第91話 ふたつの使命
北条鬼灯と棗芽の兄弟が妹尾家での戦いに終止符を打ち、備中国を発ったのは正午のことだった。
途中、脇目も触れずに馬を走らせ続け、京の近くに到着した頃にはすっかり薄暗くなっていた。
夕刻にはまだ早いというのに分厚い雲に包まれた空は、この先のふたりの運命を案じているように不穏だった。
「逢う魔が時にはまだ早いはずですが随分と暗くなってきましたね、兄上」
棗芽は兄の背中を追いながら言った。
本当ならもっと時間のかかる道中のはずだったが、途中で何度も馬を変え、休憩することなく走り続けたこともあって、あっという間に京へ舞い戻ったのだった。
「確かに。夜は雨になるかもしれぬな」
「急ぎましょう。もしあの男がまた暴れているとしたら雨も夜も私たちには条件がよくない」
ふたりは馬の腹を蹴ってさらに速度を上げた。
棗芽が馬首を並べると、鬼灯は不敵に微笑んだ。
まるで揶揄っているかのようだった。
「しかし……本当について来るとは思わなかった」
「……は?」
「棗芽。私はな、お前を突き放すつもりで飛ばしてきたのだ。それがここまでついて来られるとはな」
鬼灯の言葉に棗芽は耳を疑った。
鎌倉と京を3日とかけずに行き来する棗芽にとって、備中と京の間など造作もない距離である。
この速度について行くことができないはずはなかった。
「兄上、私のことを馬鹿にしています?」
「いや、そうではない。できれば負傷しているお前を連れて行きたいくないのだ」
「……足でまといになるから、ですか」
「あれは言葉のとおりではない。あの術者の男との戦いは苦戦を強いられることだろう。負傷しているお前は戦う前から不利だ。劣勢だとわかっていてそこに身を投じようとする弟を止めない兄はおらぬ」
「…………」
確かに不利なことは自分が1番よくわかっている。
立ちくらみするほどに血を失い過ぎているし、何より傷は塞がっていない。
今の状態で戦い切れるのかと問われれば二つ返事で是と答えることは難しいだろう。
御形という男が操る式神はただの紙切れのはずなのにまるでそこに本当の実態があるように手応えがあった。
力の強さは巨大な獣の大きさに比例しているように感じたし、動きも実際のそれに近い。
さすがの棗芽ですら、あれなら戦場で10人の侍を1度に相手した方が楽かもしれないとさえ思ったくらいだ。
だが、だからといって逃げるわけにはいかない。
もうすでに片足どころか体半分がどっぷりと浸かっている状態なのだ。
後戻りするという選択肢はない。
「お言葉ですが兄上。出立する時にも言ったように死にに行くつもりはありませんよ、私は。とっとと片付けて備中へ戻らないと。私にはまだやることが残っているのですから」
全て片付けたら紅葉を迎えに行く約束である。
彼女を妻に迎え、鎌倉の邸で一緒に暮らすのだ。
これまで誰かと生涯をともに暮らそうなどと考えたことはなかった。
そう思える相手に出逢えたこと自体が幸せなことなのかもしれない。
「そうであったな。お前には重大な役割がふたつも残っている。志半ばに倒れるようなことでは困るな」
「ふたつ?」
棗芽は首を傾げた。
ひとつは賭けに負けた代償として幕臣に復帰することであることは間違いない。
もうひとつというのは想像すらつかなかった。
「ひとつは約束どおり幕府に戻ってもらう」
「賭けに負けたのですから二言はありません。全て片付いたら鎌倉に腰を据えましょう。それよりもうひとつというのは?」
「お前には早く紅葉殿と一緒になり、北条家の後継ぎを設けてもらわねば困る」
「…………あ、後継ぎっ!?」
「私は葵との間に子を成すことができなかった。菊夏に婿を取らせるつもりでいたがあの娘が嫁に行ってしまった今、北条家の後継ぎを望めるのはお前しかおらぬのだ。お前は生涯、独身を貫くつもりなのかと思っていたが、よき伴侶を見つけたというのなら結構。お前たちはまだ若いゆえ、男児が生まれるまで励めよ」
そう高笑いしながら速度を上げた鬼灯。
棗芽は鬼灯が言う未来を想像して頭上から煙が出そうなほど顔を赤らめたのだった。
陽の光を遮るような厚い雲が徐々に広がり、気がつけば周辺は薄暗くなっていた。
見上げた空はどんよりとして、いつ雨になってもおかしくない。
九条悠蘭は目の前に広がる光景に呆然としていた。
長年暮らしてきた生家である九条邸の門は無惨にも破壊され、辺りには木片が散乱している。
父の時華を訪ねてきたというこの破壊の現場にいた友人たちも何があったのかわからないらしい。
なぜかまた弾正尹が家臣の松島と一緒にいるのもよくわからなかった。
寝殿から一緒に様子を見に出てきた兄の月華は破壊された門を凝視したまま動かなかった。
刀の柄には手が掛かっており、今にも抜きそうな殺気を感じる。
悠蘭がその視線の先を追った時、砂煙で隠されていた姿が露わになった。
「兄上っ!」
視線の先にいたのは巨大な2頭の猛獣だった。
一方は立髪を揺らし牙を剥き出しにする獅子、もう一方は長い尾を振り回し鋭い爪で地面を掻く仕草をする虎だ。
ただでさえ京の中心部では見ることがない獣だが、その大きさたるや人の2倍ほどになろうかという非常識なものだった。
そしてそれはかつて見たことがあるものだ。
「兄上、あ、あれは——っ!」
月華の元に駆け寄ると彼は珍しく額に汗を滲ませていた。
「悠蘭、俺たちはあれと同じようなもの見たことがあるな。覚えているか?」
「もちろんです。忘れるはずがありません。あれは皐英様の式神と同じ——」
「そうだ。幻のようで幻じゃない。あれは確かに実体があるものだ。門はあの式神に破壊されたのだろうな」
「で、ですが、式神なら術者がいるはず。そんな姿はどこにも——」
悠蘭が言いかけたところで、目を凝らして見ると2頭を従えるように足元に人の姿があった。
顔の皺からすると年の頃は父よりも上に見える。
だが見知らぬ人物であることに違いはない。
「あれは何者ですか。なぜ九条邸に……」
「さあな。だが迷い込んできたわけではなさそうだ」
兄弟が怪しい人物から目を離せずにいると彼らの背後から紫苑の声が聞こえた。
「おいおい、ありゃなんだ!? っていうかあれって土御門皐英が使ってたっていう式神ってやつか?」
月華が得体の知れない侵入者から目を離すことはなかったが、紫苑が隣に立つと口を開いた。
「紫苑、あれを知っているのか」
「いや、知らねぇけど以前、叔父上から聞いたことがあるんだ。土御門が巨大な獣の式神を操ってたって」
「……そういえば雪柊様もあの場にいらしたんだったな」
「で、月華。あれ、どうするんだ?」
「どうするも何も、不法侵入なのだから丁重にお帰りいただくしかないだろう」
月華は静かに刀を抜いた。
ひとりで戦うには武が悪過ぎる。
たとえ紫苑がともに戦ってくれたとしても、悠蘭と紫苑のふたりは素手で戦うことになるのだ。
対する相手は牙や爪を持つ肉食獣だ。
敵うはずがない。
「月華。あんなのを相手にするなんて無茶だよ」
紫苑に続いて隣に並んだ李桜が悠蘭の心中を代弁した。
だが月華は一向に聞く耳を持つ様子はなかった。
「たとえ無茶だとしても戦わない選択肢はない。ここには俺の大切な人たちがいるんだ。みなが危害を加えられるのを指を咥えて見てるなんてできるわけがない」
確かに月華が言うことは正論ではあるがやはり無謀すぎる。
悠蘭が止めようとした時、背後から思いがけない人物の声がした。
「御形っ……!」
悠蘭が振り返るとそこには先刻まで寝殿で一緒だった客人、橘萩尾が棒立ちになっていた。
驚愕の表情を浮かべ、その視線は式神を操る術者に向けられている。
御形といえば萩尾の話に出てきたかつての陰陽師ではなかったか。
2代前の帝が圧政を強いるために官吏殺しをさせていたという術者。
そして朝廷を去った彼を先帝が執拗に追い、彼がひっそりと暮らしていた里を焼き払った。
その復讐のために先帝を暗殺しようとし、そして今も帝や風雅の君の命を狙っているという。
その御形という男の名を耳にした月華はさすがに萩尾を振り返った。
「萩尾殿、あれがあなたの話にあった例の男なのか」
「ああ。間違いない。私は長年、備中の妹尾家であの男と暮らしてきた。あれが自らの式神を使って不要になった家臣を始末したのを何度か見たことがある」
「あの男が復讐したいのは凌霄陛下の血を引く者たちではなかったのか!? なぜ我が邸に——」
そこまで言ったところで月華は言葉を詰まらせた。
その視線は松島とともに廊下に座り込む弾正尹に向けられている。
ふたりの視線が合うと、なぜか弾正尹はじっと月華を凝視していた。
「……そんなことより、萩尾殿は寝殿に戻られよ。ここにいては危険だ」
月華は不自然にそれまでの主張を引っ込めた。
復讐心に燃えている御形という男がなぜ九条邸に来たのか、気がついているのだろうか。
悠蘭には見当もつかなかった。
「そういうわけにはいかぬ」
「でははっきり言うが、元官吏であるあなたがここにいても邪魔なだけだ。あの男は俺が相手をする。だから寝殿に引っ込んでいろ。あそこはこの邸の中でも1番奥まったところにある。寝殿にまで侵入させるつもりはないから、あそこ以上に安全なところはない」
「いや、私があの男と交渉してみるとしよう」
何を根拠にそんなことを言うのだろうか。
月華のぴりぴりとした苛立ちを肌で感じながら悠蘭は言った。
「萩尾殿。ここは兄上の言うとおりになさった方が……」
「事態は急を要するのだ、悠蘭殿」
「……どういうことですか」
切羽詰まった様子の萩尾は1歩踏み出すと月華の腕を掴んで迫った。
「月華殿、輪廻の華を取り戻したと申したな?」
「あ、ああ。それがどうしたと言うのだ」
「今どこにいる?」
「百合なら華蘭庵に——」
背後にある池の中島に建つ華蘭庵は月華たちが居住する茶室だ。
確かにこのまま侵入されれば華蘭庵まで辿り着かないとも限らないが、どうやら心配はそれだけではないようだった。
みるみるうちに青ざめていく月華を悠蘭は固唾を呑んで見守った。
「月華殿。あの男は輪廻の華を求めて九条邸へ来たのかもしれぬ。だとすれば今最も危険なのはそなたの奥方だ」
「……百合を狙っているというのか!?」
「わからぬ。だが御形は昔から輪廻の華の持つ異能に異常な執着を示していた。だから彼女を追ってきたとしても何ら不思議はない」
「…………っ!」
月華は刀の柄を強く握りしめた。
怒りが浸透しているのがそれだけで伝わってくる。
「どこまで持ち堪えられるかわからぬが、私が御形の気を引いているうちにそなたは奥方を安全なところへ。よいな?」
月華の肩を軽く叩くと萩尾は御形の方へ歩みを進めた。
敵の渦中に飛び込むというのにその背中は堂々としていた。
命を捨てる覚悟でいるのだろうということは、彼を見ているだけでわかる。
月華は一旦、刀を鞘に収めると、
「悠蘭、みなのことを頼むぞ」
と言って華蘭庵へと走っていった。




