い絨毯が床一面に敷き詰められている。
燭台に灯る炎が揺らめき、影を壁に踊らせていた。
そこはまるで、ゲームや物語の中でしか見たことのない、王城の一室だった。
「は?」
あまりに唐突すぎて、頭が追いつかない。
さっきまでの静かな帰り道が、まるで幻だったかのように思える。
心臓の鼓動だけが、やけに現実感を持って胸を打ち続けていた。
壁際には鎧に身を固めた衛兵たちがずらりと並んでいた。
「……」
一斉に向けられる視線。甲冑のきしむ音、ざわめきが波のように広がる。声は聞こえるのに、意味はまったく分からない。
ざわめきを一喝したのは、玉座に座る壮年の男だった。王冠をいただき、威厳ある声で短く命じる。途端に大広間が静まり返る。
その合図に従うように、初老の魔導師らしき人物が台座から歩み出た。白い髭をたくわえたその男は、厳めしい表情のまま俺に何事か話しかける。
「……ル、エスト、カナ・セオ……」
意味はわからない。だが手ぶりからして、水晶に触れろということらしい。
促されるまま、俺は台座の上に置かれた大きな水晶球へ手を伸ばした。ひんやりと冷たい感触が指先に伝わる。
すると魔導師が低い声で呪文を唱え始めた。
「ル・ガル・エンティア――」
言葉が重なり合うごとに、水晶の内部が光を帯びていく。やがて、まぶしい閃光が弾けた。
「……っ!」
俺は思わず目を覆う。光が収まったとき、空中に文字が浮かんでいた。幾何学的で見慣れない異世界の文字が、淡く輝きながら並んでいく。
ざわめきが再び起こった。今度はどこか落胆を含んだ声色で、兵士たちが互いに顔を見合わせている。重苦しいため息があちこちから漏れる。
どうやら、期待外れだったらしい。
王の横に立つ大臣のような人物が身を乗り出して進言した。王は大臣の言葉にうなずき、静かに手を振る。すぐさま衛兵たちが近づき、俺を左右から囲んだ。抵抗する間もなく、そのまま大広間を連れ出されていく。
辿り着いたのは応接室のような一室だった。重厚な木の扉に、壁には豪奢な絵画と花瓶。先ほどの荘厳さに比べれば、落ち着いた空気が漂っている。
「はぁ……」
椅子に腰を下ろすと、疲れがどっと押し寄せた。頭の中は混乱のまま。仕事帰りに突然召喚され、わけのわからない儀式に巻き込まれた。
俺はいったい、どうなるんだ?
コン、コン、と扉がノックされた。
「……?」
返事をする間もなく、扉がゆっくりと開く。
入ってきたのは、一人の少女だった。
白を基調とした高貴な衣装を纏い、薄紫の刺繍が淡い光を反射している。凛とした気品をまといながらも、その微笑みは柔らかく、春風のように温かかった。