第一章14『付き人として』
日が傾き、薄暗くなってきた空を見上げながら、ナオトは手を止めた。
「そろそろ暗くなるな。今日はここまでにして、街に戻ろう」
ルナも雑巾をしまいながら、静かに頷いた。
「……はい」
二人は埃だらけの小屋を後にして、アークロスの街へ向かう道を歩き始める。道端にはところどころ野草が顔を出し、夕暮れに長く伸びた影が二人の足元を揺らす。ナオトはふとルナの肩越しに目をやった。
「ところで……ルナ、荷物って本当にこれだけか?」
ルナの肩にかかる布袋は小さく、衣服が数枚入るくらいの大きさしかない。
ルナは少し手で袋を抱き、目を伏せる。
「……はい、必要最低限しか持っていません」
ナオトは軽く笑い、肩にかけた布袋を見ながら言った。
「そっか……ここで生活するなら、もう少し着替えがあった方がいいな」
ルナは小さく息を呑む。
「……でも、そんなお金もありませんし……」
「大丈夫。街で買ってやる」
ナオトは自然に言った。
「でも……」
「そういえば、俺も服が全然ないんだった!」
思い出したように叫ぶと、隣を歩くルナが目をぱちぱちさせる。
「そうなんですか?」
「そう。こっちに来てからもらったこの服だけ。故郷の服は目立っちゃうし、寝間着もない。……となると、必要なのはルナだけじゃなくて俺もだな」
ルナは少し肩をすくめるようにして、微笑みに近い表情を見せた。
「……二人とも同じですね」
ナオトは笑いながら頷く。
「だったら、ちょうどいい。今夜は宿に泊まって、明日使える服を買おう。」
「……はい。でも、そんなにお金を使って大丈夫なんですか?」
心配そうに尋ねるルナに、ナオトは軽く肩を叩いて見せる。
「心配するな。必要なものに使う分なら問題ない。むしろ、このままじゃ生活が始められないからな」
ルナは視線をそらしながら、耳を少し動かす。控えめに頷いた。
「……わかりました」
「まずは服と寝間着、それから必要なら小物も揃えよう」
アークロスの街路にランタンの光が揺れるころ、ナオトとルナは一軒の宿屋にたどり着いた。
『陽だまりの宿』。
太陽を模した看板と、金とオレンジ色の布飾りが夜風に揺れ、窓からは暖かな灯りが漏れている。街灯に照らされた石畳の路地も、ここだけは柔らかく黄金色に染まっていた。
「……きれい」
ルナが感嘆の声をもらす。小さな手で肩の布袋を抱え、目を輝かせながらも、どこか警戒心を残して周囲を見渡している。
「ここは昨日泊まったんだ。いい宿だよ」
ナオトは微笑みながら扉を押した。香ばしい料理の匂いと、賑やかな酒場の笑い声が溢れ出した。壁の木材は経年で色を深め、そこに吊るされたランプの光が優しく反射している。
「いらっしゃいませ!」
元気いっぱいの声とともに、オレンジ色の制服姿の看板娘――ナディア・ハーストンがぱっと飛び出してきた。
「わっ、ナオトさん!おかえりなさい!」
「ただいま。今夜も世話になるよ」
ナディアは満面の笑みを浮かべるが、ちらりと酒場の方を振り返る。そこでは客たちが大声で注文を叫び、忙しそうに手を振っていた。香ばしい肉の匂いや、スパイスの香りが混ざり合い、忙しない中にもどこか安心できる空気が漂う。
「ごめんなさい、今ちょっとバタバタしてて……!お父さーん!」
そう言ってナディアはスカートを揺らしながら酒場の奥へ駆けていった。
間もなくして、奥から豪快な笑い声が響く。
「誰かと思えば……ナオトじゃねえか!」
現れたのは宿の店主でありナディアの父、ブライアン・ハーストン。
大きな体に笑い皺の刻まれた顔で、腕を広げるようにして出迎えた。
「よく来たな!さあ、今夜はゆっくりしてけ!」
「あぁ……今夜はここで泊めてもらおうかな」
ナオトの言葉に、ブライアンは豪快にうなずき、酒場の喧騒にも負けない声で言った。
「任せとけ!いい部屋を用意してやる!」
だがすぐにナオトの隣に立つ少女に目を留め、片眉を上げた。
「……ほぉ?そっちの小さな嬢ちゃんは誰だ?」
「えっと……彼女はルナ。今日から俺の付き人になるんです」
ナオトが紹介すると、ルナは小さく頭を下げる。
ブライアンはにやにや笑いながらルナをじっと眺め、やがてナオトへと視線を戻す。
「なるほどなぁ……ナオトはこういう、小柄で守ってやりたくなるタイプが好みか!」
「ち、違いますって!」
ナオトが慌てて否定すると、ブライアンは腹を抱えて笑い出す。
「はっはっは!顔が真っ赤じゃねぇか!いやぁ、若ぇ男は正直でいいもんだ」
「だから、そういうんじゃないって!」
ナオトは必死に抗議するが、ブライアンは豪快に笑い続ける。
ルナは居心地悪そうに視線を逸らす。その様子まで見逃さず、ブライアンはますます愉快そうににやけていた。
ブライアンに案内され、ナオトとルナは二階の廊下を進んだ。ブライアンは豪快にドアを開けると、「ここだ」と一言。中を覗くと、木造のシンプルな一室に二人でも寝られそうな大きめの寝具が整えられていた。
「二人で一部屋にしておいたぞ」
「え、えっと……それは……」
その声に、ナオトは思わず後ずさる。
しかし、隣のルナは違った。まるで問題などないと言わんばかりの落ち着きを見せている。
「……一緒のほうが、宿代も節約できますし……」
彼女の声は淡々としていて、緊張や恥じらいはほとんど感じられなかった。
ナオトはますます慌て、手で頭を掻きながら思わず口を開く。
「いや、でもやっぱり……寝る場所は別が……」
ブライアンはその様子を見て、にやりと笑った。大きな手を腰に当て、顎に手を添えながら目を細める。
ルナは肩をすくめ、あっさりと答える。
「……お任せます。」
ナオトは思わず息を吐き、力なく頷いた。
「……じゃあ別々にしてもらおう」
ブライアンは笑いをこらえきれず、「よしよし、わかったわかった」と大きく手を振る。
「空き部屋はあるから心配するな。二部屋分の料金はもらうぞ?」
「もちろんです!」
荷物を置いたあと、ナオトはルナに声をかけ、二人で階段を下りて一階の酒場へ向かった。外は夜の帳が下り、軒先の灯りが柔らかく揺れる。店内に入ると、木造の床が軋む音と、客たちの賑やかな声が二人を包み込む。
ナオトは席に座り、正面を見るがルナはいない。不思議に思い振り返ると、ルナは控えめに一歩下がった位置に立ち、背筋を伸ばし、姿勢を崩さずにいた。一緒、頭の中に疑問がよぎったが、すぐに付き人としての動きを意識してのことだと気づいた。
「ルナ、座ろう……一緒に食事をしたいんだ」
ナオトは手を差し伸べ、微笑みながら促す。
ルナは驚いたように視線を上げ、ナオトを見つめる。
「……でも、私は付き人ですから……」
控えめな声だが、緊張や気後れは感じさせず、むしろ淡々とした落ち着きがある。
「食事は楽しくするもんだ。それに立ってばかりだと疲れるだろ?」
ナオトは少し焦りながらも、しっかりとした口調で伝える。ルナは小さく頷き、そっと席に座った。
料理が運ばれると、湯気の立つ料理の匂いが二人を包み、酒場の賑やかさの中でも、自然と二人だけの空気が生まれる。
ルナは手際よく飲み物を注ぎ、取りやすいよう料理を軽く寄せる。ナオトは微笑みながらそれを見て、「……頼りになるな」と小声でつぶやく。
料理を囲む静かな時間の中で、付き人としてのルナの気配りと、隣にいる安心感が互いに伝わる夕食だった。
ナオトはふと気づいたように顔を上げた。
「ルナ、この国って……お風呂ってどうやって入るんだ?」
ルナは、静かに答える。
「王族や貴族の方しかお湯に浸かる習慣はありません。布巾をお湯で絞って体を拭くのが一般的です」
その声は控えめで淡々としているが、説明は的確だった。
ナオトは少し驚き、眉を上げる。
「なるほど……じゃあ、今日はそれで済ませる感じか」
夕食を終え、二人は席を立った。ナディアがまだ片付けで忙しい中、ナオトはブライアンに声をかける。
「ブライアン、湯を二人分もらえるか?」
ブライアンはにやりと笑いながら、大きな鍋に入ったお湯を二つの桶に分け、ナオトに手渡した。
「ほら、二人分だ。」
ナオトは頷き、ルナに向き直る。
「ルナ、部屋で体を拭いて、拭き終わったら、俺の部屋に来てくれ」
ルナは一瞬視線を逸らし、小さく頷く。
「……わかりました」
二人はそれぞれ自分の部屋へ向かい、桶に入った温かいお湯を布巾で絞りながら体を拭く。ルナは静かに丁寧に手早く拭き、汚れや汗を落としていく。ナオトも同じように体を拭きながら、今日の街歩きや夕食のことを思い返した。
拭き終えたルナは、ゆっくりとナオトの部屋へ向かう。廊下を歩く足音は控えめで、少し緊張している様子だったが、背筋はまっすぐで、付き人としての覚悟も漂わせている。
ナオトは部屋で座って待ち、扉の向こうから聞こえるルナの足音に目を細めた。やがてノックの音がし、ルナは静かに部屋に入ってきた。




