セバスの昔話2
執事養成学校は、孤児院から遠く離れたところに位置する。入学すれば2度と戻れることはないだろう。そもそも執事になるために何を学ぶのか。執事は何をする仕事なのか。ウィリアムにとっては未知の世界のことなので、全く先のことが想像できなかった。
そう、執事という職業はウィリアムには縁遠い仕事なのだ。金持ちに仕える使用人というからにはそれなりの身元も大事だろうに。何故自分が選ばれたのか。1人で考えても答えは出そうになかった。
「聞いたわウィリアム。執事養成学校…きっとあなたが優秀だから、院長は推薦したんじゃないかしら?」
机に突っ伏すウィリアムにそう答えたのは、シスターだ。
確かにウィリアムは子供たちのリーダーとして申し分がなかった。どことなく大人びて達観している彼は、意外にも面倒見が良く、読み書きが苦手な友人に読み方を教えたり、小さい子達に絵本の読み聞かせをよくしていた。みんなでかくれんぼや鬼ごっこをする時も、体格的に不利な小さい子達を置いてけぼりにするようなことは絶対にしなかった。
しかしそれは、孤児院という小さな世界での話だ。やはり自分に執事としての適性があるとも思えない。
ウィリアムは机から顔を上げて、シスターを見つめた。その目は少しだけ濡れているように見えて、シスターは狼狽する。
「…シスター。シスターも僕がいなくなったら寂しいでしょう?ミドルスクールと違ってむこうは帰って来れる保証がない。…ねえシスター」
ウィリアムが誰かを頼るのは初めてかもしれない。これが別の件でのことだったら、どれだけ良かっただろうかと、シスターは複雑な感情が溢れた顔で目の前の少年を見つめた。
「…ごめんねウィリアム。もう決まったことだから、私にもどうしようもないの」
今のシスターは謝ることしかできない。シスターは今までもウィリアムのことを気にかけ、いつも寄り添ってくれていた。しかし今回ばかりはどうしようもないのだ。
「きっと向こうでお友達だってできるわ。あなたは賢くて優しい子だもの。大丈夫、心配しないで」
シスターの言葉にウィリアムは一瞬怪訝にまゆをひそめ、また閉じこもるかのように机に突っ伏した。
少しして、寝息が聞こえた。疲れたのだろう。机に突っ伏したまま眠る少年の頭をシスターは優しく撫でる。
「私たちのこと、忘れないでね。ウィリアム、みんなあなたのことを愛しているのだから…」
その言葉が少年に届くはずもなく。シスターはまだ幼い少年の寝顔を静かに眺めながら、頬を濡らした。
そうして次の日の早朝、執事養成学校から馬車が迎えに来た。数人のシスターが見送りに出る。子供たちはまだ寝ている時間だ。
「よろしくお願いします」
「……」
馬車をひく御者にウィリアムは挨拶をする。御者はギロリとウィリアムを睨み、ふんと赤く染まった鼻を鳴らした。挨拶もできないのか、このうすのろめ、とウィリアムは内心思いながらも、仕方なく無言で馬車に乗り込む。
「ウィリアム、元気でね。辛くなったなら、みんなからの手紙を読むのよ」
シスターたちが名残惜しそうに別れを告げる。振り返ったウィリアムはニコリと笑った。
「シスターたちもお元気で」
ウィリアムの手に持つのは先日貰った誕生日プレゼントのバックだ。少し古臭いデザインだが、新品の使い勝手の良さそうなバッグ。実用性のあるものを贈られるとは思わなかったが、こうしてすぐに使うことを見越して選んだのだろうか。その疑問を口に出すことはせず、ウィリアムはバックの手提げ部分を強く握る。
「それでは」
御者の合図で馬が歩き出す。手を振るシスターたちの姿がどんどん遠く離れて、最終的には全く見えなくなった。
こうしてウィリアムは孤児院を旅立ち、執事養成学校という新たな巣へ向かうことになったのだ。
バックの中に入ってるのは孤児院のみんなたちからの手紙と、いつも読んでいた本と何日か分の着替えとシスターたちから渡された少しばかりのお金だけ。
荷物は足りないのだろうか。それとも全ていらなくなるのだろうか。ウィリアムには分からなかった。考えもしなかった。誰も答えてくれない正解を考えても無駄だからだ。
「……」
馬車の窓から外を見てみるが、殺風景な景色が続いている。終わりそうもないつまらない風景。まるで永遠に続きそうな地獄に思えて、ウィリアムは少しだけ吐きそうになった。酔ったのか。馬車に乗ったのは初めてだからかもしれない。
「すみません、少し気分が悪くて…馬車を止めてもらえますか」
御者に話しかけるが、返事はない。馬車のスピードも緩まる気配がない。ウィリアムは諦めて、少しでも楽になろうと横になり、目を瞑った。ガタガタと大きく揺れるせいで休めそうにないが、それでも景色を見ているよりはマシだ。眠れない分、ウィリアムは心を無にして時が過ぎるのを待った。
ガタン!と一際大きな音と共に馬車は傾く。何事かと慌てて起き上がるウィリアム。御者はこちらをギロリと睨んで「着きましたよ」とそっけなく一言だけ発した。
ウィリアムは馬車から飛び降りた。目の前には黒々とした大きな屋敷がそびえ立っていて。空も心なしかどんよりとしている。
「…ここが天下の執事養成学校だ。身分の卑しい庶民が通っていいところじゃないんだが…旦那様は何をお考えなのか…全く」
ウィリアムの背に立つ御者が苦々しく何か話している。どうやらウィリアムの入学を快く思っていなかったらしい。御者は乱暴な手つきでウィリアムが馬車に置いてきたバックを投げ捨てた。
「手続きは向こうだ。さっさと行きな」
御者が指差す先は屋敷の門の手前。確かに人が何人かいるのが見える。
ウィリアムは土のついたバッグをサッと拭き取り、ニコリと御者に笑みを見せた。
「分かりました。ここまで送ってくださり、ありがとございます」
意地悪をものともしない少年の姿に、御者は怪訝そうに眉を顰めたが、またもや赤い鼻をフンと鳴らした。そうして無言で馬車に帰って行く。
「さようなら、うすのろさん」
ウィリアムは遠くなる背中に挨拶をして、屋敷に向き直り、歩き出した。徐々に近づくと、大きな屋敷の異様な雰囲気にも気づく。
門の前に立つ背広姿の男性たちは、近づいてくるウィリアムの姿を捉え、冷たい顔で見下ろした。
「初めまして、入学案内手続きをしたいのですが…」
背広姿の男性たちは、無言で首を横に振る。御者ですらあの態度だったのだ。これから起こる学校生活を嫌でも想像できる。
ウィリアムは湧き出る不快な気持ちを抑えながら、バックから取り出した紙を突き出した。
「ああ、入学案内の紙もきちんと持っていますよ」
こうしてウィリアムは、執事養成学校に入学した。彼の学校生活がどれほど過酷だったか、それは想像するに容易くないだろう。
ウィリアムは、自分に降りかかる嫌がらせや妨害をされる度、全て跳ね除け、時にはやり返し、最終学年になる頃には、全ての生徒を屈服させ、見事にトップに躍り出たのだ。そうして歴代最高成績を叩き出し、主席として卒業した。
エリートとしての輝かしい学校生活や、カトレアの家に仕えることになった経緯はまた追々に語るとして…
「…ああ、5分経ちましたね…それじゃあ」
5分経ったので、昔話はここまでにするとしよう。
ソファからのっそりと起き上がるセダム。ウィリアムという名は過去に捨て、今は執事として主人に使える身。順調にキャリアを積み、今や執事長として、屋敷の管理を任されている。
「さて、やることは多いですね。午後からも手紙はごっそり届くでしょうし、カトレアお嬢様もそろそろ買い物から帰ってくるでしょう…」
セバスは分刻みのスケジュールを確認しながら、服を正す。5分の仮眠で懐かしい夢を見たような気もするが、彼に過去を振り返ってる暇はない。
「あとは…生意気な新人の教育もしないといけませんね」
銀縁メガネの奥の瞳がきらりと光る。執事長セバスの忙しい1日はまだまだ続くのだ。