第90話 溢れた笑みの行方
鷹司邸を飛び出した湖薄は大路に出た。
外に出ると音を聞きつけたのか、わらわらと近くの建物から人が出始めていた。
見上げた空は薄暗い。
朝は快晴だったのに降り注いでいた夏の日差しはどこから運ばれてきた分厚い雲に隠れ始め、不穏な暗さをもたらしている。
少し先で砂煙のようなものが上がっているのが見えた。
場所は今朝方、檜緒を乗せて馬で通り過ぎた九条邸辺りに違いない。
檜緒が門番に噛みつかれた辺りだ。
爆音に砂煙。
何かが起こっている。
ただならぬものを感じた。
鷹司邸前の大路は九条邸前の大路と交差している。
京の土地勘がない彼でもこの大路を辿っていけば現場に着けるはずだ。
そんな時、湖薄の耳に市井の人々の声が聞こえてきた。
「今の音、九条様の辺りだよな?」
「何かあったのかしら……」
九条家で何かあったのは間違いなさそうである。
湖薄が京へ来た目的は全てを奪った凌霄の子である今の帝を暗殺するためだった。
九条家がどうなろうと直接関係はないが、件の家は自身が身を寄せる備中国の妹尾家や御形が必要としている輪廻の華と関わりがある家だ。
それに九条家の当主は帝を支える大臣でもある。
状況を確認しておくことも必要だろう、そう思った。
湖薄は1度鷹司邸を振り返った。
改めて見ると九条邸と同じくらい大きな邸で、敷地を囲う塀はどこまでも続いている。
鷹司家の長女だという彼女に檜緒を預けたことが正しかったのかはわからない。
だがこれから向かおうとする先に危険があるのかどうか確認するまで、ともに連れて行くことはできない。
敵対するつもりはないという言葉を信じて、今は預けておくしかない。
鷹司家に対し一抹の不安を残しながらも、湖薄は九条邸へ向かった。
砂煙が上がる方へ向かうと、近づくに連れて徐々に雑踏は厚みを増していった。
これだけの野次馬が集まるのだからよほどの大事なのだろう。
人混みを掻き分けてやっとの思いで九条邸の門があったと思しきところに出ると景色は一変していた。
見上げるほど高かった塀は破壊され、邸の中が丸見えの状態になっている。
檜緒に噛みついていた門番の姿もなかった。
ふと気がつくと前方には見知った人物が棒立ちになっていた。
薄汚れた着物を纏っていてもらしさを失っていない。
雑踏の中でも湖薄にはすぐにわかった。
「風雅の君……?」
湖薄の呟きに振り向いた相手は備中にいた頃、妹尾邸の中で時折見かけた人物だった。
門は破壊され、邸の中が丸見えになった九条邸の変わり果てた姿を白檀は呆然と見つめていた。
破壊の衝撃からか、舞い上がった砂煙は邸の塀を優に超える高さまで到達した。
だが白檀を震撼させたのは、砂煙の向こうにうっすらと見える影だった。
「……御形っ!」
砂煙の中に佇む影は御形の背中に間違いなかった。
なぜなら彼の左右に巨大な獅子と虎の影が寄り添っているからである。
砂煙が少しず収まり、この世に存在するはずのない大きさの生き物の姿が徐々に明らかになると、周辺に集まった野次馬たちのどよめきが響いた。
「あれは……」
雪柊が眉間に皺を寄せて言った。
妹尾家では家臣たちの間で噂になっていたものの、白檀自身も御形が式神を操る姿は初めて見た。
「あの男の式神です」
「白椎様、あれをご存知なのですか?」
「ええ。実際に見るのは初めてですが」
「初めてなのにわかるのですか」
「あの男はかつて朝廷にいた陰陽師らしいのですが、長らく私が世話になっていた妹尾家にいました。邸の中で絶対的な権力を持つ三公に逆らうと、あの御形の式神に始末されるというのは有名な話でした。断末魔の叫びを上げて生き絶えた遺体は無惨な姿に変わり果てている、とか」
「へぇ……あれで……」
腕を組みながら顎に手を当てて興味深そうに不気味な笑みを浮かべる雪柊に白檀は首を傾げた。
「あまり驚かないのですね」
「あ、いえ、十分驚いていますよ」
「そうは見えませんでしたが」
「昨秋、京で近衛家が征伐された際に執拗に百合を追っていた前の陰陽頭が同じような式神を使っていたので、実は見るのは初めてではないのですよ」
「皐英の……? そうですか」
白檀は復讐な気持ちになった。
友であった亡き皐英は御形の弟子だった。
御形と同じ術を使い、最期にはそれを私欲のために使ったという。
皐英には生きていてほしかったが、もし今も存命だったなら御形と一緒にこの場にいて白檀にとって大事な人々を傷つける行為に手を貸していたのだろうか。
考えたところで仕方がない。
皐英はもういないのだから。
白檀は雑念を追い払うために首を振った。
今は百合を求めて九条邸に乗り込んだと思われる御形を止めるのが先決である。
白檀が吸い込まれるように九条邸の中へ踏み出そうとした時、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「風雅の君……?」
振り向くとそこには見覚えのある青年が立っていた。
「湖薄……ではありませんか」
癖のある前髪を長く伸ばしているのは顔に負った火傷を隠すためらしいが、いつなぜ火傷を負ったのかは知らない。
これまで同じ妹尾家に暮らしていながら、あまり顔を合わせることがなかった。
どことなく彼に監視されているような気もしていたし、互いに気を許すことがなかったので言葉を交わしたことも数えるほどしかないように思う。
そんな彼がなぜこんなところにいるのだろう。
備中では彼は常に御形のそばにいた。
御形の姿が九条邸の中にあるということは、湖薄も関わりがあるのか。
白檀は湖薄に問いかけようとすると、逆に腕を掴まれた。
「なぜこんなところにいる? あの牢部屋からどうやって出たんだ!?」
湖薄は早口で言った。
どうやら棗芽と妹尾邸から出たことを言っているらしい。
突然の的外れな質問に白檀が面食らっていると、間に割って入ってきた雪柊が湖薄の腕を強制的に解いた。
「無礼な男だな。その手を離せ」
雪柊のうっすらと開けた細い目つきは鋭く、とても説法をして歩くような僧には見えない。
滲み出る殺気を感じ取ったのか、湖薄は自ら1歩引いた。
「雪柊、この人は知り合いなので大丈夫です。よもやこんなところで私を殺すようなことはないでしょう」
「殺す……? 聞き捨てなりませんね」
「言葉のあやですよ」
半分は冗談で言ったつもりだったが、雪柊は目くじらを立てている。
どこへ行っても厄介者で誰にも必要とされていない自覚はあるつもりだ。
そもそも奥に隠すように扱われていた母の芙蓉とともに忘れられた存在として宮中にいた時から何も変わっていない。
何者かの策略にはめられ、図らずも茶の湯の師匠であった風早橄欖の計画に加担することになって宮中を追われたのだ。
その時からすでに不要な存在だったのだろう。
そしてそれは備中の妹尾家に移ってからも変わらなかった。
必要なのは三公が思い描いていた朝廷が出来上がった時の傀儡であり、皇家の血を引いているという事実だけだ。
必要なくなればいつでも始末するつもりだったに違いない。
棗芽や鬼灯が乗り込んだことによってすでに妹尾家は壊滅的な状態になっている。
こうなってはもう傀儡も必要ないことだろう。
いろいろと知りすぎている白檀は妹尾家にとってもはや邪魔な存在なはずなのだ。
湖薄は邪魔になった白檀を始末するために京へ来た可能性もある。
「湖薄こそ、なぜここにいるのですか」
湖薄は何も答えなかった。
白檀は破壊された九条邸の門を指して言った。
「あれと関係あるのですか」
「…………」
「湖薄。あなたたちが何をしようとしているのか知りませんが、私の大切な人たちに手を出すつもりなら、私はこの命をかけてでも抵抗しますよ。大切なものを守り切るまであなたたちに殺されるつもりはありません」
白檀が言い切ると再び湖薄に腕を掴まれた。
「どうするつもりだ」
「どうするって、とにかくあれを何とかしないとこのままというわけにはいかないでしょう」
「だからって何ができると言うんだ。ああなってしまった御形様は誰にも止められない。最後まで破壊し尽くすまで」
「ではなおさらこのままにしておけませんね」
白檀は湖薄の腕を振り払うと彼の制止を無視して、九条邸の中へ向かって1歩踏み出した。
周りの野次馬から無謀だの、危険だのと揶揄する言葉が聞こえたが白檀は決して振り返ることはなかった。
後ろからついてくる足音が聞こえ、それが雪柊の足音であることはすぐにわかった。
足を止めて白檀は振り返った。
これまでいつでも雪柊は守り、寄り添い、時には叱ってくれる兄のような父のような存在だった。
だからこそこの先にある危険に巻き込みたくない、そう思った。
「雪柊。この先は私ひとりで行きます。あなたは早くここを離れてください」
「……ご冗談でしょう、白椎様」
「冗談などではありませんよ。あの御形の様子を見たでしょう? どんなにあなたが武術の達人でもまともに対峙できる相手ではありません」
「あなたはどうするのですか。何の武器も持たないあなたこそ、危険ではありませんか。何か策でもあるのですか」
「御形は輪廻の華を求めて九条邸に乗り込んでいった可能性があります。もし百合があの中にいるのなら、百合の異能を消すつもりです。異能がなくなれば御形は目的を失って動きを止めるかもしれない。月華ともそう約束しましたしね……何より、これは私にしかできないことだから」
「では私は白椎様が目的を達するためにお支えするだけです」
雪柊は満面の笑みを浮かべていた。
「雪柊、何がそんなにおかしいのですか」
「おかしい?」
「随分と機嫌がいいように見えますが」
「ああ……機嫌がいい、というのは否定しませんよ」
「なぜですか? これから死地に向かうというのに」
「正直に申し上げますと、備中では少し暴れたりなかったのですよ」
「…………は?」
「百合が攫われた時に相手をしていた妹尾敦盛という男を棗芽に取られてしまったものですから、不完全燃焼と言いますか……新たに暴れられる機会がやっと巡ってきたと思うとわくわくしますね」
剃髪した頭をぽりぽりと掻きながら言う雪柊に白檀は唖然とした。
どんな危険が待っているのかわからないのにわくわくするなど、白檀には到底理解できない感覚である。
これは本心なのか、それとも心配させまいとする偽りなのか。
だが、心強かった。
笑みを浮かべる雪柊に白檀も自然と笑みが溢れた。
「雪柊、いつもこんな私のそばにいてくれてありがとうございます。では一緒に行きましょう」
それは心から出た言葉だった。




