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これは、僕が……

作者: 雉白書屋

 これは、僕が人を殺したときの話だ……。

 いや、いきなりそう言われても話が頭に入ってこないかもしれないが、人を殺したこと自体は、そんなに重要じゃない。もし気が進まないなら、そいつはとんでもなくクソ野郎だったとでも思ってくれればいい。実際、人間なんて大抵、誰かにとっては“クソ野郎”だ。僕は芸能人なんかみんなクソ野郎だと思っている。お金を持っていて、大勢に愛されているからだ。

 それはさておき、問題は人を殺したそのあとだ。

 死体の処理の話ではない。もちろん、それはそれで大きな問題だが、どこかの山奥に捨てるとか、風呂場で薬品を使って溶かし、少しずつトイレに流すとか、方法はあるだろう。ネットで検索してみるといい。僕は調べたことがないから知らないけど。知らないということはつまり、僕は死体を処理していないってこと。

 じゃあ、死体をそのまま放置しているのかというと、それも違う。順を追って話すことにしよう。


 あれは、ある晩のことだった。

 バイトでくたくたになってアパートに帰り着いた僕は、眠気に足元をふらつかせながらドアを開け、靴を脱いだ。

 そして一歩踏み出した瞬間、違和感を覚えた。

 部屋の奥から何か物音が聞こえる。

 目を凝らすと、薄暗がりの中で何者かの影が動いていた。間違いなく、人間。おそらく空き巣だろう。いや、数秒後には強盗に変貌するかもしれない。そう思った途端、背筋がぞっと冷たくなった。

 僕はとっさに流し台の上にあったマグカップを掴んだ。静かにそいつの背後に忍び寄る。そして、取っ手に指をかけて、野球のピッチャーのように大きく振りかぶると、その頭めがけて思いきり叩きつけた。

 鈍い音がして、相手は前のめりに倒れた。間を置かずにさらに何度も殴った。マグカップが砕け散ると、ようやく僕は手を止めた。

 相手は床に突っ伏したまま動かなかった。僕は荒い呼吸を無理やり整えようとしながら、震える手で壁のスイッチを押し、部屋の灯りをつけた。そして、光の中で自分の犯した過ちに気づいた。

 そこは、僕の部屋ではなかったのだ。

 家具が違う。壁に貼られたポスターにも見覚えがない。そもそも僕はマグカップなんて持ってない。そう、僕は隣の部屋と間違えて入っていた。つまり、僕が殴ったのはただの隣人であり、侵入者は僕のほうで、どちらかと言えば僕が強盗だったのだ。

 馬鹿みたいな話だと思うだろう? でも、その夜の僕は本当に疲れていたんだ。バイトが長引いて、頭も回らなかった。紅茶のティーバッグをゴミ箱に捨てるつもりが、間違えて紅茶そのものを捨てたり、財布を冷蔵庫にしまったりするようなものだ。誰にだって、そんな間違いをすることはあるだろうと僕は思う。

 もちろん、だからって強盗が許されるとは思ってない。……ああ、強盗といっても、お金を盗る気なんてないし、実際に何か盗んだわけでもない。だけど、隣人のマグカップを壊した。それだけで器物損壊罪ってやつにはなるだろう。

 そして何より、僕は彼からもっとも高価なものを奪ってしまった。そう、命だ。彼は間違いなく死んでいた。ぐったりと倒れ、息をしていなかった。

 何度も後頭部を殴ったとはいえ、まさかマグカップで人が死ぬなんて想像もしなかった。でも、現実とはそういうものらしい。打ち所が悪かったってやつだ。

 僕は真っ青になって、自分の部屋に逃げ帰った。ドアを閉めた瞬間、足元から力が抜けて崩れ落ちた。頭が真っ白で、指紋を拭き取るとか、遺体を隠すとか、そういった発想は浮かばなかった。ただひたすら恐怖と混乱に押し流されていた。

 その日は引き出しの奥から睡眠薬を取り出し、水で一気に飲みこんでベッドに潜り込んだ。そうしないと眠れそうになかった。全部夢だったことにしたかった。


 翌朝、僕はいつも通りの時間に起きた。着替え、顔を洗い、何事もなかったかのようにバイトに向かった。人を殺してしまったからこそ、普段通りに振る舞ったほうが怪しまれない。そう考えた。眠ったおかげで、少しだけ冷静さを取り戻せたのかもしれない。

 もちろん、気が気じゃなかった。いつ死体が発見されるか。警察が来るのは時間の問題だ。きっと、いや、絶対に来るだろう。隣の部屋の住人だから、いろいろと訊かれるに違いない。


『昨夜、何か変わったことはありませんでしたか?』『物音が聞こえませんでしたか?』『不審な人物は見かけませんでしたか?』『昨日の夜、何をしていましたか?』『身分証を見せてもらえますか?』『隣の方と何かトラブルなどはありましたか?』『世の中に不満はありますか?』『その歳でフリーターですか。将来不安じゃありませんか?』『鬱憤が溜まってるでしょう』


 そんな質問が飛んでくるのを頭の中でずっと考えながら、その日の仕事を終え、僕は重い足取りで帰路についた。

 朝から晩まで続けていたシミュレーションを、僕がようやく断ち切ったのは、アパートの階段を上がっているときだった。

 僕は目を疑った。正面から降りてくるのが見えたのだ。僕が殺したはずの隣人が。

 彼は無言で、軽く会釈して通り過ぎた。隣人といっても日頃の付き合いはなく、その程度の間柄だ。今どきのご近所付き合いなんて、大抵そんなものだ。

 けれど、そのときはそのままやり過ごせるはずがなかった。彼が横を通り過ぎた瞬間、僕は思わず振り返り、彼を呼び止めようとした。でも、動揺のあまり声が出なかった。代わりに手が伸びた。そう、反射的に伸びてしまったのだ。彼の背中へ。

 そして、僕は彼を押した。

 いや、何をやってんだって思っただろう。僕も思った。でも、人間、精神が不安定なときにはおかしな行動をとるものだ。僕の場合は特にそれが多い。

 彼は階段を転げ落ちていった。乾いた音が何度か響き、最後に鈍い衝突音がして、彼はぴたりと動かなくなった。近づいて確認はしなかったけど、角度的にみて、首の骨が折れているのは明らかだった。ああ、間違いなく死んでいた。

 僕はパニックになって自分の部屋へ駆け込み、布団に顔を埋めて何度も叫んだ。

 一人の人間を二回殺したら、死刑は確実なのではないか――いや、違う。彼は生きていたんだ。それを僕はわざわざもう一度殺してしまった。しかも、今度はすぐ見つかるだろう。

 不安が膨らみ、胃がひっくり返りそうになった。怖くて、怖くて、僕は声を殺して泣いた。


 けれど、それは杞憂だった。数日後、彼はまた僕の前に現れたのだ。まるで何事もなかったかのように、以前とまったく同じように軽く会釈して。

 それからも彼は、僕に殺され続けた。階段で、夜道で、公衆トイレで。決まって周囲に誰もいない、二人きりの場面で彼は僕にうっかり殺される。肩がぶつかっただけで倒れ、“運悪く”頭を打ったのか、そのまま死んでしまうんだ。


 非現実すぎて、もしかして彼は宇宙人か、あるいは不死身の存在なんじゃないかと、突拍子もない空想をしたこともあった。少なくとも、猫ではないようだ。すでに殺した回数は九を超えた。

 僕は彼を殺し続けている。まるで、彼の生命サイクルに組み込まれたかのように。

 頭がどうにかなりそうだった。

 だからある晩、僕は決意した。彼を完全に殺そうと。

 中途半端に死なせるからいけないんだ。僕の意志で殺し、そして供養すればすべてが終わる。そう考えた。ああ、認めるよ。頭がおかしくなっていたのかもしれない。


 包丁を懐に忍ばせ、人けのない夜道で彼を待った。思ったとおり、彼は現れた。僕を見ると、いつものように軽く会釈した。

 彼が僕の横を通り過ぎるその瞬間、僕は包丁を抜いた。そして、ためらうことなく首元に突き刺した。彼が倒れると馬乗りになり、何度も、何度も刺した。まるでブルーベリーを潰すみたいに血がぶしっと跳ね、皮膚がぐしゅぐしゅになって、剥がれてべちゃっと地面に滑り落ちた。

 どれくらいそうしていたのか。やがて、どこからか人の怒声が飛んできた。そこから先の記憶は曖昧だ。気づけば僕は警察に取り押さえられていた。

 人を殺して逮捕される。至極当然の流れだ。ようやく、現実がこっちに追いついた感じがした。だからだろうか、彼はもう生き返らなかった。

 ただ後日、警察の調査で彼の体から無数の打撲痕や骨折の痕が見つかった。

 ともすれば、最初の夜、あのマグカップで殴ったときに、やはり彼は死んでいたのかもしれない。その後も簡単に死に続けたのも体が脆くなっていたからではないだろうか。あるいは、最初から彼は死んでいたのかもしれない。僕に殺される、ずっと前から。ただ、目をつけられたのは僕だったって話だ。

 ひょっとしたら、僕は死刑になるかもしれない。取り押さえられたとき、警官に怪我させてしまったみたいだし、あれこれ余計なことも口走ってしまった――彼を何度も殺したってね。

 でも、僕にはもう一つだけ気がかりなことがある。

 あの夜、彼の血を浴びた僕は、一度で死ねるのだろうか。この皮膚の下に何かがいる気がしてならない。いくつもの命が――。

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