第一章15『あったかい魔法』
ルナは軽くノックしてから、静かにナオトの部屋へ入ってきた。薄暗いランプの灯りが、壁や家具に柔らかい影を落とす。ナオトは椅子から立ち上がり、ベッドを指さして声をかける。
「ルナ、こっちに座って」
ルナは小さく頷き、ぎこちない動きでベッドの端に腰を下ろす。膝の上で両手を固く組み、指先がわずかに震えている。肩を小さくすくめるその仕草から、緊張が伝わってくる。
「……優しく……してください」
控えめに告げる声はかすかに震えていた。ナオトは微笑みながら手を軽く振る。
「もちろん。最初だから、短めにしておこう」
ルナは少し息を吐き、腕を抱え込むようにして身を委ねた。
「……服は、脱いだほうがいいですか?」
ナオトは苦笑し、首を振る。
「そのままで大丈夫。ベッドに横になって」
ルナは目を伏せ、ゆっくりとベッドに仰向けになる。小柄な体が布団に沈み、緊張で硬かった肩が少しずつベッドに馴染むのが分かる。ナオトは肩にそっと手をかけ、穏やかに声をかける。
「うつ伏せで」
「……うつ伏せですか?」
ルナは少し戸惑った表情を見せたが、促されるまま体をひっくり返す。背中の小さな筋肉が微かに上下し、呼吸が少し早いことにナオトは気づく。彼女の肩甲骨のあたりに手を置き、軽く圧をかけると、ぴくりと体が反応した。
「大丈夫……俺を信じてくれ」
「……はい。……旦那様……」
「まずは力を抜いてみろ。息を吸って……吐いて……。」
ルナの肩が上下するたび、細い背中がかすかに波打つ。
「……少し……恥ずかしいです」
「大丈夫。恥ずかしがる必要はないさ」
そう言いながら、ナオトは肩から首筋へ、掌を滑らせるように撫でた。
「…………」
「肩が凝ってるな。ここは痛いか?」
指先で肩甲骨の内側をぐっと押し込む。
「……そこ……少し痛いです。でも……気持ちいい……」
シーツを握るルナの指先が震える。
「筋肉が緊張してる。孤児院での仕事で疲れが溜まってるな。ゆっくりほぐしていくぞ」
親指で肩甲骨の縁をなぞるように押し流し、硬いしこりを探し当てては丁寧に解きほぐしていく。
「……あ……。肩が広がっていくような……」
「その感覚は大事だ。体は正直だからな」
ナオトは両手で背中全体を包み込み、肩から腰へと大きく圧をかけていく。
「……っ……。背中が……伸びていく感じ……」
「背骨の周りも硬いな。ここが固まると呼吸が浅くなる。……ほら、息が入りやすくなるだろ?」
押しながら問いかけると、ルナは小さく頷き、深く息を吸い込んだ。
「……胸が……広がります」
「よし。じゃあ次は腰だ」
ナオトは腰骨の両脇に手を当て、体重をかけてじんわりと押す。
「……っ、……。…………いい……です……」
「腰は体の要だ。ここが固いと脚にも背中にも負担がかかる。少し我慢してみろ」
円を描くように掌で腰を揉みほぐし、骨盤を軽く揺らして整える。
「……っ……あ…………。……脚が温かくなって……」
「血の巡りが良くなった証拠さ。……よし、最後に全体を整える」
ナオトは掌を背中全体に置き、肩から腰へと滑らせながらリズムよく圧を加える。
「……ん……。体が……沈んでいくみたい……」
「これで今日の施術は終わりだ。ゆっくり起き上がってみろ」
ルナは慎重に上体を起こし、目を瞬かせた。
「……背中が……軽い……。息を吸うのも……楽で……別の体みたい」
ナオトは腕を組み、満足げにうなずいた。
「よく頑張ったな。少しずつ整えていけばもっと快適になる」
ルナは仰向けのまま、胸に手を当てて呼吸を確かめていた。静かに胸が上下するのを見つめるナオトの視線に、わずかに気恥ずかしさを覚えつつも、彼女は穏やかな安堵を感じていた。
「……あの、今のって……何を……?」
ナオトはベッド脇に腰を下ろし、落ち着いた声で説明する。
「整体って呼ばれてるものだよ。体の歪みや緊張を整えて、自然に楽に動けるようにするんだ」
ルナは目を瞬かせ、言葉を飲み込む。
「……せい……たい……。そんな魔法、孤児院の本にはなかった……」
ナオトは柔らかく笑い、首を振る。
「違うよ。ただ手で触って、固くなった筋肉を緩めただけさ。魔法なんて一切使ってない」
「……でも、こんなに温かくなって……体も軽くなって……」
ルナは両腕を抱え、目を伏せて静かに吐息を漏らす。
「治癒魔法を受けたときみたいです……」
「それくらい変化が出やすいんだろうな。人間の体って、不思議とちょっとした調整で変わるんだ」
ナオトは肩をすくめる。ルナはまだ信じきれない様子で、慎重にナオトを見つめる。
「……本当に、魔法じゃないんですか?」
「本当に」
断言するナオトに、ルナはその言葉を胸で何度も反芻する。やがて小さく息をつき、緊張よりも柔らかな安堵が顔に浮かんだ。
「……でも、不思議です。魔法じゃないのに……あったかくて、安心して……眠れそう」
その声には、今日一日の疲れや不安がすっと解けた安らぎが混じり、ルナの目元には微かな微笑みが浮かぶ。ナオトはそれを静かに見つめ、彼女の安堵を心の中で受け止めた。ベッドの間に漂う静かな空気は、二人だけの世界のようにゆったりと流れていった。
―――
朝の光が差し込む街路は、すでに活気にあふれていた。石畳の隙間から小さな草が顔を出し、日の光を受けてキラキラと揺れる。屋台の掛け声、荷車の軋む音、笑い声や子どもたちのはしゃぐ声が入り混じり、街全体が生き生きと呼吸しているかのようだった。香辛料や焼きたてのパンの匂い、朝露に濡れた花屋の花の香りが混ざり合い、通りを歩く者たちの感覚を優しく刺激していた。
教会の前を通りかかると、おっちょこちょいの神官見習いが段差につまずき、手に持った聖水をひっくり返してしまった。「ああっ!」と叫ぶ声に、通行人が微笑みながら手を差し伸べていた。
二人は布地や仕立て屋が並ぶ一角に足を運んだ。色とりどりの布が窓際に並び、陽光を受けて柔らかく揺れている。店先では仕立て屋や裁縫道具を扱う店員たちが布を抱えて通りを歩く人々に声をかけていた。ルナは少し背筋を伸ばし、慎重に足を運ぶ。
「昨日も思ったけど……やっぱり荷物、少なすぎるよな」
ナオトが小声で呟くと、ルナは落ち着いた声で答えた。
「……必要なものは、あまりありませんから」
まずはナオトの服を見繕うことにした。黒や茶色の丈夫な布地に目を走らせ、ナオトは手に取ったシャツやズボンを体に当ててみる。鏡に映る姿を確認しながら、ルナはこっそり青いシャツを差し出した。
「……青はどうですか?」
ナオトは一瞬迷ったが、すぐに受け取り、鏡の前でシャツを体に当てる。柔らかく落ち着いた青色が彼の落ち着いた雰囲気とよく合った。
「悪くないな、これにしよう」
微笑むナオトを見て、ルナも少し安心した表情を浮かべる。
次はルナの番だった。店主が差し出したのは、ライトブルーを基調に胸元と裾に白い刺繍が入った肩出しのミニワンピースだった。月や花をモチーフにした模様が施され、ふんわり広がる短めのスカートの下には白いペチコートが覗く。二の腕には薄布が巻き付けられ、少女らしい華やかさと優雅さを演出している。店内の灯りに反射する刺繍が、まるで小さな星々のように煌めいた。
ルナは一瞬その華やかさに目を奪われたが、迷わず地味で無地の落ち着いたワンピースを手に取った。灰色がかった茶色で、素材も控えめだ。おそらくこの店で一番安い服を選んだのだろう。店主の差し出す高価な服に目を向けることもなく、彼女は淡々とこう言った。
「……ルナは、これで十分です」
「ルナ、見た目ってすごく大事なんだ。人間は服装ひとつで印象が変わる。ちゃんとした服を着ると清潔で誠実そうに見えるし、逆に着ている服によっては、どんなに中身が優れていても伝わらないこともある」
ルナは少し驚いたように瞬きをし、選んだ服を見下ろす。
「……でも、ルナなんかが、そんな……」
ナオトは優しく笑みを崩さず、店主が差し出したワンピースを手に取りながら言った。
「ほら、これなんかいい。俺は服には詳しくないが、清楚で可愛いし、月の刺繍が君らしいだろ?」
ルナは胸の前で服を抱きしめ、視線を落とす。頬がわずかに赤く染まり、耳の先まで熱が回るのを感じた。
「……ルナらしい……?」
「もちろん」
ナオトは即答した。しばし沈黙のあと、ルナは小さく頷いた。表情には出さないようにしていたが、尻尾がぱたぱたと音を立てて動いていた。嬉しさと照れの入り混じった微細な動きが、彼女の内面を表しているようだった。
服屋を出て、石畳の通りを歩く。両側には小さな花屋や雑貨店が並び、通りの奥からはパン屋の香ばしい匂いが漂ってくる。紙袋を片手にしたナオトは、ふと隣のルナを見やった。
「そういえば……昨日の整体のあと、体調はどうだった?」
「……体が軽いんです。朝までぐっすり眠れて……いつもより目覚めも良くて」
ナオトは頷き、ルナの目元に視線を落とした。
「確かに、クマも薄くなってるな。目の下の色がだいぶ違う」
ルナは指先でそっと自分の目の下を触れる。自分でもその変化に気づいていなかったらしい。
「……本当ですか?気づきませんでした。魔法みたい……」
ナオトは軽く手をひらひらと振り、微笑む。
「魔法じゃなくて、体の歪みを整えただけさ。血の巡りがよくなれば、眠りも深くなるし、見た目にも出るんだ」
ルナはその言葉を聞き、少し目を細めた。まるで昨日までの悪夢や不安が少しずつ消え、確かな安心が体の内側に浸透していくようだった。
「……でも、ルナにはやっぱり魔法に思えます。孤児院にいた時はずっと眠りが浅くて、悪い夢ばかり見ていました……。今はすごく楽です」
ナオトは静かに頷き、袋を抱える手に力を込めた。
「そうか。それならよかった」
ルナは袋を抱えながらこくんと頷いた。その横顔は昨日よりもずっと健康的で、どこか嬉しそうに見えた。通りの喧騒や人々の笑顔が、彼女の心にそっと染み込むようだった。小さな心の安堵と、初めて感じる街の温もりに、ルナの胸はわずかに高鳴っていた。
通りの向こうで、子どもたちが駆け回り、魚屋の男が「新鮮だぞー!」と声を張り上げる。その声に混ざる人々の笑顔や活気は、孤児院での暗い日々とは対照的だった。ルナは無意識に深く息を吸い込み、胸いっぱいに街の空気を取り込む。
ナオトはふと、立ち止まりルナの肩に手を置いた。
「無理して自分を抑えなくてもいいんだぞ、ルナ。ここでは、少し肩の力を抜いてもいい」
ルナは目を細め、少しだけ肩の力を抜く。安心と少しの照れが混ざった表情が、ナオトの胸を温かくした。




