第一章9『陽だまりの宿』
ナオトはアリアに教えられた道を進み、噴水のある広場にたどり着いた。夜の街はすでに静けさを取り戻しつつあったが、その中でひときわ明るく、賑やかな声がこぼれてくる建物があった。
木造二階建ての宿屋。
軒先に掲げられた看板は太陽を模した紋章が刻まれ、金とオレンジ色の布飾りが夜風に揺れている。窓から漏れる灯りはまるで帰る場所を示すように優しく、温かい雰囲気を漂わせていた。
「……あそこか」
ナオトは小さく息を吐き、木の扉を押した。
中へ入ると、にぎやかな声と香ばしい匂いが一気に押し寄せる。
広いフロアの中央には木のテーブルが並び、旅人や地元の住人たちがジョッキを掲げて笑い合っていた。暖炉の炎がゆらめき、吊り下げられたランタンの光が木の梁を柔らかく照らしている。
「いらっしゃいませーっ!」
明るく響く声にナオトが振り返ると、カウンターの奥から一人の女性が駆け寄ってきた。
栗色の髪を肩で切りそろえ、ぱっちりとした瞳が笑顔で輝いている。年の頃は二十代前半、だがその均整の取れた体つきと自信に満ちた仕草は、ただの娘というより「場を仕切る人」の風格があった。制服の酒場衣装は彼女の健康的な色気を自然に引き立てている。
「ようこそ、『陽だまりの宿』へ!今日はお泊まりですか?それともお食事ですか?」
彼女は弾けるような笑みを浮かべて声をかけた。
「あ、ああ……宿を頼みたいんだが」
少し戸惑いながらナオトが答えると、にっこり笑い、ぱんっと手を叩いた。
「はいっ!任せてください!お父さーん!お客さまでーす!」
その声がフロアに響き、奥の厨房からどっしりした足音が聞こえてくる。
の声に応えて、厨房の奥から現れたのは、恰幅のいい中年の男性だった。茶色の髭をしっかり整え、腕は丸太のように太い。エプロン姿ではあるが、その立ち居振る舞いからはただものならぬ風格が滲み出ていた。
「おう、ナディア。……いらっしゃい、旅のお方」
「こちら、うちの父。ブライアン・ハーストン、顔は怖いけど根は優しいから安心して!」
「はっはっは、余計な紹介をするな」
ブライアンは豪快に笑いながらナオトに手を差し出す。
ナオトも少し緊張しつつ、その手を握り返した。分厚い手のひらからは、ただの宿屋の店主とは思えない力強さが伝わってくる。
「宿泊でいいんだな? 一泊か、それとも連泊か?」
「あ、ええ……とりあえず一泊でお願いします」
「よし。食事付きにするか?今なら鹿肉のシチューがたっぷり煮えてるぞ」
「じゃあ、それで……」
手続きが淡々と進んでいく中、横でナディアと呼ばれた女性がにこにことナオトを見つめていた。
「ねぇ、お兄さん。緊張してる?もしかして、うちのお父さんが怖かった?」
「い、いや……そういうわけじゃ……」
「ふふっ、冗談だよ。でも安心して。ここは『陽だまりの宿』だから。みんなあったかい人たちばっかりよ」
小首を傾げて笑うナディア。アリアの天真爛漫さとは違う、大人びた余裕のある明るさ。場を軽やかに和ませる雰囲気は、まさしく看板娘そのものだった。
「部屋を案内してやれ、ナディア」
「はーい!じゃあ、お兄さん、こっちだよ」
受付カウンターの奥から厚い帳簿を持ち出すと、ナディアはさらりと広げて羽ペンを差し出してきた。
「じゃあ、部屋に案内する前にまずは宿泊名簿にお名前を書いてね」
ナオトは一瞬、手を伸ばしかけて固まる。
この世界の文字の書き方がわからない。
「……えっと」
ペンを持つ手が止まり、冷や汗がにじむ。
「どうしたの?字が書けない?」
不思議そうに首をかしげるナディアに、ナオトは正直に打ち明けた。
「……ああ。実は、書けないんだ」
ナディアは一瞬驚いたが、すぐに「なるほど」と納得したように頷いた。
「そういうお客さんもいるから気にしなくて大丈夫だよ。代わりにわたしが書いてあげるよ」
彼女はさらりと羽ペンを取り、帳簿に視線を落とす。
「で、お名前は?」
「イチノセ・ナオト。年は25歳だ」
ナディアは「珍しい名前だね」とつぶやきながら、丁寧に文字を走らせる。栗色の髪が頬にかかり、集中した横顔がランプの光に照らされていた。
「……はい、できた。これで、ちゃんと泊まれるよ」
軽やかにペンを置き、彼女は名簿をぱたんと閉じる。
ナオトは少し肩の力を抜いて「ありがとう」と小さく笑った。
「助かる。まさか名前すら書けないなんて、ちょっと情けないな」
「いいってば。むしろ、そういうのが新鮮で面白いんだから。さて、それじゃ案内しよっか!」
ナディアはぱっと明るい笑みを浮かべ、帳簿を片づけて軽やかに踵を返す。
「さーて、ナオトさんのお部屋は二階だよ。ほら、ついてきて」
ナディアが軽快に階段を上る。ランプの灯に揺れる栗色の髪が温かみを帯びて見え、彼女の明るい声が宿の中に響いた。
「でさ、ナオトさんってどんな仕事してるの?」
階段を上りきったところで、ナディアがくるりと振り返り、好奇心いっぱいの瞳で見つめてくる。
ナオトは一瞬迷ったが、正直に口を開いた。
「……整体師をしていたよ」
「せい……たいし?」
ナディアは首をかしげる。その言葉がまるで異国語に聞こえるかのように。
「身体の歪みを整えたり、凝り固まった筋肉をほぐしたりする仕事だよ。疲れた人を元気にするための技術なんだ」
ナディアは「?」を頭に浮かべたまま腕を組む。
「……ふーん。疲れた人を元気にする、って言っても、それって神官の治癒魔術とどう違うの? こっちじゃ大ケガしたり、身体が痛かったら神官の治癒魔術でパッと治すのが普通だけど」
「その治癒魔術っていうのみたいに一瞬で治すわけじゃないんだ。人の体は、疲れや歪みを溜め込んでいることが多いから……それを整えて回復力を引き出す、みたいな感じかな」
「うーん……なんかよくわからないけど、ずいぶん手間がかかる方法だね」
ナディアは苦笑しながらも興味を失わず、首をかしげ続けた。
「確かに時間はかかるけど、その分、根本からよくなるんだ。俺のやっていたのは、土台から整えていく方法なんだ」
「へぇ~~……」
ナディアは半信半疑のまま声を伸ばす。
「でも、そんな変わった仕事してた人、初めて見たよ。なんか不思議だね。まぁ、旅人さんならではの話って感じで面白いけど!」
そう言って楽しそうに笑うと、軽やかに廊下を進み、ある部屋の前で足を止めた。
「はい、ここがナオトさんのお部屋。ベッドも布団もちゃんと干してあるから、安心して眠れるよ」
「助かるよ。ありがとう」
ナオトが頭を下げると、ナディアはにっこりと微笑みながら付け加える。
「じゃあ荷物を置いたら、一階の酒場に降りてきてね。父さん特製のシチューは絶品だから。もちろん、宿泊代に含まれてるから心配しなくていいよ。」
栗色の髪を揺らしてナディアはにこにこと話す。
部屋に入ったナオトは、肩から下げていた荷物をベッドの脇に降ろした。
「……王様から支度金をもらえてよかったな」
胸ポケットの奥にしまった革袋の重みを思い出す。王様の気遣いがなければ、こうして宿に泊まる余裕すらなかったかもしれない。
荷物を整理し終えると、ナオトは軽く息をついて立ち上がる。部屋の扉を開けると、下の階からかすかに話し声と肉や野菜の香ばしい匂いが漂ってきた。
階段を下りるごとに、温かな灯りと落ち着いたざわめきが近づいてくる。木造の手すりは長年の使用で滑らかになり、足元の床板は軽くきしんだ。
一階に降り立つと、酒場を兼ねた広間が目に飛び込んできた。
先ほどまでの賑わいは引いたのか、客はまばらで、テーブルを囲むのは地元の常連客が数組ほど。ジョッキを傾けながらゆっくり談笑する声が低く響き、ランタンのやわらかな明かりが木の壁や床を照らしている。落ち着いた雰囲気が、長旅で疲れた体を優しく迎え入れてくれるようだった。
「ナオトさん、こっちだよ!」
カウンターの奥からナディアが手を振る。栗色の髪がランタンの光を受けて柔らかく輝いた。
ナオトはまっすぐ進み、窓際の席に腰を下ろした。目の前には夜空と酒場の落ち着いた光景が広がり、木の温もりが心を穏やかにしてくれる。
「……やっと、落ち着いて食事できるな」
異世界に召喚されて以来、馬車の中で口にしたパン以外の食事は初めてだった。肩の力が抜けるのを感じる。
やがて、ナディアが大きな器を抱えて戻ってきた。
「お待たせ。今夜の夕食、陽だまりの宿の自慢のシチューだよ!」
湯気を立てるシチューには、ほろほろに煮込まれたお肉と野菜がたっぷり入っている。香草がほんのり香り、深いコクのあるスープは、身体の芯まで温めてくれそうだ。
「……いい匂いだな」
思わずこぼれた言葉に、ナディアはにやりと笑った。
「寒い夜にぴったりの料理でしょ。たっぷり煮込んだから、味もしっかりしみてるよ」
ナオトはスプーンを手に取り、ひと口すくった。
熱々のスープが口の中に広がり、柔らかい牛肉と野菜の甘みが混ざり合う。長旅で疲れた体と心に、優しく染み込むようだった。




